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~No. 201カンザス・シティの人と音楽 竹村洋子

22 – part 2. ふたりのアメリカ大統領 ~ハリー・トルーマンとバラク・オバマ大統領

♪ Part 2. ふたりのアメリカ大統領 ~ハリー・トルーマンとバラク・オバマ大統領
Two American Presidents ~ Harry S. Truman and Barack Obama

text by Yoko Takemura

Part 1で、私は友人のファニー・ダンフィーのお父さんの遺品である日章旗と手紙の話を書いた。私とファニーには驚きの連続だったが、同じような話は世界中に山ほどあるだろう。
この話を今年の夏、是非紹介したいと思ったのにはいくつかの事柄が重なったこともある。

カンザス・シティといえば1920~30年代、民主党員のトム・ペンダーガストがあらゆる面において大きな影響を及ぼした。当時禁酒法下だったアメリカで、彼は警察を抱き込みその禁酒法を有名無実化させ、ナイトクラブの違法営業を庇護した。お酒も何でもありで、そこでカンザス・シティ・ジャズが花開いたとも言える。その、ペンダーガストの支援によって上院議員から後にアメリカ合衆国33代大統領にまでなったのが、ハリー・トルーマンであ る。トルーマンはカンザス・シティが生んだアメリカの英雄の一人であるが、ペンダーガストの存在なくして彼は大統領にはなれな かったかもれない。もっともトルーマンが大統領になった1945年にはペンダーガストはすでに脱税でつかまり(1939年)、彼の勢力はカンザス・シティにおいてはほとんどなくなっていたが。そういったいきさつで、トルーマン〜ペンダーガスト〜カンザス・シティ・ジャズという図式になる。

ハリー・トルーマンはミズーリ州ラマーという所の出身だが、6歳の時にカンザス・シティのダウンタウンから車で30分程の所のインディペンデンスに越して来て、そこで1972年に88歳で亡くなっている。 そのインディペンデンスの素晴らしく眺めの良い高台に、ハリー・トルーマン・ライブラリー&ミュージアムがある。私は2004年の春に初めて訪れた。ミュージシャンズ・ファウンデーションのエグゼクティブ・ディレクター、ベッツイ・クロウと故クロード・ウィ リアムスの夫人ブランチが連れて行ってくれた。美しく手入れされた広大な芝生の敷地に建つミュージアムはとても平和な印象をか もしだしていた。ミュージアムは素晴らしく美しいのだが、中に入る時ちょっと複雑な気持だった。なんと言ってもトルーマン・ミュージアムなのである。

トルーマンはアメリカ人にとっては 『原爆投下によって第2次世界大戦を終結させ、多くのアメリカ兵士の命を救った大統領』 という評価が正当化されているのは事実である。今でも、多くのアメリカ人が 「原爆投下は正しかった」 というのを私は幾度も耳にしており、私が原爆のことを一言でも言おうものなら「じゃ、パールハーバーは?」 と必ず聞かれる。ちょっと年配のジャズ・ミュージシャンからも何度も聞かれたことがある。(これにきちんと反論するには、戦争についての知識、認識、相当な語学力がいる。大変恥かしいが、50年代後半生まれの私には荷が重すぎて不可能に近い。)

しかし、多くの日本人にとってトルーマンは 『何の罪もない人々を原爆投下によって大量虐殺したが、戦犯として裁かれなかった唯一の人』という認識があるのも事実だろう。

ひょっとしたら一緒に行ったベッツィとブランチと私の間に意見の相違があるかもしれない、とそんなことも気になった。実際、彼女達は戦中派であるが、戦争は良しとしないことは始めから解ってはいたので一緒に行った訳だが。ミュージアム内には、広島の原爆記念公園で見た様な写真の展示が沢山あるんじゃないか、と心の隅でちょっと思っていた。
ミュージアムを訪れたのが平日の昼間であり、館内は閑散としていた。団体の観光客や、教育の場として利用されることでもない限り、地元の人達はほとんど行かないらしい。実際、ブランチは「長くカンザス・シティに住んでいて初めて来た。」と言っていた。館内に入り、展示を端から3人でゆっくり一通り見た。その展示内容は、私にはまったく信じられなかった。

原爆投下についてのコーナーが驚くほど少なく、見過ごしてしまいそうな位お粗末だと感じた。見過ごした、ということは絶対ないはずだ。このことはミュージアムのウエブサイトを見て再認識した。

大統領としてのトルーマンの政治活動の評価は極めて高い。第2次世界大戦後、トルーマンの活動はじつに多岐にわたり、多くのことを成し遂げている。マーシャル・プランといわれる戦後のヨーロッパ諸国の復興、朝鮮戦争で今の韓国が共産主義に侵害されるのを防い だこと等々、多くの功績があるのは歴然たる事実であり、ミュージアムの展示ではそちらに重点が置かれているのだ。アメリカ人の立場になって考えてみれば当然のことだろう。 しかし私は『唯一の被爆国の日本国民である』という意識を捨てきれなかった。広島、長崎の原爆であれだけの人が亡くな り、その後遺症で苦しんでいる人達がまだまだ沢山おり、核所有国は増えているのに、この展示の内容って一体何なんだろう?と 強く思った。と同時に、多くの日本人がこの展示を見たら、もの凄く不快に思うに違いない、とも。日本人にとってだけでなく世界にとって、広島、長崎は終わっていないのだから。何かおかしいんじゃないか? とそれ以来、ずっと思っていた。 私の身内にかの戦争の被害者がいない訳ではない。しかし、とくに被害者意識からということではなく客観的にトルーマンをこのコラムで取り上げるには、まだまだ気持の整理が必要だった。どうして、よりによってトルーマンがカンザス・シティの人なのよ!とさえ 思っていた。つい最近に至るまで。

私の気持を大きく動かしたことが今年の春あった。4月の初め、テレビのニュースでオバマ大統領のプラハでの核廃絶のスピーチを見た。大統領就任3ヶ月後のそのスピーチの内容に驚いたのである。長い演説の中、とても気になった箇所があった。ニュースだけではすべての内容が解らなかったので、ファニーに趣旨を伝え、全文をインターネットで探してくれる様に頼んだところ、すぐに演説全文が送られて来た。オバマ大統領はスピーチの中でこう言っていた。
『何千もの核兵器の存在は冷戦の最も危険な遺産である。(中略)核兵器を使用したことのある唯一の核保有国としてアメリカは道義的責任(moral responsibility)を持つが故に行動する。我々は単独では成し得ないが先頭に立って引っ張って行くことはできる。今日、私は核兵器抜きの平和と安全を追求するアメリカ合衆国の姿勢を信念を持って世界にはっきりと訴えたい。この目標を達成するの は容易ではない。私が生きている間にはおそらく無理だと思う。』と。こんな発言をしたアメリカ大統領は過去にいただろうか? 核を使用した国が核のない世界を追求する 『道義的責任』 がある。と言っ ているのである。これってもしかしたら、画期的な発言じゃないか?! と強く思い、他のメディアがどう捉えているのか、とても興 味があった。読売新聞のコラムに、私が感じたことと同じ様なことが書かれていた。他のメディアはどうだろうかと、5〜6人に聞いたが何の反応もなし。インターネットで色々検索してみた。Asahi.comは演説内容をきちんと明記していたが、それ以外ピンと来る内容の物は見つか らなかった。その時は、何故話題にならないのか、ただただ不思議だった。この原稿が掲載される頃、このスピーチについてはもっと 色々な論議が湧き出ているだろうと察する。

7月14日、新聞でファッションデザイナーの三宅一生氏が、オバマ大統領のプラハでの“核兵器なき世界” のスピーチに感動し て、ニューヨークタイムズに投稿し、オバマ大統領に広島を訪れることを要請した。という記事を目にした。三宅一生氏の投稿は大きな 波紋をよんでいる。 http://www.nytimes.com/2009/07/14/opinion/14miyake.html?_r=1&scp=2&sq=Issey%20Miyake&st=Search


以下、三宅一生氏『A Flash of Memory』の日本語訳を参照していただきたい。

閃光の記憶』
核廃絶へのオバマ氏との一歩
三宅 一生(みやけ いっせい)
衣服デザイナー

本年4月、オバマ米大統領がプラハで行った演説のなかで、核兵器のない世界を目指すと約束されたことは、私が心の奥深くに埋もれさせていたもの、今日に至るまで自ら語ろうとはしてこなかったものを突き動かしました。
大統領の演説は、私も「閃光(せんこう)」を経験した一人として発言すべきであるということ、自身の道義的な責任ということを、かつてなく重く受け止めるきっかけとなりました。
1945年8月6日、私の故郷の広島に原爆が投下されました。当時、私は7歳。目を閉じれば今も、想像を絶する光景が浮かびます。炸裂(さくれつ)した真っ赤な光、直後にわき上がった黒い雲、逃げまどう人々……。すべてを覚えています。母はそれから3年もたたないうち、被爆の影響で亡くなりました。
私はこれまで、その日のことをあえて自分から話そうとはしてきませんでした。むしろ、それは後ろへ追いやり、壊すのでなくつくることへ、美や喜びを喚起してくれるものへ、目を向けようとしてきました。衣服デザインの道を志すようになったのも、この経験があったからかもしれません。デザインはモダンで、人々に希望と喜びを届けるものだからです。
服づくりのしごとを始めてからも、「原爆を経験したデザイナー」と安易にくくられてしまうことを避けようと、広島について聞かれることにはずっと抵抗がありました。
しかし今こそ、核兵器廃絶への声を一つに集める時だと思います。広島市内では現在、8月6日の平和祈念式へオバマ大統領をご招待したいという市民たちの声が高まっています。私もその日が来るのを心から願っています。
それは、過去にこだわっているからではありません。そうではなく、未来の核戦争の芽を摘むことが大統領の目標である、と世界中に伝えるには、それが最上の方策と思うからです。
先週、ロシアと米国が核兵器の削減で合意しました。非常に重要なひとつのステップです。ただ、楽観してばかりもいられません。一個人の力、一国の力だけでは核戦争を止めることは不可能です。他にも、核のテクノロジーを手に入れている国々があると聞いています。世界中の人々が声をあげて、平和への望みを表明しなければなりません。
オバマ大統領が、広島の平和大橋(彫刻家イサム・ノグチが自身の東西のきずなへの証しとして、さらに、人類が憎しみから行ったことを忘れないための証しとして、デザインした橋)を渡る時、それは核の脅威のない世界への、現実的でシンボリックな第一歩となることでしょう。そこから踏み出されるすべての歩みが、世界平和への着実な一歩となっていくと信じています。

14日付の米紙ニューヨークタイムズへの寄稿の原文。
(2009年7月16日 朝日新聞朝刊)


クリント・イーストウッドの硫黄島2部作も、戦争を今までの戦争映画とは違う捉え方をしている。彼は2本の映画についてこうコメントしていた。『日米双方の側の物語を伝えるこれらの映画を通して、両国が共有するあの深く心に刻まれた時代を新たな視点で見る事ができれば幸いです。』と。
これら一連のことから、もう時代は確実に変わって来ている、と強く感じた。私はもう「トルーマン・ミュージアムの展示って、どこか違うんじゃない?」とはっきり言える。私がトルーマンについて書くことを躊 躇する必要もないとも。ここでトルーマンが 『悪』 であると言うつもりもない。ミュージアムで感じたもやもやが、吹っ飛んだ 感じがしている。『戦争はどんな理由であれ悪である』という事実は事実。多くの人の命を奪い、人そのものまでも変えてしまうのだから。人によっ て作られた武器で多くの人が死んでいく。それを食い止められるのは人でしかない。それだけである。 オバマ大統領の言う様に、核兵器廃絶は長い道のりになるだろう。過去の人類の歴史は侵略、殺戮の繰り返しである。現実に、パレ スチナ、アフガンを始め至る所で戦争がまだまだ続いている。 私のカンザス・シティの友人達は戦後生まれがほとんどである。彼らは勿論、ベトナム戦争、イラク戦争を知リ、それをNO! としてい る。今回の長い話を巡り、友人達が私にとても協力的で好意的に意見してくれた。少なくとも私にとっては、新しい世代の友人達と こうやって、気軽に核や戦争について話ができるようになったことは、一つの変化(チェンジ)だと思う。

カンザス・シティ・ジャズ、トム・ペンダーガスト、ハリー・トルーマン、第2次世界大戦、ファニーのお父さんの日章旗や手紙、 クリント・イーストウッドによる硫黄島映画2部作、オバマ大統領の核廃絶スピーチ、三宅一生氏と、もの凄く長い話になってしまっ た。
もしカンザス・シティを訪れなかったら、私の『硫黄島2部作』 を観た時の印象も少し違ったかもしれない。そして、戦争、原爆、 核兵器について今ほど真剣に考えなかったかもしれない。カンザス・シティを訪れ始めた時は、こんな話を書くとは夢にも思っていな かった。

(2009年8月29日記)

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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