音の見える風景 Chapter 53 「シェリー・マン」 

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photo&text by Yumi Mochizuki  望月由美
撮影:1964年3月10日、新宿厚生年金会館大ホールにて

シェリー・マン ルロイ・ヴィネガー 龝吉敏子

ロイ・ヘインズ(ds)、シェリー・マン(ds)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)、マックス・ローチ(ds)の4人が一列に並んだ厚年のステージはまさに壮観。
4人に照明があたっただけで場内は興奮のるつぼとなった。
ギョロっと大きな目をくりくりさせるロイ、右横をながめ愛嬌たっぷりにニヤッと笑うフィリー、姿勢を正して真正面を向き、さあかかってこいという体育会系ローチ。
こうした猛者にかこまれてシェリー・マンはひとり爽やかな笑顔をたやさない、人のよさそうなジェントルマンといった風情であった。
いざ、音出しが始まるとそれは単なる「ドラム合戦」ではなかった。
帰国していたピアノの穐吉敏子、ウォーキング・ベースの達人ルロイ・ヴィネガーがしっかりと脇を固め、フロントには大御所ハワード・マギー(tp)、当時の敏子の夫君チャーリー・マリアーノ(as)が据えられるという渋い、今思えば玄人ごのみのメンバー揃い。
場面々々によって2管のクインテットやワン・ホーン・カルテット、ピアノ・トリオという趣向がほどこされていて聴きどころの多いステージであった。
シェリー・マンのチョイスは穐吉敏子(p)、ルロイ・ヴィネガー(b)とのトリオ編成。
マンはこのコンサートの2年前、アルバム『234 シェリー・マン』(ìmpulse! 1962)で、この録音からわずか半年後に自動車事故で夭折したエディ・コスタ(vib,p 1930~1962)、重鎮ジョージ・デュヴィヴィエ(b)というメンバーで録音を残しているが今回もフレッシュな敏子とずっしりとしたヴィネガーを配して小粋なトリオ・プレイを展開してくれた。
ピアノに合わせて声をあげながらインプロヴァイスする穐吉敏子の姿は可愛いらしく、マンも楽しそうにサポートしているのが印象に残っている。
マレットさばきのしなやかさ、ブラシの軽さ、思ったよりもシャープで大きな音のシンバル・ワーク、そしてその敏捷な身のこなしはレコードを聴いて頭に描いていたクールなイメージそのもので、ローチやロイ、フィリーといったヘヴィー・サウンドの持ち主と並んでひときわそのスマートさが際立った。

シェリー・マンは1920年6月11日、ニューヨークに生まれる。
父親も叔父もプロのドラマーというドラムを身に着けるのには恵まれた環境で育ち、幼いころからデイヴ・タフ(ds)やジョー・ジョーンズ(ds)を聴いていたという。
しかし、親は最初なぜかマンにアルト・サックスを買い与えたというが、マンはサックスよりも太鼓がいいと父親と直談判しついにドラム・セットを手にする。
10代の頃から父親の同僚でジョー・モレロ(ds)やバディ・リッチ(ds)が影響を受けたとされるスネア・ドラムの名手ビリー・グラッドストーン (per)から直接手ほどきを受けていたというからマンのスネアは筋金入りである。
18歳のころから52番街のクラブに出入りするようになり、ヨーロッパ行きの船のバンドで働いたのが初仕事だという。
1940年、20歳の時にボビー・バーン(tb)・オーケストラに加わりメジャー・デビューする。
そして並行してコールマン・ホーキンズ(ts)やチャーリー・シェイバース(tp)、ドン・バイアス(ts)等のレコーディングに参加しジョニー・ホッジス(as)やハリー・カーネイ(bs)、ローレンス・ブラウン(tb)などのエリントニアンとも交流を深め活躍の場を広げ、ジャム・セッションを楽しんでいた。
ビバップという新たなジャズの先駆けでもあった。

この頃からフィリップ・フィリップス(ts)やチャーリー・ヴェンチュラ(ts)、レニー・トリスターノ(p)、リー・コニッツ(as)等の当時の最先鋭のアーティストと共演をかさねている。
1949年、リー・コニッツの『サブコンシャス・リー』(Prestige,1949)でもコニッツ、トリスターノ、ビリー・バウアー(g)等と共演し表題曲の<サブコンシャス・リー>ではハイ・テンションのコニッツ、トリスターノに対してブラシで絶妙のサポートをしている。
そして、スタン・ケントン(p)オーケストラに加わりビッグバンド・ドラマーとしてもトップの座に就くことになる。
ケントンが一時活動を中断していた時期にはウディー・ハーマン(cl,as)オーケストラやJATPにも加わったこともあるという。
このスタン・ケントン・オーケストラへの参加がシェリー・マンにとっての最大の転機となる。
「イノヴェイションズ・イン・モダーン・ミュージック・オーケストラ」という壮大な看板を掲げて人気を集めたスタン・ケントンのもとにはメイナード・ファーガソン(tp)、ショーティー・ロジャース(tp)、ジョン・グラース(fhn)、アート・ペッパー(as)、バド・シャンク(as)、ボブ・クーパー(ts)、ビル・ラッソ(tb)、ドン・バグレイ(b)、ローリンド・アルメイダ(g)等々の後のウエストコースト・ジャズの中心人物の多くが参加していてケントン・オーケストラでの活動を通してマンのウエストコースト人脈が築き上げられた。
スタン・ケントンのストリングス入り総勢39人という大編成で録音された『スタン・ケントン・プレゼンツ』(1950,Capitol)ではこれらのきら星のごときトップ・アーティストにならんでケントンはマンをフィーチュアーしてそのものずばり<シェリー・マン>という曲をプレゼントしている。

1951年にスタン・ケントンのもとを離れたシェリー・マンはロサンゼルス郊外に居をかまえ映画やラジオ等のスタジオ・ワークをしながらハーモサ・ビーチのクラヴ「ライトハウス」やロサンゼルスのクラヴ「ヘイグ」等で演奏活動を始める。
また、私生活では1943年にローレンス・バターフィールドという女性と結婚し生涯をともにするが、その夫人は大変な馬好きで、一説によると馬を飼うためにロサンゼルス郊外に牧場を買ったと云われている。

「ライトハウス」ではマンと同じくケントン・スクールのハワード・ラムゼイ(b)がマネージャーをしていて、毎週日曜日の午後2時から深夜の2時まで「サンデイ・ジャズ」と称してジャズのライヴを行い、多くのミュージシャンが休日の午後のジャム・セッションを楽しんでいた。
コンテンポラリー・レコードの3500番シリーズの1番目(3501)がこのライトハウスでの模様を記録した『サンデイ・ジャズ・ア・ラ・ライトハウス』(Contemporary,1953)で、シェリー・マンも勿論のことハワード・ラムゼイ(b)を筆頭にショーティー・ロジャース(tp)、ミルト・バーンハート(tb)、ジミー・ジュフリー(ts)、ボブ・クーパー(ts)、メイナード・ファーガソン(tp)、ハンプトン・ホーズ(p)といった名手が参加している。
また、同じ53年にシェリー・マンはシェリー・マン&ヒズ・メン Vol.1として『ウエスト・コースト・サウンド』(Contemporary,1953)を録音、以降シェリー・マン&ヒズ・メン・シリーズを次々と発表しウエストコースト・ジャズの牽引者的役割を果たした。

ショーティー・ロジャース(tp,fhn)もケントンを離れてからウエストコーストを拠点にショーティー・ロジャース&ヒズ・ジャイアンツを結成、シェリー・マンも共同リーダー的存在で共演して『ショーティー・ロジャース&ヒズ・ジャイアンツ』(RCA,1953,54)、『ザ・スインギング・Mr.ロジャース』(Atlantic,1955)、『マーシャンズ・カム・バック』(Atlantic,1955)など多くの作品を一緒に創っている。

なかでも興味深いのが『コラボレーション』(RCA.1954)でロジャース、マンのほかバド・シャンク(as、fl)とボブ・クーパー(ts,oboe)のフルートとオーボエそしてアンドレ・プレヴィン(p)が参加していることである。
プレヴィンは1953年ごろからロジャースやマンと演奏を共にしていて、特にシェリー・マンとは気が合ったのかこれ以降二人で多くの作品を作っている。

シェリー・マンは自己のグループのレコーディングでは「シェリー・マン&ヒズ・メン」といい、気の合った仲間とのレコーディングでは「シェリー・マン&ヒズ・フレンズ」と使い分けていたようである。

シェリー・マンはアンドレ・プレヴィンとは1956年に『シェリー・マン&ヒズ・フレンズvol.1』(Contemporary,1956)、『マイ・フェア・レデイ』(Contemporary,1956)を録音。
このマイ・フェア・レデイは空前の大ヒットとなり、『リル・アブナー』(Contemporary,1957)『ベルズ・アー・リンギング』(Contemporary,1958)等を次々と発表しミュージカルのジャズ化の先鞭をつけた。
また『パル・ジョイ』(Contemporary,1957)や『ウエスト・サイド・ストーリー』(Contemporary,1959)ではアンドレ・プレヴィンがリーダーとなりこちらは「アンドレ・プレヴィン&ヒズ・パルズ」とうたっていた。
アンドレ・プレヴィン(p)はラス・フリーマン(p)との2ピアノという異色作『ダブル・プレイ!』(Contemporary,1957)を録音しているがここでもマンはベース抜きでドラムのみで2ピアノと共演している。

このようにシェリー・マンにはデュオやベース・レスのトリオなどイレギュラーな編成の作品が意外と多い。
マンは以前からショーティー・ロジャース(tp)、ジミー・ジュフリー(cl,ts,bs)とのトリオで『ザ・スリー』(Contemporary,1954)やラス・フリーマン(p)とのデュオで『ザ・トゥー』Contemporary,1954)を創っている。
マンがウエストコーストで結成したグループ、シェリー・マン&ヒズ・メンはスチュ・ウィリアムソン(tp)、チャーリー・マリアーノ(as)の2管にラス・フリーマン(p)、ルロイ・ヴィネガー(b)そしてマンのドラムというオーソドックスな2管のクインテット。
その最初の作品『スインギング・サウンズ』(Contemporary,1956)ではマリアーノ、スチュのフロントが猛スピードでスイングするが、それをマンがさらに倍加させるように後ろからプッシュするというモダン・スイングの典型が繰り広げられる。
フレッド・ライオンの撮ったマレットを左手にかまえたマンのジャケット写真を眺めながらパウエル作の<ウン・ポコ・ロコ>のマンのマレット捌きを聴くと楽しみが倍加する。

シェリー・マンは1960年の秋、ハリウッドにライヴ・ハウス「シェリーズ・マン・ホール」を創設しオーナーとして連日ライヴをセット、また自らも毎週末に自己のグループで出演し多くのアルバムを残している。
そのマン・ホールでのライヴ・アルバムは沢山リリースされている。
マン自身も『ライヴ! シェリー・マン&ヒズ・メン・アット・ザ・マン・ホール』  (Contemporary,1961)を録音しているほかキャノンボール・アダレイ(as)にも『Live!』(Capitol,1964)がある。
またミシェル・ルグラン(p,vo)を招いてレイのベースとマンのドラムでサポート、『ミシェル・ルグラン‐アット・ザ・シェリーズ・マン・ホール』(Verve,1968)もレコーディングしている。

勿論、自分の店だけではなく、ライヴ・ツアーも行っていて、モンクやマイルスのライヴで知られるサンフランシスコのクラブ、ブラックホークでの出演では、わずか3日間のライヴで『アット・ザ・ブラックホーク』(Contemporary,1959)として実に5作までアルバム化されていて、如何に当時のシェリー・マンのグループが充実していたかを物語っている。
また、レイ・ブラウン(b)とも仲がよく、ソニー・ロリンズ(ts)がウエストコーストにやって来た時の『ウエイ・アウト・ウエスト』(Contemporaru,1957)ではロリンズ、レイ、マンのピアノレス・トリオで楽しいインタープレイをしている。
そのレイとマン、そしてギターのバーニー・ケッセル(g)の3人が1956年のジャズ雑誌ダウンビートの楽器別人気投票で1位になったことをきっかけにコンテンポラリー・レコードのオーナー、レスター・ケーニッヒが翌57年に『ザ・ポール・ウイナーズ』(Contemporary,1957)を録音、そこで意気投合した3人はその後5作までシリーズ化する。
とりわけ2作目の『ザ・ポール・ウイナーズ・ライド・アゲイン!』(Contemporary,1958)はウイリアム・クラクストンが撮った回転木馬に乗った無邪気な3人の笑顔のジャケットがとても素晴らしいし<ヴォラーレ>での、手でスネアのピッチをコントロールしながらメロデイをたたき出すマンのウイットネスが楽しい。

ウエストコーストの中心人物といわれていたマンであるが当の本人はそんな意識はなくノー・コーストを貫いていて1959年にはオーネット・コールマン(as)、ドン・チェリー(tp)の『トゥモロウ・イズ・ザ・クエスチョン』(Contemporary,1959)で一緒にプレイをするというヴァーサタイルぶりを発揮している。

ビル・エヴァンス(p)も1963年の5月、マン・ホールに2週間出演している。
最初の1週間はチャック・イスラエル(b)とのデュオで次の1週間はラリー・バンカー(ds)が加わったトリオ。
このトリオの演奏はオリン・キープニュースの手によって『アット・ザ・シェリーズ・マン・ホール(Riverside,1963)として残されている。
そのエヴァンスとシェリー・マンとの『エムパシー』(Verve,1962)では2人がまったく同じ立ち位置に立ち、緊張感を保ちながらも楽しく対話を重ねていてシェリー・マンの個性である機知に富んだスマートさ、センシティヴな親和性が最も自然にあらわれているし、それによってエヴァンスからも新しい活力を引き出している。2人は68年、『ア・シンプル・マター・オブ・コンヴィクション』(Verve,1966)でも粋な味わいをみせている。

また、シェリー・マンはハリウッドのスタジオでの仕事も多かったので映画やTVショーなどにもよく出ていて、フランク・シナトラ(vo)主演の映画『黄金の腕』(UNITED ARTISTS,1955)やロバート・ワイズ監督の『私は死にたくない』(UNITED ARTISTS,1958)などに出演している。

スタン・ケントン時代以来の長年の友人ローリンド・アルメイダ(g)、バド・シャンク(as,fl)、レイ・ブラウン(b)そしてシェリー・マン(ds)の4人は1974年に『ザ・ L.A.4』(CONCORD JAZZ197,4)としてコンコード・ジャズ祭に出演し好評を博したが、「ポール・ウイナーズ」にしても「L.A.4」にしても、やはりこうした名人たちの集うグループでは、節度と調和のとれたマンのドラミングが胡椒のようにピリッと効いている。

シェリー・マンは1984年9月26日、64歳という若さで心臓発作により天命を全うした。
スタジオの仕事などオーバーワークによるといわれている。
たまたま時期が重なったのかもしれないがその2週間ほど前にロサンゼルス市は9月8日を「シェリー・マン・デイ」として祝ったという。

シェリー・マンの死がロサンゼルス市やハリウッド芸術協会の祝福を受けた後での出来事であったのはせめてもの慰めと思いたい。

Concert Program (4大ドラマー)

望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

One thought on “音の見える風景 Chapter 53 「シェリー・マン」 

  • 稲岡編集長
    2018年1月3日 at 5:04 PM
    Permalink

    常滑市のジャズ・ファン久田定さんから私のfacebookに下記の書き込みがありましたので転載します;

    僕はこのツアーの名古屋公演を3月14日18歳で見ました!
    何せ54年前の事で全くと言って良いくらい記憶が無くなっています!
    薄っすらと強烈なローチとシャープなマンが!
    位ですが、幸いパンフレットを購入して持っていたので、行ったんだ!と分かる位です!

    久田さんが掲載したプログラムの表紙には下記の出演者が記載されています;
    ロイ・ヘインズ
    シェリー・マン
    フィリー・ジョー・ジョーンズ
    マックス・ローチ

    ハワード・マギー
    ルロイ・ヴィネガー
    龝吉敏子
    チャーリー・マリアーノ

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