ある音楽プロデューサーの軌跡 #45「NADJAレーベル」

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text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

僕が旧トリオレコードの海外渉外担当から制作に移籍(といっても少数精鋭の事業部、ひとりで何でもこなす必要があったのだが)してまもない1973年のある日、当時の大熊隆文事業部長(故人)から1本のカセットテープを手渡された。「すごくいい演奏なんだけど音源がカセットなんだ...」。たしかに、ピアノの菅野邦彦が九州や奄美の熱いファンを前にノリに乗った演奏を展開している。しかし、いくらまれに見る素晴らしい演奏でもカセットテープに録音された音源をレコード化するわけにはいかない。大熊さんは当時トリオレコードが制作を委託していたオーディオ・ラボのオーナー/エンジニア菅野沖彦さんの従兄弟で、邦彦さんはその実弟だった。菅野邦彦は非常にナイーヴな神経の持ち主でスタジオではなかなか実力を発揮できず、これだけの快演はライヴならではの貴重な演奏であることを知るに及んだ。テープは九州ツアー3箇所からのセレクションで、しかも奄美の名瀬は初めてのジャズ・ライヴということだった。大熊さんの心中は察するに余りあった。そもそもトリオレコードは、ステレオメイカーの音楽事業部としてオーディオ開発に寄与し、ステレオユーザーにトリオ製品を満喫すてもらえるハイ・クオリティのレコードを輸入・制作することを目的に設立された事業部である。フランスのシャルラン、ドイツのヴェルゴ、のちに契約するECMはどれもこのコンセプトに叶ったレーベルであった。一週間ほど考えた末、トリオとは別に新しいレーベルをオープンし、今後の同じようなケースに対応したらどうかと提案した。いや、むしろミュージシャンが自主制作した音源を積極的に受け入れるレーベルに育てたらどうだろうか。幸い大熊さんの賛同を得られ、即座に大熊さん自ら「Nadjaナジャ」と命名したのだった。そしてそのあとに僕が慌ててレーベル・コンセプトとして、ミュージシャンによる自主制作のためのレーベルを意味する “a label open to independent products by musicians”と付け加えた。ナジャはよく知られるようにシュールレアリスムの旗手アンドレ・ブルトンのパートナーで、自由奔放な精神と能力の持ち主。大熊さんはシュールレアリスム他コンテンポラリー・アートにとても造詣が深く、ヨーロッパ出張の折りなどいろいろレクチャーを受けたものだ。日本で人気のベルナール・ビュッフェを観るならジャン・デュビュッフェを観なさい、というのも彼の貴重なアドヴァイスのひとつだった。日本では入手できないからと言われてパリの書店でデュビュッフェの画集を買い込んだりした。大熊さんはその後、徳間ジャパンを経てスイング・ジャーナル誌の編集長を務めるに至るのだが、トリオレコードのチャレンジングでアヴァンな気風の基礎は彼によって醸成されたと言って良いだろう。

かくして、Nadjaレーベルの第1作として『菅野邦彦/Live!』(PA-6021,1974) がリリースされた。ファンがカセットで録音した音源を始め、ツアー・プロモーター中山信一郎さんのライナーノーツ、地元のイラストレーターによるアートワークなどすべてが中山さんを中心とする鹿児島のジャズ・ファンによる手作り感あふれたアルバムとして完成したのだった。“録音のクオリティよりも演奏のクオリティ” をコンセプトにしたNadjaレーベルの評判は良く、その後もいくつかの素晴らしくも貴重な音源が持ち込まれた。『菅野邦彦/Live!』でA&Rとしても名を上げた中山さんが次に持ち込んだのが渋谷毅の鹿児島のクラブ「パノニカ」での演奏だった。渋谷さんも菅野さん同様、大変ナイーヴな感性の持ち主で、中山さんは渋谷さんを自分が経営するクラブに半年おいて2度招聘し、録音もアマチュアながら技術に長けた地元の仲間に依頼、遜色のないクオリティで仕上げられていた。『ドリーム』(PA-7127,1975)と題されたこの渋谷さんのデビュー・アルバムも大きな評判をとった。ライナーノーツはこれも中山さんの手になるもので、発売に至る経緯や、演奏者の人と成り、九州のジャズ事情にも触れた内容は、地方のジャズシーンに大きな刺激と影響を与えたと聞かされた。

これら2作の間にはモンタレー・ジャズ・フェスティバルから凱旋帰国した宮間利之とニューハード・オーケストラから持ち込まれた音源もあった。2枚組のドキュメンタリー『宮間利之とニューハード・オーケストラ/ライヴ・アット・モンタレー』(PA-3038/39,1975) としてリリースされたこのアルバムは、ディジー・ガレスピーやカル・ジェイダー、ジェローム・リチャードソン、モンゴ・サンタマリアがゲスト参加したニューハードにとってはまさに記念碑的な存在で、バランスなどはベストとは言えないまでも当地の熱狂的な反応を伝える唯一無二の内容だった。PA-outと思えるこの音源もNadjaレーベルが存在しなければ世に出ることはなかったものと思われる。

その他、トランペッター沖至の渡仏を前にした”さよならコンサート”を収録した『しらさぎ』(1974)や、高木元輝&加古隆カルテットによる『パリ日本館コンサート』(1974)、豊住芳三郎の『メセッージ・トゥ・シカゴ』(PA-3172,1974)、阿部薫のソロ2枚組『彗星パルティータ』(PA-6137,1981)など日本のフリージャズ・シーンのエポック・メイキングなアルバムが連なっている。ちなみに、豊住さんの『メッセージ・トゥ・シカゴ』は、引退後に直木賞を受賞した推理作家原尞のピアニストとしての現役時代の演奏が収められた数少ないアルバムのひとつである。
また、ベティ・カーターが自身のBetCarレーベルで自主制作したアルバム『ベティ・カーター』(PAP-9017,1974)をライセンス契約しNadjaレーベルから国内発売したところ、思いがけず当時のスイング・ジャーナル誌ジャズ・ディスク大賞の「海外ジャズ・ヴォーカル賞」を受賞、少なからず業界を驚かせたこともあった。まさに、“録音のクオリティより、演奏のクオリティ”が実証された一作だった。これによりミュージシャンズ・ミュージシャン的存在だったベティ・カーターの来日が実現し、一挙に日本のファンに知られる存在になったのだった。
Nadjaレーベルのアルバムはどれも異色だったが、なかでも異彩を放っていたのは、越後瞽女(ごぜ)伊平たけさんの伝承芸の全貌を2枚のLPに収録した『伊平たけ/越後瞽女口説き「しかたなしの極楽」』(PA-6034/35)だろう。これは番組の取材で出会った越後瞽女伊平たけさんの至芸に惚れ込んだTBSラジオのプロデューサー伊藤孝さんが企画した赤坂 ・草月会館での演奏(1973年6月2日)をライヴ収録したものである。伊藤さんからは、当時TBS・TVのプロデューサーだった副島恒次(故輝人さんの実弟)さんを通じてコンタクトがあり、Nadjaを通じて伊平さんの伝統芸を記録・保存・公開することが可能になった。婚礼祝唄、門付け、万歳に加え、LP両面約1時間にわたって収録された「宗五郎一代記」が圧巻である。

結局、Nadjaレーベルは内外のアーチストの音源を中心に40タイトル以上の作品をリリースし、アーチスト自身によるいわゆるインディ・レーベルの台頭とともにその役目を終えたのだった。
https://www.discogs.com/ja/label/228257-Nadja

ところで、今年 (2018年)の3月初旬、かつての同僚原田和男から、Nadjaレーベルを設立するきっかけとなった菅野邦彦の音源を提供してくれた中山信一郎さんの訃報が届いた。2005年に脳梗塞で倒れて以来、長い闘病生活だった。中山さんの訃報と相前後して、中山さんとジャズを通じて無二の親友だったジャズ・プロデューサーの森山浩志(博)さんも亡くなっていたことを知ることになる。ふたりは共に1936年生まれの同い年。中山さんはその著書『土曜日のジャズ 日曜日のシネマ』(松尾書房 1983)の中で一項を割き、「わがジャズの師、森山浩志の世界」を表し、愛情溢れる筆致で森山さんの人と成りを活写している。一方の森山さんは、著書に添付された付録の中で「野球の話をしよう」と題された洒脱なエッセイを寄稿し、中山さんを親しみを込めて「お前」呼ばわりしている。中山さんは実家の呉服問屋の身上を潰したと言われるほどジャズに入れあげたが、そのジャズの醍醐味を中山さんに教え込んだのが他ならぬ森山さんなのだ。一方の森山さんは有力病院の外科部長を勤め上げた父親が遺した身上を茶の道で潰したと聞かされた。ふたりともいわゆる 筋金入りの “趣味人”で、そういう意味ではいい人生を送ったと思われるが、森山さんをディレクターに迎え録音エンジニアとして多くの名作を残した菅野沖彦さんは森山さんについて以下のように語っている;

森山氏は、『スイング・ジャーナル』誌出身のジャズと芸能文化の専門家で、文筆の才高く、豊かな趣味人である。レコード制作の経験はなかったが、僕との仕事で今や一流のディレクターとなった。ジャズメンとの知己、信頼に厚く、この人の存在なくては僕のジャズのレコードは生れなかった。(菅野沖彦  僕のオーディオ人生 lV)

一方の中山さんの人と成りについては、上掲の『土曜日のジャズ 日曜日のシネマ』に寄せられた渡辺貞夫さんの推薦文を転載することを許していただこう;

いつか中山さんが泊まりがけで家に来た時のことである。夜もふけて、いきなりうちのカミさんにむかって”ミッコちゃん、寝ようよ”と言われてびっくりした。”それだけはカンニンしてよ”というぼくのセリフで集まっていた友人たちは笑いころげたが中山さん一人、キョトンとして何が起こったのか理解に苦しんでいる顔をしていた。中山さんの会話には、いつも省略と飛躍がある。いつもアップ・テンポで、いつのまにかこちらも口をとがらせて走らされてしまう。それがとてもジャジーなのだ。”ミッコちゃん、もう遅いし、疲れたので休ませて”ではJAZZにならない。会話にJAZZをもった男、中山さん(以下略)。(渡辺貞夫)

ちなみに、この『土曜日のジャズ 日曜日のシネマ』。中山さんが命をかけた人生の二大テーマ、ジャズと映画について
語り尽くした名著。何よりも中山さんのジャズとシネマに対するあふれるような愛情に溺れそうになる。僕はかつて本誌のLibraryで取り上げたのだが、サーバー移転の際データを消失、読み返すことができない。ジャズや映画を愛するファンは機会があればぜひ一度手にしてもらいたい。

森山さんとは2014年、何十年ぶりかで再会することができた。旧トリオレコードのために森山さんが菅野さんと組んで制作した数多いアルバムの中から、森山さんがいちばん好きなモダン・スイング系のアルバムを15枚選び出し、「音の匠・菅野沖彦・昭和のジャズ・モダンスイング・シリーズ」と題して再発させていただいた。あまり感情を露わにしない森山さんが、初めてCD化された数枚のアルバムが再生されたとき、思わずほころばせた幸せそうな顔を忘れることができない。レコードを再生できず、何年も聴いていなかったのだという。その年、ウクレレ・スタジオで開いた忘年会にお誘いしたのも森山さんが大学のハワイアン・バンドでスチール・ギターとボーカルを担当していたことを知っていたからこそ。相変わらずのダンディぶりで、「信一郎が」「信一郎が」と中山さんの病状を案じておられたが、その森山さんが数ヶ月とはいえよもや中山さんより先に逝かれるとは..。

photo (L):Moriyama’s private collection, 1970
photo (C):Kaz Harada @recordings of Keith Jarrett/Sun Bear Concerts, 1976
photo (R):Courtesy of Universal Music, 2014

稲岡邦彌

稲岡邦彌

稲岡邦弥 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。音楽プロデューサー。著書に『改訂増補版 ECMの真実』編著に『ECM catalog』(以上、河出書房新社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。Jazz Tokyo編集長。 https://www.facebook.com/kenny.inaoka?fref=ts

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