ある音楽プロデューサーの軌跡 #37 「ECM スーパー・ギター・フェスティバル」
〜故伊藤博昭さんを偲んで

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text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
photo by Yasuhisa Yoneda 米田泰久

 

このアーカイヴを去る6月9日71歳で急逝した伊藤博昭さんに捧げます。伊藤さんは東京教育大学英米文学科を卒業後、語学力とピアノの腕前を生かすべく音楽業界に入り、僕が知り合った70年代後半は音楽事務所株式会社TCP(代表:亀川衛)の社員として第一線で活躍していました。僕が勤務していた旧トリオレコード(トリオ・ケンウッド株式会社)では、同僚の原田和男の知己であった気鋭のサックス奏者デイヴ・リーブマンと、スタン・ゲッツ・カルテットで来日したピアニストのリッチー・バイラークをサポートする方針を立て、来日に関してはTCPの協力を仰ぐことになったのでした。その結果、TCPの最前線にいた伊藤博昭さんとは、リーブマンとバイラークの双頭バンドであった「ルックアウト・ファーム」「クエスト」、それから何度かのバイラークのソロ・ツアーの現場を共有したのでした。当時、ヴォーカリスト伊藤君子さんのパートナーであった博昭さんに、佐藤允彦と富樫雅彦が共演したヴォーカリスト後藤芳子さんの『ビコーズ』(1981) のプロデュースをお願いしたことも記憶に残るコラボレーションのひとつです。今回のテーマである「ECMスーパー・ギター・フェスティバル」はトリオレコードにとっても主催者のTCPにとっても大きな仕事であり、また出演ミュージシャンにとっては日本におけるキャリアの口火を切るエポックメイキングなイヴェントであったと思います。

伊藤さんはその後故郷の新潟に戻り、家業を引き継ぎ会社の経営に精を出す一方で、市内のジャズクラブでピアノを弾きながら仲間とジャズを楽しんでいたようです。当夜も亡くなる数時間前までピアノを弾いていたそうですから、ジャズとともに逝った幸せな人生ではなかったかと思います。
以下は、伊藤さんが仕事を通じて親交を結び、Facebookを通じて最後まで動向をフォローしていたリーブマンとバイラークから届いた追悼のメッセージです;

彼は仕事をともにするすべてのミュージシャンの面倒をよく見てくれた。そして、もっとも重要なことは、彼は最高のジャズ・ファンであったということだ。彼のスピリットは皆の心に生き続けるだろう。(デイヴ・リーブマン)

伊藤博昭は、僕自身やその他彼が招聘するミュージシャンの面倒をよく見てくれたナイス・ガイだった。彼がプロモーターとして活躍した時代は、ジャズ、とくにアメリカ、僕が70年代から90年代にかけて住んでいたニューヨークから訪日するジャズ・ミュージシャンにとって日本の黄金時代だった。その時代は、日本を始め世界中でジャズに対する関心度がピークに達していたのだ。つまり、日本での大きな経済不況や福島での原発事故等々起こるまでの時代。

僕の初来日はスタン・ゲッツ・カルテット、続いてデイヴ・リーブマンらとの「ルックアウト・ファーム」、同じく、リーブマンとの双頭のカルテット「クエスト」、ECMのジョン・アバークロンビー・カルテット、数々のソロ・ピアノ・ツアー、トリオ・ツアー、日野皓正や富樫雅彦とのプロジェクト、武満徹の八ヶ岳音楽フェスティバル、ヴァイオリンのグレガー・ヒューブナーとのデュオ・ツアーなどなど。その多くに伊藤さんの協力があった。彼は、音楽、とくにジャズが大好きだった。オフには寿司、焼肉、炉端焼きなど素晴らしい日本食を紹介してくれた。それと、ピットインやボディ&ソウル、ブルーノートなどのジャズクラブ。さらにはバンドを率いて秋葉原へ。ウォークマン、ディスクマン、僕はハイエンドのナカミチのプレイヤーを買った!伊藤さんは全国の100箇所以上の大小のギグをブッキングしてくれたのではないか。もちろん、彼が勤務していたプロダクション:TCPがあってのことだが。もちろん、ケニー稲岡との武満さんや冨樫さん、グレガーとのプロジェクト、SONYとの倉敷のイベントも忘れがたいが伊藤さんとの時間の共有がいちばん多かった。いつも新しいタオルや冷たいコークを用意してくれ、バックステージの階段のガイドなど本当にミュージシャンの身になって手助けしてくれた。僕の日本での最大の仕事は、よみうりランドでの「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」への出演、デイヴ・リーブマン、ウェイン・ショーター、エディ・ゴメス、ジャック・ディジョネットとの「トリビュート・トゥ・コルトレーン」。CDになりDVDとしても記録された。しかし、僕は伊藤さんとのクラブ周りも決して忘れない。
改めて言う。伊藤さんは本当にナイス・ガイだった。僕は彼を決して忘れることはないだろう。(リッチー・バイラーク)

「ECMスーパー・ギター・フェスティバル」

1973年にドイツのECMレーベルと独占契約を果たして以来、このユニークなレーベルが日本で市民権を得るためにプロモーターや広告代理店などの協力も得ながら業界の常識を超えるマーケティングをいろいろ展開してきた。特定のアーチストのマーケット開発も容易ではないが、レーベルとなると格別の困難が伴う。ECMについては、キース・ジャレットとチック・コリアが先行他社の尽力もあり抜群のセールス結果が得られていたが、この2者に続くキラー・アーチストを育てるべくECM本社とも協議の上企画されたのが、3人のギタリストによるギター・フェスティバルだった。独占契約から6年を経過した1979年のことであった。前年にリリースされた『パット・メセニー・グループ』(邦題:思い出のサン・ロレンツォ ECM1114)の反響が素晴らしく、パット・メセニー (1954~) のスター性を認めた企画であった。また、エグベルト・ジスモンチ(1947~。当時は、英語の発音を援用し、エグベルト・ギスモンティと表記していた)は1977年にリリースされたパーカッショニスト、ナナ・ヴァスコンセロスとのデュオ『DANÇA DAS CABEÇAS』(邦題:輝く水ECM1089) 、同じく1978年の『SOL DO MEIO DIA』(邦題:輝く陽 ECM1116)がECM史上に残る傑作との評価を受けライヴ公演が熱望されていた。3人目のギタリストは当初予定されていたラルフ・タウナー (1940~) が急遽ECM本社の意向によりジョン・アバークロンビー (1944~) に変更された。これは、日本のフェスティバルで好まれるよりジャジーなギタリストを、という日本からの希望が受け入れたもので、さらにはカルテットの新作『アーケード』 (ECM1133) が同年にリリースされる予定であったことも加味された。トリオレコードでは評論家の悠雅彦氏に急遽オスロのスタジオに取材に出向いていただき、通常は許されないECMの録音現場に潜入、専門誌にリポートを掲載してもらうなどの特別の手段を講じた。かくして、フェスティバルのラインナップは、ジャズ・フューションのニュースター、パット・メセニー、ジャズのメッカ、NYの実力者ジョン・アバークロンビー、ブラジルの異能のギタリスト/ピアニスト、エグベルト・ジスモンチの3者が揃い踏みすることになったのだった。

ECMスーパー・ギター・フェスティバル
1979年3月4, 5日
中野サンプラザホール

■ジョン・アバークロンビー・カルテット
ジョン・アバークロンビー (g)
リッチー・バイラーク (p)
ジョージ・ムラーツ (b)
ピーター・ドナルド (ds)

■エグベルト・ジスモンチ+ナナ・ヴァスコンセロス・デュオ
エグベルト・ジスモンチ (g, p)
ナナ・ヴァスコンセロス (perc)

■パット・メセニー・グループ
パット・メセニー (g)
ライル・メイズ (p, key)
マーク・イーガン (b)
ダン・ゴッドリーブ (ds)

このギター・ファンが狂喜すると思われたフェスは半ば成功、半ば失敗に終わった。ECMレーベルを背負っていくことになる3人のギタリストの音楽を日本のファンに直に聴いてもらえたことは大成功だった。3人とも初来日だったのだから。とくに、パット・メセニーのファンはレコードで聴くあの音が生でも聴くことができることが確認でき大感激の体だった。ジスモンチのファンはあのマジックのような運指をまじかに確認できて呆気に取られていたし、アバークロンビーのカルテットはNYの“今”のジャズをダイレクトに伝えてくれたのだ。

しかし、ギター・ファンはそれほどオープンではなかった。フュージョン・ジャズ、メインストリーム(コンテンポラリー)・ジャズ、ブラジリアン・ジャズを好むファンはそれぞれかなり明確に分かれていたのだ。パットのファンは丸々2時間パットを聴きたい、ジスモンチのファンはジスモンチのギターとピアノを思う存分堪能したい。アバークロンビーのファンはいつまでもNYの雰囲気に浸っていたい。これがファンの偽らざるを得ない心情だったのだ。加えて、ECMという新興レーベルが未だ日本で完全に市民権を得られていなかった。
2000人の客席を誇るサンプラザに空席が目立ったのだ。つまり、マンフレートアイヒャーという男がプロデュースする3人のジャンルの異なるギタリストを丸ごと聴いてやろう、という音楽ファンがまだ充分には育っていなかったことになる。

このフェスではちょっとしたトラブルがあった。ブラジルから30数時間かけてやってきたジスモンチが演奏時間の短さに強烈なクレイムを付けてきたこと。
ひとつのフェスを3つのグループがシェアし、しかもジスモンチはソロ、ナナとのデュオ、ピアノを披露せねばならない。フル・コンサート分の時間が欲しいところだ。話し合いの末、TCPが翌年、ナナとのデュオで単独コンサートの開催を約束して血の気の多いジスモンチをクールダウンさせた。もうひとつはパットのライト・オペレーターと日本の撮影クルーとの揉め事。パットはECMからのデビュー前から年間300本以上のカレッジ・サーキットをこなすため、サウンド、ライトを含めたパッケージを組んで活動しており、日本へもそのパッケージで乗り込んできた。われわれは今後のプロモーションのためにパットの許可を取って撮影クルーを入れていた。パットのステージは照明効果を上げるために暗めに設定されているのだが、当時のカメラでは光度が足りない。光度の上げ下げで業を煮やしたパットのライト・オペラーターが突然、フェーダーを全開にしたまま照明ルームを出て行ってしまった。ステージで当惑するサウンドチェック中のパット。結局撮影クルーが折れてコンサートが始まったのだが、光量不足は如何ともし難く映像の半分近くは使い物にならなかった。解像度が進んだ最新のビデオカメラでは考えられない40年前のトラブルである。パットのグループに時代を読んだTCPの亀川代表は翌年の単独ツアーをその場で決めたのだった。

このフェスに続く、ECMのフェスティバル形式によるコンサートは、1994年の3回にわたる「ECM25周年記念コンサート」まで待たねばならない。

Richie Beirach/John Abercrombie       Mark Egan/George Mraz



 

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稲岡邦彌

稲岡邦彌

稲岡邦弥 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。音楽プロデューサー。著書に『改訂増補版 ECMの真実』編著に『ECM catalog』(以上、河出書房新社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。Jazz Tokyo編集長。 https://www.facebook.com/kenny.inaoka?fref=ts

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