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~No. 201カンザス・シティの人と音楽 竹村洋子

22 – part 1.もう一つの『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』

Jazz Tokyoが新サイトへと移ったのに伴い、旧サイトから新サイトへ過去のコラムを移植中、7年前に書いたコラムを再読する機会があった。2009年9月、『カンザス・シティと人と音楽』に、第二次世界大戦にまつわる話を2本投稿した。戦後生れの私がカンザス・シティを訪れ、ふとしたきっかけから始まった話だった。当時、多くの読者から反響を頂いた。あれから7年。時の経過と共に、世の中には様々な変化があった。現在世界が抱えている多くの問題を考える時、又、今夏の広島、長崎の『原爆記念日』『終戦記念の日』を迎えるにあたり、私がカンザス・シティ・ジャズから始まりアメリカを通して感じた『戦争と平和』について、読者の方に再度読んで頂きたいと思い、再投稿をさせて頂く次第である。

2016年5月27日。第44代アメリカ合衆国バラク・オバマ大統領は原爆が投下された広島へ『 核兵器の廃絶』を訴え、訪問を果たした。 原爆投下国のアメリカ現職大統領の初めての広島訪問ということで、歴史的出来事として世界に大きな波紋をよんだ。大統領就任期間が残り半年というタイミングで実現し、アメリカでは賛否両論あったようだが、日本ではほとんどの国民は大統領の広島訪問を評価した。これを機に『広島』に対する人々の関心が高まった事は事実だ。広島平和記念公園を訪れる日本人は、大統領訪問後40%増加。外国人に至っても15%増加した。日本を訪れるミュージシャンも多く立ち寄っているようだ。広島市長は「オバマ大統領の核兵器廃絶に立ち向かう情熱を世界に示すもので、『絶対悪を許さない』というヒロシマの思いが大統領に届いた」と述べていた。
この原稿を書いている数日前の8月6日から、ブラジル、リオデジャネイロでオリンピック・ゲームが始まった。この日は広島の『原爆記念日』だった。開会式セレモニーでは、インディオ、アフリカを始めとする各国の民族を象徴するパフォーマンスが演出されていたが、日本のパフォーマンスは広島の被爆者黙祷の時間に合わせて行われた、と聞いている。

8月6日にNHKテレビで放映された『決断なき原爆投下〜米大統領、71年目の真実』というドキュメンタリー番組を観た。原爆投下はトルーマン大統領が明確な意思のもとに決断した“意義ある作戦だった”という捉え方が今も一般的だが、その定説が今、歴史家達により見直されようとしている。計画は軍主導で進められ、大統領は実は何も決断しておらず、「女性と子供達は守りたいと強く望んでいた」という趣旨の内容だった。
オバマ大統領は2009年の大統領就任後のプラハで『核なき世界の実現』を訴えるスピーチを行ない、このプラハ演説はノーベル平和賞を受賞する要因の一つともなった。そして、今年、広島訪問を果たした。現在アメリカは、ホワイトハウスが『核先制不使用』を宣言する事を検討しているとしたメディアの報道を受け、国内外で大きな波紋が広がっている。オバマ大統領はプラハ演説、広島訪問に続き、核廃絶を掲げる自らの政治的遺産(レガシー)として検討中との事だが、核廃絶に期待すると歓迎する声と共に、『核抑止力が弱まる』という声もあるようだ。

平和の祭典であるはずのオリンピックは、テロ不安、ブラジルの政情の混乱などから異例ずくめの厳戒五輪のようだ。
世界の民族紛争は依然として終わらない。イスラム国によるテロ、テロリストによる無差別殺人・・・生物化学兵器や核開発も終わらない。

オバマ大統領は広島でのスピーチで、こう述べていた。「いつの日か、証言する被爆者の声が私たちの元に届かなくなるでしょう。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。それは努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。」長崎市長は「核兵器の歴史は不信感の歴史です。不信のサイクルを信頼のサイクルに転換するためにできることの一つは、粘り強く信頼を生み続けることです。」と述べていた。こんな発言も、私の7年前のコラムの再投稿のきっかけになった。

コラムの再投稿にあたり、今回の話の当事者である友人のファニー・ダンフィーに確認を取ったところ、彼女は快諾してくれ、「とても感謝しているわ!私は、国のために戦って命を落とした全ての兵士達に敬意を表しているのよ。それはアメリカ人であろうが日本人、フィリピン人、イギリス人、ドイツ人・・・どこの国の人であろうと関係ないわ。私達はこの宇宙に存在する一つの民族なんだから。」と言ってきた。
『もう一つの”父親たちの星条旗と”硫黄島からの手紙”』と『ふたりのアメリカ大統領:ハリー・トルーマンとバラク・オバマ』。このコラムが、読者の、特に若い世代の方々が平和について何か考えるきっかけになれば幸いである。(2016年8月10日)

*参考リンク
オバマ大統領広島訪問(2016)
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2016/obama/obama_speech_in_hiroshima.html

バラク・オバマのプラハ演説(2009)
https://ja.wikisource.org/wiki/

NHKテレビ『決断なき原爆投下〜米大統領、71年目の真実』
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586813/index.html


♪ Part 1.もう一つの『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』
Another ” Flags of Our Father ” and ” Letters From Iwojima”

text by Yoko Takemura
Special thanks to Victoria Fanny Alaadeen Dunfee

2006年に製作、公開されたクリント・イーストウッド監督の2本の映画、『父親達の星条旗』 と 『硫黄島からの手紙』 は日本でも海外でも話題となった。興行的にはアメリカでは今ひとつだったらしい。戦争をどちらが悪いという観点からではなく、戦争が人 間に与える影響について深く考えさせられる映画だった。もう一度観たいと思うか? と聞かれたら、もう結構、というのが本音であ る。映画とはいえ、私にとってはそのくらいショッキングかつ複雑な想いをさせられるものだった。 その理由のひとつに、今回のコラムで紹介する長い話がまさにこの映画そのものの様な話なのである。これはどこかで、いずれ紹介したいとずっと思っていた。また、この話がジャズを楽しもうという動機から訪れ始めたカンザス・シティ絡みである事も何かの縁だろ うとも。

話は2005年の4月に遡る。私のカンザス・シティの最初のガールフレンド、ファニー・ダンフィー(サックス奏者アーマド・アラ ディーン夫人)の家を訪ねた時の事だった。 当時、ジョージ・ブッシュ元大統領はイラク戦争で非難され始めていた。カンザス・シティの多くの友人達が、あの大統領の下で自分がアメリカ 国民である事が恥ずかしい、とよく言っていた。そんな話から、友人のファニーが、自分が平和主義者で正真正銘のヒッピーだったか という半分冗談の様な事を言い出し、当時の写真を探しはじめた。そして、幾つかの大きな箱を開け始めた。その中からいろんな物が 詰まったちょっとした大きさの袋が出てきた。「何かしら?」 とその袋を開けて、中身を見た私達2人は、一瞬あいた口が塞がらな かった。何と、長い年月きちんと保管されていたファニーのお父さんの遺品の数々、しかもすべて第2次世界大戦時の物だったのであ る。陸軍の軍服、帽子、山程のスクラップブックに混じってなんと数々の日本の紙幣、軍票、そして極めつけは“武運長久”と書かれ た日章旗とナチスの党旗、ハーケンクロイツ。(これは、この場で写真を出す勇気がかなりいった程の凄い迫力だった。ファニーには、この写真を公開してもいいが自分の顔とこの旗が同じ画面にあるのが嫌なのでカットして欲しいとまで言われた。)この2枚の旗は衝撃的だっ た。2人共ミュージアム以外では見た事はなかった。本物を手に取って見る事があるとは思っても見なかった。しかも日本人の私の前 で日章旗が出てきたのである。 私もファニーも気持を落ち着かせるのに、しばし時間がかかったのを鮮明に覚えている。私はその時、彼女に日本の兵士たちが出征する際、この様な旗と千人針を身につけていた事をごく簡単に説明した。彼女は 「この旗は父がきっと戦場の兵士から奪って来 たものだわ。日本人の旗だとしたら、誰の物か解らないかしら? 返すべきだわ。」と言い出した。

その時ファニーが私に語ってくれた彼女のお父さんの話は僅かだった。1942年に18歳で徴兵されヨーロッパとアジアの戦場へ 行った事、戦後、帰国した時はアルコール中毒だった。1994年に亡くなるまで娘のファニーともほとんど口をきかず寡黙な人で、特に戦争 については全くという程話さなかったらしい。彼女は、終生アルコールに頼っていたお父さんを、何故あんなに飲むのかもまった く理解できなかった、と。また、お母さんとは徴兵される前に婚約した。戦地からお母さん宛に送った手紙が何通かあるはずだが、お母 さんはそれを絶対誰にも見せず、何処にあるかも秘密にしていると話してくれた。 私は単純に日章旗に関しての興味と好奇心に加え、彼女の真剣な気持にできる限りの事ができたら、と思った。

カンザスに滞在中に日章旗のコピーを取り、数枚の遺品の写真をとらせてもらい日本に持ち帰った。そして日章旗の謎解きを始め た。
私はこの日章旗を最初に見た時、何か変だな? と感じた。まず、日の丸のバランスがとても悪い。大きすぎるのである。日本人なら 小学生でもそこそこのバランスで日の丸を描く事はできるだろう。 旗に書かれている文字も実に下手なのである。内容については、”武運長久”くらいは知っていたが、他に読めない漢字や意味不明の 文字がかなりあった。また、持ち主本人のちゃんとした名前らしきものもなく、まるで中国語の様なニュアンスの細かい単語が多いの もなんだか変だと思った。(中神、先川、日司令、丙丁、天上才子、合作一致、為国祐戦、etc.)そして”台礼市”という土地の名前 らしきものが書いてあった。当時、台湾は日本国に編入されていた(1938~1945)。どうもその辺りの国が絡んでいる様な気がし た。最も変だと思ったのがスタンプが押してあったことだ。よく見ると”軍事郵便”と読めるような気もした。が、日本の漢字ではな い。旧漢字でもない。この手の旗に日本人がこんなスタンプを押すだろうか? 旗の持ち主は生粋の日本人とは思えない様な気がして 来た。これには印鑑屋にまで行って解読を試みたが駄目だった。 台湾の領事館に電話をして事情を話し、旗と軍票のコピーを持って出向いた。

台湾の領事館は正確には”台北駐日経済文化代表所”といい、港区、白金にある。そこの一等秘書官である郭氏(Mr. Kuo Chung – Shi)に、とても丁寧に対応してもらえた。郭氏は戦後生まれ。私より少し年上だろうか? 大変な親日家と見受けられ、日章旗につい てもかなり興味深そうに真剣に向き合っていた。郭氏にとっても、その場ではやはり意味不明な事が多すぎて即答できず、調べてみる からコピーを預けてくれないかと言われ、1週間後に再訪した。 郭氏はかなり色々な人にこの日章旗について聞き回った、と言った上で自分の見解を、細かく台湾の漢字文化まで交えて説明してくれ た。文字もほとんど解読できたが、それでも未だ意味不明、間違いがいくつかあった。とくにおかしいのは”台礼市”という都市は台 湾にはない事、台湾人でも中国人でも絶対書かない文字がいくつかある事(でも日本人でも絶対書かない漢字があるのも事実)を指摘 された。そして、スタンプに関しては私と同じ意見でおそらく”軍事郵便”だろうがこれも誤字で、何故押してあるのかは謎。という 見解だった。

軍票(war note)については、コレクションの中に何枚かの特別な物があった。One Centavo, ten peso, 5 peso。これらはフィ リピンの物であり1941年だけに作られた物であった。またTIEN centと言うインドネシアの軍票もあった。これらの軍票はサウス・ デベロップメント・バンクノートと呼ばれ、当時、日本の占領下にあった東南アジア諸国(フィリピン、インドネシア、ビルマ、グア ム、サイパン等)で使われていたが、これが使えたのは台湾の兵士だけだったという事実が解った。

そして、私達は結論を次の様に考えた。 この日章旗の持ち主は、台湾が日本国であった時代の中でも1941年から1945年、当時日本人に教育を受け、日本政府によって徴兵され、日本人として戦った台湾人の兵士だろう。しかし、その教育レベルは、教えた方の日本人も、旗の持ち主だったであろう台湾人 も決して高くない。軍票から、おそらくフィリピンを中心とした当南アジアで戦っていた兵士。旗にあるスタンプから、何かしら軍事 郵便と関わりのある人であったのではないか。
とまでしか解らないという事だった。とにかく決め手となる情報が少なすぎた。 すぐに持ち主が解ったら、それはある意味ハッピーエンドだったかもしれない。が、話はもっと深く複雑なミステリーになってしまっ た。持ち主こそ解らなかったが、あの第2次世界大戦が如何に多くの民族、国を巻き込んだ膨大なスケールのものだったかを、改めて 思い知った。

私はこの話をレポートにまとめ、ファニーに送った。彼女は私同様に、旗の持ち主は解らなかったけど、とても興味深い話でここまで調べてくれてとても嬉しい、と大変感激してくれた。少なくとも彼女のお父さんが終戦に近い頃、フィリピンにいた事実は解った。

ファニーは日章旗をきれいに額装し、額の裏に私のレポートを入れ、リビングルームに星条旗と一緒に今も飾っている。家宝として彼女の息子さんや孫達に受け継がせて行くと言っている。
この旗に関しては、日米両国、台湾の人達にも協力してもらい、多くの人が興味を示した。
この話はここで一応の決着がついた。と、この旗に関わった誰もが思っていた。

 

それから4年後の2009年3月。 ファニーから「お母さんが少しずつ心を開いてきて、お父さんの戦場からの手紙の一部を見せてくれた。」というメールが来た。今度 カンザス・シティに来たら見せてくれる、と言うではないか! お母さんにとってその手紙はプライバシー以外の何ものでもなかった はずで、全く予期せぬ展開だった。 5月にファニーの家を訪れた時、彼女は一つの木の箱を持って来た。彼女はとても注意深く開け、中を見せてくれた。中には約50通 程だろうか、びっしりと手紙が詰まっていた。しかもそれらは65年余り前のものとは思えない程、良い状態で保管してあった。きっ と長い年月、陽にさらす事なく、お母さんがずっと大事に宝物として持っていたのだろう。 お母さんの宛名、住所ははとてもきれいな繊細な字で書いてある。アメリカ政府の軍事郵便なので差し出し場所は書いてはあるが、土 地の名前ではない。ほとんどは所属する部隊の名前と番号と見た。軍から支給された封筒、便箋、封筒類に ”Idole Gossip Sinks Ship” とかいくつかのスローガンが印刷してあったのを彼女は面白いから積極的に見る様にとすすめてくれた。 ファニーは当然その手紙は既に読んだ後だった。手紙は1箱しか渡されていないが、未だいくつかあるはずだと言う。

ファニーの話によると、お父さんは1942年、18歳で徴兵されベルギーとフランスを中心にヨーロッパを回り、第2次世界大戦終 戦直後に東南アジアへ派遣された所がフィリピンだった。陸軍で、敵の戦車を破壊するための通信部隊 (635rd Tank Destroyer Battalion)に所属していた。前線の最前列に未だ10代だったお父さんは配属されていたらしい。フィリピンでは劣悪な環境の中で2 度もデング熱にかかり、生死を彷徨った事がかなり詳しく書いてあったようだ。彼女が読んだ一箱の手紙は偶然か、ほとんどプィリ ピンからのものだったのである。 「手紙は自由に見てもいいわよ。」と言ってくれたが、私は手紙に触れるのを躊躇した。中を開いて読む程の神経は持ち合わせていなかった。私が余り積極的に読もうとしなかったのには、彼女がすでに読んだ後で、何が解ったか先に話してくれていた事もあった。私 にはそれで充分。内容はお父さんとお母さんのプライバシー。お父さんの手紙は婚約者のお母さんに戦場から送ったラブレターであ る。中身を読まなくても、きれいな字で細かく書かれた物を一瞬でも見れば、それがどんな内容のものか普通の人間なら察しがつくだ ろう。10代で戦場の最も過酷な前線で、いつ戦死してもおかしくない状況下にいたお父さんにとって、婚約者であるお母さんの存在 がどれほどの支えであっただろうか、と想像する。それを3年間書き続けていた訳である。書ける時はほとんど毎日、日記の様に書い ていた様だ。たわいもない事をただ淡々と書いていたかもしれない。自分がまともに生きている証として。手紙を心待ちにするお母さんもどんな気持であっただろうか。現在のように何でも瞬時にeメールで済ませられる時代の話ではない。書いても投函しなかった手紙 も山程あるのではないか、と私達は想像している。

私の中でファニーのお父さんの手紙と、映画 『硫黄島からの手紙』 がだぶった。彼女は「『硫黄島からの手紙』 は、もの凄くよく出 来ているすばらしい映画だと思う。でも父の事が重なって身につまされ、まともな神経であの映画は見られなかった。」と言ってい た。

彼女のお父さんは、終戦をフィリピンで迎え、アメリカに帰国する。そしてホームタウンであるカンザス・シティでお母さんと結婚 して、Pioneer Music Company (日本のパイオニアではない。トム・ペンダーガストの時代からカンザス・シティにはマフィアがはび こっており、その傘下の会社だったらしい)という会社でジューク・ボックスのセールスをしており、カンザス・シティのジャズ・ク ラブに出入りしていたようだ。1994年に逝去された。

手紙を前にしてファニーは私にこう言った。 「この手紙を読んで、どうして父があんなに終生寡黙でアルコールに頼ってたか、少し理解できる様な気がするわ。多分、もう思い出 したくなかったのよ。18歳って未だ子供じゃない。(タリバンの兵士達だって同じなのだ。)戦争は本当に人間そのものを変えてし まうものなのよね。加害者も被害者も同じでどちらかが悪、という事じゃないわよね。戦争そのものが “悪” なのよね。父の遺品を 貴女と偶然見つけ、今こうやって手紙を読んで、やっと父の話が完結した様な気がするわ。本当の事は当事者しか解らないけど、長い 間謎だらけだったのよ。私達はジャズを通して知り合ったけど、父の事、戦争の事が、私達の仲を一層深めたわね。」と。

(2009年8月29日記)

 

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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