Chapte 46 ジャッキー・マクリーン 

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photo&text by 望月由美

撮影:1964年11月7日、有楽町ヴィデオホールにて

ジャッキー・マクリーン (as)、ベニー・ゴルソン (ts)、ケニー・ドーハム(tp)、フレディー・ハバード (tp) そしてシダー・ウォルトン (p)、レジー・ワークマン (b)、ロイ・ヘインズ (ds) のリズムという、いま思えば夢のようなオールスターが客席400余りの落ち着いた小ホールのステージに立った。

「1964;JAM SESSION」と銘打ったコンサートがジャッキー・マクリーンの初めての来日ステージである。

マクリーンはこれ以降20回ほど来日する親日家になるが、この時はかなり緊張気味な表情を見せてステージに立った。

しかし仲のよいケニー・ドーハムが隣に立っていつもながらの流麗なソロをとるにつれて硬さもほぐれて、耳なじみのマクリーン節が会場に響きわたった。

生のマクリーンはジャズ喫茶で聴くブルーノート盤のハードボイルドな硬さはなくむしろソフトでなめらか、スムーズできれいなサウンドだったことが耳に残っている。

流れるように湧き出るフレーズ、中音域から高音にかけ上がってゆく瞬間の音色にはまぎれもなくマクリーンの色香がたちのぼっていた。

日本では<レフト・アローン>のマクリーンが特に親しまれている。

アルバム『レフト・アローン』(BETHLEHEM  1960) はビリー・ホリデイ (vo)  の亡くなる前の2年半ほどを一緒に演奏してきたマル・ウォルドロン (p) がビリーを偲んでトリオで録音したもので 、<レフト・アローン>一曲だけにマクリーンがゲストとして参加したものだが、この一曲がマクリーンの愛好者を増やしたといえる。

マクリーンというと『SWING SWANG SWINGIN’』(Blue Note 1959) に代表されるワン・ホーンによる唄ものをイメージされる方も多いが、意外にもトランペットとの2管の相性がいい。

マクリーンはニューヨークでパーカーとリアル・タイムで接していた。

パーカーがディズ、マイルス、ケニー・ドーハムといったトランペットとの2管で演奏しているのを聴いていたことが影響したのかもしれないし、ハード・バップ前夜の50年代中頃のジャズ・シーンはトランペットとサックスの2管が主流であったのかもしれない。

マクリーンはビル・ハードマン、ドナルド・バード、ケニー・ドーハム、アート・ファーマーそして御大マイルス・デイヴィスまで多くのトランペッターと共演している。

ビル・ハードマンはアート・ブレイキー (ds) のジャズ・メッセンジャーズで56年から58年ごろまで行を共にし、その間チャーリー・ミンガスのジャズ・ワークショップなどでもマクリーンと一緒に演奏している。

マクリーンとは2歳年下 (1933~1990) で、とても気が合っていたようで56年に『ジャッキーズ・パル/イントロデューシング・ビル・ハードマン』(PRESTIGE 1956) でプレスティッジ・デビューさせている。プレスティッジ・レコードの創業者ボブ・ウェインストックが自ら撮影したジャケット写真のマクリーンとハードマンが肩を組み合って笑っているショットは二人の仲の良い関係を素直に映し出していて演奏とジャケットがジャスト・マッチングで印象に残っている。

ほぼ同じ時期にマクリーンはドナルド・バードとも一緒のシーンが多かった。

ドナルド・バードはマクリーンの一歳年下(1932~2013)で、アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズやジョージ・ウォーリントン・クインテットで共演するかたわら、プレスティッジの数枚のアルバムでマクリーンによりフィーチャーされている。

マクリーンとD.バードの共演アルバムの中では『4,5 AND 6』(PRESTIGE 1956) の<センチメンタル・ジャーニー>がポピュラーであるが、個人的には『LIGHT OUT!』(PRESTIGE 1956) の表題曲<ライツ・アウト>のスロー・ブルースが好きだ。

いま頂点に上り詰めるまさにその瞬間の演奏にはマクリーンのエッセンスが凝縮して詰め込まれているからである。

また、ドナルド・バードがリーダーとなった二人の共演盤『FUEGO』(BLUE NOTE 1959) はジャズ喫茶全盛期のヒット・アルバムでジャズ喫茶に行けば必ずといっていいほどA面がかっていたことを憶えている。耳が痛くなるほどの大音量でこのファンク・ナンバーを聴くと思わず気恥ずかしさで身を縮め、それとなく辺りを見回すと、周囲の人たちが頭を下げて音の世界に没入する光景が広がっていた。以来このアルバムは自室でかけることを封印してきたが今回久しぶりに聴き直して改めて二人のソロの凄さを実感した。

ジャッキー・マクリーンは 1931年5月17日 ニューヨーク、ハーレムに生まれ育った生粋のニューヨーカーである。

父親がタイニー・ブラッドショーのバンド等でプレイするギター奏者だった関係で子供のころからジャズにふれ合っていた。

マクリーンの住むハーレム近辺には同い年のリッチー・パウエル (p) や一つ年上のソニー・ロリンズ (ts)、2歳年上のアート・テイラー (ds)、3歳年上のケニー・ドリュー (p) 等々後にジャズ・シーの一線で活躍するミュージシャンのたまごが沢山いるというジャズ・ミュージシャンになるには恵まれた環境で育っている。

14歳の時にマクリーンの名付け親とされる人からソプラノ・サックスをプレゼントされサックスの練習を始める。

本人はテナーが吹きたかったと伝えられているが15歳の誕生日に母親からアルト・サックスをプレゼントされアルトを始める。

高校はハーレムのベンジャミン・ハイスクールに進学し、そこでソニー・ロリンズ (ts) やアート・テイラー (ds) とバンドをつくって演奏を始めている。

このころリッチー・パウエルとも親しくなり、リッチーを通じて知り合ったリッチーの兄バド・パウエルにジャズの手ほどきを受ける。

また、バド・パウエルの紹介でパーカーやマイルス、モンク等の一線で活躍しているミュージシャンとも知り合う。

1951年の冬バド・パウエルの推薦によりマイルスのグループに入り「バードランド」に出演する。マイルス、ロリンズ、マクリーンの3管にケニー・ドリュー (p)、パーシー・ヒース (b)そしてアート・ブレイキー (ds)というビッグ・ネームに囲まれてのデビューであった。

それから1955年迄はマイルスと行を共に過ごすことが多くなり、夏の間はよくマイルスやロリンズ、ケニー・ドリュー、ウオルター・ビショップ、アート・テイラーたちとセント・ニコラス近辺の広場に座り込んだり、たむろしたりしていたという。

1951年の10月5日、マイルスの有名な『DIG』(PRESTIGE 1951) のセッションに参加する。この時のメンバーはマイルス、マクリーンのほかロリンズ、ウォルター・ビショップ・ジュニア (p)、アート・ブレイキー (ds)というそうそうたる面々であった。

このとき、チャーリー・パーカーがスタジオにやってきてコントロール・ルームで聴いていたのでマクリーンは気持ちを取り乱してしまったがパーカーがマクリーンに励ましの言葉をかけてくれてマクリーンもやっと落ち着いて良い演奏ができたとマイルスが回想しているし、ミンガスも来て一曲だけピアノを演奏している。ハード・バップ創世前夜のニューヨークの凄さを感じる。

ちなみにマイルスの曲<DIG>はマクリーンの作曲という説もある。

マイルスとはブルーノート・レーベルに1952年から54年の間に3回レコーディングを行い、『MILES DAVIS VOL.1,2』(BLUE NOTE 1952~54) として発表されている。

1955年の8月、ミルト・ジャクソン (vib)をフィーチャーした『MILES DAVIS AND MILT JACKSON』(PRESTIGE 1955) のレコーディング以降オフィシャルなアルバムでの二人の共演はない。

マクリーンはこのころ、ジョージ・ウォーリントン (p) のクインテットにも参加しカフェ・ボヘミアなどに出演し1955年9月『Live! At Café Bohemia』(PRESTIGE 1955) をライヴ・レコーディングしている。このときのフロントはマクリーンとドナルド・バードであった。

そして55年10月にファースト・アルバム『The Jackie McLean Quintet』(Ad Lib 1955)をレコーィングする、マクリーン24歳の時である。

このあと、マクリーンはアート・ブレイキー (ds) のジャズ・メッセンジャーズに加わり目覚ましい活躍をかさね、脚光を浴びる。

ジャズ・メッセンジャーズ時代には56年12月に『Art Blakey And The Jazz Messengers』(Columbia 1956) など多くのアルバムを録音している。

そして57年2月にパシフィック・ジャズに『RITUAL』(Pacific Jazz 1957) のレコーディングを行う。パシフィック・ジャズにアート・ブレイキーというのは場違いな感じがするが、実はコロンビアがチェット・ベイカーのアルバムを出したくてチェットが所属していたパシフィック・ジャズのリチャード・ボックにブレイキーとチェットのスワップを申し出て実現したもの。

また、マクリーンはミンガスのワークショップにも参加している。

『直立猿人』(ATLANTIC、1956) でのマクリーンの類人猿の叫び声のような咆哮は初めて聴いた時にはびっくりした。また、59年2月の『ブルース&ルーツ』(ATLANTIC 1959) ではワークショップの全員がブルースの化身となってブルースの根っこを熱っぽく説き明かした。

特にこの中の<水曜の夜の祈りの集い>でジョン・ハンディ (as)、ブッカー・アーヴィン (ts)、ペッパー・アドムズ (bs)、ジミー・ネッパー (tb)、ウイリー・デニス (tb)という腕利きフロント陣が集団即興的に咆哮するリフの中からクリアに浮かび上がるマクリーンはしっかりと存在感を示していていま聴いてもスリルがある。

ケニー・ドーハム (tp) も最もマクリーンとのコンビネーションがよかったトランペット奏者の一人である。

マクリーンとケニー・ドーハムは1960年代の前半、双頭グループを組み活動していたが早くからハード・バップをくぐり抜け、そこにナイーブな感性をつけくわえた二人の演奏は当時のファンキー・ジャズのなかではその清涼な香りが一段と際立っていた。

二人のコンビは長くは続かなかったがサンフランシスコのジャズ・ワークショップにおけるライヴ『INTA SOMETHIN’』(PACIFIC JAZZ 1961) と『マタドール』(UNITE 1962) の2枚の作品を残している。

特に『マタドール』ではケニー・ドーハムの<エル・マタドール>、マクリーンの<メラニー>という二人の代表曲がとりあげられ、それぞれが極め付きの演奏をしているところが素晴らしい。

このアルバムをプロデュースしたアラン・ダグラスは1962年からユナイトでブレイキーの3管メッセンジャーズ『スリー・ブラインド・マイス』、エヴァンス&ホールの『アンダーカレント』、エリントン、ミンガス、ローチの『マネー・ジャングル』等々を制作し、60年代初頭のジャズの遺産を残してくれたその功績は大きい。

また、1959年ごろからマクリーンは『ジャッキーズ・バッグ』(BLUE NOTE 1959) をはじめとしてブルーノート・レーベルで次々とアルバムを発表する。

1962年、ジャッキー・マクリーンはグレイシャン・モンカー3世 (tb)、ボビー・ハッチャーソン (vib) 等とコンビを組み、かなりフリーよりの過激な演奏を試みるようになる。

その起爆剤となったひとつがトニー・ウィリアムス (ds) である。

1962年にニューヨークにやってきたトニーの才能をいち早く見出しグループに入れて存分に叩かせマクリーンも大いに刺激をもらったのである。

トニーを入れた成果は『ワン・ステップ・ビヨンド』(BLUE NOTE 1963) に記録されているが、ここでのマクリーンはトニーの刺激によって徹頭徹尾、過激である。

マクリーンのグループでのトニーを聴いたマイルスは即座にトニーを自己のグループに加え63年5月『天国への七つの階段』(CBS 1963)を録音、7月にはフランス、アンティーヴ・ジャズ祭に出演するなどトニーはマイルスのニュー・クインテットの原動力となった。

マクリーンのフリーへの接近は『LET FREEDOM RING』(BLUE NOTE 1962) あたりから始まり、1967年にはオーネット・コールマンと共演し『NEW AND OLD GOSPEL』(BLUE NOTE 1967) を残している。オーネットはここではトランペットを吹いている。

マクリーンはまたデンマークのニルス・ウインターとも交流を深め、70年代の中頃までニルスのレーベル、スティープルチェイスに沢山のレコーディングをしているが、73年7月にコペンハーゲンのカフェ・モンマルトルを訪れた際には幼い頃のニューヨーク時代からあこがれの人であったデクスター・ゴードン (ts) と共演し『THE SOURCE』 『THE MEETING』(Steeplechase 1973) などを残している。

そして1977年4月、マクリーンはアート・ファーマーとの双頭クインテットでも来日している。

アート・ファーマーとは泣く子も黙るジャズ喫茶の定番アルバム『COOL STRUTTIN’』(BLUE NOTE 1958) で共演、ソニー・クラーク (p) の親しみやすいメロディーをアート・ファーマーが端正に吹き、続くマクリーンが浪花節的な義理と人情を吹き上げるというコントラストが面白く大人気で、それ以来二人のコンビは続いていたのである。

マクリーンは1988年8月にも来日しMt.フジ・ジャズ・フェスティヴァルに出演した。エア・チェックのビデオが残っていたが、ヨットが波を切って行き交い、まるで「真夏の夜のジャズ」さながらの山中湖畔の特設ステージに登場、ウォーレス・ルーニー (tp)、ホレス・パーラン (p)、ピーター・ワシントン (b)、ケニー・ワシントン (ds) という当時の精鋭を揃え、威勢のよいネオ・バップ的な演奏を聴かせてくれた。

また、別のステージでは渡辺貞夫 (as) とアルト・マドネスを展開、生まれも育ちもパーカー派の二人はバードゆかりの<コンファーメーション>や<デクスタリティ>を気持ちよさげに吹き上げた。

2人の息子ルネ、ヴァーノンそして愛娘メラニーの3人の子供に恵まれ、とりわけマクリーンは愛娘メラニーをとても可愛がっていたという。

マクリーンの代表曲<メラニー>はそのメラニーに捧げたものである。この曲を吹くマクリーンは純で真っすぐである。とりわけ『マタドール』では<メラニー・パート1,2,3>と組曲風に演奏され、いかにマクリーンが彼女を可愛がっていたかが伝わってくる。

息子のルネ・マクリーン (ts,reeds) はロリンズやジョージ・コールマンに手ほどきを受けてテナー奏者となり『New York Calling』(Steeplechase 1974) などで共演、また親子で来日したこともある。

マクリーンは演奏活動と並行して教育にも力を入れ1970年代はハートフォード大学の音楽インストラクターを務め、1980年ごろにはハートフォード大学の「アフリカン‐アメリカン・ミュージック・プログラム」、のちの「ジャッキー・マクリーン・インスティテュート・オブ・ジャズ」の責任者になり教育に力を注いでいる。

こうしたミュージシャンとしての功績と教育者としての実績に対しマクリーンはNEA(the National Endowment for the Arts)からアメリカン・ジャズ・マスターの称号を得ている。

ジャッキー・マクリーンは2006年3月31日、74歳、ハートフォードの自宅でドリー夫人と3人の子供達にみとられて亡くなった。

ジャッキー・マクリーンの良き理解者だったミンガスは、『直立猿人』で<プロフィール・オブ・ジャッキー>という曲をマクリーンのために書き、それに応えてマクリーンもジャズの根っこの部分、ブルースの魂をこんこんと湧きあがらせてアルトを鳴らし切った。

ジャッキー・マクリーン、当時24歳、若々しい歯切れの良いフレーズと繊細さがにじみでる音色とが今もなお愛され続けている。

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望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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