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音の見える風景 望月由美No. 235

音の見える風景 Chapter 52「井上敬三」 

photo&text by 望月由美

撮影:1983年夏、上野水上音楽堂にて

 

ジャズは自転車に乗るのと同じで、こけても、こけても一度乗れるようになれば乗りこなせるのと同じで、ジャズも一度自分のものにすることが必要なんだ。
これはずっと以前、小山彰太(ds)さんが雑談の中で話してくれた言葉であるが、ある意味ジャズの神髄を語っているようでいつも頭の片隅にある。
ジャズをのりこなし懸命に漕ぎ続けたのが井上敬三(reeds)さんである。

井上敬三というと坂田明(reeds)のお師匠さんで高齢(53歳)でデビューした遅咲きの人というのが多くの方の印象だったと思う。
私も井上敬三のすべてを知っているわけではなくある一時期、SJ誌のコラムを担当しジャズのライヴにのめり込んだ頃から親しくさせていただいた。

井上敬三の音は楽器と体そして心がひとつになって噴き出してくる。
もの凄い速さでスタッカートを続けたかと思えばアルトを天高く上に向け、ドルフィー(reeds)のようにいななき、大空に向かって語りかける。
突然の静と動との落差に驚かされ井上敬三の世界に引き込まれる。
オーネット・コールマン(as,tp,vln)とかアンソニー・ブラクストン(reeds)など当時のシーンをリードしていたスタイルとは違った独特のサウンドを持っていて日本のジャズ・シーンのみならず世界的にも稀有な存在のアーティストであった。

井上さんは誰にでも分け隔てなく向き合う方で、まだ、未熟な筆者にもひとりの人として対等に接してくれた。
1977年の夏、「アケタの店」で井上さんの演奏を聴き、話をさせていただいたことを想い起す。う
当時、井上さんは54歳、広島から上京してのライヴである。
<僕はきっと執念深いんですね、明日は朝、お酒でも持ってグリーン(翠川敬基、Cello)のところに行って、午後は銀座で人と会ってそれから坂田君の家に行くことになっているんですね>
東京に来たときは限られた時間を精いっぱい使って行動をする、音楽と同様に大変エネルギッシュな方である。
<そう、東京きたらいつも張り切っちゃって、広島に帰るとパタッとぐったりしちゃってね>

東京でのアーティストとしてのデビューは前の年(1976)の9月、法政大学で行われたニュー・ジャズ・シンジケートのステージであった。
当時の日本のジャズ・シーンは富樫雅彦(ds)が健在で1975年には『「スピリチュアル・ネイチャー」(1975,East Wind)の厚年コンサート、“SABU”豊住芳三郎(ds)が高木元輝(ts)とのデユオ『藻』(1975,TRIO)、梅津和時(sax)、片山広明(sax)、佐藤春樹(tb)という異色の3管豊住カルテット、高柳昌行(g)、阿部薫(as)の活動など時はまさにフリーの風が吹いていた頃である。
東京デビューして間もなく梅津和時(reeds)が八王子『アローン』で「井上敬三の世界」と銘打ったプログラムを企画したり、徐々にミュージシャン間で名前が広まってゆく。
八王子アローンは1977年8月に店をたたむが、その「さよならコンサート」にも出演、阿部薫(reeds)、中村達也(ds)とのトリオで出演したとされている。
余談になるが、そのさよならコンサートで「生活向上委員会大管弦楽団」が産声を上げているので井上さんはまさに「生向委」の誕生に立ち会っていたことになる。

井上さんは多くのミュージシャンから親しまれ、愛されているがその中でもエポック・メーキングな友が二人いる。
ひとりは坂田明(reeds)さん。
坂田明は1969年に上京し、自己のグループ「細胞分裂」に端を発し山下洋輔トリオなどでの活躍で世界のトップ・アーティストとなっているが今もなお創作活動に精力的に取り組み、この9月にはヨハン・パットリング(b)、ポール・ニルセン・ラヴ(ds)とのトリオ「ARASHI」でジャパン・ツアーを行っている。
その坂田は1945年広島県呉市の出身で広島大学水畜産学部水産学科に進み、そこで井上さんからクラリネットの手ほどきを受けている。
<坂田君の奥さんも実は僕の教え子なんですよ。二人とも本校の方に行ってジャズ研を本格的にやりだして、そのうちに二人は一緒になったんですよ>
井上さんは坂田を指導しながら坂田のフリー・インプロヴィゼーションが大いに刺激になり、オーネット・コールマンなどのレコードをかけながら、一緒に音を出すなどして独自のジャズの即興のスタイルを編み出したという。
以来、二人は子弟の域をこえて親しい交流を続ける。
<坂田君が広島に来た時には聴きに行くようにして、どんな状態になってるかーって言って、ちょっと痩せたぞ気い付けなっていったりして…
でも、僕が聴きに行くといつも喜んでくれますよねー、嬉しいですよ>
井上さんは坂田明トリオと共に1981年6月、メールス・ジャズ祭に出演し、ソロ・パフォーマンスで世界のミュージシャン達やフリー・ファンを驚かせた。
この時井上さんは59歳にして世界デビューを果たし、多くのフリー・ミュージシャンとセッションを重ねていて、その模様は『井上敬三 イン・メールス‘81』(1981,TRIO)として残されている。

そしてもう一人、ギターの渡辺香津美(g,1953〜)もいち早く井上さんの演奏に注目したひとりで、しばしば共演の場を設け、井上さんのメジャー・レーベル初の『INTIMATE』(Better Days,1979)をプロデユースする。
井上さん、渡辺香津美(g)に坂本龍一(key)、望月英明(b)、小山彰太(ds)、ペッカー(per)、小原礼(b)、村上秀一(ds)といった当時最も元気だったアーティストが参加し井上さんのデビューをサポートした。
写真は上野不忍池・水上音楽堂の野外ステージで出番を待つ井上さんと渡辺香津美が談笑しているシーンである。
2人の穏やかな笑顔がまさにインティメートである。

井上敬三さんは1922年(大正11年)大阪で生まれる。
つまり大正生まれのアーティストである。
中学時代に映画「オーケストラの少女」を見たのがこの道に進む転機だったという。
一か月間この映画をずっと追い回して何度も見たという。
当時は、子供は保護者がいないと映画館に入れなかったのでいつも母親にずっと付き合ってもらったとのこと。
そして母親からクラリネットを買ってもらう。
一生、楽器を手放さないという約束だった。
甲陽学院ではラッパ鼓笛隊に入り、その後1940年(昭和15年)に陸軍戸山学校音楽科を卒業。
第2次世界大戦では中国に出征し、白ハチマキをして塹壕の中で演奏をしていたという。
終戦後オーケストラに入ったり、南里文雄(tp)のボーヤをふり出しにキャンプ巡りなどをしていたそうである。
1955年、広島に居を定め、1958年から1976年まで広島大学の講師を務め、この時期に坂田明にクラリネットのてほどきをしている。また一時期エリザベト音楽大学の講師も務める。
広島大学を退任するとすぐさま上京し坂田明や渡辺香津美、阿部薫(reds)、“SABU”豊住芳三郎(ds)とセッションを重ね、じつに53歳の東京デビューとして話題となった。

1980年の9月、井上さんから1通のお手紙をいただいた。
速達便だったので何事かと思ったが近況のお知らせであった。
井上さんは思い立ったらすぐに行動に移す方だったので一刻も早く伝えたいというお気持ちが速達というかたちで伝わってくる。
罫線なしの白紙に黒のインクで縦書き、罫線があっても難しいと思えるほど整然としかもすらすらと流れるようにしたためられていた。
書によると井上さんは前年の1979年、一人で楽器片手にヨーロッパにわたり、二か月間、各地で演奏をしてきたそうで、まさに井上流の武者修行である。
そして加古隆(p)、オリヴァー・ジョンソン(ds)、ケント・カーター(b)のいわゆる「TOK」と2曲レコーディングを行う。

また、1980年1月にはグローブ・ユニティで広島を訪れていたトリスタン・ホンジンガー(cello)、エヴァン・パーカー(ss)とトリオで演奏し、アレキサンダー・フォン・シュリッペンバッハ(p)とデュオも行ったとしたためられたのを覚えていた。
そしてこの1980年5月に初めて自分のユニットを結成する。
広島に精いっぱいジャズの種をまこうとの思いで作ったそうである。
井上敬三グループは井上さんのリードにベースとドラムという当時の坂田トリオと同じ楽器編成で、そのお披露目コンサートには坂田トリオもかけつけてジョイントでステージに立った。
井上さんと坂田との交流は、はたから見てもうらやましいほど親密であったし坂田明の師を思う気持ちも熱いほど伝わってくる。
井上さんには当時20代のお嬢さんがいて井上さんはとても可愛がっていたことを覚えている。
<明君が来てた頃はこんな小さかった娘がもう21になりまして、で、娘は美術を勉強しているんです。今回も私が東京で演奏するっていうと出てくるんですよ。
お父さん、坂田さんの真似しているだけじゃない、なんて娘に言われてね、娘が一番怖い評論家ですよ>

ギョロっとした眼差しと真っ白な髪型、太い眉からは古武士の風格が漂う。
剛直なまでに生一本、常に前進をし続けて2002年1月、79歳のジャズ人生を閉じた。
<自分に自分を許せないタイプですから死ぬまで吹き続けます>
井上敬三さんはまさにジャズに生きた人であった。

 
L:In Moers (Trio)
R:Intimate (Better Days)

望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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