Chapter 15.ダンケ:梅津和時・原田依幸

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photo&text by 望月由美
撮影:2009年8月1日、新宿PITINNにて

1980年3月、ヨアヒム E. ベーレントが日本にやってきた。10月のドナウエッシンゲン音楽祭“日本ジャズの夕べ”を企画し、その出演者を選考しに来日したのだ。当時の日本フォノグラム、児山紀芳さんが全面的に協力をすることになってメンバーの人選についてご相談をいただいた。私は躊躇なく梅津和時と原田依幸を推薦した。結果、梅津・原田は日本フォノグラムのスタジオでデモ・セッションをすることになった。二人が一音発したとたん、ベーレントの顔に笑みがこぼれ、直ぐOKサインが出された。今回のJazz Tokyoの表紙はその時のベーレントと二人の記念すべき写真である。

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事の発端は1971年に起こる。梅津と原田は国立音大・クラ科の同級生であった。梅津は宮城県仙台市の出身、原田は島根県大社町の出身。二人は下宿先も一緒で、なんとはなしにクラやバスクラ、サックスで音を出し合った。テープに録っては、聞きかえし、自分達の思い描く音を創り上げていった。原田は子供の頃からクラを吹いていた。大学3年の頃にはもう、学ぶことはない、と国立音大の先輩、山下洋輔のプレイを始めジャズの生演奏ばかりを聴いていたという。その頃の山下さんは超スピードで凄かったんだぜ、と云う。クラ科を主席で卒業した原田は故郷、大社高校の音楽教師になるべく帰郷した。が、一週間で、教員職は自分には合わないと退職届けを出し共に下宿していた梅津の元に帰ったという。梅津もさぞかしびっくりしたことだろう。こうして二人は生活向上委員会と銘打ち活動を始めたのである。
それから数年後の1974年、梅津は当時アメリカに住んでいた兄を頼って新婚旅行にウエスト・コーストに行くが、現地で新妻を日本に返し自分は単身ニューヨークへ飛んだ。ニューヨークに着いて、先ず、植草甚一さんがよく本に書いて紹介していた、日本人がよく泊まるということで知られているホテルの前にたって、さてどうしようかと迷っていたら、まさににその時、ホテルの中から中村達也(ds,per) が出てきて甚一さんの話しは本当だったんだ、と感心したという。行動力と冒険心に溢れる梅津はとりあえずそのホテルに数日滞在し、直ぐに下宿先を決めニューヨークのロフトに飛び込みアルトを吹きまくったそうだ。ニューヨーク生活に慣れると直ぐ梅津は原田に葉書をだした。文面はただ一言<ニューヨークのビールはウマイぜ>。すると、手紙の返事のかわりに原田本人がニューヨークに来てしまったという。ニューヨークに着いた原田は先ずセシル・テイラーを3日間立て続けに聴きに通い、その後の3日間は何もする気にならず、ただごろごろしていたそうだ。余程の集中力で聴いたのだろう。因みに原田のご子息の名前は世知と書いてセシルと読ませると聞いている。
一方の梅津はニューヨークに溶け込めば溶け込むほど、ジャズは何を演ってもいいんだ、民謡でも童謡でも、勿論フリーでも、とにかく何でもありと感じてきたようである。その後の梅津の行動がそれを裏付けている。二人は生活向上委員会ニューヨーク支部を名乗りロフトでセッションを繰り返し、ニューヨークのミュージシャンとの交流を深めた。
1975年8月、アーメッド・アブダラー(tp) やウィリアム・パーカー(b) 等とSTUDIO WEで自主レコーディングを果たす。その時のアルバム『SEIKATSU KOJYO IINKAI』(SKI-001)を手土産に帰国、そのLPを一枚2000円で売り、売れると二人で1000円ずつ分けていたそうだ。帰国後の二人は八王子「アローン」を拠点に活動を始める。二人は森順次(as)、加藤博俊(ds) (後に菊地隆に代わる) とともに「集団疎開」を組織、1976年3月には高田馬場「ビッグボックス」で1stコンサートを開く。このときの主催者は間章さんであった。

八王子「アローン」は1977年8月で店を閉じる。そしてそのさよならコンサートで「生活向上委員会大管弦楽団」が産声を上げる。1978年の日比谷サマーフォーカス・インで大暴れ、1979年に入ると京大・西部講堂でのコンサートを朝日新聞がとりあげ、東京12CH「青春日本列島」、TBS-TV「土曜ドキュメント」、読売TV「11PM」、「題名のない音楽会」、そしてNHK-TV「若い広場」と、わずか半年の間でジャズ・シーンでは考えられないほどの脚光を浴びたのである。
しかし、マスコミが騒ぐのをよそ目に梅津、原田は醒めていた。二人が出会った当時の自己表現への情熱をすべてに優先したため、マスコミに泳がされることはなく、着々と自分の進むべき道を切り開いていた。
こうした状況下でのヨアヒム E. ベーレントの来日であった。私は人気絶頂の「生活向上委員会大管弦楽団」を推そうかと一瞬迷ったが、やはりドナウエッシンゲンにはそのエッセンスとなる「梅津・原田」のデュオがふさわしいと考えたのである。梅津・原田の両人も「よし、やろう」、と腹を決めてくれた。
1980年10月18日、ドナウエッシンゲンの会場での一音は原田の<Bitte>から始った。透徹した原田のピアノ・ソロから始まり、やがて梅津がアルトで絡む。二人のヴォルテージは異様に高かった。二人の緊張が高みに達した時、二人は突然唄を歌い始める。完全な即興による<Danke>である。ここで持ち時間は終了するが興奮した会場からは口笛がなり、アンコールの拍手が鳴り止まなかった。このときの模様は当初『梅津和時+原田依幸/ダンケ』(日本フォノグラム)としてLPで発表されたが、2004年にポリスターによりCD化されている(「70年代日本のフリージャズを聴く!」 第3期/MTCJ-5531)。
今回の写真は大成功裏に帰国した二人のピットイン「ドイツ・帰国セッション」からの一葉である。
二人はその後、絶頂期にあった「生活向上委員会大管弦楽団」を突然解散し、二人は別々の道を歩むことになる。梅津和時は「どくとる梅津バンド」をへて現在は「KIKI BAND」や「こまっちゃクレズマ」等で活動するほか、アケタの店から始った「大仕事」、木村充揮のナット・キング・コール集やビリー・ホリデイ集 (江戸屋) をプロデュースするなど外に向かって開かれた活動を行っている。
一方の原田は1981年、豊住芳三郎(ds)、望月英明(b)、初山博(vib)とユニット「新選組」を組織し文字通り新鮮なフリー・ミュージックを展開、アルバム『MIU』(日本コロムビアYF-7040N)を残す。一時ライヴ・シーンから遠ざかっていたこともあるが 2003年に旧友松風鉱一(reeds)とデュオ・アルバム『無明』(オーライJMCK-1017)を発表、またアンドリュー・シリルとの『イヒヤン』(アケタズ・ディスクMHACD-2505)、鈴木勲(b)との『FDS』(アケタズ・ディスクMHACD-R2302))、トリスタン・ホンジンガー(b)との『マージナル』(メタカンパニーon-61) などの作品を発表 、一触即発の即興の世界に力を注いできた。近年はアケタの店をホームに自己のカルテットで昔と変わらない求心力を持続している。
全く方向性が変わり、このところ接点がないままに活動を続けている二人だが何時の日か、また二人がデュオで世間を驚かしてくれる日が来ないものか奇蹟を願っている。
(初出:Jazz Tokyo No.161  2011年6月26日更新)

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望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

One thought on “Chapter 15.ダンケ:梅津和時・原田依幸

  • 2016年8月6日 at 9:14 PM
    Permalink

    「全く方向性が変わり、このところ接点がないままに活動を続けている二人だが何時の日か、また二人がデュオで世間を驚かしてくれる日が来ないものか奇蹟を願っている。」という2011年6月の筆者の願いが5年ぶりに実現するのですね!

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