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~No. 201カンザス・シティの人と音楽 竹村洋子

Extra:R.I.P. ジェイ・マクシャン

1. 追悼   ジェイ・マクシャン:稲岡 邦彌

♪ カンザス・シティに草鞋(わらじ)を脱ぐ

ジェイ“フーティ”マクシャン:1916.1.12〜2006.12.07
ピアノ/シンガー/コンポーザー/バンドリーダー

オクラホマ州マスコギー出身。教会に通う信仰心の厚い両親の下、4人兄弟の末弟として生まれる。 レコードやラジオを聴きながら両親に隠れてピアノを独修。ジェームスP.ジョンソンからブルース を、アール・ハインズからジャズのエッセンスを学ぶ。15才の時にドン・バイアスtsのバンドで稼い だギャラを持ち帰り両親の認めるところとなる。大恐慌下のことである。生地の周辺で武者修業を続 け、1937年秋、職探しのためネブラスカ州オマハに住む叔父を頼ってバス旅行中、カウント・ベイ シー・ビッグバンドを聞くため降りたカンザス・シティで仲間に誘われ腰を落ち着ける。ブルース、 ブギウギ、ジャズに通じていたマクシャンがカンザス・シティでポジションを得るには時間がかから なかった。その後、同地をホームグラウンドに活動を続け、客分の身だったが、カンザス・シティを代表するミュージシャンのひとりとして自他共に認める存在となった。

♪ チャーリー・パーカーを見出す

ジェイ・マクシャンの最大の功績のひとつは、若きチャー リー・パーカー(1920~1955)の異才を見出し、手を差し伸べ たことだろう。カンザス・シティに居着いて間もなく、聞き慣 れないサウンドに耳を奪われたマクシャンはBar Lu Ducに飛び 込みパーカーの存在を知る。余りの異能振りに地元のミュージ シャンから共演を拒まれていたパーカーを1938年11月、クラ ブ・コンチネンタルに出演中の自分のテンテットに招じ入れるが、パーカーがドラッグに手を出していることを知り、退団さ せる。NYから戻ったパーカーを1940年前後にバンドに復帰さ せるが、<ヤードバード・スィート>などを作曲、作曲家とし ての才能もみせ始めていたパーカーの才能を惜しみながらも、 再度ドラッグに耽溺するパーカーを見過ごせず、ツアーの途中 で見限らざるを得なくなる。1942年末のことであった。なお、 パーカーのレコード・デビューは、マクシャンの『Hootie’s Blues』(1941)。

♪ バードとフーティ

パーカーのニックネーム“バード”についてマクシャンは以下の ように証言している; ネブラスカ州のリンカンへいく途中で、チャーリーは、バード というニックネームをつけられてしまった。レストランで食事 をしたとき、メニューにチキンとあるのをみると、どこのレス トランでも、彼は、「このヤードバードをもらおうか」と言っ ていたからだ。(『チャーリー・パーカーの伝説』ロバート・ ジョージ・ライズナー/片岡義男訳 晶文社~ジェイ・マク シャン~)なお、マクシャン自身のニックネーム“フーティ”に ついては、マクシャンの「酔っぱらい」説と、下戸のマクシャ ンがアルコール入りのカクテルを飲み、腰を抜かした様子をか らかわれた」(『KANSAS CITY JAZZ』Frank Driggs&Chuck Haddix/Oxford University Press)のふたつの説がある。 なお、上記『KANSAS CITY JAZZは、「Hootie’s Blues」として一章をジェイ・マクシャンに捧げてい る。

♪ カンザス・シティに骨を埋める

マクシャンは1943年から1944年まで軍役に服す。50年代と60年代にはレコードやツアーからは遠ざ かったが、69年にツアーを再開、80年代までヨーロッパ・ツアーを行うなど活発に活動を展開する。 1978年には彼を主役に映画『Hootie Blues』が製作され、1987年にはブル-ス基金の「名声の殿堂」に 推挙される。1996年、リズム&ブルース基金からパイオニア賞を受賞、2003年には「ブルース100周年」の特別企画でクリント・イーストウッドによりマクシャンをフィーチュアしたドキュメンタリー 『Piano Blues』が製作される。 2000年、カンザス・シティのアメリカン・ジャズ・ミュージアムはアウトドアのパフォーマンス・パ ヴィリオンを「McShann」と命名することを決定。 2003年には、アルバム『Goin’ to Kansas City』が「トラディショナル・ブルース」部門でグラミー賞に ノミネートされた。 2006年の今年、カンザス・シティの聖ルカ病院に入院中、死去。同地では来年早々、市をあげてのメ モリアル・イベントを予定しているという。

追記:
トリオレコード勤務時代にカタログ契約していたアラン・ベイツのBlack Lionレーベルにジェイ・マクシャンのアルバムが2作あったが、日本ではリリースする機会を見い出し得なかった。1作は、『Jay McShann ‎– The Band That Jumps The Blues』で、1947〜49年にLAで録音されたもの。もう1作は『Jimmy Witherspoon & Jay McShann』で、こちらも1947~49年のLA録音。最初のアルバムにもジミー・ウィザースプーン(vo) が参加しており、おそらく同じセッションからマクシャンとウィザースプーンのリーダー名で2作のアルバムを編集したものと思われる。明らかにマクシャンのバンドにウィザースプーンがヴォーカルとして起用されたセッションである。
なお、ブラックライオン・レーベルはその後フリーダム・レーベルなどとともにドイツの会社に売却され、現在はDA Musicから発売されている。

RIP Jay McShann 竹村1 RIP Jay McShann 竹村2

 

2.ジェイ・マクシャンを訪ねた時の事:竹村洋子

“The Last of Blue Devils”(1979)を最初に観た時のショックったらなかった。何だか解らないけど やたらスイングする人達がまだこんなにいるんだ...と驚いた。そしていつかカンサスシティに絶対行きたい!という思いがやっと実現して以来、年2回通い続けて今年で8年になる。最初にジェイ・マクシャンを聴いたのはいつだったか正確には覚えていないが、多分高校生の時。ジャズ好きのう~んと年上の友人に「随分渋いね!」と言われたのは覚えている。

カンザスに通い始めてすぐ、リンダ・マクシャンを紹介された。彼女はジェイの3人いる娘の一番 上。その下にジェニー、パムと続く。パムとは2年程前偶然デトロイト・ジャズフェスティバルの Jazz Timesのテントで働いていた時会った。  リンダとは最初に会った時からずっと親しくしている。彼女は1年半程まえにシカゴに移ったが、 カンサスにいる時は週に何度かジェイとマリーアン(ジェイの2番目の奥さん,現在足の骨を折って リハビリセンターにいる)に食べ物を持って行ったり、ここ数年は随分ジェイ夫婦をささえていた。 彼女はとても聡明で強く、そして優しい。私にとってもお手本のような存在の女性だ。リンダと知り 合ってから幾度もジェイの家に遊びに連れて行ってくれる、と言っていたがなかなかチャンスがな く、2005年の8月にやっと実現した。  ジェイの家に行く予定の前日、カンサスの古いアールデコ・スタイルの素晴らしいコンサートホー ル、フォリー・シアター(Folly Theater)でジェイのコンサートがあった。インターミッションにリンダが私を楽屋に連れて 行ってジェイとマリーアンに紹介してくれた。私はあのジェイ・マクシャンに会えるなんて、もうドキドキでかなりナーバスになっていた。晩年のジェイはあまり人との交流もなくコンサートが終わっ ても誰とも話さずすぐに帰ってしまい、家からもほとんど出ないので彼自身に直接会える事はカンサ スの人達にとっても稀な事なのだ。楽屋でジェイとマリー・アンにリンダが「私の友達のYokoよ!明日、家に連れて行くから!」とジェイ に紹介すると、彼は満面の笑みで「良く来た!良く来た!」と私の手を握ってくれて...もうそれし かその時の事は覚えていない。 楽屋をあとにした後、リンダが「ジェイはとってもイージーな人だから全然何も心配しなくてもいいの よ!」と言ってくれた。

その日のコンサートは、カンサスシティではトップクラスの実力を誇るドラムのトミー・ラスキン、ジェラルド・スパイツとベースとギターと のカルテット。ジェイ以外は全員2世代くらい若いミュージシャン達だったが、コンサートでは サイド・プレイヤー達の存在が私には皆無に思えた。ジェイが一人であの独特の声でウーウー歌いながら完全に 独走態勢、という印象だった。さすがに89歳。昔の輝きはないが相変わらずブルージーにスイング しまくり、あの大きな体をユッサユッサ揺すって演奏し、グランドピアノが小さくみえた楽しいコン サートではあった。恐らくあのコンサートがジェイ最後のオフィシャルなコンサートだったのではな いかと思う。

次の日のお昼過ぎ、リンダと一緒にジェイの家を訪ねた。あの日の事はまだ記憶に新しい。家に 入ってびっくりしたのはその暮らしの質素な事。ここからあのサウンドが生まれているとはとても考 えられないようなごくフツーの平屋。リビングの片隅にこれまた小さなピアノが一台。カウント・ベ イシーがオルガン一台しか持っていなかった事は有名だが、音が出れば何でもいいのかな?とその時 思った。

奥からジェイが杖をつきながらゆっくりした足取りで出て来て,“やあ,やあ!また良く来た!”と 言いながら前日とおなじ笑顔で出迎えてくれた。ジェイの笑顔は本当に顔がクシャクシャ、それだけ で私をリラックスさせてくれるような...もう何も話さず顔だけ見て帰っても充分、と言う気分 だった。ドッカーンと大きな体をソファに埋めていきなり「昨日のコンサートはどうだった?」と聞かれた。 正直、グレート!と言う感じではなかったので「良かったですよ。十分楽しめました。」と答えると、私の ちょっと伏し目がちな顔を覗き込み、身を乗り出して「本当にそう思うのか!?正直に言ってもいい よ!」と。そう来ればこちらももう嘘はつけない、「音が全部天井に上がってしまい、あんまり良くな かったかもしれませんね。」とごまかした。するとジェイは「あんな最悪なコンサートはないよ。ピア ノのチューニングはなってないし、弾いてて音は滑るし全然楽しくなかったから聞いてる方も絶対良 くなかったはずだ!」と何ときびしい事!もう一人では満足に歩くのも難しいもうすぐ9 0歳になるピアニストからこんな言葉を聞くとは思わなかった。事音楽に関してはギンギンに冴えま くってるのに驚いた。その後、リンダ、マリーアン、と一緒によもやま話。ジェイは途中何度もコッ クリコックリ..ちょっと眠そうだった。どうも昼下がりのお昼寝タイムだった様子。眠い時間一生 懸命付き合ってくれて感謝感謝です!  日本に来た話はとっくの昔に忘れちゃってた感じだったけど,私が色々話すと「あ~~!やっと思 い出した。あれは良かった!でも誰とやったっけ?」私も実はジェイの印象があまりに強烈でその時 のサイドメンが誰だかはっきり覚えていなかった。(1990年、ベースは確かリーン・シートン、 ドラムはチャック・リグス)迫力満点でサイドメンを寄せつけていなかった様子ははっきりと覚えている。その事を話すと、「そうだったかな~。」とワハハと大笑いし、それからブッシュ大統領に もらった賞状やいろんな物をマリーアンが持って来てみせてくれた。彼女にはそれが凄い誇りの様 だ。その間、ジェイは コックリコックリ...。さすがにリンダが「ダッド,眠いならあっち行って 寝なさいよ!」と言うと「大丈夫!」といって突然ピシっとなり、私に「何か楽器は弾くのか?」と話はじ めた。「高校生くらいまでピアノを少し」と答えると,「何か弾いてくれよ。」と来た。冗談じゃない!勘 弁してくださいよ~、もう。音楽の話になると俄然,冴えてくるジェイ。「よし!一緒にピアノ弾こうよ!」と...。一緒にピアノの前に行けただけでも光栄の至りであり ます。ぱらぱらと何曲か曲名不明のブルースを披露してくれた。ピアノの前にある譜面が 私の好き な<One And Only Love>を見つけたらちょっと弾いてくれて「Isn’t it nice?」とまた満面の笑みを見せてく れた。

ジェイの家にどれくらいいたか記憶にないが、もの凄く時間がゆっくり流れていたような気がする。 彼のエネルギッシュな演奏からは想像もつかないような、とてもとても緩やかで平和な時間だった。 家を後にする時、「もう疲れるでしょうからいいから・・・」と言ったのに玄関口までまた杖をついて見送っ てくれた。私にとっては最初で最後の貴重な時間だった。同じ時間を少しでも共有できた事をとても 光栄に、そしてとても嬉しく思う。

今でもKansasに行くとその辺りの家のドアからあのクシャクシャ な笑顔がフッと出てきそうな気がする。(ジャズ・コーディネイター)

 

( 2007年1月初出)

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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