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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 244

ジャズ・ア・ラ・モード #13 女王達のファッション:エラ・フィッツジェラルドとサラ・ヴォーン

13. 女王達のファッション:エラ・フィッツジェラルドとサラ・ヴォーン

13.Fashion of Jazz Queen’s : Ella Fitzgerald and Sarah Vaughan: text by Yoko Takemura, 竹村洋子
Photos : Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections,
Library of Congress-William Gottlieb Collection、
Ella Fitzgerald: A Biography of the First Lady of Jazz by Stuart Nicholson.1995より引用、他 Pintrest より引用

エラ・フィッツジェラルドとサラ・ヴォーン。先にとりあげたビリー・ホリデイと並び、ジャズ史上最も有名な女性トップ・ジャズ・ヴォーカリスト達である。

エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald、1917年4月25日 – 1996年6月15日)はヴァージニア州、ニューポート・ニューズに生まれる。ニューヨーク州ヨンカーズという黒人にとっては生きにくい町で育った。12歳で小学校を終業し、ジュニア・ハイスクールに入り、そこでピアノを覚え、唄う事やダンスの才能を開花させていく。彼女は非常に優秀な生徒だったようだ。1932年、エラが14歳の時に母親の死去により、叔母の家に住むようになる。学業もおろそかになり、ハーレムのマフィアや売春宿の下働きと言った劣悪な境遇で金策に駆けずり回り、警察による補導を繰り返していた時期もあるようだ。世界大恐慌(1929年)、アメリカの禁酒法の時代の頃である。
14歳のエラは初めて聴衆の前で唄った。ハーレムのアポロ・シアターのアマチュア・ナイツでコンテストに勝利した時だ。その時に唄ったのはホーギー・カーマイケルの<Judy>で、賞金25ドルを獲得したばかりではなく、3回もアンコールを受けた。その時、劇場に居合わせたベニー・カーターがジョン・ハモンドに紹介し、以後彼女の憧れ的存在だったコニー・ボズウェルのスタイルを真似して唄ったりし、コンテスト荒らしをしていたようだ。プロとしてのデビューはまだ未成年だった頃、タイニー・ブラッドショウのバンドに誘われる。その後、チック・ウエッブ・バンドから誘いを受け、1935年に正式にバンドのフルタイム・シンガーとしてのキャリアをスタートさせる。1940年代にはソロシンガーとして活動するようになり、デッカ・レコードと契約を結ぶ。
1955年にはヴァーヴ・レコードに所属。以後1960年代半ばにかけ、数々のアルバムを作成し、ビッグ・シンガーとしての地位を確立していく。1970年代にはノーマン・グランツが設立したパブロ・レコードから数多くの作品を発表したが、1980年代後半以降、糖尿病の悪化から表舞台から徐々に身を引いていき、1996年にこの世を去った。

サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan、1924年3月27日 – 1990年4月3日)はエラより7歳年下となる。ニュージャージー州、ニューアーク生まれ。他の多くの歌手と同じように教会の聖歌隊で歌うことから活動を始める。
1943年にハーレムのアポロ・シアターのアマチュア・ナイツで優勝。これを聴いたのが、当時、アール・ハインズ楽団にいたビリー・エクスタインで、その後、エクスタイン・バンドに加わる。
1947年に唄った初めてのヒット曲<It’s Magic>で大型新人として注目された。1954年〜1959年はマーキュリー・レコードに所属。数多くの録音と共にシンガーととしての全盛期を迎える。1960年にルーレット・レコードに移籍し、63年に再びマーキュリー・レコードに戻っているが、その後1960年代後半から70年代初期までレコード契約のない時代が続く。
1977年にエラも所属していたパブロ・レコードと契約。1981年にはカウント・ベイシー・オーケストラと共演した<Send In The Clowns>を初めとして数々の名アルバムを残した。オペラ・シンガー並の声域を持ち、最期までジャズ・シンガーの女王であり続けた。ジャズのみならず、ポップスにも挑戦するなど、幅広い音楽性を持つシンガーだった。

エラ・フィッツジェラルドとサラ・ヴォーン。結論から言うと、この二人のファッションについてコンセプトがほとんどない。

私自身、彼女達のコンサートには日本、アメリカと幾度となく足を運んだが、当時、私はファッション業界に従事していたにも関わらず、彼女達がどんな衣装でショウに現れたか、ほとんど記憶がない。
個人的な話だが、1981年にミューヨークで開催されたニューポート・ジャズ・フェスティヴァル(当時、KOOL・ジャズ・フェスティヴァル)で、カーネギー・ホールでエラを聴き、リンカーン・センターでのサラのショウに行ったことがある。この時のエラのファッションはまるで記憶がないのだが、サラ・ヴォーンについては鮮明に覚えている。と言うのは、サラのショウの前日に、友人だったカウント・ベイシー・オーケストラのリード・トランペット兼ロードマネージャーだったソニー・コーン(# 4.スタイリッシュなバンドリーダー達参照)に、「明日は誰のショウに行くんだ?」と聞かれ「サラ・ヴォーン」と答えたら、大笑いし、「彼女のファッション・センスは最悪だから、よく見てこい!」と言われた。翌晩のステージに現れたサラは鮮やかな黄緑色のシフォン素材のヴォリュームたっぷりフワフワのドレスを着ていた。良いか悪いかはここではノーコメントにしておく。このドレス姿の写真はないかと探しまくった。似たようなものはあったが、同じ物は見つからなかった。

エラもサラも唄う事に関しては、世界中の誰よりも上手く、ずば抜けた才能、実力を持つ『唄うことが人生』の人達だ。過去にもおそらく未来にも、ジャズ・シンガーのトップ中のトップであろう。歌で勝負する人達なのだから、何をどう唄うかが彼女らにとって一番の関心事であり、何を着ていようが関係無いと言われればそれまでだが、それでも何か特徴があるのではないかと、ありったけ集められるだけ写真を集めて見てみた。

エラとサラは多少の年齢差はあるにしても1930年代から1990年代まで彼女達の写真を並べてみると、ほとんどの写真はステージ・コスチュームという特殊なジャンルであるにもかからわず、年代ごとのファッションの特徴が見事に現れ、近代女性のファッション史として見ることもでき、とても興味深い。

彼女達が衣裳の決定権をどれくらい持っていたかは分からない。マネージャー(付き人)はいただろうがスタイリストがいたかどうか、どれ程のファッションセンスの人が付いていたかもわからない。特にエラについては30年〜40年代のスイング・バンドの全盛期。男性ミュージシャンは数多くいたが女性ミュージシャンはバンドの専属シンガー達くらい、という時代だ。
毎日、ツアーとレコーディングに明け暮れ、洋服選びをする時間もなかっただろう。彼女たちはマネージャー(兼スタイリスト?)の言うまま、見せられた衣装について「あら、これ素敵じゃない、気に入ったわ!」などと言いながら、着せ替え人形のように衣装を取り替え引き換え着ていたのではないだろうか。

敢えて言うならば、エラはちょっとファンタジックなデザイン、乙女チックというかお姫様のような服がお好みのだったようだ。刺繍やレース、ビーズ、リボン等、装飾を多用したディテールのものが多い、シンプルなスタイルも数多いが極めて女性らしさを強調した服が多い。若い時から多少太めの体型だったが、体形を気にする事も全くなく様々なデザインの服を着ている。80年代以降の彼女は肩や腕をあらわにする事は少なくなったが、それでもやはりフェミニンさは変わらず、スパンコール、オパール、プリーツ素材などのファンシーなファブリックに身を包み、さらにゴージャスさが加わり、体型的に不利な点を上手くカバーしていた。

サラに関しては、デビューから50年代頃までの初期の彼女はスタイルも良くチャーミングで、まるでファッション史から出て来たようだ。
彼女の60年代は不遇の時代だったと言われている。そのせいか写真が極めて少ない。この頃から太りだしてきて、体型が大きく変わって来たと推測する。60年代後半、タイトなドレスをきた姿が見られたが、ドレスには横シワが入り、より太い体型をを強調するルックスだ。
70年代以降はダブダブのムームーの様なドレスをよく着ていた。70年代当時流行ったエスニック調のチュニックやドレスの流れでもある。これが彼女の生涯における唯一のファッションコンセプトだったかもしれない。容姿に関しても初期の可愛らしいサラと同一人物とはとても思えない。良く言えば、余裕と貫禄たっぷり。悪くいえば、体型をカバーして着られるものならカジュアルなものでもフォーマルなものでも何でも着ていたようだ。

この二人の衣装と唄う歌の関係がとても面白い。
エラ・フィッツジェラルドは、ロマンティックなラブソングは見事にエレガントに唄う。時にとてつもなく可愛らしく謙虚に、また、アルバム『Ella & Louis』のように楽しいデュエットも披露してくれた。と同時に<Lady Is A Trump>といったじゃじゃ馬娘の歌を、実に力強く堂々と唄うシンガーでもあった。
個人的にも何が一番とは選び難いのだが、彼女の晩年、1979年のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルで、ガンガンにスイングしまくりのカウント・ベイシー・オーケストラをバックに唄った明るいラブソング<Make Me Rainbows>が一番好きだ。<Make Me Rainbows>は1967年のディック・ヴァン・ダイク主演のコメディ映画『Fitzwilly』のサウンドトラックでJohnny Williams 作でジャズではない。原曲はソフトで美しいハーモニーのコーラスとシンフォニーからなる。この美しい曲を、エラは牛乳瓶の底のように分厚い眼鏡をかけ(当時、既に糖尿病の合併症で眼を患っていたようだ)大きな体を揺さぶりながらパワー全開で元気一杯に唄う。この彼女の力強いパフォーマンスと、極めてフェミニンでキラキラでファンシーなドレスのアンバランスさがたまらく面白い。
このパフォーマンスの前後には、ビリー・ホリデイが唄って有名な<Some Other Spring>、<Fine and Mellow>も唄っているのだが決して弱々しい印象がしない。
この時、エラは62歳。最初にこの映像を観た時にはノックアウトされた!ゴージャスな映像だ。後にアルバム『Perfect Match』として収録されている。

サラ・ヴォーンも天性の力強く柔らかな美声で、多くの名唱を残している。美しいクリフォード・ブラウンのトランペットと共演した<September Song>やスキャットで有名な<Autumn Leaves>、<Misty>、<Send In The Clowns>など、私の全く個人的な印象かもしれないが、彼女の、特に晩年唄っていた歌には失恋だとか、叶わぬ恋といったものが多く、その辺りにエラとは少し違う印象を持つ。
そのサラが、ダブダブのファション的にいまひとつ冴えないドレス姿で、堂々と打ちひしがれた女心を歌う姿、というのがこれまたエラとは対極的にとても面白い。

彼女達のファッション・センスが今ひとつと言っているのは、決して悪いという事ではなく、似合う似合わないも問題ではない。彼女達が真に偉大であり、後世、ミュージシャンやジャズファンのみならず数多くの人達に絶大な影響を与えたシンガー達である、ということの証しでもある。
二人とも、豊かな人生経験を持ち、豊かなボディから美しい歌声を発し、聴衆を魅了する。
レディ・エラとディヴァイン・サラ。ジャズシンガーの女王達の数ある写真の一部から、彼女達の存在感溢れる姿とファッションを時代を追って見て欲しい。


*1930年代のファッション
1930年代には、再び女性の身体の曲線の美しさを強調した物が求められていった。角ばった肩、正常のウエスト位置、細みの少し長め(膝下)の丈のスカート。控えめな装飾性。髪は長くてカールしたスタイルが流行した。レーヨン等の合成素材の台頭から、プリント地のドレスも流行りだした。

*1940年代のファッション
1941年太平洋戦争の勃発から世界中が戦時体制に入り、デザイナーたちは活発な創作活動を妨げられて行く。男性のスーツを思わせるようなかっちりとした作りの服が多くなってくが、戦争が終結した40年代半ばには、その反動として再び30年代に流行ったような女性らしいラインの服が流行っていく。

*1930~40年代のエラ

*1950年代のファッション
第2次大戦終結後、戦争の傷跡が癒えてきたと同時に、ファッションも人々の心を代弁するかのように華やかになって行く。
1947年にクリスチャン・ディオールが発表した『ニュー・ルック』は世界中のファッションに大きな影響を与える。ウエストをシェイプし、たっぷりとした分量の素材を使用した長い丈のスカート。肩パットを取り、なだらかなショルダー、女性らしい胸とウエストを強調するフィット&フレアラインのスタイルだ。エラやサラのこの時代の写真にもよく見られる。
また、ファッションのカジュアル化が始まる時代でもある。

*1950年代のエラ

*1940年代後半~50年代のサラ

*1950~60年代のカジュアル・ファッションのサラ

*1960年代のファッション
大衆消費社会が到来し、映画や音楽が若い世代へ影響を持ち始める。ソ連有人宇宙飛行成功、ケネディ・アメリカ大統領暗殺、ヴェトナム戦争の激化、パリ5月革命、人類初月面到着など大きな出来事が起こり、若者達はより自由を求め、ビートルズに代表される新しい音楽と共に等身大のファッションが次々に発信されて行った。
プレタポルテ(pret-a-porter : 既製服のこと。英語ではready to wear)で大量生産可能な合理的で簡易な裁断で構成される服が台頭していく。
1957年にジバンシーやバレンシアガが発表したサックドレスが60年代に入りさらに大流行する。(#2.ダイナ・ワシントンのサックドレス参照)マリー・クアントが発表したミニスカートやクレージュのミニドレスはサックドレスから派生したものと言われている。ヘアースタイルは上へ『盛る』スタイルが流行する。

*1960年代のエラ

*1970年代のファッション
プレタポルテ(既製服)がオートクチュール(高級仕立服)に代わり、世界の新しい流行を牽引していく重要なポジションとなっていく。また、’60年台にロンドンの街角で生まれたストリート・ファッションが大きな影響力を持っていき、ファッションのカジュアル化が急速に進んでいく。
エスニック・ファッションの大流行、ヒッピー風、サイケデリックなど、ファッションはより多様化し、服そのもののラインや形より、着こなし重視の方向になり、ファッションにおける既成概念が壊され、すべてが許される様になった時代。

*1980年代のファッション
女性の社会進出が確実に広がっていった時代。中世以来続いた男女間に見られる衣服の性差を再考しようという動きが特に女性ファッションの分野において興ってきた。映画、『ワーキング・ウーマン』に見られた様な大きな肩の女性のスーツルックが台頭してくる。しかし、皮肉なことに、女性の服は、より女性らしさを取り戻していくものとなり、’70年代とは一転して保守回帰と向かっていった。

*1970~80年代のエラ

*1970~90年代のサラ

*参考文献
ELLA FITZGERALD ” A Biography the First Lady of Jazz ” by Stuart Nicholson 1995

*Ella Fitzgerald, Count Basie Orchestra <Make Me Rainbows> 1979

*Sarah Vaughan <Send In The Clowns>1981

 

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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