Chapter 45 ポール・デスモンド 

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photo & text by Yumi Mochizuki  望月由美
撮影:1964年5月9日、東京サンケイホールにて

YumiEssay2

オードリーというブルーベックとデスモンドの二人がつくった曲がある。
演奏は1954年10月、ニューヨークのクラブ「ベイズン・ストリート」。

この僅か3分半ほどの曲の中にポール・デスモンドの魅力のすべてがつまっている。
甘いセンチメンタルなメロディー・ラインから一気に高い音域に移る時の刺激的な倍音の色香こそがポールの真髄、いつになく典雅なブルーベックのイントロも素晴らしい。

映画「ローマの休日」で一躍ハリウッドのスターとなったオードリー・ヘプバーンが森の中を歩いているシーンを想い浮かべてブルーベックが曲の導入部を弾きポールがそれを発展させてこの世のものとは思えないロマンティックなバラードに創り上げたのである。

ポールはヘプバーンの大のファンだったそうでポールの気持ちのこもったソロは胸につまるように響いてくる。

ちなみに後にこの演奏がCD化されたときに演劇関係の人がこのことを知りヘプバーンにこのCDを送ったところ、ヘプバーンがとてもこの曲を気に入って毎晩寝る前に聴いていたという話が残っているが皮肉にもポールは終世このことを知らなかったそうだ。

ポール・デスモンドの音色、サウンドはパーカーでもなければコニッツでもない、ベニー・カーターとも違う、バド・シャンクやレニー・ニーハウスでもない。

ステージでエリントン・ナンバーを演奏するときはホッジスのフレーズを引用することもあるが勿論ジョニー・ホッジスとも違う。

ただ、ライオネル・ハンプトン・オールスターズの『ジャスト・ジャズ・コンサート』(MCA、1947)<スター・ダスト>のウイリー・スミス(as)のすすり泣くような音色に一瞬近いものを感じることがある。

ポール・デスモンドは1924年11月25日カリフォルニア州サンフランシスコで生まれる。

本名はポール・エミル・ブライトンフェルド。
プロの道を歩み始めたころ、このユダヤ系とすぐわかるエミル・ブライトンフェルドという名前をデスモンドに変えた。

ポールは周囲の人には電話帳をめくってこの名前を探し出したと云っているが、あるとき、たまたまデスモンドという名前の女性の歌い手を聴いて、デスモンドという言葉の響きが気に入ってつけたという説もある。

父親はショー・ビジネスの世界でアレンジャーとして幅広く活躍していた人で家ではいつもリハーサルが行われるなど音楽が溢れていたそうである。子供の頃のこうした環境がポールの音楽の感覚を研ぎ澄ます上で役にたったようである。

1933年、9歳の時、母親が病気になったことなどから3年程ニューヨークの親戚の家で過ごす。ニューヨークの小学校に入りそこで学校のバンドに加わりシロフォンなどの楽器にふれ、また週に一度ピアノのレッスンを受けるなど音楽への道を歩み始める。

3年後ニューヨークからサンフランシスコに戻り1937年ハイスクールでクラリネットを始める。クラでアーティー・ショー(cl)やハリー・ジェームズ(tp)などを採譜して吹いていたという。
トランペットのパートをクラで吹くというのはちょっと変わっているがこうしたことが後のポールの独特の音色を生み出す要因の一つかもしれない。
また、父親から和声など音楽の基礎を教わる。
その後アルトを手に入れ17歳の頃にはダンス・バンドでリード・アルトを吹いていた。
大学はサンフランシスコ州立大学に音楽専攻で入学したが、作家になることが夢だったポールは直ぐに専攻を文系にかえる。
作家志望ということもあってかポールはアルバムのライナー・ノーツをよく書いている。本稿もポールのライナー・ノーツによるところが多い。

ポール・デスモンドの音楽人生はデイヴ・ブルーベックとの共同作業が起点となっている。ブルーベックは1920年生まれ、ポールは1924年生まれでちょうど4歳差の兄弟のような関係だったようである。
規律正しい学者風のブルーベックに対しちょっと斜に構えた文学青年風のポール、なにかとやっかいな問題をなげかけるポールをブルーベックは穏やかになだめて良好な関係を築き1951年から1967年までデイヴ・ブルーベック・カルテットで一緒に演奏、その後も折にふれて共演している。
ポールは一度結婚しているが直ぐに別れ独身貴族、ブルーベックは家を訪ねてくるポールを家族ぐるみで温かくもてなしたそうである。

ブルーベックとの出会いは1943年、19歳の時ポールは軍隊に入りそこのアーミー・バンドでデイヴ・ヴァン・クリード(ts)と知り合い、そのヴァン・クリードの紹介でデイヴ・ブルーベックと出会っている。

除隊後の1946年に二人は再会し一緒にセッションを行うなど親交を深めてゆきポールはブルーベックのオクテットに参加することになる。ヴァン・クリードも一緒でファンタジーに『DAVE BRUBECK OCTET』(FANTASY、1946~1950)を録音している。
そして1951年から1967年までの足かけ17年ブルーベック・カルテットに加わり次々とヒット作を創ることになる。

個人的には初期の『BRUBECK TIME』(COLUMBIA,1954)やディズニー・ソングを演奏した『DAVE DIGS DISNEY』(COLUMBIA、1957)が好きであるが一般的には変拍子を取り入れた『TIME OUT』(COLUMBIA、1959)の<TAKE FIVE>が爆発的なヒットとなった。

あるとき、ステージの裏でジョー・モレロ(ds)が、5拍子で叩いている時、それに合わせてポールがアルトを吹いているのを聴いたブルーベックがポールにそれを曲にしてみないかと誘いその結果できた曲が<TAKE FIVE>だという。

変拍子ジャズはジョー・モレロのドラムによるところが大きいが、ジョーをカルテットに推薦したのはポールである。
マリアン・マクパートランド(p)のトリオでジョー・モレロがブラシでおとなしくリズムを刻んでいるところを聴いたポールがブルーベックに推薦して加入したという。
しかし、実際に入団してからのジョーはスティックは使うしポールのバッキングでのオカズも多くなり、ポールはジョーを外してくれとブルーベックに頼んだこともあるらしいが、ジョーを気に入ったブルーベックは聞き入れなかったという。
こういった気難しさもポールにはあったようである。

ブルーベック・カルテットを引退してからのしばらくはCTIなどのレコーディングをのぞいてはほとんど演奏活動をせず引退同様となり、ニューヨークのアパートで一人住まいを楽しんでいたようで、作家たちがあつまる喫茶店で談笑を楽しんでいたようである。

ブルーベックとは人間関係のごたごたでやめた訳ではなく、ツアーに次ぐツアーという余りの忙しさゆえの退団だったのでカルテットをやめたあともスポット的には二人はしばしば共演していて、1972年秋にはジェリー・マリガンとポールの2管+ブルーベック(p)、ジャック・シックス(b)、アラン・ドウソン(ds)というクインテットでヨーロッパ・ツアーに加わっている。このヨーロッパ・ツアーでは『We’re All Together Again for the First Time』(Atlantic,1972)がライヴ・レコーディングされている。

ポールはまたジム・ホールとも親しく友人付き合いをしていた。
ジム・ホール(g)とは1959年雑誌「PLAYBOY」の人気投票で一位になったことを記念して制作された『First place Again!』(Warner, 1959)で共演する。
このときのメンバーはポールとジムのほかパーシー・ヒースのベースとコニー・ケイのドラムスというMJQのリズムというピアノ・レス・カルテットで、この後のポール・デスモンド・カルテットの原型となる。
その後RCAで1961年から64年にかけてジム・ホールと何度かレコーディングを重ね『Take Ten』『Glad To Be Unhappy』『Easy Living』『Bossa Antigua』の4枚のアルバムとして発表されている。

自分のバンドを結成する際にはジム・ホールのアドヴァイスによりエド・ピケット(g)を加えたピアノ・レス・カルテットを編成、1975年にはカナダのジャズ・クラブ「バーボン・ストリート」に出演して『The Paul Desmond Quartet Live』(Horizon,1975)がライヴ・レコーディングされている。このアルバムには収録されていないがバーボン・ストリートでは<オードリー>も演奏したようである。
ポール・デスモンドはCTI、クリード・テイラーの企画ものをのぞけば自分のグループを含めてデイヴ・ブルーベック以外のピアニストと演奏した作品を残していない。

ポールがブルーベック以外のピアノとの共演を好まなかったのか、ブルーベックが自分以外のピアニストとの共演を禁じたのかは定かではないが、あたかもピアニストとは共演しないという不文律があるかのようにピアノ・レスを貫いた。

そのピアノ・レスの元祖マリガンとの相性もよかったようで、ポールとマリガンはアルトとバリトンの2管にベースとドラムというピアノ・レスのカルテットでVERVEとRCAに一枚ずつ録音している。

マリガンは外交的というかオープン・マインドな心の持ち主でスタン・ゲッツ(ts)、ジョニー・ホッジス(as)、ベン・ウエブスター(ts)、スコット・ハミルトン(ts)など多くのサックス・プレイヤーとの交歓をアルバムにしている。

一方のポールはマリガン以外のサックス奏者との共演盤は残していない。
ポールが唯一こころを開いたのがマリガンだったようで2枚ともとてもインテイメイトなムードが漂うなかをポールがのびのびと心をときはなって手の内のもてる術をすべて出してマリガンとのバトルを楽しんでいる。
ピアノはブルーベックだけ、サックスはマリガンだけというところにポールの一途な性格が現れている。

ポールのちょっと取り澄ましたようなポーズを取り払って素顔でアドリブに打ち興じるシーンはポールの多くの作品のなかでもマリガンとの共演の中にしか見いだせない。
とりわけVERVEの『BLUES IN TIME』(VERVE,1957)でのポールの自作曲<WINTER SONG>は前述の<オードリー>をより深化させたような滋味深いバラードで、なんど聴いてもおだやかなくつろぎが得られる。

ポール・デスモンドがサンフランシスコを中心にミュージシャンとして活動し始めたころはチャーリー・パーカーの全盛時代であり、ポールもバップの洗礼を受けたひとりであるが、ポールはパーカーとはスタイルも音色も違った道を歩み、パーカーとは違った洗練されたスタイルは徐々にジャズ・シーンで認知されていった。

しかしパーカーとポールはそのスタイルの相違などから水と油のように思われがちであるが、実際には当の二人は仲が良くてパーカーとブルーベック両グループのパッケージ・ツアーで一緒になった時などパーカーはポールのことをポーリーと呼んで親しくし、自分の楽器の調子が悪い時などポールの楽器を借りて吹いていたという話もあるし、ポールがパーカーのフレーズを引用して吹いて周囲を驚かせるというようなこともあったようで、1954年にはポールはボストンのラジオ局で番組のホストをつとめパーカーへのインタヴューを行い、パーカーからガレスピーやマイルスとの出会いや今後の音楽への取り組み等について話を聴きだしている間柄であったが、残念なことにパーカーはその一年後に亡くなっている。

1975年6月ポールはブルーベックと共にカリブ海のジャズ・クルーズに加わり、S.S.ロッテルダム号という船上でのコンサートでデュオを演奏したが、二人はこの時の演奏がとてもしっくりと気に入ったのでクルーズから戻ってすぐにデュオのレコーディングを行う。
デュオ・アルバム『1975:THE DUETS BRUBECK & DESMOND』(Horizon、1975)には<不思議の国のアリス>や<スター・ダスト>など二人の想い出の曲をしっとりと演奏している。

この頃、ポールは肺がんの宣告を受ける。お酒が好きで大変なヘヴィー・スモーカーのポール、51歳であった。

その翌年の1976年春にはデイヴ・ブルーベック・カルテットの結成25周年リユニオン・バンドに参加、ブルーベック、ポールにジョー・モレロ(ds)、ジーン・ライト(b)の4人で全米ツアーを行い<セントルイス・ブルース>や<テイク・ファイブ>などこれまでに何度となくライヴで演奏してきた18番ナンバーを再演しファンを楽しませながらメンバー4人も楽しんでいる様子が『Dave Brubeck Quartet 25th ANNIVERSARY REUNION』(Horizon,1976)に収められている。

1977年に入院、病室にはチャールズ・ミンガス(b、1922.4.22~1979.1.5)が見舞いに来ていたという。
ミンガスは高校時代からの友人でチェス仲間だったという。

1977年5月30日、52歳という若さでポール・デスモンドは亡くなった。
作家を夢見ながらアルトを吹き続けたポールのうつむき加減で所在なさそうに眼鏡のふちを押さえるしぐさは今でも鮮明に瞼に残っている。
ポールのフレーズをなぞらえるミュージシャンは結構いるがポールのニュアンスまでも引き出すことは出来ない。
常に唯一無二の存在であり続けたポールの音は永遠に不滅である。

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望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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