音の見える風景 Chapter57「アート・ブレイキー」 

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photo&text by 望月由美
撮影:1965年1月2日 サンケイホールにて

アート・ブレイキー(ds, 1919~1990 71歳没)はトーク好きだったのかインタヴュー記事が数多く残されているが、その中でも1971年にアート・テイラー(ds, 1929~1995 65歳没)が行ったインタヴューが興味深い。

ドラマー同士の対話という点と二人とも50年代にマイルス・デイヴィス(tp, 1926~1991 65歳没)やセロニアス・モンク(p, 1917~1982 64歳没)、ジョン・コルトレーン(ts, ss, 1926~1967 40歳没)等と共演しているので話の展ありきたりのインタヴューとはひと味違っていてとても面白い。
インタヴューは1977年3月号のスイングジャーナル誌に掲載されたもので、人種問題やフレッチャー・ヘンダーソン(1897~1952 55歳没)楽団に在籍していたころの同業者でないと聞きだせないような逸話などが語られている。

生まれ故郷ピッツバーグのクラブで働いていた時のこと。
ウイスキー・ボトルをポケットに忍ばせてステージに立っていたブレイキーは、演奏の合間にこっそりとボトルをあけてはちびちびとやっていた。
ステージがはねたあと大先輩のシドニー・カトレット(ds, 1910~1952, 42歳没)がやってきて立ち話を始めたが、ウイスキー・ボトルがシドニー・カトレットの目に留まるやいなやブレイキーはその場に殴り倒されてしまったという。シドニー・カトレットはブレイキーに向かって、
<酒の飲み方を覚える前に楽器の使い方を勉強しろ、こんど見つけたら首の骨をへし折ってやるからな>
とブレイキーを諭したという。ブレイキーがコンサートのステージ上でサイドマンに対して厳しく指導をしているシ―ンを何度か見ているが、こういった若い時の経験を活かしているように映った。

ブレイキーはチック・ウェッブ(ds, 1909~939 30歳没)と、このシドニー・カトレットをフェイヴァリット・ドラマーとしていたようで、シドニー・カトレットのことを、親しみを込めてシドと云う。
<シドはスティックを使ってまるでブラシのように柔らかい音を出すことが出来たし、ブラシでスティックっと同じ効果が出せたんだ、名人とはまさに彼のことを言うんだ>

またある時、ブレイキーがビリー・エクスタイン(1914~1993 78歳没)楽団のリハーサルをしているとき、譜面に気を取られて頭がこんがらかっていたときにシドがやってきて、
<くよくよするな、なんでも解ろうとするから駄目なんだ、解らないものはそのままにしておけ、そして困ったときはただ連打をするんだ>。
これが名人の極意かと、解ったようでわからない話ではある。
そしてさらに、
<メトロノームのテンポを一番遅く設定しろ、そしてその遅い1拍の間に100回ロールをする練習をするんだ>。
ブレイキー得意の‟ナイヤガラ瀑布ロール“はこういった体験から生み出されたものなのかもしれない。

アート・ブレイキーは、はじめピアノ弾きとしてクラブで仕事をしていたが、ひょんなきっかけでドラマーに転向する。転向のきっかけは意外にもエロール・ガーナーであった。
<俺がステージの休憩時間にピアノのそばで休んでいると少年がやってきてピアノを弾いていいかって聞いてきたんだ。ガムを噛んでいるまだ小さな子供なんだけど天才だった、譜面もこなすしアドリブも入れるんだ>
少年は後にビハインド・ザ・ビートで一世を風靡したエロール・ガーナー(p, 1921~1977 55歳没)であった。
<で、そのあと、俺は店のオーナーに呼ばれたんだ、ブレイキー、お前はドラムだ、あいつをピアニストにする、ここに残りたかったらドラムをやれ>
クラブはギャングが経営している店で店主はマグナムを手に持っていたという物騒な話。ブレイキーは店主の命令通りにその場でドラムを叩いたというが、ドラムの手ほどきは受けていなかったにもかかわらずなんとか格好がついたようで、かくしてドラマー、アート・ブレイキーが誕生する。

アート・ブレイキーは1919年10月11日、ペンシルベニア州ピッツバーグでシングル・マザーの子として生まれる。母親はブレイキーを産んだあと、間もなく亡くなりブレイキーは養母のもとで育てられるがブレイキー自身は物心がつくまでそのことを知らなかったという。学校に進んでピアノを覚えるが中学1年位から収入を得るためプロとしてピッツバーグのクラブでピアノを弾き始める。このクラブで2年ほどピアノを弾いていたが前述のエロール・ガーナーにピアノの座を譲る格好でドラムに転向する。昼間は製鉄所で働き夜はジャズ・クラブで演奏するという生活を続けドラミングは演奏中に身につけた。ブレイキーは既に15歳の時には結婚し子供もできて家族のために懸命に働いていたため、少年らしい時代は自分にはなかったと回想している。

ドラムの仕事が順調になると先ずはクラブで夜明けまで演奏し、朝になるとブレックファースト・ショーで働き、そのあと午後2時ごろまでジャム・セッションに興じ、3時ごろやっとベッドに入り睡眠そして午後の8時30分にはクラブに行くという演奏づけの日々を過ごす。
このピッツバーグ時代にブレイキーは先輩格のケニー・クラーク(ds, 1914~1985 71歳没)からアドヴァイスを受けていたそうである。
1939年、19歳の時には自分のバンドを持ってウエスト・コースト等で演奏するようになるが、1942年メアリー・ルー・ウィリアムス(p, 1910~1981 71歳没)のバンドに加わりニューヨークに進出、その後当時の人気バンド、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に入り1年程バンドのツアーで各地を回る。フレッチャー・ヘンダーソン楽団をやめた後、ボストンでビッグ・バンドを組織するが短期間で解散に追い込まれる。

1944年セントルイスでビリー・エクスタイン・バンドに加わるが、当時のエクスタイン・バンドにはマイルス・デイヴィス(tp, 1926~1991 65歳没)やファッツ・ナヴァロ(tp, 1923~1950 26歳没)、デクスター・ゴードン(ts, 1923~1990 67歳没)と云ったビッグがひしめきあっていて、まさにビ・バップの夜明けを体感する。1944年からバンドが解散する1947年までビリー・エクスタイン楽団で働くが、この時期にガレスピーやパーカー、マイルス、ファッツ・ナヴァロ(tp, 1923~1950 26歳没)、デクスター・ゴードン、サラ・ヴォーン(vo, 1924~ 1990 66歳没)等と出会い交流を深める。

そして1947年の12月、ブレイキーはケニー・ドーハム(tp, 1924~1972 48歳没)やサヒブ・シバブ(reeds, 1925~1989 64歳没)を交えブルーノート・レコードに初レコーディングを行っている。

エクスタイン・バンドが解散してフリーになったブレイキーはアフリカに渡りアフリカン・リズムを体感しジャズとの違いを認識する。
<ジャズはアメリカに住む黒人でなければ生み出せないものだ、ジャズは我々が創った>
ブレイキーは後に大勢のアフリカン・パーカッションを集めてアフリカン・リズムの饗宴とも云える『THE AFRICAN BEAT ART BLAKEY and THE AFRO₋DRUMENSEMBLE』(1962, Blue Note)を録音している。
またブレイキーはアフリカでイスラム教に改宗し、戒名のAbdullah Ibn Buhainaを名乗るようになる。

アフリカから戻ったブレイキーは多くのミュージシャンと共演を重ねるが、とりわけセロニアス・モンク(p, 1917~1982 64歳没)やホレス・シルヴァー(p, 1928~2014 85歳没)とは息が合い、多くのレコーデイング・セッションに加わっている。
モンクとは1947年の『Genius of Modern Music Vol. 1,2』(1947~1952, Blue Note)から参加、『thelonious MONK』(1952~1954, Prestige)『Monk`s Music 』(1957, Riverside)などモンクのエポック・メーキングな作品に単なるドラマー以上の役割で貢献している。このモンクとブレイキーの二人はモンク作品集ともいうべき『ART BKAKEY’S JAZZ MESSENGERS WITH THELONIOUS MONK』(1957, Atlantic )で互いに刺激しあってハード・バップの極をきわめた。

また、ホレス・シルヴァーとも親交を深め『Horace Silver Trio and Art Blakey- Sabu』(1952~1953, Blue Note)をブルーノートに録音し、アルフレッド・ライオンとも親しくしブルーノート・レーベルへの吹込みが多くなる。

そして1954年、ブレイキーは自己のクインテットを結成し世界のジャズ・コーナー(jazz corner of the world)と称されたジャズ・クラブ「バードランド」に華々しくデヴューした。メンバーはブレイキー(ds)、シルヴァー(p)にクリフォード・ブラウン(tp, 1930~1956 25歳没)、ルー・ドナルドソン(as)、カーリー・ラッセル(b)という物すごい顔ぶれであった。
1954年2月21日の夜のセッションは名物司会者ピー・ウイー・マーケットのMC入りで録音、『バードランドの夜、アート・ブレイキー・クインテット』(1954,  Blue Note)として今もなお光り輝いている。

しかし、この時点ではアート・ブレイキー・クインテットと表記されている。
ザ・ジャズ・メッセンジャーズと云うタイトルでのレコーディングは1955年11月にクラブ「カフェ・ボヘミア」に出演した時のライヴ録音『ザ・ジャズ・メッセンジャーズ・アット・ザ・カフェ・ボヘミア』(1955, Blue Note)からである。この時のメンバーは、ブレイキー、シルヴァーにケニー・ドーハム(tp, 1924~1972 48歳没)、ハンク・モブレイ(ts, 1930~1986 55歳)、ダグ・ワトキンス(b, 1934~1962 27歳没)という精鋭たちであった。

そしてホレス・シルヴァーが自己のグループを作るために退団するとアート・ブレイキーはバンド名をART BLAKEY‘S JAZZ MESSENGERSと名乗るようになる。「アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ」の誕生である。
1958年の『MOANIN’』(1958, Blue Note)以降の活躍は日本では全国紙に記事になるなど広く知られている。

ブレイキーは元々ビッグ・バンド出身、ビッグ・バンド・ドラマーとしても素晴らしい成果を残している。ひとつはギル・エヴァンスのオーケストラによる『New Bottle Old Wine』(1958, Pacific Jazz)。冒頭の<セント・ルイス・ブルース>、キャノンボール・アダレイ(as, 1926~1975 46歳没>が耳になじんだW.C.ハンデイ(1873~958, 84歳)のメロディを朗々と噴き上げ、それをギルのサウンドが包み込む。チャック・ウェイン(g)、ポール・チェンバース(b)そしてブレイキーのドラムがバンドを突き上げる。ブレイキーなしでは考えられない極上の美酒が醸造された。

そして、ビッグ・バンドではないがクインシー・ジョーンズがアレンジをした9人編成のミルト・ジャクソン『Plenty  Plenty Soul』(1957, Atlantic)。キャノンボールやフランク・フォスター(ts, 1928~2011 82歳)など名手揃いの5管が濃厚なファンクの香りを漂わせる中をミルト・ジャクソン(1923~1999 76歳没)が水を得た魚のようにすいすいと泳いでゆく。そのグルーヴの源がブレイキーであり、ここではホレス・シルヴァーも一役買っていて、二人でファンクの化身、ミルトに火をつける。

また、早くして母親を亡くし、子供の頃から鉄工所やクラブなどで働いて苦労したブレイキーは人種差別にも苦労を重ねてきたようで1971年の時点で、アート・テイラーに対して如何に黒人が苦しめしいたげられてきたか、そしてブラックの団結の重要性を熱っぽく語っている。

1961年の正月元旦、<モーニン>と<ブルース・マーチ>を引っ提げて羽田に降り立ったブレイキーに待ち構えていた日本のファンが一緒に写真をお願いしたところ俺はブラックだけどいいのかい、と戸惑ったというが、日本に人種差別がないと云うことを感じ取ったブレイキーは以降すっかり日本びいきになり以何度も来日し多くのニュースターを日本に紹介してくれた功績は大きい。

<ドラムを叩けば人間の魂を感じる、それが真実であるならみんな解ってくれる筈だ、これが私のやり方なんだ>アート・ブレイキー

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望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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