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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 235

ジャズ・ア・ラ・モード #4. スタイリッシュなバンドリーダー達

4. スタイリッシュなバンドリーダー達

Band Leaders in stylish suits: text by Yoko Takemura 竹村洋子

photos:Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections
Library of Congress-William Gottlieb Collection

 

ビル・クロウが『ジャズ・アネクドーツ』の中で言っているように、初期の多くのジャズミュージシャン達は服装に凝っていた。パリッとした服装は成熟と成功を意味していた。
アンディ・カーク、チック・ウェッブ、キャブ・キャロウェイ、ビリー・エクスタイン、ライオネル・ハンプトンなどの当時の多くのバンドリーダー達の写真を見ればよく解る。自分達のバンドをよりクールに見せることにこだわった。楽団員たちの衣装代も大変だったに違いない。
とりわけファッションに情熱とお金をつぎ込み、洗練されていたのがデューク・エリントンとジミー・ランスフォードの二人だろう。当時、この2つのバンドは音楽的にも最高水準のバンドだった。

デューク・エリントン(エドワード・ケネディ“デューク”エリントン:Edward Kennedy “Duke” Ellington、1899年4月29日 – 1974年5月24日)は裕福な家庭で育ち、幼少の頃から身のこなしが優雅で非常にお洒落なファッションセンスだったため、「デューク(公爵)」というニックネームを親友のエドガー・マッケントリーが付けた。

ジミー・ランスフォード(ジェイムス・メルヴィン・“ジミー”ランスフォード:James Melvin “Jimmie” Lunceford、 1902年6月2日 – 1947年7月12日)はミシシッピ州フルトン生まれ。父親は53エイカー(約65.000坪)の土地を持つ農場主だった。ニューヨーク市立大学で音楽を専攻。’33年以降に脚光を浴び、素晴らしい演奏を続々とデッカレーベルで録音。’42年メンバーの移動が激しくなると次第に人気が下がり、彼自身が楽旅中に倒れて以後はバンド活動を停止した。ジミー・ランスフォードはデューク・エリントンに比べると音楽活動の期間が短いが、2人のファッションセンスと洗練さ度合いは甲乙受け難いものだ。デューク・エリントンは生涯において、常に超スタイリッシュで、ファッションの話題にも事欠かなかった人のではないだろうか?

1930年代は最もエレガントなメンズ・スーツが誕生した時代と言われている。19世紀末から主流だった燕尾服、モーニングコートの裾を切り落とし、バストやウエストを少しシェイプさせて、ボディラインを意識したシルエットのジャケットは、肩を少し反らせたビルトアップ・ショルダー、幅広でシャープな襟。この頃からジャケットのボタンは4つもあるが、2〜3個に定着していった。ジャケットの下にはベストを着用。ハイウエストで流れるようなパンツにサスペンダー。この三つ巴が基本形だ。
『イングリッシュ・ドレープ・スーツ』とも呼ばれる。当時のメンズファッションの主流はイギリスだった。このスーツの大流行に大きな影響を及ぼしたのが、イギリスのエドワード8世、後のウィンザー公だ。(Edward VIII、1894年6月23日 – 1972年5月28 日)。グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国王、インド皇帝。退位後の称号がウィンザー公爵(The Prince Edward, Duke of Windsor)。 離婚歴のある平民のアメリカ人女性ウォリス・シンプソ ンと結婚するためにグレートブリテン王国成立以降のイギリス国王としては歴代最短の在任期間わずか325日で 1936年に退位した。ウィンザー公は多趣味でプレイボーイとしても有名で、この頃の男性のファッション・アイコンであり、メンズファッションに多大な影響を及ぼしたことでも知られている。
デューク・エリントンの4歳年下で、まさに同世代になる。デューク・エリントンが世界中のマスコミに追いかけられていたウィンザー公のファッションを意識しないはずはないだろう。
1930年代後半~40年代には、『#1.チャーリー・パーカーのストライプ・スーツ』でも書いたように、アメリカではメンズスーツは太く、ゆったりとした『ズート・スーツ』がポピュラーになっていく。

話は少しずれるが、ウィンザー公については興味深い話が多くある。ウィンザー公はロンドンのサヴィル・ローにある王室御用達の『ショルツ』という店でスーツを誂えていたが、アメリカのジャズミュージシャンやアフリカンアメリカン、ラテン系のジャズファン達の間で流行し始めた太めでゆったりしたアメリカン・スタイルのパンツを好んで履くようになり、わざわざニューヨークで誂えていた。そのパンツの事を妻のウォリス・シンプソンは『海の向こうから渡ってきたパンツ』と呼んでいたようだ。
ファッションの中心がイギリスからアメリカに移り始めた頃の話だ。19世紀の半ば以降、レディスファッションはパリのクチュリエ、メンズファッションはロンドンのテイラーが支配していた。1930年代後半頃からアメリカのハリウッドの映画産業の台頭により、俳優をはじめとするエンターテイナー達が世界のファッション・リーダーとなっていく。

1934年から45年までデュークー・エリントン・バンドでトランペッターとして活躍していたレックス・スチュアートは自らの著書『1930年代のジャズ・マスターズ(Jazz Masters Of The 30s )』で、デューク・エリントンが異常なほどにステージ・コスチュームにこだわったかを書いている。
ステージに合わせて新しいスーツを誂え、ステージの照明に合わなければ違うスーツに変え、バンドメンバー達は頻繁に仕立て屋に行かされて寸法を取ることを命じていたらしい。また、一度に自分でデザインしたスーツを20着、手縫いの靴を10足、カスタムメイドのシャツを3ダースも注文していたようだ。一度ボタンの取れたジャケットは縁起が悪いので二度と着なかったそうだ。
デューク・エリントンの数ある写真を見ていると皆違うように見える。山程持っていたのだろう。エレガントな『イングリッシュ・ドレープ・スーツ』姿も粋な『ズート・スーツ』スタイルの写真も数多く残っている。当時の写真はモノクロなので色がよくわからないのが残念だが、イエローやピンクなど派手な色のスーツも多かったようだ。
写真を見ていて驚くのは、バンドメンバーのユニフォーム・スタイルも洗練されてパシっと決まっているが、リーダーの方が数段洗練されており目立っている。バンドは大体において、シンガーを抱えているが、そのシンガー以上にもリーダーの方が決まっている。

デューク・エリントンはオフ・ステージの場でも非常にスタイリッシュだ。もちろん写真を撮られることも意識していただろう。

デューク・エリントンもジミーランスフォードもどのような場面においても常に 最高であることを目指していた。そして、聴衆は『観て聴く』ということをよく知っていたに違いない。

 

最後に、個人的なカウント・ベイシーの話を少し。カウント・ベイシーは晩年のキャプテン・ハットがトレードマークにもなっており、粋でお洒落な人だった。
デューク・エリントンやジミー・ランスフォード、チャーリー・パーカーのような派手さはないが、地味でありつつも良いクオリティ、良い仕立ての服をいつも着ていた。バンドメンバーのステージ・コスチュームも良いものを選んでいた。
私がベイシー御大とバンドに初めて会ったのが1973年。その頃親しくなった当時のリード・トランペット奏者のソニー・コーン( バンド在籍 1960~1990)はロードマネージャーでもあった。
ある時、紺色のシャツに白いネクタイ、薄いブルーのジャケットという出で立ちのユニフォームを着ていたので「なんだかマフィアみたいな格好じゃない?誰がその衣装選ぶの?」と私が尋ねると、ゲラゲラ笑って「ベイシーとマネージャーの僕だよ。」という返事。
その数年後、私は彼らのニューヨークからデトロイトまで、一週間程のワンナイター・ツアーに同行したことがある。その日のステージが終わりメンバー全員がバスに乗り終わると、まずソニー・コーンが「みんな、明日はブラウンだぞ!」と大声でメンバー達に伝える。
スーツの色の話だ。毎日同じではなく2〜3セットのコーディネートをメンバー達は常に持って移動していたのだ。
最近はメンバー達の世代も変わりコンサートからも足が遠のいているので、彼らのステージ衣装事情はわからないが、あのソニー・コーンの発言を聞いて以来、あの頃のベイシー・バンドの写真や映像を見ると、メンバーの顔ではなく着ているスーツからいつ頃の演奏、と判るようになった。

 

 

 

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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