ジャズ・ア・ラ・モード #17.フランク・シナトラ・アーリー・イヤーズとウィンザー公

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 17. フランク・シナトラ・アーリー・イヤーズとウィンザー公
17.Frank Sinatra in early years and Duke Windsor
text by Yoko Takemura 竹村洋子

photos:Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections,
Library of Congress-William Gottlieb Collection
Remembering SINATRA- A life in picturesより引用

タイム・ライフ社が1998年に出版した『remembering SINATRA- A life in pictures 』という本が本棚に眠っていたのを思い出し、改めてそのカバーのフランク・シナトラを見て、何とも粋にハウンドトゥース・チェック(千鳥格子)のジャケットを着こなしているな、と思った。
細かいハウンドトゥース・チェックのジャケットに、フラノ地のパンツを履き、ポケットに手を入れてにこやかに笑っている姿だ。この写真はどこでも見つかる。アメリカ合衆国郵便公社で、2007年に記念切手にもなった。

ハウンドトゥース・チェック(hound’s-tooth check:日本名は千鳥格子)とは、猟犬(ハウンド)の牙(トゥース)の形を模した柄を連続させた地と模様が同形の英国が発祥のトラディショナルな定番格子柄のこと。日本の千鳥格子というのは千鳥が連なって飛ぶ姿に見えるための名称だ。

フランシス・アルバート・”フランク”・シナトラ (Francis Albert “Frank” Sinatra、1915年12月12日 – 1998年5月14日) 。誰もが知るアメリカを代表するポップ、ジャズシンガー。1915年、アメリカ、ニュージャージー州のホーボーケンで生まれる。ホーボーケンはニュージャージー州北東部にある都市。ハドソン川を挟みマンハッタン島と対峙する。ホーボーケンという名前はジョン・スティーブンス大佐がこの地域一帯の土地を購入した時に付けられた。米国における最古の理工系大学の一校でもあるスティーブンス工科大学がある。 1630年オランダ人によって移民が始り,19世紀中頃にはドイツ、アイルランドから大量の移民を迎え、最後にイタリア系の人達が入植して来た。シナトラ一家は言わずとも知れたイタリア系移民だ。フランク・シナトラの少年時代は相当のワルだったようだ。1931年にハイスクールで騒ぎを起こし、在学わずか47日で停学処分になっている。音楽には子供の頃から興味があり、当時人気シンガーだったビング・クロスビーに憧れていた。
1935年、20歳の時に地元のイタリア人ボーカルトリオ『ザ・ スリー・フラッシズ』に参加。その後、『ホーボーケン・フォア』というグループでバーの・ラウンジで歌っていたところをハリー・ジェイムスに見出され、1939年に楽団の専属シンガーとなる。1940年に、トロンボーン 奏者トミー・ ドーシー・オーケストラに引き抜かれ移籍し、大活躍。以来、10代の女性を中心にシナトラへの人気は決定的なものとなった。 「ボビーソクサー(女学生達)の アイドル 」としてその人気 は凄まじいものがあった。劇場での公演では、観客の女性に、興奮のあまり気絶し失禁する者すら出た という。 失神する女の子達の話は有名だが、プレス・エイジェントの策略だったようで、ファンクラブを作り、女の子達にキャーキャー言わせる特訓をしたり、メディアに投稿させたりしていたようだ。失神状態のことは『シナトライズム』と呼ばれて、シナトラ自身はその事をあまり快く思っていなかったらしい。戦時下の1942年にトミー・ドーシー・オーケストラを離れてソロシンガーとして独立する。終戦した後の1940年代後半から一時人気が低迷し、1950年には喉の疾患で一時声が出なくなりスラン プに陥った。

デビューから、1950年頃までのフランク・シナトラのファッションに改めて注目してみよう。ハウンドトゥース・チェックは英国が発祥のトラディショナルな定番格子柄だ。イタリア人であるシナトラはこの英国発祥のクラシックなメンズパターンのスーツやジャケットをさらりと着こなしている。『#4.スタイリッシュなバンドリーダー達』でも触れたが、第2次世界大戦以前、メンズファッションの中心はイギリス、ロンドンのセヴィルローだった。そして、当時のファッションリーダーといえば、エドワード8世、後のウィンザー公だった。ウィンザー公が好んできていたスーツは本国イギリスやアメリカで大流行するが、特にグレンチェックのスーツは好んで着ており、グレンチェックは別名『プリンス・オブ・ウェールズ』とも呼ばれている。また、ウィンドーペーン・チェック柄のジャケット、スーツ姿もよく見られる。冒頭に述べたフランク・シナトラを見ると、ウィンザー公のファッションの影響をかなり受けていたのではではないかという気がする。

アメリカのメンズファッションはエドワード8世が1924年に初めて訪れた時に、大きく影響を受けたとも言われている。エドワード8世もアメリカのファッションに影響を受けてはいるのだが。エドワード8世が退位したのが1936年で、1937年にウィンザー公になった訳だから、シナトラはこの頃20歳前後。知的でエレガント、洗練された、この世界最大のファッションリーダーの影響を受けていても全く不思議はない。フランク・シナトラは、ハイスクールも出ておらず、読み書きもろくにできなかったようだが、それでも地元のスティーブンズ工科大学に通っているような山手の大学生のような格好をしていたらしい。

私が一番魅力的だと思うフランク・シナトラは1943年に撮られたCBSマイクロフォンの前で腕を組み笑っている姿だ。細かいチェックのジャケットを着て(非常に細かいハウンドトゥース・チェック柄)柄物のボウタイをつけている。髪はリーゼントにまとめ、とてもチャーミングだ。若い女の子達だけではなく、おばさん達だってこの笑顔とルックスで甘い声で唄うフランク・シナトラには参ってしまうだろう。とても悪ガキでろくに学校にも行っていなかったようには見えない。

フランク・シナトラの自伝、『His Way』( by Kitty Kelly 1986)によると、フランク・シナトラは1939年に最初の妻ナンシー・バルバトと結婚し、ジャージー・シティに落ち着く。1929年に起こった大恐慌後、まだアメリカ経済も復活という時代ではなくこの頃940万人のアメリカ人が失業しており、シナトラ夫妻の結婚式も慎ましいものだったようだ。
妻のナンシーはタイプ活字鋳造会社で秘書として働いており、フランクもレストランの歌うウエィタートしてそこそこの収入はあったが、ナンシーは精一杯家計をやりくりしていた。二人合わせての収入週給50ドルから食費と家賃を抜いた残りのほとんどはフランクの着道楽に当てられていたようだ。フランクは自分が一廉の人間である、という事を感じる為に高価で高品質なものを身につける必要があり、新しい服が彼のエゴを支えてくれることを自覚していた。「自分がぐらつくと、出かけてスーツを10着ほど新調していた。」と自身で語っている。彼の衣服への執着ぶりは1939年という年に、35ドルのスーツ。12ドル50セントのジョンストン&マーフィーの靴、2ドル50セントのブロードのシャツ(シャツは糊付けせずにぴっちりと畳んでしまっておかないと気がすまなかったらしい)ボウタイはシルク100%で2ドル50セント。靴下もシルクで65セント、といった具合だった。フランクは衣服に好きなだけお金をつぎ込んで、無一文になると付けで買い物をしていた。
倹約家の妻ナンシーは自分はどんな贅沢もせず、フランクがオーディションや仕事の場で素敵に見えるように様々なものを手作りしていた。時には自分のドレスを裁断してその布でタイを作ったりして、フランクが、ビング・クロスビーを超えるビッグスターになれると確信して支え、励まし続けた。ナンシーとは1951年に離婚。彼女は、今年2018年の7月14日に101歳で亡くなった。

1940年にトミー・ドーシー楽団に入った頃には、フランク・シナトラはホーボーケンのデ・サントという洋服店で働いていたニック・セヴィノという取り巻きに雑用係をさせるようになった。ニック・セヴィノはフランクのスタイリスト兼イメージ・コンサルタントとしてかなりサポートしていたようだが、実際にはフランク自身が服を選んでいたようだ。スランプ、アイドル卒業後のフランク・シナトラの姿は恰幅もだいぶ良くなってきており、見かけ派手なスタイルではなく、シンプルな無地のスーツかタキシード姿が圧倒的に多い。勿論、上質な素材や仕立てだったことは間違いないが。

先に述べたフランク・シナトラのチャーミングな写真を見ると、そんな妻ナンシーのフランクに対する愛と苦労が裏にあったとはとても信じがたい。ボウタイも、もしかするとナンシーの手作りだったかもしれない、と思うと、フランクはなんてお気楽!と、呆れないでもないが。でもやはりチャーミングだ。1998年に亡くなる晩年まで、フランク・シナトラには数多の女性たちが付いて回ったようだが、女性にモテるにはやはり本人のエンターテイナーとしての実力だけでなく、自分をいかに魅力的に見せるか、そして超一流であり続けるための努力はファンの想像をはるかに超えるものだっただろう。

竹村洋子

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に寄稿。(2016)

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