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~No. 201音の見える風景 望月由美

Chapter 5 富樫雅彦

photo&text by Yumi MOCHIZUKI 望月由美

富樫雅彦 1980年3月 東京
(c)Yumi MOCHIZUKI 望月由美

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富樫さんが私の撮った写真を見て「あのひとの撮る写真はいいねえ」と仰っていたことを何人かのミュージシャンから耳にしていた。インタヴューをさせていただいた時、私は真っ先に写真を誉めてくださったことにたいしてのお礼の気持ちをお伝えした。「僕も写真にはまっていたことがあるから分かるんだよ、凄くいい感覚しているのね、あなたの写真には問いかけるものがあるんだよね」と力づけていただいたことが思い出される。いつでも真正面からシャッターを切らせていただいた。レコーディング・スタジオでもピットインでもどんなに接写しても嫌な顔ひとつせず自由に撮らせていただいた。標準レンズがタムタムを叩く手の平に触れそうな至近距離でシャッターを押す。このショットはとりわけ富樫さんがとても気に入ってくださった一枚である。

はじめて、富樫さんをまのあたりに見たのは、1967年の初夏「駒込ジャズギャラリー8」での渡辺貞夫&チャーリー・マリアノのセット。丁度『IBERIAN WALTZ』(TAKT)が録音された頃の一夜であった。貞夫&チャーリーの2管に菊地雅章(p)、富樫雅彦(ds)、ベース奏者は失念、多分原田政長(b)さん。当時はアメリカから帰国直後で常に真っ向勝負だった貞夫さんとマリアーノとの白熱したアルト・マドネスの熱気はもの凄かったが、それ以上にぐっときてしまったのが富樫さんであった。俊敏で鋭いビートを叩きだしながら、そのサウンドはどこまでも美しく、まるでタイコで歌っているかのような存在に強烈な衝撃を受けたのである。そしてニコッと笑ったときの可愛らしい眼差しと口元からこぼれる味噌っ歯がなんともたまらなくチャーミングであった。富樫さん27歳の時であった。

1970年の事故で車椅子の生活を余儀なくされるが僅か一年で奇跡的な復帰をした富樫さんは1971年4月ゲイリー・ピーコックの『Voices』(Sony)のレコーディングに臨む。ニューヨーク帰りの菊地雅章(p)が日本にピーコックがいるらしい、是非一緒にプレイしたい、と希望して実現した何枚かのアルバムの一枚である。菊地雅章、G.ピーコック、富樫雅彦に村上寛が参加している。バスドラとハイハットをなくした富樫さんに寄り添うように村上寛が着実なビートを刻み、その上で富樫雅彦が自由に遊んでいる。ピーコックもプーさんも素晴らしい、がそれ以上にこの富樫雅彦と村上寛の関係がとても好きだ。ドラマー同士でなければ分かりえない機微というものが伝わってくるからである。そしてこれ以降の富樫さんはフルセットのドラマーよりも艶っぽいフォービートを叩いたかと思えば先鋭的でイマジネイティブな世界を放射するという、あたかも異次元を漂っているかような独自の展開をはじめるのである。
1980年の5月、当時日本フォノグラムでレーベル「NEXT WAVE」の設立にあたっていらっしゃった児山紀芳さんに梅津和時(reeds)を推薦したときのことである。「富樫さんと出来るのならほかのメンバーは誰でもいいです」梅津和時は富樫さんとの共演を強く希望した。当時デヴィッド・フリーゼン(b)と日本のミュージシャンとの創造的な出会いを模索していた児山さんの構想にもぴったり合い梅津、富樫、フリーゼンによる『竹の村』(Next Wave)のレコーディングが実現した。『竹の村』は梅津和時のメジャー・レーベルでの初リーダー作となった。そしてその翌年1981年の5月には、富樫さんが今度は梅津和時と原田依幸を迎えて『フレイム・アップ』(キング)をレコーディングしている。そのとき富樫さんは、前年の1980年にはドナウエッシンゲン音楽祭の檜舞台に立つなど正にパワー全開だった梅津、原田に「俺さ、お前らとやってボロボロになってみたいんだ」と話しかけたのを私は聞いた。当時の梅津、原田は30歳、富樫さんは若い才能をいち早く発見し好んで共演の場をつくっていたのである。筆者はこの『フレイム・アップ』の三日間のレコーディングにも全て立ち合わせていただいたが、収録時には全5曲全てを自ら作曲し周到な準備でレコーディングに臨んだ富樫さん、そのダイナミックなプレイはフリーでありながら猛烈にスイングしていて圧倒的な存在感を示したのである。いまでもそのシーンがときおりフラッシュバックする。このように80年の5月、81年の5月、そして同じ5月にはもうひとつ思い出がある。

1986年の5月、富樫さんの音楽生活30周年の記念コンサートのライブ・アルバム『ブラブラ』(PAN MUSIC)である。このアルバムは聴けば聴くほどに限りない愛着と底知れないエネルギーを感じさせてくれる。
ここにはメインストリームのスイングとは一味ちがった自由な発想の中でのジャズ本来のスイングが脈々と息づいていて、今もなお聴くたびに新鮮に心を打つのは驚きである。「とにかく共演者がよかったからねえ」と富樫さんは語った。スティーブ・レイシー、ドン・チェリー、デイブ・ホランドとまさに個性の固まりのような人たちが、それぞれの音色で唄ったり、語りかけたり、遊んだり交感しあう中で富樫さんはひときわ自由になれたようだ。「誰でも若い頃は多かれ少なかれ狭い時代があるでしょ。ビバップが流行っていた頃はそれを聴かなければ音楽じゃないと思ったり、ある頃はフリー一辺倒になったり、でも今は全くそんなものはなくなっちゃったんだよね」と富樫さんの話は続いた。確かにミュージシャンにとって最大の財産は音楽の許容量の深さではないだろうか。『ブラブラ』にはそうしたジャンルやフォルムを超えた特異な才能が四半世紀という時を経た今でも瑞々しく伝わって来てなんとも嬉しい気持ちにさせてくれるのである。亡くなってから様々な思い出や作品を通してそのアーティストの偉大さを知ることがしばしばある。

今夏で丁度3年になる。8月22日の4回目の命日には新宿ピットインで今年も富樫さんを偲ぶメモリアル・セッションが予定されている。J.Jスピリッツで一緒だった佐藤允彦さんと峰厚介さんを中心にしてJ.Jスピリッツを蘇らせるという、クールに燃える一夜になることであろう。

望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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