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GUEST COLUMNR.I.P. セシル・テイラーNo. 242

「追悼。CT考」

text by Yoshiaki Onnyk Kinno  金野Onnyk吉晃

 

1.異端者の運命

大衆音楽は、相互模倣の運動による画一化の様相を呈する(規格化が技術的コードであるなら、画一化は文化的コードである)。しかし、一旦、画一的スタイルが主流をしめると、今度は反動的にスタイルは自らの正統性を主張し、硬化していく。そうでなければスタイルはマニエリズムに陥って、その微細な差異を弁別できるエリート的鑑賞者にのみ依存することとなる。そこでまた周縁から反主流としての異端のスタイルが沸き上がり、蔓延し始める。「ポピュラー音楽においては異端こそが正統である」という事態はくり返される。

大衆音楽における異端者は、一方では資本主義的な運動性、異質の価値による差異を産み出して行く。もっと端的に「大衆音楽は異端者の歴史である」といってもいいのだ。したがって異端者は自らのリネージ(出自)、オリジンを正統と確信しつつ、商業音楽、音楽産業に取り込まれていくが、実はそこから永久に逃亡し続けるしかないという運命を持つのである。

もし正統性を承認され、権威となったからには、犠牲となるほかに異人の価値はない。見方を変えれば、貴重な商品となったからには、後は消耗、消費されるしか残されていない。それは価値の下落でしかない。あるいは英雄的/犠牲的な死によって神に祭り上げられるという道もある。だから異人、異端者は生き延びるために逃亡していくべきなのである。

異端であること、そして異人たることは常に自己を差異化しつづけることではあるが、彼等はどこへ向かうのだろう。その目的地、ターミナル、テロス、終焉は、やはり故郷しかないのだろうか。

 

3.セシル・テイラーの場合

セシル・テイラーの場合、出自においてコミュニティとその音楽の影響はなく、アカデミックな音楽教育を受けてきた。そのデビューでは、彼のバンドの初録音にはスタジオに来るための列車代にしかならないギャラが払われただけだった。

その演奏は極めて革新的なものだった。何が革新的だったのか。一言でいうなら、テイラーはジャズに現代音楽の諸要素を、誂え直さずに持ち込んだのである。

例えばデューク・エリントンやチャーリー・パーカーが、ストラヴィンスキーやドビュッシーを研究し、咀嚼し、吸収したとするなら、彼らは後期ロマン派から印象派までを栄養に成長したともいえよう。

いわゆるサード・ストリームの連中はといえば、その後の時代、つまり20世紀前半の2つの世界大戦の間に発達した音楽と、特に感じるのはクルト・ヴァイル、ハンス・アイスラー、パウル・ヒンデミット、ダリウス・ミョーなどの成果を吸収したという印象である。

またマイルスがシュトックハウゼンを聴き漁った時期があったし、ギル・メレらが電子音をジャズに取り込もうとした。サン・ラもまた電子楽器をアンサンブルに組み込んだ。

嘗て西欧音楽へ、その血を大量に輸血したジャズが、今度はアカデミックな西欧音楽の発展成果を逆に吸い上げて発達したのは無理無からぬ事だ。

ではテイラーは何を取り込んだのか。それは、まさしくトーンクラスターを、調性の放棄を、定型リズムの破棄、そしてそれらによる集団即興を、直ちにジャズへもちこんだのである。

これは、心地よいダンス音楽としてのジャズ、歌謡としてのジャズの否定であり、到底ビ・バップの叙情的熱狂を喜ぶリスナーに受け入れられるものではなかった。「テイラーはジャズを弾けない」とまで言われたのは有名だが、「ジャズ」とは一体何なのか。テイラーの挑戦はジャズのイディオムを否定、拒否することによって、「ジャズのアイデンティティ」を問うたのだ。

テイラーは古い聴衆を切り捨てて進む。これは『オン・ザ・コーナー』期の、いわゆるエレクトリック・マイルスにも似ているかもしれない。しかし、マイルスの段階的とも言える発展に比べて、テイラーは彼独自のイディオムに凝縮していくような変化を辿った。それゆえに、それまでの聴衆の期待を常に裏切りつつ、固有のリスナーをつかみ、常にアヴァンギャルド路線に居続けたのである。

『ジャズ・アドヴァンス』所収の、彼の弾く「枯れ葉」を聴いて欲しい。ほとんどテーマの原形をとどめない散乱したフレーズの修羅場に、<スタンダード・ナンバー>が血まみれの惨劇を呈示する。一方デュークへの敬意を表明し続けるテイラーのエリントン・ナンバー「ジャンピン・パンキンス」、そしてそれを収録する同名アルバムのアンサンブルは驚くほど小気味良く<スウィング>している。しかしここでさえテイラーは、リズムおよびビート感という生理的身体に埋め込まれた保守的な時間感覚の拘束と抗って、<加速化したセロニアス・モンク>のような断続のせめぎあいを見せている。これがテイラーの60年代、必死の行脚時代であった。

 

5.マイルス、トレーン、アイラーそしてテイラー

その彼が70年代に入って新たな表現を見せた。それは「身体」である。といっても決して定型リズムの音楽に動きを添わせるものではなく、またしても固有のイディオムによる表現というしかないものだ。彼はこれをあらゆるフォーマットの演奏の前に行なう。あたかも演奏と一連の儀式のように。髪をドレッドロックに結い、それを振り乱して踊る。鍵盤を駆け巡る指の延長としてのダンス。さらには詩を書き、歌い、という彼のパフォーマンスも自発性の発展としていいだろう。

このマルチ的な表現志向も、80年代現代音楽における「シアター・ミュージック」的な方向性やダンスと関連を見いだせる。それをマウリシオ・カーゲルやメレディス・モンクらと呼応するとしたら言い過ぎだろうか。

テイラーにおいて身体性は音響と直結している、いや相補的であるといえようか。それは晩年、演奏中のマイルスが殆ど動かなかった、動けなかった、あるいは股関節の手術によって、屹立することもままならず、よちよちと歩き回るしかできなくなったことと対照的である。

二人の音楽家はともに非常に高いブラック・アメリカンとしてのプライドを持ち、演奏や音楽に対する深い洞察力を持ち、身体性に対する強い意識を持ち、そして最初から故郷を喪失している。既にブラック・アメリカンは、生産共同体としても氏族共同体としても宗教的にも、共通の寄る辺を失って久しい。彼等にあるのは都市住民としての賃金労働、決して絶えることのないレイシズムだった。

だとすれば、彼等が分断された情況を超えて回帰できる共通のものは、イデオロギーとしてのムスリムや過激な闘争か、そうでなければ超越的観念しかない。60年代、多くのジャズメンがムスリムに改宗したが、テイラーはそうしなかった。ブラック・ムスリムの幻想がマルコムXの暗殺とともに崩壊した後、地上的な回帰、救済についてはもはや絶望的だったのかもしれない。いや、それを後の世代は再びのアフリカ回帰、ジャー信仰とラスタファリズムに見出そうとした。

そして滅びは今も続いている。アルマゲドンとは「最終戦争」ではなく「終わり無き闘い」を意味するのか。

テイラーはフリージャズのイデオロギー化を嫌った。フリージャズは闘争そのものというべき面があったことは確かだ。

コルトレーンが『至上の愛』で、マイルスが『イン・ア・サイレント・ウェイ』でモーダルな演奏に突入しても、前者は瞑想的ベクトルであり、後者は愉悦的なベクトルを示している。トレーンは『至上の愛』というマントラ的な方向に進み、さらに『惑星空間』『アセンション』において無調で、非定型リズムのフリーへと進んだ。マイルスもまた単一コードのモードを経て、無調的であらゆる即興ラインを許すクロマティック・インプロヴィゼーションに向かったが、執着は全く別だった。

ではテイラーの執着はいかなるものだったのか。

 

7.フリージャズへの決別

マイルスはロックリズムを導入すると同時に、急速にフリージャズ的な即興を消化し、ついにポリリズミックな即興空間を獲得していった。しかし、それはライブ録音ではあまりにも長すぎた。69年のライブではマイルスが演奏空間に居る時と不在の時で、様相が一変するのがわかる。彼が不在の場ではデイヴ・ホランドやチック・コリアが奔放にフリージャズへと向かい、リーダーがテーマを吹いたその瞬間にコンボはロックバンドへと変貌する。その一方スタジオではまとまりを欠く長時間セッションが実験的に続けられた。結局テオ・マセロという「編集の鬼」が膨大な録音のとりまとめを行なうことにより、マイルスの音楽を商品的に構築することに成功した。その意味で、『ビッチェズ・ブリュー』はロックの導入をライブで経験し、その成果をスタジオで試し、その構造化を計ったものだといえよう。

アイラーもまたロックギターとの共演を録音した。彼は『ザ・ラスト・アルバム』のA面で、エレキギターのディストーションで引き伸ばされたサウンドに、充分対抗するミュゼットを吹きまくっている(クレジットにはバグパイプとあるが、これは誤りだろう)。これが彼のロックに対する意思表明だったのかもしれない。しかしアイラーがもしこの方向性を維持していたとしても、彼のアプローチからフュージョン、クロスオーヴァーといったスタイルは出てこないだろう。彼のソウル的な、どこか紋切り型とさえいる演奏はむしろ回帰的な、リズム&ブルーズに近いものであり、スタイル的洗練とは程遠い。しかし回帰すべき何かがあったというのではなく、不在の、いや求めても得られるはずの無いユートピアを目指したサウンドだ。

その意味でアルバム『ニュー・グラス』は最も直接的な言明である。彼は上ずりながら歌いはじめ、バックコーラスはそれに応え、サックスではフレーズは次第に分解して、遂には倍音だけで延々と吠え続ける。時には歌そのものも、次第に予言者の異言のようにジャーゴンをわめくだけになっていく(アイラーの目指した方向に近いアプローチをした今一人を挙げるなら、それはギタリスト、故ソニー・シャーロックだろう)。

またテイラーは遂に彼の意志に相応しいほどのギタリストを見いだすことはなかった。敢えて言えば、テイラーはデレク・ベイリーと共演しているが、ベイリーこそは新ウィーン楽派、殊にアントン・ヴェーベルンの遺志を継ぐ「ジャズ・ギタリスト」たらんとした人物だ。しかしそのベイリーにしても、テイラーと拮抗する事は適わなかったといえないだろうか。

「生」とは常にノイズに溢れた状態でもある。そして生きる為の戦いは常に新たな武器を見出す。戦線は拡大するばかりである。信念を持つことは状況を苦しくする。

アイラーは明確に自分の置かれている立場と、あるべき姿を明言したミュージシャンとなった。これは危険な存在であることを引き受けたという意味になる。その結果彼は、いわば音楽産業という教皇庁から焚刑を宣告された異端者となってしまった。その結果は言うまでもない。生き残った急進主義者達は、異端を異端として許容する地に逃避するか、自らのスタイルを撤回してしまった。資本主義経済の中でジャズは自ら救済の道を閉ざしてしまったのか。

アイラーの死は事故ではなく、最後の予言者、そして救世主としての必然だったと言いたくなる誘惑がここにはある。

彼の死はジミ・ヘンドリックスというもう一人の天才の死と、似て非なるものがある。ジミの死、それは「自己追及の果ての死」ではなく「追い立てられ、逃げ場を失った野獣の死」と言うべきものだった。現実的に言えばマネージャーによって薬漬けにされた挙句の、限りなく計画殺人に近い事故死だった。

アイラーは、その自己確信的態度の故に「粛清されるべき革命家」として討たれたのである。

 

11.独行、苦行そして...

ただ、自らの道を一人、行脚し続け、アメリカのレコード会社には長期契約もしなかったテイラーだけは、周囲の音楽に惑わされなかった。彼は音楽産業から何も期待されなかった。それ故独自でいることができたし、誰かの評価も気にとめなかった。なぜなら、それは褒めていようが、けなしていようが的外れだったから。そしてまたテイラーは黒人音楽が搾取されてきたことを常々主張して止まなかった。彼は全くといっていいほど米国では受けなかった。

彼は辛酸をなめながらようやくブルーノートへアルバム2作『ユニット・ストラクチャーズ』『コンキスタドール』を吹き込んだが、これは時代が「もしかしたらフリージャズは売れるのかもしれない」と思い込んだレーベルの打算の産物だったかもしれない。いきさつはどうあれ、この二枚の関係はどうもバランスが悪い。『ユニット・ストラクチャーズ』は性格の異なる二人のベーシストを配してサウンドの対照を際だたせ、編成の特異性をコード、リズムの排除された空間に生かすという斬新さを感じる。一方、『コンキスタドール』は様々な意味で成功していない点があるように思われる。「フリージャズの10月革命」主導者たるビル・ディクソンのトランペットはあまりにも影が薄いし、全体の構成はテーマに依存する傾向があって、若干後退している脆弱性を感じる。しかし、こうした居心地の悪さはテイラーのせいだけではないかもしれない。彼の要求に対し、録音技術者やスタッフが非常に抵抗したという逸話も伝えられている。

それ以降彼のアルバムは殆ど欧州や日本で制作されることとなる。これは、フリーリズム、ポリリズムのドラム演奏の創始者(の一人)であるミルフォード・グレイヴスの運命にも言えることだ(グレイヴスもまたテイラーやアイラーと共演してきた)。テイラーの音楽を、商業的にではなく「いわゆる芸術的見地」から評価したのは欧州や日本の聴衆と、会社傘下のレーベルであった。

60年代といわず、いつでも革新的ジャズはアメリカでは評価されない。革新的であればあるほどその先導者達は仕事を失う。そして彼等は常に旧大陸でうける。しかし搾取の構造はどこでもついて回る。いわば、この「遠隔地からの輸入原料による本国での生産、または海外の低賃金労働力による生産」という構図は、資本主義の発達過程をなぞっているにすぎないではないか。しかしジャズの「遠隔地」とはまさに、その生まれ育まれた地であり、アフリカなどでは決してない。

「ジャズの死滅」を見届けると宣言していた故間章(あいだあきら)は70年代に入ってからのテイラーをこき下ろした。その理由は分からないでもない。つまりテイラーはジャズの構造的変革を目指した60年代に比べて、固有のイディオムにこだわる傾向が強まり、むしろ閉鎖的とさえ言えるスタイルを作ってしまったのである(同様の傾向を持つアンソニー・ブラクストンも間にとっては唾棄すべき存在だった)。あまりにも固有の形態に進化してしまった演奏は、生存競争、闘争本能を忘れ、過適応ないし袋小路に陥る。この完成型、頂点は1973年の日本でのライブアルバム『アキサキラ』とこのツアー中に行なわれたソロ録音だろう。

この2枚のアルバムは評価すべきものだと思えるのだが、これ以降数年のユニット、ソロには、共演者にこそ恵まれていても精彩を欠いている。彼が本当に息を吹返したのは80年代も半ばになり、FMPでのワークショップ録音が一気に10枚以上発売された時である。テイラーの長年培ってきたスタイルが、ヨーロッパの即興演奏とどれだけ渡り合うかが、ここで本当に明らかになった。

テイラーの強度は恐るべきものだった。有名な演奏家達を相手に多くのデュオ、トリオが録音されたが、おそらく、ここで本当に対等な演奏ができたのは英国屈指の草分け的前衛ドラマー、トニー・オクスリーだけだったのではなかろうか。

D.ベイリー、E.パーカー、T.ホンジンガー、P.ローフェンス、H.ベニンクといった強豪がデュオやトリオの小編成で共演しているのだが、皆、どこか臆している印象を拭えない。

実際、その後の活動でもオクスリーをドラムに、ベースにウィリアム・パーカーを据えたトリオや、故ジョニー・ダイアニを加えたカルテットを中心に、テイラーは新たな展開を見せ始めた。

蛇足だが、テイラーがデューイ・レッドマン、エルヴィン・ジョーンズと共演したトリオがある。ここでのテイラーには全く創発的なオーラが見られない。同じ事はトニー・ウィリアムスとのデュオにもいえる。時期は遡るがクラシック界の巨匠ピアニスト、フリードリッヒ・グルダと行ったデュオは聴き物である。そしてグルダの気迫に圧倒されているかのようなテイラーが珍しく映る。

 

13.漂泊者とその影

ピアノは西欧の音楽史の中で特権的だ。しかし、ピアニストとしてのテイラーは周縁的な存在だ。彼はセロニアス・モンクともバド・パウエルともビル・エヴァンスともポール・ブレイとも全く異なる。彼はジャズピアノの歴史のなかで、一気にピアノという西欧音楽の象徴的存在の破壊と再構築をやってのけた。しかし、この作業は西欧音楽史的にも理解可能だ。複調、12音主義、無調、クラスター、セリエールまで来て、彼はブラック・アメリカニズム(アフロ・アメリカニズムではない)を彼流の存在論に据えて独自のスタイルを構築する。これはアンチレイシズム闘争であるよりも、ブラック・アメリカンの独立宣言である。この意識はたしかに60年代のフリージャズ運動と呼応しているのだが、例えばコルトレーンのミスティシズム、ブラック・モスリムの熱狂的信仰、ブラック・パンサーの闘争主義などの動きとは決して同化しないものだった。

それはテイラーが結局、集団的イデオロギーよりも個人主義的な道を選んだためであろう。テイラーとアイラーは一時期共演したが結局永続的なものにはならなかったが、それはアイラーもまたコルトレーン流の神秘主義に近づいていたためかもしれない。また、あの革新的ドラマー、ミルフォード・グレイヴスの共演も同様に継続することはなかった。これもまたグレイヴスの身体=宇宙相即の神秘主義への傾倒を考えれば必然的な別離だったかもしれない。もし、テイラー、アイラー、グレイヴスのアンサンブルが永続する状況があったなら、それこそアメリカ合衆国全体が根底からゆらぐ時だったろう。

実際のところ、テイラーの主張は共演者達の神秘主義よりずっと難解である。彼の主張はその論述よりも、インタビューに直接現われる。それはブラック・ムスリムやアフロ・アメリカニズムであるよりも、アメリカ合衆国に生を受けたブラック・アメリカンとして、自由への闘争を余儀なくされる音楽家の苦悩を示している。これは、政治的闘争でも神秘主義でもないという意味では、マイルスに近い思想である。ジャズピアニストの文章としては、南アフリカ共和国出身のダラー・ブランド(アブドゥラ・イブラヒム)のそれに似ている。この二人は共にデューク・エリントンを崇拝しているところも共通なのだ。

テイラーは理解や共感を得るという情況より孤立を選んだ。だから彼がアンサンブル、オーケストラに関わるときには、常にリーダーであり、コンポーザーでなくてはならなかった(例外的にマイケル・マントラー、カーラ・ブレイらの指揮下でソロイストとなってはいるが)。一体どんなバンドリーダーがテイラーを御することができるというのか。

一つの頂点としての「セシル・テイラー・ユニット」(アンドリュー・シリル、ジミー・ライオンズとのトリオ)が終息し、ソロピアノのイディオムに固執する彼の姿は、たしかに隠者然としていたかもしれない。テイラーはソロの中に自身の依るべき道を見出した。それによってのみ、彼は自己救済が可能だったのであり、その結果として80年代のヨーロッパにおける再燃があった。

テイラーは、妥協を知らない孤高の人で在り続けた。しかし、私は彼等を正統化し、聖人にまつりあげようというのではない。多くの偉人がその晩年には、自らの遺志を継ぐ者を探し、彼に全てを預けることを夢、天命、義務と考えるようにテイラーも望んだであろう。しかし、それはまた多くの先人と同じく叶わなかった。

それは山下洋輔や、アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハであるはずはなかった。そして、バートン・グリーン、ボブ・ジェームスといった面々でもないだろう。

デイヴ・バレルだったらどうだろうか? 敢えて言えばロウェル・ダヴィッドソン、ドン・プーレンなどが、生き延びてさえいればと思う事もある。

もしかしてそれはムーハル・リチャード・エイブラムス、アミナ・クローディーヌ・マイヤーズ、ジェリ・アレンになる筈だったのかもしれない。

私は、声にしなければならない。

「いでよ、今一人の異端者!今一人のセシル・テイラー!」

(了)

初稿2012年
改稿2018年

 

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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