ヒストリカル・フィクション 「君が代マアチ〜明治36年のスウィング・ガールズ〜」

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金野onnyk吉晃

 

1.ラクリマ

あはれなり水底に逝くおみなごの響き伝へよ瀬戸内の濱  サキ

「先輩、ここじゃないですか?島貫リツってありますよ」
淳子は、長屋の薄汚れた番地の表示をのぞき込みながら、恭介に言った。
まだ古い町並みが残る一角は、さすがの月島でももうほとんどない。
「再開発で月島もかわっちゃったなあ」
器材を入れたバッグを肩にかけた恭介は汗だくである。
「そうですよ、リストにあるリツさんもう最後ですよ」
「まあ、だめもとで聞いてみるか」
淳子はスーツの裾をひっぱり、襟を整えると低い玄関の脇にあるチャイムを押した。
ピンポーン。古い音が家の中に響いているのが聞こえる。反応はない。
もう一度。ピンポーン。
まだつぼみもつけていない朝顔の鉢植えが数個、風のない午後の日差しの中に並んでいる。
「留守か?」
と恭介が言ったとき、家の中で人が動く気配がした。
「は~い」
明るい女性の声。足音が近づき玄関の引き戸ががたがたと開いた。
顔だけ出したのは中年の婦人である。
「どちらさま?」
「失礼します。あの、私どもテレビ番組製作会社の<トイプラネット>から参りました。恐れ入りますが、こちらにリツさまがお住まいではないでしょうか」
「ああ、おばあちゃんね。居ますよ。…でも何のご用かしら」
「あの、リツ様にですね、インタビューさせていただきたいんです」
「はあ?インタビュー?」
婦人はきょとんとしている。
淳子と恭介は、居間に通され、冷たい麦茶を飲んでいる。
「おばあちゃんねえ、ちょっと目も耳もすっかり弱ってるから」
「お体は?」
「ええ、それは大丈夫なの。来年は百歳になるんだけどね。家の中ならなんとか動けるし。お茶、おかわりは?」
「ありがとうございます。いただきます」
恭介は、つがれた麦茶のコップをすぐ空にし、汗を拭い続けている。
「で、お話うかがわせていただけますか?若いときのこと」
「昔のことねえ。いやね、実はおばあちゃんが芸者さんやってたっていうの、うちの主人は、あまり良く思ってないんですよね。まあ芸者さんだっていろいろあるだろうけど」
「最後の最後で当たり、だな」
「ですね!…あの、由香さん。ご主人の浩二郎さんが、リツさんのお孫さんなんですか?」
「いえ、あたしが孫なんです。主人は婿養子で」
「そうなんですか」
「あたしは、おばあちゃんは、ちゃんと生きてきた人だから何も恥じるものなんてないよって言ってるんですけどね」
「そうですか…」
「あの、ちょっとだけでも会わせていただければ、うれしいんですけど」
「すぐインタビューなさるんですか」
「いえ、まずお聞かせしたいものがあるんです」
「は?」

リツは付き添われて居間にゆっくり入ってくると大儀そうに座った。すっかり縮んでしまった女性の典型的な姿である。
「おばあちゃん!テレビ局の人!おばあちゃんにお話聞きたいって!」
「はあ?テレビ?」
「うん。おばあちゃんに聞いてもらいたいって、何か」
「テレビ?」
「こんにちは!島貫リツさんですね。私は<トイプラネット>という会社のリポーターで、吉田淳子と申します。こっちはディレクターの田貝恭介といいます。よろしくお願いします!」
「はあはあ、そうですか。どうぞごゆっくり。浩二郎はまだ帰ってきませんが」
「うちの浩二郎さんじゃなくて、おばあちゃんに会いに来たんだって」
「あのね、リツさん、今から音楽かけますから。思い出すことあったら言ってくださいね」と言って恭介はポータブルのカセットデッキをセットすると小さなモニタースピーカーをリツの前に置いた。
「いいですか。かけますよ。よく聞いて下さいね」
シューというヒスノイズが流れ、ややあってジンタ風ブラスバンドが聞こえ始めた。あまりうまくはないが、メロディが低音部に聞こえて来ると「君が代」だ。高音部ではいかにもマーチにありがちなクリシェ的フレーズが聞こえ、それなり多声部の面白さがある。リツはゆっくり顔をあげた。眠そうだった目に輝きがもどった。
「君が代マアチ!おセンちゃん!おセンちゃん!」
リツは声を上げた。
「リツさん、何か思いだしたんですね」
「ああ、ああ、ああ….」
今度は涙があふれ出し、息があらくなった。口元がふるえている。
「おばあちゃん、だいじょぶ?休もうか?」
「ううん、もっと聞かせてちょうだい」
「ほんとにいいの?」
曲は終わった。恭介はデッキをとめた。
「リツさん、これご存じなんですよね」
「ええ、ええ、知ってるよ。だってあたしらがやったんだもの。おセンちゃん、ハナちゃん、ヤスちゃん、ソメちゃん、アヤちゃん、みんな一緒にね」
一瞬あって、淳子が切り出した。
「…『吾妻婦人音楽連中』ですね」
「そうそう、そう言ってたよ」
事情がわからない由香が聞く。
「あの、すみません。おばあちゃんがやってたっていうのは」
恭介が答える。
「これは明治36年の録音です。当時作られたレコードからコピーしてきました。リツさんが参加していた吾妻婦人音楽連中というのは、若い芸妓さんを集めて結成された日本で最初の女子ブラスバンドなんです。おそらくその唯一の生存者がリツさんです」
淳子が引き継ぐ。
「これは日本初の録音なんですよ。当時の日本のいろんな音曲が収録されていたのですが、この吾妻婦人音楽連中はとくに面白いと思ったので、調査してみたのです。その結果、リツさんだけがまだご存命のようだったので、この半年ほど探し回っていたんです」
由香は両手を口にあて、目をむいて聞いていた。
「まあ、おばあちゃんがブラスバンド!日本初のレコードに!知らなかった!ほんとなの?」
「うん、でも言いたくなかったのさ。だって思い出すと辛いもの」
「でしょうね…」
「あの、もう一回聞かせてくれるかい」
「いいですよ。でも他のもあります。全部で15曲あるんですよ」
「ほんとかい。うれしいねえ。だってあたしは一回も自分のやったのをこうして聞いたことなかったんだもの」
恭介はまた再生した。
リツは微笑しながら手で見えないタクトをふり、口元はなぜかすぼめて、そこからメロディをしぼりだすのだった。
「ここまでです」
恭介がデッキをとめた。
リツは肩をおとし、また涙を流している。そしていきなり畳にくずおれた。
「おばあちゃん!」
「だいじょぶだよ。由香、ちょっと疲れた。休ませておくれ」
恭介がリツを抱きあげて奥の部屋へつれていった。
「びっくりしたわ、おばあちゃんがブラスバンドなんて」
「貴重な記録です。是非リツさんに詳しい様子を聞かせていただきたくて」
「でもねえ、なんか今日は興奮しちゃったみたいですから、また今度でいいですか?」
「あの、ご主人はどう思われますかね?」
「任せて、あたしが説得するから。こんなすごいおばあちゃんだったなんて、自慢して歩けるわ!」
「ありがとうございます!」
淳子と恭介は揃って頭を畳にすりつけた。

2.トワイライト

明治34年、東京市、新吉原。
芸妓置屋「滝乃家」のある路地には、春の黄昏の最後の明るさがにじんでいた。
一階の厨房のわきに薄暗い部屋がある。風呂敷包みひとつを抱えた少女が、土間をずるずると歩いて置屋の女将に連れてこられた。不安そうに周囲を眺めている。
「さ、ここで草鞋脱ぎな。今日からここがあんたの部屋。みんな一緒だからね。仲良くするんだよ」
ぶっきらぼうに女将は言うと、がらりと板戸を開けた。
8畳一間に居た少女十人が一斉に振り向く。着替えも途中である。
「みんな、今日から仕込みにはいるリツだよ。仲良くしてやんな。サキ、あんたいろいろ教えてやりなよ。いいね。最初は店の掃除だよ」
沈黙。
「返事!」
女将の怒鳴り声に、すくみながら皆一斉に答える。
「はいっ」
「よし、さあ、もうすぐ時間だからね。お姐さんたちはもう準備できてるんだからね。サキとリツの他はみんなすぐ出るよ。ぐずぐずするんじゃないよ!」
どんと背中を押されて転がり込んだ前に、年かさの少女が座っていた。やせ細り、眼の下に隈ができている。
「リッちゃん、ていうの?あたしサキ。よろしくね」
サキの声は細かったが優しかった。
「あ、あの、あのあだす、なんもわがらねんだげんど」
「だいじょぶ、あたしが教えてあげるから。まず、お掃除ね。お掃除くらいやったことあるでしょ」
「うん」
「でもね、ここのお掃除は厳しいから、丁寧にやるのよ」
「うん」
「うん、じゃなくて、はいって言うようにしてね」
「うん、…はい」
サキの笑顔にリツも少し安心した。

「おい、サキにまかせて大丈夫か。病気うつんねえか」
「だいじょぶだろ。体だけは頑丈ですっていわれてきたし、体は全部みたけどしっかりしたもんだよ」
「まあな、誰かがついて中のこと教えねえとな。外に出せねえサキしかいないか」
「そうさ、無駄飯食われたんじゃたまんないよ。ま、悪くなったら追い出すしかないけどね」

サキが教えるとおり、置屋の隅々まで、リツは丁寧に掃除した。体を動かすのは好きなほうだったし、どこであれ、きれいになるのは気持ちがいい。リツは他の者の分までかってでて掃除をしたので、すぐ重宝がられた。
サキには置屋のしきたりも教えられた。さらにこれからどんな人生が待っているのかも。つまり、芸妓としてどう生きていくかの見取り図が与えられたのだ。
しかし、リツには実感がわかなかった。なんとなく、ここで女中みたいな仕事をしながら過ごしていくのだろうと思っていた。自分があの美しい芸妓になるなど思いもよらなかった。
一ヶ月たち、周りの若い娘たちが、一人、また一人と変化していくのを目の当たりにすることになった。先日までかすりの木綿の着物を着ていたのが、あるとき急に絹の着物を与えられ、髪を結い上げ、白塗りの化粧もさせられ、歌やら踊りの稽古につれて行かれるようになる。帰ってくると彼女らはすっかり消耗し、着替えもそこそこにすすり泣いている。
「あの、サキさん、あのひとだつ、なしてないでらべな。あんたにきれいな着物きて、いいにおいすて、うらやますなあ」
「リッちゃん、あんたもいずれああなるんだよ」
「え?こないだサキさんそってらのは、そのごどすか?」
「そうだよ」
「じゃあ、サキさんもそうなるのすか」
「あたし?あたしは一度やった。でもね…」
「なんだすか?」
「いいの。もう休むね。リッちゃん、あんたほんとにいい子だね」
サキは布団をかぶったが嗚咽が聞こえた。嗚咽は咳になっていった。リツは布団の上からさかんにさすってやったが、なかなかよくならなかった。周囲の娘たちは二人を遠巻きに見ていた。

「どうだい、あの新しい娘は。リツっていったかな」
「うん、まあよく働くし、いい子なんだけどね。普通なら仕込みを始めてもいいんだけど、なにしろ訛がひどいのさ」
「はっはっは。誰でもそうだったろ」
「あの子は特にひどいよ。あれじゃ歌も教えられないね」
「まあ器量もよくねえしな。どうしたもんかな」
「まあ何か取り柄はあるだろ。座敷に出せなきゃ使いっ走りでも飯炊きでもさせればいいさ」

 

3.サムデイ・マイ・プリンス・ウィル....

東京市、新吉原。料亭「新稲弁楼」の二階。
座敷で「殿様」が取り巻き連中と酒宴している。芸者が謡い舞っている。が、殿様はどこか不機嫌だ。
「ああ、もうやめろやめろ。辛気くさい長唄なんざこりごりだ!今や日の出の勢いの大日本帝国にふさわしい音曲をやるべきだ。そう思わんか!おい、ブラック、あれをかけろ」
「へ?ああ、あれですね。合点承知の助」
紅毛碧眼の幇間が、座敷の真ん中に大事そうにしつらえたのは、蓄音機である。
「よし、景気のいいのをやれ」
「へい!」
腕まくりしたブラックがSP盤を取り出し、ターンテーブルに載せ、クランクをぐるぐる回し、針を盤面に乗せるとラッパから「軍艦」(軍艦マーチ)が流れてきた。
「うむ、これこれ!」
殿様は立ち上がると蓄音機の周りを行進しはじめた。そして芸者や取り巻きにもうながして強要する。
「まーもるもせめるも、くーろがねのー」
殿様は胴間声で歌い出す。
全員が歩調をそろえたものだから、針飛びが起きて「軍艦」は座礁。
「ああ~、いかん、いかん!ブラック、止めろ、盤がいたむ」
殿様は、どすんと座り込むと胡座をかき、顎に手をあてて不平をもらした。
「やはり蓄音機ではだめだ。こういう座敷で、どんどん演奏してもらいたいものだな。だが軍楽隊をここに連れて来るわけにもいかん。芸者連中でこれができればいいんだがなあ。前からそういう事のできる芸者を捜せ、いないなら仕込めと言ってあるのだがなあ」
「殿、まあ、いずれなんとかなりますって。このブラックが探し出してごらんに入れますよ!ね、ですから、今日の所はまた何かかけて、聞きながら飲みましょうよ!」
「こないだもお前は同じ事を言ったな。いや、俺も同じ事を言った訳だ。ふん、面白くない。芸者というくらいなんだからワルツのひとつでも踊ったらよかろうに。おいブラック!ワルツだ。ワルツかけろ」
「へい!ワルツ、ワルツ」
ブラックは、何枚かを探り、目当ての盤をかけた。
ドイツ盤のウィンナワルツである。
殿様だけは目を閉じ、腕には見えないパートナーを抱き、体を揺らして聞いている。取り巻きは皆顔を見合わせ、仕方なしに酒杯を重ねている。芸者達はといえば、なすこともなく、酌をして回るだけである。
いや、うっとりと聴いている者が殿様の他に一人いた。
階段の下で呆然としているのは14になったばかりのリツだった。置屋に見習いに入って一年が過ぎていた。リツは訛がとれないのと、器量がよくないので、他の娘たちに遅れをとった状態だった。その夜は、新稲弁楼に滝乃家から芸妓が出ていて、使い走りに出されていたのである。
リツは蓄音機を初めて聴いた。尋常小学校での音楽は教師が足踏みオルガンでぶかぶか鳴らす伴奏の唱歌程度である。リツは、SP盤の音にウィンナワルツの華麗さを見た。そして一度でその虜になったのである。
知らず知らずのうちにリツは階段をにじり上がり、開け放たれていた座敷の中をのぞき込んでいた。曲が終わったとき、ブラックがリツに気付いた。
「あっ!なんだ、お前はどこの子だい。どっかの仕込みっこだな。それにしても汚い顔だねえ。さっさとどっかいっちまいな!」
「あら、うちのリッちゃんよ」
芸妓が気付く。
「どうしたの」
「だめよ、お座敷に顔出しちゃ」
「なんだ、お前たちの所の者か」
「すみません。いい子なんですよ。お使いにきたのね? お殿様、お小遣いでもあげてくださいな」
「おい、こっちへ来い」
殿様は髭をひねりながら手招きした。
「なんという名だ」
「リツでごぜえます」
「ほほお、南部訛があるな。どこで生まれた」
「あの、奥州でごぜえます」
「やや、これはうれしいな。同郷人にあったぞ。はっはっは。よし、小遣いをやる。きれいなベベでも買え」
「いえ、家(え)さ送ります」
「うーむ、感心、感心!気に入った。ところでお前、なんでここさ上がってきた」
「あの、なんだかきれーな音きこえで」
「おお、ワルツが好きか。もう一度聴きたいか」
「はいっ!」
「よし、ブラック、かけろ」
殿様は立ち上がり、リツの手をとって踊り始めた。
リツは誘(いざな)われるまま、するすると足が動いた。一度もワルツなど踊ったことはないが、なぜかそれは彼女の深奥にあるものと共鳴した。
周囲は呆気にとられてこの二人の踊りを眺めていた。

「ええーっ!殿様がリツを仕込むって?ブラックさん、ほんとかい?」
「そうなんだよ、滝乃屋さん。俺も驚いたんだが、殿様はね、こんなにすんなり西洋音楽になじめる娘は良家にもそうはいないとかいっちゃってさ」
「どうすればいいんだい」
「だからさ、殿様は、前から言ってたんだよ。お座敷で西欧音楽を聴きたいから、その楽隊を作るってさ。それでリツに白羽の矢、という訳だ」
「でも一人じゃできねえだろ、楽隊ってのは」
「そうさ、だからあちこちの半玉とか禿(かむろ)とか仕込みっこをな、呼び集めては、蓄音機を聴かせてるんだよ。こういうの好きかって聞いてな。もう芸妓になっちゃったのは元手かかってるし、芸も固まっててだめだから、若いのがいいんだと。光源氏のおつもりかね」
「ふーん、リツのせいで偉いことになっちまったなあ」
「まあね、大した人数じゃないだろうし、殿様は女の子たちの面倒はみるってんだからさ。すぐ飽きるんじゃないかね。大体にしてそいつらが音楽できるかどうか、怪しいもんだよ」
殿様の意気込みは並ならぬものがあり、ついに二十人ほどを選び出した。そして殆ど閉めたも同然の置屋を借り切って全員を集め、そこで楽隊の練習を始めると言いだした。

「サキさん。あだす、いがねばねぐなった」
「いいじゃないの、お殿様にみそめられたんだから大出世ね」
「でもサキさんのごど、心配で」
「あなた、もう一人でなんでもできるじゃない。芸事以外は。あたしは自分でなんとかするから」
「でも、あだす、あだす」
「大丈夫よ、大丈夫」
二人は互いの手を握って離せなかった。

 

4.バンドワゴン

東京市の中心部から離れた、周囲に田畑の多い地区に古ぼけた置屋があった。その座敷に二十人の若い娘が神妙な顔をして座っている。年齢は全員十代前半である。その前に立つのは、彼女らを選び抜いた、殿様である。
「さて、諸君。君たちはわしの目に適った逸材である。これからわしと前代未聞の事を成し遂げるのだ。すなわち、女子だけの西洋音楽の楽隊である。これは海の向こうにも例がない!わしは、ずっと以前から夢見ていた。女子だけの楽隊が日本中で演奏し、皆がワルツを踊れる日が来ると。君たちはわしの蓄音機の音に感応してくれた。必ずや西欧音楽をものにできる素質を秘めている。さあ、見よ」
と、言って殿様は奥の襖を開け放った。娘たちは一斉に驚きの声をあげた。
そこにはきらきらと輝く管楽器がずらりと並んでいたのである。
「さあ、寄って見たまえ。これが、今から君たちの体の一部となる管楽器だ!」
「本当でございますか?」
「これって金?」
「これを私たちが?」
「どうやって鳴らすのですか?」
「あ、冷たい!」
「重い...」
「静かに!いいかね、この西洋の管楽器というやつは、すぐには鳴らない。稽古に次ぐ稽古。これだけが上達のこつだ!そしていつの日かこういう音を出せるようになっていくのだ!」
殿様はかねて用意の「ワルキューレの騎行」をかけた。
娘たちはただ、呆然と楽器と蓄音機の間に座り込んでいた。

軍楽隊を除隊した3名の楽士を殿様が連れてきた。彼らが教師である。
彼らはまず、音を出すことから指導を開始した。最初はマウスピースだけを吹かせる。そして体格や音の出方で担当楽器を振り分けた。
リツはユーフォニアムを渡された。
最初は音が出なかったが、次第に唇、息、そしてバルブを制御できるようになってくると面白くなってきた。
しかしそれからが大変だった。譜面の読み方、調と和声、リズム、これらを目と耳と体で覚えなければならなかった。
黎明とともに起床、身の回りを片づけると外に出て体操。それからランニング、当番で準備して朝食。その後すぐに前日の復習。昼まで座学で理論を教えられ、午後また楽器と取り組んで、わずかな休息以外、常に楽器を口にあて、譜面を見ている生活となった。夕食をとるとへとへとになり、早々に休んでしまうのだった。
しかし、殿様は一週間に一度、全く自由にしてよいという日を与えてくれた。これも西欧流だという。娘たちは好き勝手なことをして過ごした。
しかしいつのまにか、蓄音機を聴いたり、楽器を鳴らしたりしているのだった。

そうして一ヶ月が過ぎた。
3人がやめ、2人が逃げた。また5人が補充された。
彼女らの暮らす置屋の女将がリツ宛の手紙をもってきた。
「リツ。手紙だよ」
「ありがとうございます。誰だろ」
差出人はサキであった。
そこには、体の様子が思わしくなく、もう滝乃家にはおれないので故郷に帰されるとあった。
リツは悲しくなった。サキは父親を早く亡くし、口減らしのために売られてきたのだった。彼女が戻ればまた実家の生活は困窮するだろう。サキ自身が肉体労働できないのだから。そうなればできることは限られてくる。おそらく地元の女郎屋で体を売ることになろう。そうして元々長くはなかった寿命をすり減らしてしまうのだ。

少女達が言い争っている。
「あんたの音は外れてるよ」
「何いってんだい。外れてるのはそっちだろ」
「楽譜をよくみろってんだ」
「てめえこそよくみやがれ、まあ見たってその音が出せなきゃ仕方ねえだろうがな」
「先生にちょっと誉められたからっていい気になんなよ!色目でもつかったんだろ」
「なんだと、この唐変木!」
「おかちめんこ!」
つかみ合いが始まった。リツが割って入る
「おセンちゃんも、ハナちゃんもやめなよ!やめなってば!」
両側からひっかかれ、なぐられても、リツはなんとか二人を引き剥がした。

騒ぎを聞きつけて<先生>の一人が駆けつけて来た。
「どうした。何の騒ぎだ」
「なんでもないすがら。ちょっと、ちょっとおなごだけの話で。先生には関係のないことだすがら」
「うむ、しかし喧嘩はいかん。しかもコルネット同士で。チューニングが狂ってしまうではないか。しかもアインザッツに乱れが生じる。アンサンブルはこころを一つにして初めて成功するものだ。わかっているな」
「はい…」
「罰として腹筋鍛錬の一巡十回だ。センとハナ、いいな!」
それだけ言うと彼は去っていった。

夜中、昼間に騒ぎを起こしたセンは、リツの隣に寝ていた。
センは掛け布団ごと、ずりずりとリツの傍らにまでやってきて、小声で言う。
「リッちゃん、寝た?」
「ううん、まだ」
「あたし、向いてないよね」
「え?」
「あたし、置屋がいやで、殿様が来たとき、なんか楽しそうだから、違うとこにいけると思ったから蓄音機が好きだって言ってきちゃったんだ。でも、ここはあたしの居場所じゃないみたいだ。…逃げちゃおうかな」
「おセンちゃん、何いってるの。そんなことねえって。あたしおセンちゃんのコルネットの音、好きだよ。すごくまっすぐでていて」
「ありがと。でもさ、いつもハナと合わないよね。なんでだろ。ハナはいつもあたしが高すぎるっていうんだ。その癖遅れるとかさ…。でも言われてみるとそうかもしれないんだよね。あたし、練習は好きで、始まるとのっちゃうんだ。そして周りが見えなくなっちゃう気がする。なんかこうぼーっとして気持ちよくなるんだよ」
「わかるよ。あたしも、皆で音がまとまった時とか、リズムが揃ったとき、ぞくぞくっとして、涙出そうになる。あたしの音がどれだかわからなくなっちゃうけど、それでもいいって」
「そうなんだよ。でもあたし、そこからまた飛び出したいんだ。自分がどこにいるか知りたくなるんだ。だから高くなったり、早く出たりするのかな。わかんない。頭でそう思っても直せないんだよ」
「じゃあさ、一緒に練習しようか。おセンちゃんが高くなりそうになったら、あたしが合図する」
「うん!明日からやろ!」
「おやすみ」
「おやすみ」

翌朝から、センとリツは皆から少し離れ、二人だけで練習を始めた。
「ねえ、どの曲をやるの?」
とセンが聞く。
「んだねえ、早いと音のずれがわがんねから、ゆっくりなのがいいかあ」
「じゃ、あたしの里の歌、やるよ!」
「どんなの?」
センはコルネットを構えると地元の民謡の旋律を探りながら吹き出した。
が、途中で止めた。
「おかしいなあ。音がどうしても出ねえとこがあるんだ」
「なして?」
リツが聞くと、センはまた吹き出し、すぐ止めて言った。
「今の最後の音と、次の音の間にもひとつあるのが、どうやっても出ないんだよ!」
「え?そうなの?じゃ、あだしも里の歌やってみっから」
しかし、リツも途中で止めてしまった。
「ん〜、出ね音あるなあ。なすてだべなあ」
二人はおそるおそる「先生」に尋ねてみた。
「む〜。それはだなあ。つまり西欧音楽と日本の民謡では音律が違うからなのだ」
「オンリツ?」
二人は声を揃えて言った。
「あのな、お前達はそんな事を考えないでいいから、課題をやっておれ!」
二人は仕方なく、やれそうなテンポの遅い曲を探した。向かい合って目を見ながら、「君が代」のフレーズをユニゾンで、極めてゆっくりと合わせて吹くのだった。そして、時折センは演奏をやめ、またリツについてくる。声には出さず、目で会話が続く。

「先生」達がそれを遠くから興味深く眺めている。
「面白いですな」
「早いフレーズならずれは出にくい。ゆっくりしたメロディをしっかり外れず吹くことが大事ですからな」
「それに…芸妓のやる『君が代』。受けるかもしれません」
「しかし、ただやったんじゃつまらんでしょう」
「アレンジしますか」
「マーチがいいでしょう」
「殿もお好きだし。それでいきましょう!」

「センちゃん、すごくいいよ。うわずらなくなった。大丈夫だよ」
「なんか、こないだ、ハナがあたしの方見てにこっと笑ったよ」
「みんな、音がそろってれば何も気にならないよ。もうやれるよ」
「リツ、それは違うぞ」
「あっお殿様、おはようございます」
「このごろ、お前達のやってる練習、なかなか面白かった。そしてセンも確かに良くなったな」
「ありがとうございます」
「だがな、アンサンブルの真髄はこれからだ。ただ、音が揃ってればいいんじゃない。揃った音だけなら、やってる者が満足していればいいだろう。違う。お前達は芸人だ。音曲師なのだ。だから、それ以上の事をしなきゃならんのだ。踊りは誰でも踊る。皆で踊れば楽しかろう。しかし踊り子は踊りを見せて、ああ、美しいなあと感じさせ、あれは踊りを超えた何かだなと思わせなければならんのだ」
「…はい」
「まあ、これからだ。しっかりやれ」
「はいっ」

 

5.スローボート・トゥ...

明治35年夏、練習開始から4か月経った。
全員の前で殿様が言った。
「今から新しい曲の譜面を渡す。『君が代マアチ』(*)という。これができたら、お前達は、新吉原でデビューする。誰も見たことのない、聞いたことのない楽隊が、あちこちの通りを行進するんだぞ。きれいな芸者が大勢、西洋の輝く楽器もって堂々の行進だ。大評判疑いなし。そしてお前達は毎晩、あっちこっちのお座敷に出向いてやんやの喝采を受けるんだ。そして、お江戸で評判をとったら、上方にも行く。もっとあちこちに出かける。日本中回ったら、ゆくゆくは外国にも行くぞ!いいな!」
「はいっ!」
「お前達に名前を考えた。『吾妻婦人音楽連中』だ!どうだ。いい名だろう。『君が代マアチ』は、『吾妻婦人音楽連中』のテーマ曲になる。毎回、この曲で始まりだ。そして、お前達には立派なユニホオムというものを与える。全員これを着て演奏するんだ。おいっ、出せ」
「へいっ」
ブラックが着物を掛けた衣桁をひきずってきた。
見た目は豪勢であるが、実のところ錦糸、銀糸で飾り立てた薄地な着物である。
しかし娘達は驚きの声をあげた。初めて管楽器を見せられたとき以来の驚きであった。仕立屋が、一人ずつの寸法をとっていった。

一ヶ月後、全員が揃ってユニホオムを着用し、髪を結い、化粧を終えて、楽器を持った。殿様と指導者達とごくわずかの関係者だけを前に、練習場所となった置屋で、盛装をして最初の演奏を行うことになった。ゲネプロである。
指揮者はいない。リーダー格のリツが最初の合図を出す係りだった。あとはひとりでに演奏が進むが、リズムに乱れが出たときは、またリツの出番である。
ブラックは専属で司会をかってでたし、その後の出演交渉、細かい段取り、演出、金銭のやりとりも全て引き受けた。

二間続きの座敷の奥の襖が、両側にすーっと引かれた。
椅子に座った吾妻婦人音楽連中の前に、正座したブラックが深々とお辞儀している。顔をあげるなり彼は口上を述べた。
「お待たせいたしました!本邦初、いや古来未曾有の豪華絢爛なる芸者楽団のお目見えでございまーす。その名も吾妻婦人音楽連中、最後までゆっくりとお楽しみ下さい!まず最初の演目は『君が代マアチ』!どうぞっ!」
殿様の目には涙が浮かんでいた。

演奏後、殿様は連れてきた写真屋に、勢揃いした娘達を撮影させた。
「お殿様、先生方もご一緒に!」
リツは思わず言ってしまった。
「いや、いいのだ。わしはこれで満足だ。何も言うことはない」
「殿が写られない以上我々も遠慮させていただきます」
かくして吾妻婦人音楽連中の唯一の写真に、主宰者、指導者の姿は残らなかった。

その後の、吾妻婦人音楽連中の上演の模様は、記録がない。
思ったより評判は芳しくなかったのかもしれない。あるべき記録は全て大震災で灰燼に帰し、記憶だけが残った。
しかし、ここに奇跡的な記録=音盤が残った。

明治三十六年、当時最大の音楽産業、英国グラモフォン社から、機材を携えて録音技師フレッド・ガイズバーグが来日した。彼はアジア全体の音楽について録音資料を製作し、将来の市場開拓を目的としていた。
そのアドバイザー兼コーディネーターとなったのは、寄席芸人として活躍していたオーストラリア人である。彼は当時の日本の芸能に通じていたから、音曲のみならず、落語、声色、演劇までを「音楽」というよりは「芸能」として収録するよう勧めた。また一方で、雅楽からカッポレ、あほだら経などもあり、大変に幅が広い。しかし民謡は収録されていない。日本民謡の多様さから言えば無理もないことで、賢明といえるだろう。
かくして「吾妻婦人音楽連中」も、当時としてはかなり珍しい芸能、演芸のひとつとして吹き込まれるに至ったのである。明治36年2月13日のことであった。収録曲には西欧で作曲されたものは無い。義太夫、小唄、長唄、かっぽれなどを管楽器で演奏できるようアレンジしている。
この237枚に及ぶ音盤の原盤は、ガイズバーグとともに海を渡り、製品化されて明治38年に日本でも発売されたが大変に高価で庶民が手軽に聴けるものではなかった。その後、米国、ドイツ、フランスのレコード会社が相次いで来日し、日本の芸能を録音していった。
そして約百年後、英国EMIの資料室で再発見され、CD化の上、日本で発売されるに至ったのである。
ちょうどこの逆の経緯をたどったレコードもある。ナチ政権下のドイツで録音された、テレフンケン吹奏楽団による、「ホルストヴェッセル」を含むドイツ軍楽レコードが、Uボートによって日本に運び込まれた。そして本国では二度と陽の目を見ることのない幻のレコードとなっていたのが、戦後の日本で発見され、復刻した例がある。

明治36年2月下旬、新吉原、ある置屋の一室。
「さあ、リッちゃん、いきましょ」
「うん、おセンちゃん、ちょっと待って」
「早くね、みんな待ってるよ」
「どうしたの?」
「ちょっと、お腹痛いのよ」
「あ、旗日だね」
「なんか違う」
「あら、顔色悪いわ。ちょっと待っててね。ブラックさーん!」
「おやまあ、リッちゃんどうしたい。腹がいてえって?鍼でも打たれたか」
「ブラックさん。ごめん、立てない」
「あ、へんな汗をかいてるな!こらいけねえや。医者だ、医者医者!」

2時間後、リツは病院の一室で、眠らされていた。センがベッドの傍らに座り、リツの手を握っている。少し離れたところで、医師がブラックと殿様に病状を説明しはじめた。
「盲腸炎ですな」
「は?盲腸炎?」
「左様、すすんでおる。手術をしなければならんでしょう」
「ええーっ。手術!」
「命に関わります」
「手術ってえと腹切るんで?」
「はい」
「それしねえと死んじゃうんですかい」
「左様、危険です」
「うーむ、それでは致し方ない。手術してもらうしかないな」
「手術後、3週間は安静が必要です」
「お殿様、リツがいねえと音がそろいませんぜ。これから一ヶ月の巡業、どうするんですかい」
「うーむ…。先生にやらせるか、本意ではないが」
そのときセンが言った。
「あたしにやらせてください!あたしがリッちゃんの代わりをやります!」
ベッド脇に仁王立ちになっている。殿様とブラックは顔を見合わせた。
かくして吾妻婦人音楽連中は、初の巡業のため、東京を出発し、東海道を下った。
リツだけが取り残された。

「リッちゃん、元気ですか。お江戸を出てからもう二ヶ月半経ちました。もうお腹は、いたくないですか。食べられるようになったのかな。心配です。わたしたち、リッちゃんがいなくて、とても不安だったけど、それでかえって皆して頑張ろうと思い、なんとかやっています。道頓堀では、最初だったからうまくいかなかった。でも神戸ではうけました。でも岡山や尾道はお客がよくなかったよ。だんだんなれてきました。でも、やっぱりリッちゃんが一緒にいてくれたら、もっと楽しかっただろうなと話してます。明日、船に乗って瀬戸内海を渡ります。船に乗るのは初めてでちょっと怖いです。また四国についたら手紙を書きます。おみやげ、楽しみにしていてください。次の巡業は必ず一緒に行きましょう。せん」

明治36年、5月1日、広島宇品港を午後七時に出港した連絡船「第一早速(はやみ)丸」は、午後11時過ぎ、釣島海峡にさしかかったが、大阪から下ってきた「漢城号」と衝突して数分のうちに沈没した。乗客、乗組員合わせて73名中、生存者47名という当時としても大変な海難事故であった。行方不明となった乗客のなかに、吾妻婦人音楽連中のほとんどが含まれていた。彼女たちは説得しても楽器を離さず、脱出が遅れ、波に飲まれてしまった。

 

6.レフト・アローン

昭和62年、月島。長屋のなかの島貫家の前に人だかりがしている。
居間の座卓にはマイクが置かれている。その前に補聴器をつけたリツが紋付きを着て正座している。カメラマン、照明係がいる。インタビュアーは最初に訪ねてきた淳子。ディレクターの田貝もいる。孫娘の由香、その婿の浩二郎、そして数人の曾孫たちが見守っている。

「手術はうまくいったんですよね」
「うん。当時は結構大変な手術だったんだけどね」
「回復も早く?」
「そう。でも誰も遭難のこと、何も教えてくれなかった。おセンちゃんの手紙だけは見せてくれたけど」
「回復にひびくと思ったんでしょうね」
「そうなのかね。もう退院て時に、たまたま新聞を見てね。海難事故があって芸妓が死んだって書いてるじゃないか」
「驚いたでしょうね」
「あたしはねえ、もう生きようって気持ちを無くしたよ」
「…」
「なんで、あたしだけ生き残ってしまったんだろうって、神様仏様を恨んだもんさ」
「…」
「あたしも一緒に連れてってくれればよかったのにね。おセンちゃんの手紙も燃やしたよ」
「退院してどうなさったんですか」
「お殿様が、気の毒がってね、しばらくお屋敷で下働きなんかさせてもらってたけど、気持ちが落ち込んでしまって働けなくなったのさ」
「それで」
「一度、故郷に帰った」
「ふーん」
「でも、何もやることがなくてね。家にはいられないし、また東京に出てきたのさ」
「それで」
「また、一から出直しさ。でもそれでふっきれたね」
「というと」
「人が死ぬのは誰かが悪いんじゃない、誰にも決められない、だったら生き残ってることを大事にしようかって」
「なるほど」
「それで、身を固めて、子供もできた」
「そのころからここに?」
「引っ越してきたのは震災の後だね。あんときゃひどかった」
「でしょうねえ。そして、誰にも言わずに」
「ああ、死んだ亭主はあたしが芸妓見習いにいたことや女給だったのは知ってるけど、ラッパ吹いてたなんて知らなかったさ。言いたくないもの」
「そうなんですか」
休憩。
由香が尋ねる。
「あの、どうやって、うちのおばあちゃんを探し当てたんですか」
田貝恭介が、待ってましたとばかりに答えた。
「実はですね、リツさんと仲が良かったもう一人の芸妓見習いの、サキさんは戦後まで生きておられたんですよ」
リツはそれを聴いて眼を丸くした。
「ほんとかい!会いたかったなあ」
「残念ですが、亡くなられています。でも、サキさん、つまり境田サキさんは後に大変有名になられ、本を出しています。私たちは吾妻婦人音楽連中というキーワードを頼りにいろんな文献を探していたんです。そしたらある女流歌人の思い出の文章に、それが出て来たのです」
「歌人て、短歌を詠む人?」
と由香。
「そうです。サキさんの文章によれば、故郷に帰ってからしばらくして、海難事故を知り、すぐ置屋に手紙を出したそうです。そしてリツさんの生存を知りました。リツさんがある屋敷に引き取られたということは知ったものの、気後れして手紙を出せないでいた。その頃、結核患者を収容するということで病院に入れられました。そして初めて精密検査をうけたが、実は結核ではなかったことが分かったのです。気胸だったんですね。それで医師達が新しい手術法を試したいということで、無料で手術を受け、どんどん快復しました。そして歌人となって活躍したという訳です」
「それだけで分かったんですか」
「いえ、彼女の文章には、ブラスバンドを作り、リツさんを引き取ってくれた奥州の『殿様』の名前が有りました。そこまでくれば、あとは名家ですから、いろんな記録が残ってる訳で、給料の支払いやら帳簿でリツさんの名前を見つけました。旧姓は姉帯さんとおっしゃるんですよね」
「そう。アネタイだよ。うちの方じゃ珍しく無い名字さ」
「それで私たちは、姉帯さんを東北地方に探し、岩手県で一族の方にお会いできたんです」
「ああ、うちの本家はまだあるだろうしね」
「それで、かつて東京にでて芸妓をして戻り、また上京したという女性がいたことが分かったんです。親戚筋の方でしょうが、ぼんやりと月島近辺にいるということをご存知でした」
「へえ〜。そうだったのかい」
「でも、ご結婚後の姓がわからないですから、そこからは手探り。しかもご生存は確認していないんですから」
「あのね、サキさんが詠んだ歌ってのを聴かせてくれないかい」
淳子が、ごそごそと鞄を探り、コピーしてきた紙片を取り出した。
「いいですか。お聴かせします」

姉帯と聞くもゆかしき姓(かばね)ありその娘はいずこ幸(さき)くあれかし

さきさんとリツがよばはるその声に和(なご)み哀(かな)しきけさの夢路よ

あはれなり水底に逝くおみなごの響き伝へよ瀬戸内の濱

リツ一人残りし果ては楽隊のひとり吹きても和音叶わじ

音楽はきえゆくものと知りつつも乙女の調べまぼろしに聴く

「これで全部です」
「ああ、サキさん...生きてるうちにもう一度会いたかったねえ。元気になってよかった、よかった。そのうえあたしのことまで書いてくれたんだねえ」
「そうですね。サキさんの御陰でこうして、リツさんはご自分の演奏の録音を聴けたんですからねえ」

人間だけが記録する。記憶の外延、記憶の共有の保証、言葉に近く、情報にも似て。
音楽は記録、記譜によってかわり、聴覚は録音によってかわり、聴取環境の変化がまた音楽消費と生産、需要と供給をかえた。音楽はフェティッシュ化した。人間はフェティッシュに感情移入する。偶像崇拝にも似て。

インタビューは終わりに近づいていた。
「あたしはね、楽団のことは全部捨てたつもりだったのさ」
「はい」
「でも、やっぱり捨てられなかったものがあるね」
「え?」
リツは懐から、掌にのる大きさのまるっこい包みを取り出した。油紙でくるみ赤い紐で縛ってある。丁寧にそれをほどくと、なかからユーフォニアムのマウスピースがでてきた。
「出して見たのは何十年ぶりかねえ」
リツはそれを口にあてて、吹いてみせた。
シューというかすれた音以外は出なかった。
しかし、その場に居合わせた者達には、84年前の少女達が奏でる、日本初の女子ブラスバンドの演奏が、一瞬聞こえたような気がした。(完)

 

追記
この小説は、実在した「吾妻婦人音楽連中」(邦楽をやるときには東婦人音楽連中と表記)という芸妓のブラスバンドをモデルにして書かれました。しかし文中の登場人物はほとんど実在しませんし、このようなエピソードもありません。バンドは「どこかの殿様」ではなく、新稲弁楼(実在)の主人が尽力して作ったということです。関西方面を巡演中に海難事故で多くの死者を出し、継続できなかったのは事実です。文中では、紅毛碧眼の幇間が快楽亭ブラックの名で出てきますが、実在のオーストラリア人落語家、快楽亭ブラックをモデルにしています。ただしブラックがSP盤273枚に及ぶガイズバーグの録音対象を探し、コーディネートしたのは事実です。

*「君が代マアチ」は本来「君が代行進曲」として、海軍軍楽隊隊員(後に隊長)の吉本光蔵(1863?〜1907)がベルリンで作曲したものです。

「吾妻婦人音楽連中」(東婦人音楽連中)演奏は以下のCDに聴く事ができます。
「全集1903ガイズバーグ・レコーディングス 日本吹込み事始」
TOCF-59061〜71 東芝EMI、2001年

 

著者プロフィール
金野onnyk吉晃(きんの・よしあき)。昭和32年岩手県盛岡市生まれ、盛岡市在住。
歯科医師。管楽器系インプロヴァイザー。Jazz Tokyoコントリビューター。
*イラスト(島貫リツ):金野onnyk吉晃

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金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。第五列の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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