Relection of Music Extra-A マリオ・スキアーノ

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マリオ・スキアーノ @メールス・ジャズ祭1992
Mario Schiano @ Mores Festival 1992
Photo & text by Kazue Yokoi 横井一江


*本稿は2008年に亡くなったマリオ・スキアーノへの追悼の意を込めて、JazzTokyoの旧Columnに書いた文章である。

 

ローマ、フリージャズ界のドン、マリオ・スキアーノが2008年5月10日に亡くなった。この数年間は闘病中で、その状態は良くないと聞いていたが、やはり訃報に接するというのは寂しいものがある。

彼は愛すべきキャラクターの持ち主だった。スキアーノに会うと、なぜか彼をたちまち好きになってしまう、そんな人物だった。スキアーノのことを話題にすると話相手のミュージシャンは、なぜか「ハ、ハ、ハ」と笑う。音楽的には異論を持っているようなミュージシャンでさえも、どこか憎めないというニュアンスで話すのだ。彼の中にプルチネッラの分身が見えるのだろうか、イタリア人ならば決まって「彼はナポリ出身で…」と話は続くのである。

1933年ナポリに生まれたマリオ・スキアーノは、ほぼ同世代のジョルジォ・ガスリーニ(1929年ミラノ生まれ)とは様々な面で対照的だ。ミラノ人つまり北のガスリーニに対してスキアーノはローマに住んでいたものの南のナポリ出身者。ガスリーニはヴェルディ音楽院で6つの学位を取ったが、スキアーノは独学でミュージシャンとしてのスタートはナポリのナイトクラブである。また、十二音音楽とジャズ言語を統合させようと試みたのはガスリーニだったが、スキアーノは本能的にフリージャズへと進んでいった。だが、両者ともイタリアの前衛ジャズを語る時、欠かせない存在なのである。

イタリア年だった2001年、来日したイタリアン・インスタビレ・オーケストラ (IIO) のメンバーにスキアーノもいた。横濱ジャズプロムナードの前夜、ウエルカム・パーティの片隅で彼を掴まえて短い時間だが話を聞いた。彼の言葉を引きながら、その音楽生活を辿ることにする。(註1)

「演奏を始めたのは、15、6才の頃だった。楽器はアコーデオン。買うのが簡単だったからね。ナポリのナイトクラブで演奏した。当時演奏したのは、ダンスホールで演奏するような音楽。軽音楽、カンツォーネやナポリ民謡もやっていた。踊る為の音楽で、ジャズではなかった。ダンス音楽をやっていた時、店の人がアコーデオンでなく、なんでサキソフォンをやらないんだと言った。ジャズは好きだったけど、演奏したことはなかった。アコーデオンじゃ、ジャズは演奏できなかったからね。

1957年の終わり頃、父が中古のサキソフォンを買ってくれた。そして、1958年の2月には初めてのジャズのコンサートをやったんだよ。サキソフォンを買ってもらってから4ヶ月後。その当時は伝統的なジャズをやっていた。初めて人前で演奏したのは、<アンディサイディド>(註2)だったよ。

それから40年後の同じ日、1998年2月21日にイタリアン・ナショナル・サウンド・アーカイヴが録音を行った。つまり、国がお金をだして、記録保存する為のCDを制作したということ。非売品だけど。

20世紀の音楽の中でもジャズは最も重要な音楽だと思う。僕は独学なので、特に誰から影響受けたということはない。伝統的なスタイルでの演奏はあまり続かなかった。1960年に国際フェスティヴァルが北イタリアであって、そこでの演奏をきっかけに即興を始めた。その時はオーネット・コールマンも知らなかった。彼の存在を知ったのは、その2、3年後だったと思う。必然的にこういう演奏になった。当時の批評家は『このサキソフォンは一体何なんだ。他のみんなはちゃんとやっているのに、みんなから外れてしまっているじゃないか』と書いた。その評が書かれた紙はまだちゃんと持っているよ」

驚くべきことは、彼はオーネット・コールマンやジョン・コルトレーンなどの演奏を聴く以前に既にフリージャズ的な演奏を始めていたということだ。1960年といえば丁度オーネット・コールマンが『フリージャズ』を録音した年でもある。一言でフリージャズといわれるが、実はいろいろでそこに至った道のりもまたさまざま。プリジャズが同時多発的に起こったように、フリージャズもまた時代の申し子なのだろう。

「ナポリを離れたのはその(フェスティヴァルに出演した)2年後。1962年の初めにローマに行って、それからずっとローマにいる。ローマに移った頃は、すごく難しい状況だった。フリージャズではなく伝統的な普通のジャズが主流だったから。1964年、65年ぐらいに、グルッポ・ロマーノ・フリー・ジャズ(GRFJ)というグループが出来た。確かではないが、ヨーロッパでも一番初めにフリージャズをやったグループだと思う。他の人達の演奏も随分聞いたけれど、僕達が一番進んでいた。まさに最先端をいっていたと思う。

GRFJは、フォルク・スタジオというローマのよく知られているけど隔離されたような場所で演奏始めた。アメリカのロフトより小さいところだった。そのうち民族的な要素が音楽に入り込んできた。特にドラムやリズムは大きく変わるので、そのことについてみんなで論議したものだ。それまでは、テーマがあって即興があって、またテーマがあって即興やってというように、アメリカのジャズを真似していたにすぎない。僕達がやったのは、ミシャ・メンゲルベルクの言うところのインスタント・コンポジション。当時は無理難題を突きつけられたり、ものすごく石頭な人達がいたので、演奏するのもすごく大変だった。ジャーナリストだけではなく、観客も反感をもっていたから。自分でジャズのコンサートをオーガナイズして、モダンやスイングの合間に自分の即興も入れるようにした。そうしないと演奏出来なかったんだ。

1967年、ローマの小さなフェスティヴァルのゲストとしてGRFJは演奏した。一晩だけは僕がオーガナイズした。信じられないくらい素晴らしいパフォーマンスだった。僕が一番感動していたのかもしれない。とにかくみんなすごく感動した。ニューオリンズからバンドを呼んだんだ。今のニューオリンズ・ジャズは観光客向けのものでしかない。だけど、そのフェスティヴァルに出演したバンドはホンモノだった。彼らの後に私達がフリージャズをやった。それはすごく勇気のいることだったよ。何が起こったか口では言い表せない。もう死んでもいいと思ったくらい。ビバップやモダンジャズでないが、僕達の演奏にはオリジナルのジャズに通底するものがあった。歴史的にも繋がっていたということは、とても素晴らしいことだと思う」

GRFJ結成時はトリオで、メンバーはマリオ・スキアーノ (sax)、マルチェロ・メリス (b)、フランコ・ペコリ (ds)。後にジャンカルロ・スキアフィーニ (tb)が加わり、カルテットとなる。スキアーノのいうところの「民族的な要素」は、70年代初期の録音『SUD』(Splasc(h)) に収録されたマルチェロ・メリスの曲によく現れている。まもなくメリスは渡米し、代わってメンバーとなったのがブルーノ・トマッソ (b)。メリスは80年代初期、日本に住んでいた。確かイタリア文化会館に勤務していたように記憶している。その間は全く演奏活動は行わなかったようだ。そのメリスは一足先に旅立っている。

また一時、GRFJにドン・モイエが加わったこともある。1968年に「デトロイト・フリー・ジャズ」というバンドで渡欧したモイエだったが、コペンハーゲンでバンドが解散してしまった。その後ローマに戻り、最初にローマを訪れた時に知り合ったスキアーノ達ともしばし一緒に演奏活動したのである。そして、1969年にパリに行き、アート・アンサンブル・オブ・シカゴの5人目のメンバーとなる。CD『Uncaged』(Splasc(h)) はモイエとの二十数年ぶりの再会レコーディングだ。

「こういうことをやりながら、僕達はどんどん前に進んでいった。演奏者が3人でお客さんが2人だけで、一部が終わったら途中で1人去っちゃってというようなこともあった。68年頃には、政治的な大きな動きがあったことは知っているだろう。それから、やりやすくなった。労働者とか学生、左翼の団体と一緒にこの音楽をやっていった。共産党などと一緒にパーティやったこともある。そのころの共産党はすごく強かったので、何千人もの前で演奏したこともある。共産党との関係が終わった後は、お客さんが減った。でも、僕達は変わらない。いつも自分の音楽をやっていくだけさ」

イタリアでは60年代共産党が強かったのはよく知られている。しかし、当時の前衛ジャズと共産党との関係は他のどこの国にも見られない現象だった。音楽的な革命も政治的なものも同義に捉えられていたことは特筆に値するだろう。ガスリーニもアンドレア・チェンタッツィオも工場などで演奏をした経験を語っていた。しかし、それも70年代終わりにはロックがとって代わる。蜜月時代は長く続かなかったのだが、それなくしてイタリアの現代のジャズはあり得なかったといえるのではないか。

60年代は前衛芸術の時代でもある。ジャズにおける前衛はフリージャズだったが、反芸術主義で現代美術の作家達を刺激したのはフルクサスだった。フリージャズの担い手の中にも、ミシャ・メンゲルベルクのようにフルクサスそのものに参加した者や、ペーター・ブロッツマンのようにナムジュン・パイクがブッパルタルで個展を行った際にアシスタントを務めた者もいる。また、フリージャズの第一世代とされるヨーロッパのミュージシャンと話をしているとジョン・ケージや初期のシュトックハウゼンにインスパイアされたなどという話をよく聞く。スキアーノもまたフルクサスと幾ばくかの縁があるのだ。

「69年か70年くらいだったと思うが、ローマにフイルム・スタジオというところがあった。すごく珍しいものばかり上映していた場所だが、ニューヨークのフルクサスのグループが制作した映画を上映した時に、僕達がライヴ・サウンド・トラックをやった。最初フイルムを見たくなかったので、後ろにスクリーンをおいて、自分達は見ないで演奏をした。でも、素晴らしい演奏だった。イベントが終わってから監督達がやってきて、このためにどのくらいリハーサルしたのかと聞いた。一回も見ないでやったのにね。きっと音楽的な言語が同じだったのだろう。それから27年後に、72分ぐらいのヨーコ・オノをフィーチュアしたハイライト版の映像が出てきた。それで、もう一度同じことを違うミュージシャンと自分のフェスティヴァル“コントロインディカツォーニ”でやってみた(註3)」

スキアーノが共演したミュージシャンは多士済々である。フランチェスコ・マルティネリが編纂したディスコグラフィーを見れば、それがヨーロッパ即興音楽のネットワークの広がりとほぼ合致しているのがわかる。もちろんイタリア人ミュージシャンも多数いて、音楽的志向が異なるガスリーニとも共演しているし、中にはサム・リヴァースやドン・プーレンの名前もあるのだ。中でも興味深いのは旧ソ連のミュージシャン、ガネーリン・トリオ(ヴャチェスラフ・ガネーリン (p)、ウラジーミル・チェカーシン (sax)、ウラジーミル・タラーソフ (ds))と80年代半ばに共演していること。おそらく旧西側諸国のミュージシャンで最初に旧ソ連を訪れた一人ではないだろうか。

「個人的にいろんな刺激を受ける為にいろんな新しいミュージシャンと演奏したいと思っている。同じことの繰り返しにならないように。ヨーロッパの偉大なミュージシャンほぼすべてと演奏したよ。

(印象に残ったのは)ほとんどみんな、エルンスト・レイズグル、ポール・ラザフォード、ジョエル・レアンドレ、ポール・ローヴェンス・・・中でもミシャ・メンゲルベルク。彼の音楽は私にとってはものすごく新しいものだった。みんな同じようなことをやるようになって、今ではクラシックになったが、当時はまさに最先端だった。

リトアニア人のグループも信じられなくらい素晴らしかった。当時はソ連だったけど、彼らはソ連人と言われるのを嫌がっていたからリトアニア人と言おう。モスクワで一緒に演奏したんだ。ペレストロイカのすぐ後、86年だったと思う。彼らはその2年前にイタリアに来た。彼らは僕と演奏して、イタリアのTVの為に演奏した。タラーソフは素晴らしいドラマーだ。ピアニストのガネーリンはユダヤ人で、テルアビブに行くと言ったあとの消息は知らない。残念だ。彼らとの演奏はものすごく感動的だった(註4)」

スキアーノは即興演奏のフェスティヴァル“コントロインディカツィオーニ”を主催してきた。ミュージシャン主催のフェスティヴァルといえば、ドイツのFMP主催のトータル・ミュージック・ミーティングがよく知られているところだろう。FMPは何人かのミュージシャンが集まって創られた組織である。イギリスのIncusにしてもオランダのICPもそうだ。しかし、個人が強いイタリアではそれはどうやら不可能なようである。そしてなぜか長続きしない。ガスリーニもまたフェスティヴァルを主催したことがあったが2回で終わったという。しかし、“コントロインディカツィオーニ”はまだ続いた。

「1975年に“コントロインディカツォーニ”を始めた。即興演奏のフェスィテヴァルだ。逆に進むと言う意味だ。ペスカーラで有名なフェスティヴァルがあったのだが、そこでは絶対僕達を呼んでくれなかった。だから、それに対抗して開催したのだ。ペスカーラから30キロしか離れていないところでね。その時、ペスカーラでは車がひっくり返されたり、いろんなことがあって、僕達が疑われた。でも、僕達ではなかった。それなら一緒にやろうということになったが、結局上手くいかなくてやめてしまった。僕は判断を間違ったと思う。その後、アヴァンギャルドをやっている人達が手も足も出なくなるような時代になった。80年代の初めは、政治的にもおかしな、文化的にも変な時代だった。1988年になって、もう一度復活出来るかなと思った。それからはずっと続けてやっている」

“コントロインディカツィオーニ”は自主組織によって運営されるようになり、スキアーノが病臥に伏してからも継続して開催されていた。(註5)

スキアーノからの最後の便りは2002年11月で、“コントロインディカツィオーニ”でマーチン・ブルーメらとペーター・コヴァルトの追悼演奏をしたとあり、よかったら翌年(2003年)においでよと書かれていた。しかし、2003年11月、ベルリンで聞いた噂は、癌で入院しており、手術をしないといけないが、そうすると声が失われてしまう、というもの。よく唄を口ずさみ、IIOでも語るようなヴォイスを聴かせていただけに、とても寂しいニュースだった。

スキアーノのアルト・サックスは、独特のビブラートをかけた奏法に特色がある。そのサウンドには唄を好んだナポリ人のココロが時として現れているのだ。彼はまた役者でもあった。エンターティンメントから前衛まで自由に行き来するスピリットは、歴史的にも自由な精神に支えられた街ナポリの住人、プルチネッラに自己の分身を見るナポリ人の姿に重なるのである。今頃、天国で声を取り戻して、どこぞで唄を口ずさんでいるだろうか。

その魂の安らかんことを。。。

(2008年6月12日記)

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註1:通訳は菊池裕美子、ジャズ批評111号にインタビューとして掲載

註2:スウィング時代のヒット曲

註3:CD『FLUXUS』(Splasc(h))

註4:ガネーリンはイスラエルに住むが、新しいトリオでヨーロッパ・ツアーも行っている。ウラジーミル・タラーソフは著著『トリオ』で、スキアーノとの出会い、ガネーリン・トリオの最後のコンサートとなったスキアーノとの共演ついても触れている。

註5:コントロインディカツィオーニは今はもう開催されていない。

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横井一江

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。The Jazz Journalist Association会員。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。海外レポート、ヨーロッパの重鎮達の多くをはじめ、若手までインタビューを数多く手がける。 フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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