ある音楽プロデューサーの軌跡 #38「日野皓正・元彦さんとの仕事」

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text: Kenny Inaoka 稲岡邦彌
photo: K.Abe(阿部克自)Tak Tokiwa(常盤武彦)Kenny Inaoka(稲岡邦彌)

あのような形で日野さんがマスコミに登場するとは思わなかった。例の中学生往復ビンタ事件である。週刊文春 (9月7日号)が見開きで報じ、例によってTVのニュース・バラエティが後を追った。件(くだん)の親子は、日野さんにはすでに詫びを入れ和解している。この一件で例年のドリームバンドが中止に追い込まれないことを切に願っていると、取材に応じた。一方、日野さん自身とマネジメントがしばらく対応しなかったため芸人やタレントが好き勝手なコメントを撒き散らしていた。海外出張から帰国した日野さんが羽田で取材に応じたが、あれはビンタではなく軽く撫でただけ、アントニオ猪木のビンタよりは痛くないはず、と首をかしげるコメント。映像を見る限りではビンタのようにも見えるが、現場にいた関係者はビンタではないと証言しており真相は当事者が知るのみだ。有料観客の面前での振舞いに対する是非について日野さんは、観客の前だろうとどこだろうと必要な時はやる、と信念を披瀝。ざっと見渡したところでは、日野さん擁護派が多いようだ。唯一、はっきりと日野さんの行為を暴力であると非難したのは教育評論家の尾木ママこと尾木直樹。週刊文春の連載エッセイ「尾木のママで」(9月21日号)で“中学生ビンタ事件に一言”と題し、“学校教育法第十一条「校長及び教員は(中略)体罰を加えることはできない」”を根拠としている。作家の伊集院静は同じく週刊文春の連載人生相談「悩むが花」(9月28日号)で、サッカーを学ぶ小二の息子に対するコーチの体罰相談について「息子さんの練習を見学していて、ゲンコツや蹴っているように映るのは、それが指導のスキンシップなんだろう、と見てあげるべきだと、わしは思うナ」、と言いつつ「お母さんと同じように、わしも暴力は絶対イカンという考え方だ」と回答している。とはいえ、氏は、「息子さんはサッカーが好きで、そのコーチが好きで、サッカーを続けたいと言ってるんでしょう?それなら何も問題はない」と付記している。さすが、高校野球のコーチの経験もあるという伊集院静の卓見である。僕も氏の意見に全面的に賛成だ。指導する側と指導を受ける側の間に確立されている信頼関係があって初めて成立する特別のスキンシップだ。これはおそらく第三者が外側から見てもわからない師弟関係の一面に違いない。

 

LtoR:Roland Hanna/Kenny Inaoka/Masahiko Yuh/Jon Faddis/Billy Harper (photo:K.Abe)

 

僕は、現役の頃、日野皓正さんや弟のドラマー元彦さんと仕事をする機会が何度かあった。彼らはとても仲が良く、元彦さんは皓正さんを「兄貴」と慕い、皓正さんは元彦さんを「トコ」と何かにつけ目をかけていた。二人はとても生真面目で真摯に音楽に立ち向かい、自らを厳しく律していた。トランペッターでありタップダンサーでもあった父親に厳しく躾けられ、父親が亡くなった後も父親の教えを頑なに守り通しているのだと聞いた。二人と初めてスタジオで顔を合わせたのは、1977年、東銀座の音響ハウスでのジョン・スコフィールドgのデビュー・アルバム『John Scofield』(Trio-Kenwood)のレコーディング。1999年5月、スコから日野元彦の葬儀への案内を頼まれた。彼は墓前で演奏を手向けるためギターを持参したが、葬儀は寺院で執り行われたため彼の思いは叶わなかった。元彦さんで忘れられないのは、ジョン・ファディスtpのデビュー・アルバム『Jon & Billy』(Trio-Kenwood)。1974年3月、サド・ジョーンズ=メル・ルイス・ジャズ・オーケストラのメンバーで来日したジョン・ファディスのデビュー・アルバムのレコーディングの企画が持ち上がり、ビリー・ハーパーtsと双頭リーダーにすることで受け入れることにした。サド=メル・バンドからリーダーを除く全員が参加、セシル・ブリッジウォーターtp、ローランド・ハナp、ジョージ・ムラーツbという豪華キャストだった。日本から参加したのは日野元彦ただ一人。定刻になってもフィーチャされるジョン・ファディスが現れない。「稲岡さん、俺は早くからスタジオに来てドラムをセットし、チューニングを済ませ、ウォームアップも終わった。主役が来ないというのはどういうことだ。外人だからって甘やかせたらダメだよ」。駆け出しだった僕は、20分ほど遅れて女の子を連れてスタジオに到着したファディスを捕まえ、「どうしたんだ。時間は守ってくれよ。皆、スタンバってるんだよ」とクレーム。女の子が小脇に抱えていたスコアを取り上げ「悪いけど今日はクローズド・セッションだから」と言ってスタジオから追い出した。ファディスからは睨まれたが、元彦さんは片目をつぶって笑顔を返して来た。

 

Motohiko Hino / Sailing Stone (Fun House 1992)
Motohiko Hino / It’s There (Fun House 1993)

  

Motohiko Hino+Steve Swallow
Mike Stern+Motohiko Hino+Dave Liebman
Motohiko Hino+Dave Liebman
photos: Tak Tokiwa

 

日野兄弟とのハイライトは、元彦さんの2枚のリーダー・アルバム制作だった。1992年の『Sailing Stone』(Fun House)と翌1993年の『It’s There』(Fun House)。元彦さんのリーダー・アルバムの制作に携わるのは、1977年の年の『Flash』(Trio-Kenwood)以来だ。新境地を目指す元彦さんは『Sailing Stone』ではオリジナルに加え「ローリング・ストーンズ」の楽曲を4曲、『It’s There』では「レッド・ツェッペリン」のレパートリーを5曲加える冒険に出た。パーソナル・マネージャー格のAN元橋さんから相談を受けた僕は、時間に追われるマンハッタンを避け、ウッドストック近郊のカーラ・ブレイのプライヴェート・スタジオを提案。共演者には兄弟とも馴染みの深い、デイヴ・リーブマンss,tsやジョン・スコフィールド、マイク・スターンgを揃えた。ベースはカーラのパートナー、スティーヴ・スワロウだ。カーラとスワロウのホスピタリティは素晴らしく、セッション中のインターミッションにはカーラ手作りのサンドイッチやコーヒーが振る舞われた。すっかり打ち解けた皓正さんから、「Kenny、カーラにゲストで参加してくれるよう頼んでよ」との無茶振り。カーラの答えは「このバンドにはあたしより、カレンが合ってるわ」、ということで、カレン・マントラーがB3で参加することになった(カレンのオルガンの差し替えの間、全員で近所のイタリアン・レストランへ出かけたのだが、忘れ物を取りに戻った元彦さんの付け人によるオルガン・ブースにカーラがいた!という目撃証言あり)。カレンは、ニッティング・ファクトリーでのショーケースにも参加してくれた。オルガンがすっかり気に入った元彦さんは、帰国後のライヴでも機会があればオルガンを加えていた。皓正さんの直感力は素晴らしく、『It’s There』ではスコフィールドとマイク・スターンの二人のギタリストを曲によって使い分ける予定だったのだが、突然、<The Rain Song>で共演させようというアイディアを出した。「Kenny、マイクに電話してよ」。僕は幸いマイク・スターンのデビュー・アルバム『Fat’s Time』(Trio-Kenwood)をリリースし、マイクがマイルスのバンドで来日した際にも(ドラッグ禍で見るも無残に太っていた。マイルスが命名したニックネーム「Fat’s Time」の由縁である)何度も会っていたので、この難題をぶつけてみた。マイクは、「えっ、スコとツインで?自信ないなあ」。「とにかく、チャレンジしてみてよ」ということでマンハッタンから2時間車を飛ばしてやって来た。案ずるよりも生むが易し。ワンテイクで素晴らしい名演が収録できた。皓正さんの感、的中である。こんなこともあった。「デイヴのテナーが欲しいなあ」。リーブマンがテナーを捨てソプラノサックスに集中していた時期である。リーブマンに告げると「高くつくぞ」と言いながらも駐車場へ。付いていくと車のトランクからテナーサックスのケースを取り出した。これは1作目の『Sailing Stone』のセッション。そんなわけで、このセッションではテナーを吹くリーブマンが聴けるおまけが付いた。それもこれも皓正さんの「いいアルバムを作らせたい」という弟思いの現れである。皓正さんの弟思いが最高の形で実現したのが、六本木「スイート・ベイジル」での元彦さんの最後のドラム・ソロ。スティックを握った元彦さんは重篤の病人とは思えないダイナミックでパワフルなドラム・ソロを展開、事情を知るお客を唖然とさせた。楽屋に見送りに行くと、そこには車椅子に細い体をベルトで縛り付けた病人がいた。「病室へ戻るよ」、想いを遂げ和やかな表情の元彦さんだったが、僕は胸が詰まり、「大丈夫ですよ」としか言葉が出なかった。元彦さんが亡くなってしばらく皓正さんは仏像を掘り続けていたという。

2008年、タイガー大越のスタンダード・アルバムを制作するにあたり、皓正さんにタイガーとのデュオをお願いした。皓正さんは、「タイガーはいい音出してるからなあ」と言いながらも快く応じてくれた。リハのピットピン・スタジオに顔を出したオーナーの佐藤さんが、「よく日野さんがOKしてくれましたねえ」と驚いていた。僕はひとり、スコフィールドとスターンの一件を思い出していた。

  
  
  

  
  

photos:Kenny Inaoka

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稲岡邦彌

稲岡邦彌

稲岡邦弥 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。音楽プロデューサー。著書に『改訂増補版 ECMの真実』編著に『ECM catalog』(以上、河出書房新社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。Jazz Tokyo編集長。 https://www.facebook.com/kenny.inaoka?fref=ts

One thought on “ある音楽プロデューサーの軌跡 #38「日野皓正・元彦さんとの仕事」

  • 稲岡編集長
    2017年10月5日 at 9:50 AM
    Permalink

    Happy birthday, Steve (Swallow) !!

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