音の見える風景 Chapter #50「レイ・ブラウン」

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photo&text by Yumi Mochizuki 望月由美
撮影:1984年3月19日 郵便貯金会館ホールにて

 

1972年の秋、レイ・ブラウン(b)のもとに一本の電話が入った。ノーマン・グランツからであった。
<やあレイ、ラスベガスに来てデュークとデュオをやらないかい、以前デュークがブラントンとやったようにね>
レイは一瞬パニックに陥ってしまったがすぐに気を取り直し、これは絶対に共演しなくては!という気持ちになっていった。
実はレイは高校時代まではピアノを弾いていたがデューク・エリントン楽団のブラントンを聴いて感激しベースに転向したと伝えられているし、ブラントンはレイのアイドルだったのである。

ノーマン・グランツ (1918 — 2001) はご存知JATP (ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック) の創設者で「CLEF」、「NORGRAN」、「VERVE」、「PABLO」レーベルのオーナー、プロデューサーでありパブロ・ピカソの蒐集家としても知られている。
そしてレイはJATP、O.ピーターソン・トリオ等々でグランツとは知己の間柄である。

レイとエリントン、そしてノーマン・グランツは1972年の12月5日、ラスベガスのスタジオに集まった。
名盤『This One’s For Blanton』(PABLO,1972) の誕生である。

レイとエリントン二人の触媒となったのがジミー・ブラントン(b, 1918~1942)。
ブラントンが地元セントルイスで演奏しているのをツアーで訪れたエリントンの目に留まり、1939年にエリントン楽団に入団するがわずか3年弱で結核に侵さ23歳という若さで帰らぬ人となってしまった。

ブラントンはベースを単なるリズム・キープの楽器からソロ楽器としての可能性を拡大した革新的な先駆者であった。
ブラントンが在籍していたエリントン・バンドは『Blanton-Webster Band 1940-1942』(BLUE BIRD, RCA,1940-1942) と云われて高い評価を得ていた。

エリントンは1940年10月、ブラントンを登用して当時としては画期的なピアノとベースのデュオを4曲計9テイク録音し、ブルーバード・栄光の遺産シリーズの『SOLOS,DUETS AND TRIOS DUKE ELLINGTON』(BLUE BIRD, BMG, 1940)の中に収められている。

ノーマン・グランツが発案したのはこのデュオの再現であった。
エリントンの直ぐ傍らにレイがベースをかまえブースや仕切り板など一切の加工なしで二人の目と目が合い、息が聴こえ合う状況での録音であった。

とりわけ<PITTER PANTHER PATTER>と<SOPHISTICATED LADY>はブラントンとのデュオで演奏していた曲だけにブラントンとレイの特質が分かって興味深い。
ブラントンの方は77年前の録音ではあるが、硬質で力強く、発想の自由さに今聴いても驚く。
一方のレイはエリントン、ブラントンへの畏敬の念をたたえながらもしなやかでエロティックに弦をひびかせピアノと会話する。

録音当時、エリントンは73 歳、レイは46 歳、すでにトップ・ベーシストとして評価されていたレイであっても大御所エリントンとのデュオ、ましてやブラントン役とあって相当緊張したのではないかと思われるがそこはプロ、音を聴く限りリラックスした演奏が展開している。
エリントンのピアノが岩のように固ければ固いほどレイの弦がつややかに響く。
あたかもレイはエリントンの手のひらで自由に遊んでいるようだ。

レイ・ブラウン(b, 1926.10.13~2002.7.2) は1926年10月13日ペンシルベニア州のピッツバーグに生まれる。
父親が音楽好きだったこともあって幼いころからジャズが身近にあってデューク・エリントンやカウント・ベイシー、ファッツ・ウォーラー、アート・テイタム等のピアノに親しんで育った。

8歳の頃からピアノを始め、高校に入ってトロンボーンを手にするが自分は管楽器には向いていないと思ったが、たまたまその時に学校のオーケストラでベースが欠員だったことからベースを始める。

この高校時代にビアガーデンのジュークボックスから流れていたデューク・エリントン楽団のジミー・ブラントンを聴き、以来ブラントンはレイのアイドルとなる。
レイはブラントンを手本にベースの研鑽に励んだという。

高校を卒業してしばらく地元のバンドで演奏していたが1945年にニューヨークへ行く。
そして幸運にもマンハッタンに着いた途端にハンク・ジョーンズ(p) と出会う。
そしてハンクの紹介でディジー・ガレスピー(tp) のバンドに入団、チャーリー・パーカー(as) やバド・パウエル(p)、マックス・ローチ(ds) といったビ・バップの立役者たちとステージに立つようになる。
運を呼び込むのも才能のひとつということをレイは示している。

1946年、JATPのツアーでエラ・フィッツジェラルド(vo) と知り合い恋に落ちて結婚をするが1951年には離婚している。

1951年、ガレスピー・バンドで一緒だったジョン・ルイス(p)、ケニー・クラーク(ds) そしてミルト・ジャクソン(vib) と「ミルト・ジャクソン・カルテット」を結成し、8月にはこのメンバーで『The Modern Jazz Quartet』(Savoy,1951~52)のレコーディングを行っている。レイは初代 MJQ (モダン・ジャズ・カルテット) のベースであった。
しかしレイは直ぐにミルトのバンドを離れオスカー・ピーターソン(p) のトリオに参加し、レイが抜けたミルト・ジャクソン・カルテットにはパーシー・ヒース(b) が加わりミルトはMJQ としての活動をしてゆくことになる。

レイとミルトの二人はピーターソン・トリオとMJQ、それぞれ別のユニットに所属するが実は大変な仲良しで、レイの共演歴のなかで最も長くソウル・ブラザー的な存在がミルト・ジャクソンなのである。

ミルト・ジャクソンとレイ・ブラウン、二人の双頭バンド「MILT JACKSON & RAY BROWN QUINTET」「MILT JACKSON & RAY BROWN QUARTET」での来日はいまでも記憶に新しい。

今号のJT表紙の写真は1984年3月19日、郵便貯金会館ホールのステージ、二人の笑顔はまさにソウル・ブラザー。

レイとミルトの二人はジョー・パス(g) とも気が合いレイ、ミルト、パスの3人で「BIG3」を結成、そしてこの3人にミッキー・ローカー(ds) を加えた「Quadrant」としても演奏活動をしている。

オスカー・ピーターソンのトリオでは1951年から1966年まで15年間演奏していて、世界中をツアー、数多くのアルバムを発表しレイ自身もポピュラーな人気を得ることになる。
そしてピーターソン・トリオ在籍中もジャム・セッションやレコーディングなどさまざまなアーティストと共演してファースト・ベースマンとしての評価が定まってゆく。

1953年にJATPで初来日しているが、このときピーターソンに才能を見出された穐吉敏子(p) がノーマン・グランツのもとで『Amazing Toshiko Akiyoshi』(NORGRAN,1953) をレコーディングした際、レイもベースで敏子をサポートしている。

オスカー・ピーターソンはあまりにもレコードの数が多く、またそれぞれそのクオリティーも高いのでこの一枚を選ぶのはなかなか難しいがその中でも『WE GET REQUESTS』(Verve,1964) は一般的な人気が高かったアルバムで、とりわけその中の<You Look Good To Me>はレイの特色があらわれていて興味深い。

ゆっくりと丁寧にテーマを弾くピーターソン、レイはアルコで重厚な雰囲気を醸し出す。エド・シグペン(ds) がチーン、チーンとトライアングルを鳴らす。
愛らしいテーマが終わるとイン・テンポ、エド・シグペンがブラシでリズムを刻む。
一瞬カチャリと小さな音が入る。レイが弓を置いた音でこのかすかなカチャリがスタジオの気配を伝えてくれる。
ピーターソンがソロを始めるとレイがピチカートで合の手を入れるがこの瞬間にジャズを感じる。ブルーンとふるえるレイの弦、基音がしっかりしているから、より倍音の余韻が美しく響きわたる。

ガレスピー・バンド出身のレイ・ブラウンはビッグ・バンドとの共演も多く、特に初期の『BASS HIT!』(Verve, 1956) ではマーティー・ペイチ(p,arr) のアレンジによるウエスト・コーストのオールスター・バンドをバックに全編ベース・ソロを演じているがオーケストラのフル・サウンドを軽々と乗りこなすレイのベースは強靭でしかもスマートである。

コンテンポラリー・レコードのオーナー、レスター・ケーニッヒもレイを高く評価した一人でソニー・ロリンズ(ts)の『WAY OUT WEST』(CONTEMPORARY,1957) ではロリンズにシェリー・マン(ds) そしてレイというピアノレスのトリオを録音している。ロリンズのヴィレッジ・ヴァンガード・セッション『a night at the Village Vanguard』(BLUE NOTE, 1957)よりも半年前の1957年3月のことである。
また、フィニアス・ニューボーン・JR (p) を病から復帰させた『Please Send Me To Love』(CONTEMPORARY,1969) でもレイを起用している。

コンテンポラリーでレイがもっとも輝いたのがポール・ウィナーズ・スリーの諸作である。
1956年度のダウンビート誌やメトロノーム誌の人気投票でポール・ウィナーとなったバーニー・ケッセル(g)、シェリー・マン(ds) そしてレイ・ブラウン(b) の3人で1957年3月にレコーディング・セッション『THE POLL WINNERS』(CONTEMPORARY,1957) を録音するがこれが好評だったため年1作のペースで1960年までに4作を制作、1975年の『THE STRAIGHT AHEAD』(CONTEMPORARY,1975) を含め5作品を世に出している。
プロ中のプロの3人が織りなす職人技はいつ聴いても楽しい。
個人的には第2集の『The Poll Winners Ride Again!』CONTEMPORARY,1958)が一番好きだ。

回転木馬にのって楽しんでいるレイ、ケッセル、マンの笑顔、ジャケット写真から3人の親密な仲良しぶりが伝わってきて、まるで音が見えるようである。
写真はウィリアム・クラクストン、録音がロイ・デュナン、プロデュース、レスター・ケーニッヒのコンテンポラリー3人組がレイ、ケッセル、マンの3人組に最良のくつろぎの場を提供したことにより極上の作品に仕上がっている。

レイ・ブラウンはレスター・ケーニッヒ(1919-1977) をしのんで『SOMETHING FOR LESTER』(CONTEMPORARY,1977) を捧げている。

レイは1966年からロサンゼルスに居をかまえフリー・ランサーとしてスタジオやTVショーなどで演奏、クインシー・ジョーンズ(arr) のマネージメントをしたりベースの教則本「ベース・メソッド」を書いて後進の指導をしたりしていたが、1974年からローリンド・アルメイダ(g)、バド・シャンク(as,fl)、シェリー・マン(ds) そしてレイの4人で「L.A.4」を結成しコンコード・レーベルの顔となりボサノヴァからクラシカルな曲まで多彩なレパートリーでジャズの領域を広げることにも貢献している。

1984年、レイはジーン・ハリス(p) とジェフ・ハミルトン(ds) によるレイ・ブラウン・トリオを結成し『Solar Energy』(Concord, 1984) などの作品を発表しジャズ・シーンの注目を浴びて翌1995年NEA(the National Endowment for the Arts)のジャズ・マスター賞を受賞している。

また、クリスチャン・マクブライド(b) とジョン・クレイトン(b) との3ベースによるグループ「スーパー・ベース」を結成、世間の話題をさらったこともある。

2002年7月2日、ホテルでのショーのためにインディアナポリスを訪れていたレイは朝から大好きなゴルフを楽しんだあとホテルに戻り、夜のステージに備えて昼寝をした。
そしてレイはそのまま目覚めることなく永眠した。

レイ・ブラウンほどの達人でも向上心は絶やさずクラシック界のコントラバスのヴァーチュオーゾ、ゲーリー・カー(1941~) からの教えも受けていたと云う。
レイはベースの匠同志としてゲーリーと心の通い合うものがあったようである。
ゲーリー・カーもジャズ・ベースの重鎮、レイを共通の友として仲良くし、いつの日か二人での共演を望んでいたというがレイの突然の死でそれがかなわなくなってしまった。
ゲーリー・カーは、翌年の2003年、レイ・ブラウンに捧げてアルバム『BROWN SOFT SHOE』(SEVEN SEAS,2003) を録音している。

精妙で機知にとんだバッキング、つやっぽいウォーキング、ゆったりとした寛ぎのあるソロはいまだに色あせていない。
レイ・ブラウンはまさにスーパー・ベースであった。

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望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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