Chapter 16.ジョン・コルトレーン

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photo&text by 望月由美
撮影:1966年7月、新宿歌舞伎町にて

YumiJ Essay 16 Coltrane2

 

1966年7月10日、日曜日の夕方、東京・大手町サンケイホール。日本初演直前の夕刻である。10日ほど前にビートルズの武道館コンサートがあり、TVの報道はビートルズ一色でコルトレーンの来日を告げるニュースは殆どなかったがサンケイホールの入場口へとつながる外階段には早い時間から当日券を求めるファンの列が出来ていた。午後6時半、コルトレーンは日本での第一声を放った。小豆色のスーツで登場したコルトレーンはおよそ、一時間半ほどを休みなく演奏を続けた。コルトレーンはほぼ肩幅ほどに足を広げ直立不動で一心不乱にホールを音で埋めてゆく。その音の密度の高さに会場は異常なまでの緊張感につつまれていった。ファラオ・サンダース(ts)を加えたニュー・クインテットのテンションの高さに圧倒されてアッという間にコンサートの終演を迎えたことを今でもはっきりと覚えている。当時のコンサートは二部構成で中間に歌が入り、最後はアンコールで終わるケースが一般的であったが、コルトレーンは一回のステージで全てを出し切るかのように間断なく音を埋めつくしステージを降りた。二日目のサンケイホールの演奏は『セカンド・ナイト・イン・東京』(impulse!)としてリリースされているが初日の演奏は未だに公開されていない。初日の演奏は自分が原体験したという贔屓目を差し引いたとしても日本で初めての音出しにコルトレーンの心境も二日目以降とは違って、より激しい求心力があったような気がしてならない。もう一度聴いてみたい気もするし、そっと記憶の中に留めておきたいようにも思える。今号のJazz Tokyoの表紙の写真はそのときの1966年7月10日、サンケイホールのコルトレーンである。

蒸し暑い夏の一夜、なんとなく胸騒ぎがしてカメラを手に新宿へと出向いた。多分「ポニー」の帰りだったと思う。予感が的中、歌舞伎町のコマ劇場近くの天麩羅屋さんでコルトレーンの一行とぱったりとであった。敬愛の念をこめて挨拶をすると、コルトレーンは優しい眼差しで迎えてくれた。落ち着いた静かな物腰に初対面とは思えない寛ぎを与えてくれる紳士であった。握手をしたときの大きくて分厚い手の温もりが未だに記憶に残っている。写真はそのときのコルトレーンとアリス夫人である。しっかりとレンズを見てくれるコルトレーンの澄んだ瞳は忘れられない。因みに二人の間からこちらを覗いているのはファラオ・サンダースである。コルトレーン夫妻は車で去り、他のメンバーは思い思いに歌舞伎町の闇に消えていった。私はつたない英語でラシード・アリ(ds)に語りかけ、歌舞伎町の街を歩いて「ピットイン」へと案内した。当時、「ピットイン」の司会をしていた相倉久人さんが出迎えて下さりオレンジ・ジュースを振舞っていただいた。ラシードはすぐさま、ドラム・セットに座った。実は、ラシードはエルヴィンよりも先に「ピットイン」で叩いていたことになる。きっちりとしたフォー・ビートを叩いたのにびっくりしたが、後にラシードのキャリアを知り納得した。

当時の日本のジャズ・シーンはアート・ブレイキーに始まりMJQ、H・シルヴァー、ロリンズ、マリガン、ブルーベック、マイルス、エリントン、ベイシー…と枚挙にいとまがないほど続いた海外アーティストの攻勢を傍目に脈々と息づいていた。コルトレーンの来日した66年は、前年(1965年)の暮れにボストンから帰国した渡辺貞夫(sax)が銀座の「ジャズギャラリー8」に出演、また新宿通りマルミビル裏手にオープンした「新宿ピットイン」にも出演するようになり、66年は渡辺貞夫を一つの極としてジャズがアメリカのものから日本のものになりつつあるという状況であった。当時の渡辺貞夫のグループには山下洋輔、菊地雅章、滝本国朗、鈴木勲、富樫雅彦、渡辺文雄など、錚々たるミュージシャンが去来し正に日本のジャズの一つの方向を示すエポックを築いた。新宿では歌舞伎町の「タロー」でも日野皓正やジョージ大塚等々が出演、「DIG」や「木馬」、「きーよ」などのジャズ喫茶の隆盛も相俟って新宿が日本のジャズの核となりつつあった。そして、それを決定づけたのがブレイキー、トニーと共に「三大ドラマー」の公演で来日し、不測の事情で一ヶ月ほど滞在を余儀なくされたエルヴィン・ジョーンズが66年の12月一杯「ピットイン」に連日出演したことであった。山下洋輔をはじめ、武田和命など多くの日本のミュージシャンがエルヴィンとセッションを重ね、新宿=ジャズという図式が出来上がったのである。
その翌年、多分、1967年7月17日の月曜日の夜遅く、新宿東口二幸(現アルタ)裏の四階建ての小さなビルの三階。プレイボーイ誌の見開きヌード写真が無造作に貼られた狭い石の階段を上ってゆく。エレベーターは無かった。「DIG」の扉をそっと開ける。小学校の机のような小さな四角いテーブル、硬い木製の椅子。はがねの様に硬い音の塊がジャズの醍醐味を倍加してくれる。アーチー・シェップかマリオン・ブラウンか、その時かかっていたアルバムは失念したが、突然、音が止まった。一瞬の沈黙の後、中平さんの声がきこえた。“ジョン・コルトレーンさんが亡くなりました。たった今知らせが届きました。”中平さん独特のやや細身の優しい声だった。部屋の空気は止まった。再び「DIG」の音に戻るまでの10秒か20秒が恐ろしく永く感じられた。
「DIG」では中平さんが撮影された1966年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルのコルトレーンの8ミリ・カラー・フィルムの上映会がしばしば催された。無声の映像なので、中平さんは映像に『ヴィレッジヴァンガード・アゲイン』(impulse!)の音を重ね合わせるという妙案でDIGのファンにニューポートのコルトレーンを追体験させてくれた。
ジャズがもっとも過激で革新的であった60年代を牽引し駆け抜け、40歳という若さで昇天したジョン・コルトレーン。7月17日には決まって『Crescent』(impulse!) を聴くことにしている。

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望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

One thought on “Chapter 16.ジョン・コルトレーン

  • 稲岡編集長
    2016年8月6日 at 12:43 PM
    Permalink

    予感が的中、と言ったって、コルトレーン夫妻と「歌舞伎町のコマ劇場近くの天麩羅屋さんで」バッタリ出会うなんて、これは望月さんのコルトレーンに対する強い思いが通じたのでしょうね。
    僕も、マンハッタンの寿司屋でジャコ・パストリアスとばったり出会いましたが、これは ワード・オブ・マウスのサヴォイでのデビュー当日、劇場に隣接する寿司屋でしたから、偶然とはいえたいしたもんじゃないっす。

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