49. レジェンド、ジェイ ”フーティー” マクシャン生誕100年

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Jay McShann Centennial Birthday Bush 2016: James Columbus Jay “ Hootie” McShann , who was a blues, mainstream jazz and swing bandleader, pianist and singer.

text by Yoko TAKEMURA 竹村洋子

写真提供:Linda McShann, Victoria Dunfee, American Jazz Museum, UMKC Libraries- Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections, Marr Sound Archives special thanks to : Linda McShann , Chuck Haddix (UMKC, Miller Nichols Library, Marr Sound Archives deirector)

この1〜2年、カンザス・シティのジャズシーンが確実に活気づいて来ている。ジャズ関係者、ファンからなるジャズサポート団体『カンザス・シティ・ジャズ・アンバサダー (Kansas City Jazz Ambassadors) 』が今年で設立30周年を迎える。この団体の発行するジャズ誌『Jam』も、昨年10年ぶりに新編集長を迎え、発行30年目となる。アメリカン・ジャズミュージアムには、この春、チェプトゥー・コーシタニーという女性の新CEOが就任し、地元の人達の期待を集めている。この4月に、カンザス・シティ市は、アメリカン・ジャズ・ミュージアムと 18th&Vine 地区の開発に日本円にして約30億円という、今までには考えられない巨額の予算投入を決めた、というニュースも大きな話題となっている。 2014年、ジャズサポート団体のKC JAZZ ALIVEの設立以来、 チャーリー・パーカー・バースデイ・セレブレーションも本格的に催される様になり、昨年2015年はパーカー生誕95年祭が盛大に催された。

そして、この2016年はカンザス・シティ・ジャズの大御所、チャーリー・パーカーを見いだしたジェイ・マクシャン(James Columbus “Jay” McShann:1916.1.12〜2006.12.7)の生誕100周年にあたる。

カンザス・シティでは、今、様々な事が節目にあたる。カンザス・シティ・ジャズの大御所達も含めて、過去を再認識、再評価しつつ、この街のジャズをさらに活性化させて行こうという機運が高まっている。

♪  ジェイ・マクシャン生誕100年祭(Jay McShann Centennial Bush 2016)

カンザス・シティでは『ジェイ・マクシャン生誕100年祭ウィーク』として、去る1月16日にアメリカン・ジャズ・ミュージアム主催によるイベントが 18th&Vine 地区にあるジェム・シアターで催され、多くのジャズファン達が盛大に祝った。

この様子をUMKC、マー・サウンド・アーカイブスのディレクター、チャック・ヘディックスがレポートしてくれ、マクシャンの長女、リンダ・マクシャンが4月の終わりにアメリカン・ジャズ・ミュージアムが作製したイベントのDVDrを送って来てくれた。

イベントプログラムは、

・ジェイ・マクシャンについての展示

・マクシャンを偲ぶスライドショウ(ピアノ演奏、マクシャンの孫娘、エイミー・ルイス)

・チャック・ヘディックスによるジェイ・マクシャンについての紹介レクチャー

・マクシャン追悼コンサート

という構成で行われた。

♪  ジェイ“フーティー”マクシャンについて

個人的な話で恐縮だが、私がJazz Tokyoに参加したきっかけは、ジェイ・マクシャンだった。カンザス・シティに通い始めて8年目、マクシャンが他界した時に、本誌、稲岡編集長から「マクシャン本人を直接知る日本人はそんなにいないと思うから、追悼文を書いてみませんか?」というお誘いを受けた。

今から10年前。そこから『カンザス・シティの人と音楽』の連載コラムを始めた。マクシャン追悼コラムを入れると、今回で50本目のコラムとなり、私にとっても節目となる。この機に改めて最初の投稿を振り返りつつ、生誕100年を祝い、偉大なジャズのパイオニア、ジェイ・マクシャンに感謝と敬意を表したい。

追悼コラムの最初に、稲岡編集長がマクシャンの略歴、紹介文を書いて下さったので、参照して頂きたい。私の追悼文は、今読み返すと稚拙でお恥ずかしい限りだが、私が知るジェイ・マクシャンという事でお許し頂きたい。

http://www.archive.jazztokyo.org/rip/jay_mcshann/mcshann.html

マクシャンについては、以下、チャック・ヘディックスのマクシャン解説抜粋等を含め、少し付け加えたい。

1936年秋、既にプロのミュージシャンとして活動していたジェイ・マクシャンは、ネブラスカ州のオマハに住む叔父のオーディーを訪ねて行く途中、カンザス・シティに立ち寄る。リノ・クラブで演奏していたカウント・ベイシー・バンドを聴くためだ。そこで、ベイシー・バンドのベーシストだったマクシャンと同郷、オクラホマ出身のビリー・ハドノットにカンザス・シティに留まるように薦められ、以後この地で音楽活動を続けていくことになる。1920〜30年代にはカンザス・シティに急増するギャンブル場、ダンスホール、ナイトクラブで求められる仕事に惹かれ、マクシャンに限らず、全米各地から多くの人達が集まって来ていた。

マクシャンはこの何でも有りのカンザス・シティでの体験を、「ミュージシャン達の演奏スタイルを知るのにも、とても役に立った。ここは二乗に胸ときめかせる街だった。ミュージシャン達をハッスルさせる街だった。ブルース、ブギーウギー、スイング等色んなスタイルの音楽を学ばなければならなかった。なぜなら、それは総て金儲けに直結していたから。」と言っている。

マクシャンの功績の一つにチャーリー・パーカー(以下バード)を見いだした事がある。マクシャンは1937年、12丁目通りにあるナイトクラブ “バー・ル・ダック” で最初にバードの音を耳にする。そこでのマクシャンとバードは「おい、お前何処から来たんだ?!」「カンザス・シティだよ。」「お前の音は確かに他の奴らの音と違うよ!」「これから一緒に演るチャンスがあると思うよ…!」というような会話があったようだ。

そしてマクシャンは1938年秋にバードをマクシャン・バンドに誘い、入団させる。

当時、カンザス・シティのジャズは人種差別のためになかなか足が定まらなかったが、30年代の終わりにかけて、マクシャンはその人種のバリアを破って行った。彼の7人編成のバンドはカントリー・クラブ・プラザにあるクラブ『クレア・マーティン・プラザ・タヴァーン』で演奏した最初のアフリカン・アメリカンによるバンドの一つでもあった。このクラブは2つの顔を持ち、小さなダンスホールにもなった。「私達は、夜の8時から10時ころまでは軽い音楽をやっていた。10時過ぎるとウェイター立ちが椅子とテーブルをレストランの方に移動させ、そこがダンスホールになり、私達はダンスミュージックを演奏していた。」と当時マクシャン・バンドにいたジーン・ラメイは回想している。バードを雇ったマクシャンは1938年にここでバードと一緒に演奏している。

若きサックス奏者バードは一旦マクシャン・バンドを離れてニューヨークに行くが、父親の葬儀のため1940年にカンザス・シティに戻り、マクシャン・バンドに再入団し、以後3年余りの間、バンドを出たり入ったりしてマクシャン・バンドで演奏活動している。

マクシャンは1939年に保険会社のオーナーをパトロンに、ビッグ・バンドを結成する。そのメンバーの中にもバードはおり、1940年の夏から秋にかけ、カンザス州ウィチタでセッションを何度か行っている。また1941年にダラスで録音されたマクシャンの最初のアルバム『Hootie’s Blues』にもバードは参加している。

1941年にマクシャンがデッカ・レーベルでレコーディングした<Confession’s  the Blues>はビッグ・ヒットとなり、15、000枚のアルバムが売れた。これを機にマクシャンはシカゴ、ニューヨークへと本格的に進出し、カウント・ベイシー、アンディ・カークらと共にカンザス・シティ出身のビッグ・バンド・リーダーとしての地位を確立していく。

1943〜44年、マクシャンは従軍する。

第2次大戦後、マクシャンはビッグ・バンドを再編成する。

1948年、<Ain’t Nobody Business>がビッグ・ヒットとなる。しかし、大きなバンドはツアーをするにも多額の費用がかかり過ぎるため、小さなグループでの活動を余儀なくされる。資金を切り詰めたバンドの経営をロス・アンジェルスで数年続けた後、1950年代の初めにマクシャンは再びカンザス・シティに腰を落ち着けた。

1960年代後半にマクシャンはツアーを再開し、ソロ活動や小さなグループ編成で音楽活動をし、残りの人生を埋めていった。この頃、マクシャンはデューク・エリントンに「カンザス・シティでの活動にちょっと限界を感じ始めた。」と告白している。エリントンはマクシャンに「ヨーロッパに行けよ!」と強く勧めた。その後マクシャンは幾度もヨーロッパツアーを行っている。

晩年、マクシャンはカンザスシティを基盤にしながらも、ヨーロッパ、日本、オーストラリア等にも頻繁に出向き演奏をした。

 

ジェイ・マクシャンは1930年代にカンザス・シティから生まれたブルース・ピアニスト、バンドリーダーであり、チャーリー・パーカーの才能を理解した人でだった。彼の人生はブルースと共にあり、2016年の今もカンザス・シティの総てのミュージシャン達の最高の指導者だ。

カンザス・シティ・ジャズ第2世代のミュージシャン/エデュケーターであり、マクシャンとは55年以上の交友関係に会った、アーマド・アラディーン(ts.1934〜2010)はマクシャンについてこう回想している。

「ジェイは自分の思い通りの演奏をする事において人一倍長けた人だった。それがジェイらしいんだよ。ジェイは私が一番影響を受けたミュージシャンだった。彼は音楽について、本当に多くの事、スイングする事の本質について教えてくれた。どのようにしてソロを組み立てるか、そしてどうやって展開していくかという事をね。私は彼の言う事に耳を傾け、楽曲のリズムやコードにとらわれる事よりも、むしろどうやってフレーズ全体を作り上げるかを学んだと思う。ジェイは本当に多くの影響を私に与えてくれた。何を演奏し、何を演奏すべきでないかをね。

カンザス・シティは偉大なブルースの街だ。誰もがブルースを愛し、誰もがジェイを愛していた。ジェイはワールドトラベラーで世界中を飛び回っていたよ。彼はいつも同じ方法で同じ曲を演奏していた。その曲がジェイに利益をもたらすのに、どうして変える必要があるのかって言う事を極めたのさ。彼はスタンダードナンバーを熟知していたよ。一人がジェイに博士号を与えるかの様な賞賛をしたら、その日ピアノは床から浮き上がっちゃうんだ...そしてジェイはクソ面白くもない演奏をしちゃうんだ。それは彼をどんな人間か良く表しているよ。本当に多くの事を判ってたんだね。」

現在、UMKCミュージック・コンサヴァトリー、ジャズ部門のディレクターであるボビー・ワトソンは、「マクシャンはスイングとビバップの橋渡しをした偉大なミュージシャン。既成概念とは違う若い人達の新しいアイデアも積極的に受け入れるオープンな人だった。」と言っている。ワトソンは自己の教育プログラムにジェイ・マクシャンの音楽を非常に積極的に取り入れている。マクシャンの音楽は今現在の若いミュージシャン達の中に生きている。

チャック・ヘディックスはレクチャーの最後を次の様に結んでいる。

ジェイ・マクシャンは ”ハッピー・ガイ” だ。ブルースとハッピネスはいつも一緒だ。マクシャンは、ビーンズとコーンブレッドがいつもベスト・コンビネーションである事と同じ様に、ブルースとハッピネスがいつも一緒だという事を知っていた。(※ビーンズとコーンブレッドは、アメリカ、特に南部の食にななくてはならないもの。日本で言うとご飯と味噌汁の様な意味。)

ジェイ・マクシャンを思い起こすと、それは “スマイル(smile)” だ。ジェイは燦々と輝く朝の太陽の様な存在だった。

♪  マクシャン追悼コンサート

コンサートは、いずれもカンザス・シティでもトップ・クラスの実力を誇るミュージシャン達によるもの。ジョー・カートライト (p) & カンパニー:ジェラルド・スパイツ (b)、ロッド・フリーマン (g)、アダム・ガルブラム (vl)、リサ・ヘンリー (vo)、デヴィッド・バッセ (vo)、レスター “ダック” ワーナー (vo)、エヴェレッタ・フリーマン (p& vo) らはブルースを中心としたマクシャンの音楽にアプローチした。ジョー・カートライトのスケールが大きく冴え渡ったピアノは圧巻。また、マクシャンが度々一緒に演奏したヴァイオリンのクロード “フィドラー” ウィリアムスを思わせる様なプレイを披露したアダム・ガルブラム(vl)が印象的だった。

続いて、ゲストのベニー・グリーン (p) のソロ演奏。ベニー・グリーンが今回ゲストに招かれたのはマクシャン・ファミリー側のリクエストのようだ。グリーンはマクシャンとは正反対のアプローチでシダー・ウォルトン、ホレス・シルバーの曲を熱演した。

最後にボビー・ワトソン (leader & as) オールスター・ビッグ・バンドの演奏。最初の曲<Moten Swing >以外は総てボビー・ワトソンのオリジナル<BBQ Suites>からの選曲。バンドのメンバーは、リーダーのワトソン以下、ベテランから若手まで、ボブ・ボウマン (b)、ロジャー・ワイルダー (p)、マイク・ウォレン (ds)、クリント・アシュロック (tp)、ハーモン・メハリ (tp)、アル・ピアーソン (tp)、スティーブ・ランバート (ts)、ダン・トーマス (as)、ルイス・ニール (tb) 他、総勢18名。確かなリズムセクションに支えられた非常に音に厚みのある、ゴージャスなビッグバンドの演奏だった。

生憎、送られて来たDVDrの音質が今ひとつで、各ミュージシャンの演奏を云々できる状態ではないのでディテールは控えるが、ジェイ・マクシャン追悼イベントの様子から、この街の人達が心からマクシャンを誇りに思い、敬愛する、そんな様子が窺えた。(2016年5月15日)

*参考文献

Chuck Haddix著『Kansas City Jazz : from Ragtime to Bepop- A History』2005

Ahmad Alaadeen 著『Dysfunctional』2011

 

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竹村洋子

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 美術学校卒業後、マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に寄稿。(2016)

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