音の見える風景 Chapter51 リー・モーガン

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photo&text by 望月由美
撮影:1965年1月2日、サンケイホールにて

 

1961年のお正月、日本に黒船がやってきた。
船の名前は「ファンキー号」、船長はアート・ブレイキー(ds)、船にはモーニンとブルース・マーチの旗がたなびいていた。
1961年1月1日、一行は羽田空港に降り立った。
元旦の夜にもかかわらず、ロビーには新聞記者や多くのファンが詰めかけ、その熱烈な歓迎ぶりにブレイキー一行はびっくりしたそうである。そして翌2日のサンケイホールでの初演から熱演を繰り広げファンキー・ブームの火を灯した。

幸いにもこの模様はTBSによって録音されていて、後に2枚組のアルバム『A DAY WITH ART BLAKEY 1961』(テイチク,1961)として追体験できることになった。
アルバムのライナー・ノーツによると、1月5日の朝日新聞は「地酒のような魅力」、読売新聞は「もの凄い迫力」、毎日新聞は「黒人芸術の粋」という見出しでコンサート評を掲載、メディアも一斉にファンキー・ブームの到来を告げたとのことである。

残された当時のビデオ映像からはアイヴィー・スーツに身を固めたリー・モーガンが、うれいとか悩みなどはカラッと無縁で明るく底抜けに天真爛漫、あっけらかんとしたクール・キャットとしてスポットを一身に浴びている。
ここでのリー・モーガン(tp,1938.7.10~1972.2.19)は色彩豊かな音色と黒光りのするフレーズで朗々とラッパをならし、まさにポスト・ブラウニー、クリフォード・ブラウン(tp,1930.10~1956.6)の後継のように光り輝く姿が浮かび上がる。

そして本号の写真は1965年1月2日のサンケイホール3度目のブレイキー公演、リーにとっては2度目の来日。隣のテナーはジョン・ギルモア、トロンボーンはカーテイス・フラーである。
1部は期待通りというか想定通りの展開で進み、2部の冒頭、リー・モーガンにスポットがあたる。
曲は<ブルー・ムーン>だったと思う。
聴きなれたメロディーを吹くリー。
あっミスったと思った瞬間、リーは演奏を中断する。
ひと呼吸おいてリーは最初からもう一度テーマを吹き始める。
そして、またしても演奏を中断、ボス、ブレイキーの方を見たが冷淡と云うかブレイキーは我関せず、助け舟は出さない。
リーは、再び初めから演奏し直しやっと完奏する、リーの額からは汗が噴き出していた。
しかし次の曲に入るとリーは何事もなかったように元気に派手な大ブローを演じて見せる。
このわずか数分の間に見せた落差、いま思い返すとこのころのリーは薬禍と闘っていた時期だったのかもしれない。

リーは帰国後の4月、『THE RUMPROLLER』(Blue Note, 1965)に童謡<月の沙漠>を録音している、天才青年には童謡が意外とよく似合う。

リー・モーガンを知ったのはご多聞にもれずブレイキーの『MOANIN’』(Blue Note, 1958)で見せたブラウニーの輝きとファッツ・ナバロの華麗さをよみがえらせたようなソロ、そして『サンジェルマンのアート・ブレイキー』(RCA, 1958)、あのヘイゼル・スコット(vo)の合の手の入った<モーニン>のソロであった。

ミュージシャンは全てをさらけ出すことに懸命で、それが聴き手に満足を与えるのと同時にときにはそれは自己への快感になっているかのようである。
リーの場合は明らかに後者の方で、得意満面、意気高揚、そして陶酔する姿が<MOANIN’>のソロから伝わってくる。

リー・モーガン(tp)は1938年7月10日ペンシルバニア州フィラデルフィアの生まれ。
子供のころからジャズに囲まれた環境で育ち、14歳の時に姉からトランペットをプレゼントしてもらう。
ディジー・ガレスピー(tp)をアイドルとして猛練習をし、15歳の時にはマストバウム・ハイスクールでスパンキー・デブレスト(b)とグループを組んで演奏をはじめ、週末にはライブ・パフォーマンスを行うまでに成長していた。
このハイスクールはテッド・カーソン(tp)やヘンリー・グライムズ(b)など多くのジャズ・ミュージシャンを輩出している音楽教育に熱心な学校である。

ハイスクールを卒業した1956年、フィラデルフィアにやってきたアート・ブレイキー(ds)のステージにスパンキー・デブレスト(b)と共に参加する機会を得る。二人はブレイキーからバンドへの加入を勧められ、スパンキー・デブレストは即ブレイキーのレギュラー・メンバーになるがリーはフィラデルフィアに残る。
そしてその少しあとにリーはディジー・ガレスピー(tp,1917~1993)に請われジョー・ゴードン(tp)の後任としてディジー・ガレスピー・オーケストラに入団しジャズ・シーンのスポットを浴びることになる。
このガレスピー・オーケストラではベニー・ゴルソン(ts)、ウイントン・ケリー(p)と一緒で二人はこのあとリーの楽友として様々なシーンでリーとの共演を果たすことになる。
ディジーのバンドでは『Dizzy Gillespie At Newport』(verve,1957)等でリーのプレイを聴くことができる。

1956年6月26日、クリフォード・ブラウン(tp)が交通事故で突然の死を遂げると必然的にポスト・ブラウニーとしてリーがクローズアップされることになり、その年の11月には若干18歳でブルーノートに『Lee Morgan Indeed!』(Blue Note,1956)、サヴォイに『Introducing Lee Morgan』(SAVOY,1956)という2枚のリーダー・アルバムを続けざまに録音して神童ぶりを発揮している。

リーはガレスピー・オーケストラ在籍中に多くのレコーディング・セッションにも顔を連ねるようになり、とりわけ1957年の9月、ジョン・コルトレーン(ts)の歴史的なブルーノート録音『BLUE TRAIN』(Blue Note,1957)に参加、ハード・バッパーとしての力量をいかんなく発揮する。
ちなみにマイケル・カスクーナが編集した『THE ULTIMATE BLUE TRAIN』(Blue Note,1957)のライナー・ノーツにはディジー・ガレスピーのトレードマークであるベルが45度上を向いたトランペットを吹くリーの写真が掲載されていてブルー・トレインは45度上向きのラッパでレコーディングしたことが示されているのは面白い。
当時のガレスピー・オーケストラのトランペット・セクションはみんな朝顔が上向きのラッパを吹いていたそうである。
そしてその2か月後には初めてのワン・ホーン・アルバム『Candy』(Blue Note,1957)を録音するなど57年はリーにとって飛躍の年となった。

1958年1月にディジーのオーケストラが解散すると、リーはニューヨークに居をかまえ同郷のボビー・ティモンズ(p)等と一緒に活動するようになり、また、ジュリアード音楽院で勉強することも考えていたが、アート・ブレイキーからのたっての入団要請がありジャズ・メッセンジャーズに加わる。
当時のジャズ・メッセンジャーズの音楽監督的な立場にあったベニー・ゴルソン(ts)の人選で編成されたリー・モーガン(tp)、ベニー・ゴルソン(ts)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)そして御大ブレイキー(ds)の5人。
ブレイキーを除く全員がフィラデルフィア出身というニュー・クインテットは1958年10月に『MOANIN’』(Blue Note,1958)をヴァンゲルダー・スタジオでレコーディングし、ヨーロッパ・ツアーに旅立つ。
リー・モーガン20歳の冬の12月、パリで録音した『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ、Vol.1~3』(RCA,1958)は日本でも大ヒットし一躍ファンキー・ブームが沸き上がり、1961年元旦のジャズ・メッセンジャーズ来日へとつながる。

私生活では、リーはメッセンジャーズ時代の1959年の大晦日の夜、シカゴのサザーランド・ホテルのロビーでKIKO YAMAMOTOという日系の女性と出会い恋に陥り翌1960年に結婚する。
モーガン夫人のKIKOさんはダンサーやモデルをしていた美人で、二人はニューヨークのジャズ・クラブ「バードランド」で披露宴を行ったとのこと。
バードランドは『MONDAY NIGHT AT BIRDLAND』(ROULETTE,1958)などリーもよく出演していたクラブ。

60年8月に録音された『A Night in Tunisia』(Blue Note,1960)には、KIKO夫人の旧姓<Yama>そして2人が可愛がっていたプードル犬の名前Kozoから付けた<Kozo’s Waltz>が演奏されていて当時のリーの夫人への思いが込められている。

リーはブレイキーのもとでステージ・マナーや聴衆の気持ちのひきつけ方など多くのものを学んだが同時に悪い薬も学んでしまったとされている。
ブレイキーは程よく薬をコントロールしていたが、リーはさじ加減を知らずに薬におぼれて夫人に暴力をふるうようになる。
そんなリーに耐えかねてKIKO夫人はシカゴの実家に戻ってしまい、どんどん荒んでいったリーはブレイキー・バンドのトランペットの座もインパルスの『Alamode』(Impulse!,1961)を最後にフレディー・ハバード(tp)に奪われてしまう、初来日からわずか半年後、1961年8月のことである。

話は前後するが1959年、アート・ブレイキーはベニー・ゴルソン(ts)の後任としてウェイン・ショーター(ts)を迎え入れ、リーとウェインの2管メッセンジャーズが誕生する。当時、マイルズ・デイヴィス(tp)もコルトレーンの後任としてウェインに声をかけたがブレイキーの方が少し早く契約をしてしまったためマイルズは1964年までウェインを待つことになる。

リーとウェインの二人は音楽的にとても気が合ったようで御大ブレイキー・バンド以外にも1959年8月の『KELLY GREAT』(Vee-Jay,1959)そして11月に『Introducing Wayne Shorter』(Vee-Jay,1959)と立て続けにレコーディングを行い、1964年4月の『NIGHT DREAMER』(Blue Note,1964)まで折りに触れて共演を重ねている。

1963年、リーはケンタッキー州レキシントンの病院に入院し薬癖の治療を受ける。
この病院はチェット・ベイカー(tp)やウィリアム S.バローズが治療を受けたとされている薬物治療では有名な病院だそうである。

リーは1963年11月にニューヨークに戻り演奏活動を開始、翌12月リーはジョー・ヘンダーソン(ts)とのコンビで『The Sidewinder』(Blue Note,1963)を録音、リー・モーガン25歳でのビッグ・ヒットである。日本でもTVのCMに使用されるなどして大ヒットし8ビート・ジャズの口火を切った。

1972年2月18日雪の降る寒い夜、リー・モーガンは若いガールフレンドと連れ立ってニューヨークのジャズ・クラブ「スラッグス」にやってきた。
リーはいつも通りビリー・ハーパー(ts)やジミー・メリット(b)等とステージに立つ。
そしてその2ステージと3ステージのあいだの休憩時間に銃声が鳴り響いた。
リー・モーガンはベルビュー病院に搬送されたが1972年2月19日午前2時45分死亡が確認された、撃ったのはリーの年上の愛人ヘレン・モア。
リー33歳、ヘレン46歳での出来事であった。

刑期を終えたヘレンにインタビューしたラリー・レニ・トーマスの著書「The Lady Who Shot Lee Morgan」にリーとヘレンの愛憎の顛末が述べられている。

ヘレンはライブ・ハウスを根城に夜の商売をし、また薬物の仲介などもして生計を立てていた女性で、いつしかミュージシャンと友達関係になり時には自宅にミュージシャンを招き食事などをふるまっていた。
住まいはジャズ・クラブ「バードランド」の近くだったのでミュージシャン達が仕事を終えて立ち寄るには絶好の場所となり、みんなから親しまれる存在になっていった。

1960年代のはじめ、寒い冬にリーはベニー・グリーン(tb)に連れられてヘレンのアパートを訪れる。
この時、リーはコートも楽器も薬のために質に入れてしまうという始末で、この話を聞いたヘレンは質屋へ行って楽器とコートを出してあげる。
ヘレンの方がひと回りほど年上で、リーとヘレンは、これをきっかけに時に愛人関係のような、ときに母と子のような関係が始まった。
ヘレンは薬の影響でステージに穴をあけたりしてすっかりクラブの信用を無くしていたリーを立て直すために身を粉にして尽くした。
ヘレンが身の回りからブッキング、マネージメントに至るまでのリーの生活の全てを支えていたことはビリー・ハーパー(ts)やビリー・ハート(ds)など周囲のミュージシャンも認めている。
しかし生活も音楽も順調にできるようになるとリーは若いガールフレンドに入れ込むようになり、二人の関係は徐々に険悪な状態になってゆく。

その夜ヘレンはリーから護身用にと与えられていた拳銃をバッグに忍ばせて「スラッグス」に行きリーと話し込んでいた。そこにリーの連れのガールフレンドが話に割り込んできてもめごとになり、リーはヘレンに手をあげ、寒い店の外に突き出した。
放り出されたヘレンはコートを取りに店に戻るといきなりリーがもの凄い形相で詰め寄ってきた。
その瞬間、ヘレンの手にしていた拳銃から放たれた銃弾がリーの胸を貫いていた。

粋でいなせな伊達男が生き急いだ33年、リー・モーガンが50年後にクリフォード・ブラウンやディジー・ガレスピーのように讃えられているかどうかは定かではないがヤング・ライオンであったことだけは記憶にとどめられるであろう。

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望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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