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~No. 201音の見える風景 望月由美

Chapter 18 ドン・チェリー

撮影:1974年 郵便貯金ホール(東京・芝)にて
photo&text by Yumi Mochizuki  望月由美

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ドン・チェリーは生き方、考え方、そして音の出し方のすべてがナチュラルで自由な人であったと思う。

前回の「音の見える風景」 #17、坂田明さんを書きながらゴーストの本家本元、アルバート・アイラーの『GHOSTS』(debut) を聴き直して、あらためてドン・チェリーに想いを巡らせた。初めてドン・チェリーを目の当たりにしたのは1974年、五反田の郵便貯金ホールであった。ちょうどドン・チェリーがJCOAと共演した『相対性組曲』(JCOA)がジャズ喫茶に入荷した頃で、よく聴いていた。また前年の1973年にはセシル・テイラーも初来日しており、かなりフリー系に勢いのあった時期でもあり、胸をときめかして足を運んだものであった。

客席の照明が落とされてステージが明るくクローズアップされると、そこには大きな緞帳のようなキルト・アートが吊りさげられ、その下にドン・チェリー・ファミリーが車座になって座っていたのである。今号のJTの表紙の写真はポケット・トランペットを吹くドン・チェリーとキルト・アーティストのモキ夫人、そして二人の子供が楽しげに遊ぶ姿である。ステージの上で無邪気に遊ぶこの子達が将来ポップス界のビッグ・アーティストになるなどとは思ってもいなかったことである。そして海外ニュースなどでは知ってはいたものの、目の当たりにしたドン・チェリーのコスモポリタン然とした姿にびっくり仰天したのであった。背景に飾られているキルトはモキ夫人の作品である。

今でこそボーダーレスなワールド・ミュージックは当たり前のように受け入れられているが、このころは「タージマハル旅行団」が時おり新宿の伊勢丹前を、鐘を打ち鳴らして練り歩く姿が見られる程度で、大ホールで車座になって唄い遊ぶ家族を見るというような光景は初めてであった。因みにこの夜のドン・チェリーはインディアン・フルートやベルを打ち鳴らし子供たちと一緒に歌うのがほとんどでポケット・トランペットを吹いたのはほんの一シーンだけであった。

そして、驚くことにスポットの当たったドン・チェリー・ファミリーのすぐ後ろの暗闇のなかに富樫雅彦(ds,per)がスタンバイしていたのである。ドン・チェリーが富樫の才能に惚れ込み共演を熱望して、急遽同じステージに立ったのだそうである。ドンの後ろの大きな銅鑼の脇には富樫の車椅子があり、スポットの当たらない暗闇のなかから透明なビートを生み出していた。富樫は闇の中からドン・チェリー・ファミリーに生命のリズムと大きなうねりを与えていたのである。富樫雅彦もまた、人間ドン・チェリーに共感し、二人は互いに敬愛し合い、その後何度となく共演を続けてゆくことになる。翌1975年の4月、富樫雅彦の名作 『スピリチュアル・ネイチャー』(EAST WIND)にドン・チェリーの 『エターナル・リズム』(MPS) が見えない糸で結びついているような気がするのは私だけであろうか。

富樫雅彦は1979年の7月、身体的な不自由を押してはるばるフランスへ出向き、ドン・チェリー、チャーリー・ヘイデンと 『セッション・イン・パリVol. 1』(Paddle Wheel) をレコーディングしている。すでに富樫の評判はアメリカからヨーロッパまであまねく知れ渡り、海外から訪ねてくるミュージシャンの多くは富樫との共演を望むようになっていた。スティーブ・レイシーもまた富樫を好み日本を訪れてはしばしばセッションを重ねている。

富樫雅彦が音楽生活30周年を記念して開催されたコンサートに富樫が共演を望んだミュージシャンはドン・チェリーとスティーブ・レイシーであった。ベースにはチャーリー・ヘイデンを望んだそうであるが、ある事情によってチャーリー・ヘイデンは来日できず、代わりにデイヴ・ホランドが呼ばれた。1986年の5月14日のことである。場所は奇しくもドン・チェリーの初舞台と同じ郵便貯金ホールであった。この歴史的なコンサートの模様は本誌「Jazz Tokyo」のオーディオ・マイスター、及川公生さんが録音し、同じく本誌の編集長、稲岡邦弥さんがプロデュースを担当、作品『BURA-BURA』 (Pan Music) として残され、今なお輝きを失っていない。『BURA-BURA』はいまもって私の愛聴盤である。
ドン・チェリーは1938年11月18日、南部オクラホマに生まれ、少年時代はロサンゼルスで過ごしている。ロサンゼルスのハイスクールでトランペットの演奏を始めたが、並行してリズム&ブルースのバンドではピアニストとしてセッションを重ねていたそうである。ウエスト・コーストにおけるジャム・セッションではデクスター・ゴードン(ts)やワーデル・グレイ(ts)、ハロルド・ランド(ts)等々と共演し、アート・ファーマー(tp)のグループではピアノを弾いていたという経歴を持っている。ジェームス・クレイ(as)やビリー・ヒギンス(ds)はこの頃からの友人で、後にこれら旧友との再会セッションをアルバム『Art Deco』(A&M、1990)として残している。ドン・チェリーはいきなりオーネット・コールマンとフリーを始めた訳ではなく、ジャズの伝統もしっかり身につけていたのである。

1958年、オーネットとのコンビを組んでからのドン・チェリーはコンテンポラリー~アトランティックへ録音した諸作で一躍フリージャズの闘士としてのイメージで扱われ、ソニー・ロリンズの『アワ・マン・イン・ジャズ』(RCA)、コルトレーンとの『ジャズ・アヴァンギャルド』、アルバート・アイラーとのESP諸作、ニューヨーク・コンテンポラリー・ファイヴなど精力的な活動をしている。この時期の作品で私が最も共感して聴いたのはジョージ・ラッセル・セクステットにゲスト出演した『ベートーヴェン・ホールVol.1,2』(MPS) である。聴衆とミュージシャンとの微妙なズレが生じた緊張感の中を一音で場面転換して見事なコミュニケーションをとるドン・チェリーの振る舞いが手に取るように見えてきて今でも聴き直すと最後まで聴いてしまう。

ニューヨークのフリーの嵐を駆け抜けたドン・チェリーはパリ、スウェーデンに移り住み、アフリカやインドなどに旅をする。世界を彷徨しながらコスモポリタンへと変貌をとげてゆく。

キルト・アーティストのモキ夫人と結婚してからはスウェーデンに居を構え、ヨーロッパでの活動も多くなる。エド・ブラックウェル(ds)とのデュオは 『Don Cherry “mu” first part、second part』(BYG)として記録されている。
二人の交流はエドが亡くなるまで続いたそうである。ジャケットの表紙はモキの作品が使われている。またコリン・ウォルコットとナナ・ヴァスコンセロスとの 『CODONA』(ECM)シリーズも記憶に新しい。デューイ・レッドマン、チャーリー・ヘイデン、エド・ブラックウェルそしてドン・チェリーというオーネット・コールマン・グループの出身者4人が結成した 『Old and New Dreams』(ECM)の諸作ではパーカー、オーネット、コルトレーンと続くジャズの本流を暗示するような格調の高さで、キース・ジャレットのアメリカン・カルテットとならぶ大きな存在であった。

1995年10月19日、ドン・チェリーはスペインのマラガにある娘ネナ・チェリーの家で亡くなった。オーネット・コールマンはいまだ健在であり昨年のソニー・ロリンズの生誕80周年コンサートに登場して元気なところを見せてくれている。ドン・チェリーがもし、その場に居合わせたらもっと楽しいサプライズが出現したのではないかと思うと残念である。そしてドン・チェリーが健在であったならジャズ・シーンの色彩ももう少し鮮やかな色を発していたのではないだろうか。ステージの上で飄々と踊るドン・チェリーのダンスにチェリーの全てが顕れている。

望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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