スピリチュアル SF 「紙魚の夢」
金野onnyk吉晃

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 (illustration:Dの肖像)

 

 

ハリは隔離区画の扉の前に立つた。センサーが彼を認識して質問する。
「ご用件はなんでしょう。ハリ」
「おじいちゃんに会いにきた」
「レイジロウですね。体調は良くありません。面会は30分以内ですが、変化があればそこで中止です。よろしいですか」
「いい」
「では、お通り下さい、ハリ」
扉は音も無く横にずれる。
中は真っ暗だがハリが足を踏み入れるとその空間の向こうに木製の扉があった。
錆びたノブに手をかけまわすと、扉はきしみながら開いた。
カーテン越しにぼんやりとした光が差している。窓に向いた椅子があり、すっかり禿げた頭の男が座っている。
「おじいちゃん」
反応はない。
「おじいちゃん!」
もう一歩よって声を高くすると、レイジロウが椅子から身をねじるようにしてハリを見た。逆光で表情はよくわからない。
「こっちへおいで。声がよく聞こえるように。そのへんに座れ」
声に生気はない。
ごたごたと物が載ったテーブルの脇にある椅子に、ハリはすわり、足をぶらつかせた。
レイジロウはため息をつくと、椅子をきしませて向きを変え、額にしわを寄せてハリに語りだした。
「もう時間はあまりない。セフは、お父さんはどうしている」
「黙ってきた。友達に会うといってきた」
「それでいい。セフは、お前が私に会うのを嫌がっているからな」
「……」
「お前に会うのもこれが最後かもしれん。私はもう長く無い。こっちへおいで」
レイジロウはハリを手招きで近くに呼び寄せると、肩を抱いた。
そして意外な素早さでハリの上着のポケットになにかをすべりこませ、囁いた。
「何も無かったふりをしろ」
「うん」
レイジロウは体を離したが、ハリがもぞもぞしているとは祖父はさらに言った。
「もう話す事はなにもない。お父さんには、来たことは内緒だぞ」
「うん」
ハリは祖父の顔をちらちら見ながら扉に向かった。
「ハリ、これをもってけ」
レイジロウは数個のキャンデーを渡した。今ではもう見ることも無いような包装紙でくるまれた丸っこい代物だ。包装紙は赤や緑のメタリックな色で何も書かれていなかった。
ハリはそれをポケットに突っ込むと礼を言った。
レイジロウは微笑んで手を差し伸べ、ハリの手を握り、軽く叩きながら言った。
「お前はいい子だ。だが、お前の人生は辛いだろう」

それから2週間後、レイジロウの訃報が届いた。
息子セフは亡父の収容施設に赴き簡単な手続きを済ませると、主のいない部屋に入った。カーテンを開けるとそこは一面の発光ボードで、時間によって光の具合を、微妙な変化を加えつつ調整しているのだった。
セフは父の残した雑物を見渡すと、乱暴に捜索を始めた。机の上、引き出し、ベッドの上や下、布団の間、ワードローブと無表情のまま何かを探す。
そして舌打ちをすると、誰かに向かって言った。
「結構です。すべて処分してください。何か問題のあるものがあれば教えてください」
虚空から声が答える。
「了解です。問題のある物件は一応報告しますが、その性質に拠っては当局の権限で処分した後になるかもしれません。ご了承ください」
有無を言わせぬ言い方だった。

「ハリ、お前、おじいちゃんが死ぬ少し前に会ったようだな」
「…」
「俺に黙って、お前とじいさんが何か企んでいたのは知ってた。お前はそれが法律に触れる事だと知っていたか」
「…何、法律に触れるって」
「つまりいけない事だ。おじいちゃんが何であそこに入っていたか、お前も少しはわかっているだろう」
「...ホン?」
「そうだ。ホンだ。それはもっているだけで犯罪だ。わかるな」
ハリは父の目をじっと見詰める。
「おじいちゃん、ホンを持っていただろう?紙の束だ」
セフは表情と語気を荒げてさらに続けた。
「お前はおじいちゃんからホンを受け取ったんじゃないか? もしそうならすぐに出せ。黙って持っていると大変なことになるぞ。お前が持っていても何の得にもならん。出すんだ」
「僕、持ってない。本当だよ」
「どっかに隠してあるんだろう。おじいちゃんの所には無かった!」
「そんなことしてない!」
「お前の部屋か?それとも家の外か?まさか友達のところじゃないだろうな」
「ないったらないよ!」
「じゃあなんでホンのことを知ってる」
「昔のことを聞いたんだ。昔は皆でホンを読んでいたって。大革命が起こる前はホンが大事だったって」
「大革命が起きてホンは一番危険なものになった。わかるな。学校で習っただろう。ホンだけじゃなくモジもだぞ。モジは必要悪だといわれたがもうそんな時代も過ぎて誰も使わなくなった。イメージがあれば済むし、正確だ。ホンやモジは不正確で誤りの源だからな。大革命の前、世界には沢山のコトバがあった。それが元でたくさんの戦争があり、人が死んだ。すべてホンやモジのせいだ。もしお前がそんなものを持てば、お前からどんどん病気のようにそれが増える可能性があるんだ。なあハリ、そういう危ないものを持っていてはいけないんだ」
「....」
「でも今でも持っている人がいる。まあじいさんのようにすっかり依存症になってしまった一部の人達に限って与えておくしかない。しかしそれだって自分のじゃなく、施設が貸し出すものだけだ。しかしな、世の中にはもっと悪い連中がいるんだ。そいつらはホンを作ったり売ったりしている。隠れてだ。だからファイヤーマンがいる。彼らはそいつらを見つけて焼いてしまうんだよ。それを作った奴等ごとね。昔は『ショを防止』といったそうだが」
丁度、室内のヴィジョンではファイヤーマンの活躍が映し出されていた。彼らは銀色の制服を着用して分列行進し、整列すると、号令で散開し、小隊ごとに火炎放射器を構えると一斉に火を放った。いつも通りの光景だった。

*******

父、セフが死んで数年後、私、ハリは家を出た。仕事は順調で、収入も良かった。仕事上の付き合いも増えてきたが、私はあまり社交的ではない性格だったので、限られた友人とだけ付き合っていた。
そんな中で、ちょっと陰のある雰囲気のキリは特に親しくなった。彼とは妙に話が合ったのだ。その理由は彼がホンに関心が強かったからだろう。我々は会えば、大革命まえの世界の様子を資料や噂から寄せ集めて、何時間も話し合うのだった。
そんな彼がある日、いたずらっぽい目で私を見つめ、こう切り出した。
「ハリ、ホンを見つけたぜ」
「おい、やばいじゃないか。闇で買ったのか?」
「ははは、いや、そんな危険な真似はしない。すぐ足が着く。大体にしてホンがあってもモジを知らなきゃ読めないじゃないか」
「ああ、そうだな。じゃあなんだ。ホンと、モジを読める奴でも一緒に見つけたのか」
「近いな。お前となら一緒に行きたいんだが、いいか。まあ非合法すれすれってとこだ」
一も二も無く承知して夜を待った。
キリは繁華街からすこし外れた静かな一角に私を誘った。目立たない建物の前で立ち止まった。扉には、魚の形に切り抜いた紙が貼り付けてあった。
「これが合図だ。これが貼ってあれば営業中ってことだ」
キリは… — — — …とノックした。
扉はゆっくりと内側に開いた。
それほど明るくは無い間接照明、応接間のような雰囲気。柔らかな花の香りと古い音楽が流れていた。カウチのような椅子に男女のペアが3組ほど座っている。女は男の肩にもたれて耳元で囁いている。
「お前は最初だし、カウンターにするか」
キリは壁際のカウンターの高めのスツールに陣取った。私も隣に座った。
初老の、いかにも長年の経験を積んだ感じのバーテンがやってきた。鼈甲ぶちの眼鏡の奥で目が光った。
「初めてでございますね。あ、いやキリ様のご友人なら大歓迎です。まあごらんのようにつつましくやっている店ですが、あまり噂が広まっては困りますので」
「マスター、大丈夫だ。心配しないでくれ。こいつ、ハリっていうんだが、俺以上に…ホンがすきなんだよ。そして大革命前の世界もね」
「左様でございますか。それは嬉しい」
バーテンは警戒心を解いたようだ。
そして私は彼の後ろのラックを眺めて驚愕した。
「あ、おい、ここの酒って! ラベルに文字が!」
「ええ、左様でございます。まあほとんどは最近プリントしなおしたものですが、中には革命前のボトルもございます」
「こりゃあ凄い。このことか、君が教えたかったのは」
「いやあ...」
と言ってキリは薄ら笑いをうかべ、スコッチを注文した。私も同じものを頼んだ。
これまた時代を感じるバカラの重いタンブラーに、アンバーの液体が半分ほど、そこに丸い冷たい透明な球体が沈んでいる。
「乾杯」
とグラスを持ち上げたキリがいい、軽く触れさせてから口もとに寄せる。私はそこから立ち上がるヨードのような香を確かに感じた。鼻孔の奥まで吸い込んでから、わずかに啜る。すると舌と口蓋に光り輝く道筋ができ、喉を伝って降りてゆくと、そこからまた変化した香りがあがってくる。
私はしばし目を閉じてその、久しぶりの感覚を楽しんだ。
「ハリ、どうだ?」
「最高だな。これってシングルモルトというやつか」
「ああ、今日、親友を連れてくるからいいのを出してくれと頼んでおいたんだ」
「ありがとう。嬉しいよ」
「まだ驚くのは早いぜ。マスター!」
「はい、お待ちしておりました」
とバーテンは奥の部屋に通じるドアの向こうに消えた。すぐにドアは開き、深紫のベルベットのワンピースを腰のベルトでしぼった、ロングヘアーの女が現れた。その瞳は恐ろしく深い闇のように思え、深紅のルージュは血を啜ったようだった。
女はキリの隣に座った。
「一週間ぶりかしら、キリ。暇だったのよ」
「そう続けてくるわけにもいかないさ。忙しかったしね。今日は友人を連れてきた。ハリというんだ。全くの初心者だからね。今日は見学ってとこかな。マスターに手ほどきしてもらって」
「え?一体何が始まるんだ」
「この子はポーだ。俺のお気に入り。もうずっとここに通ってるのもこの娘がいるからさ」
「ハリさん、よろしく。でも私はずっとここにだけいる訳じゃなくってよ」
「ポー?変った名前だね。エドガー...アラン?」
「あらよくご存知ね。さすがはキリのお友達だわ。そう私はエドガー・アラン・ポーの分身よ」
「どういうこと?」
「じゃあ、始めようか。テーブルに移動しよう」
我々三人はボックスのひとつを占領した。
「どこまでだったかな」
「…唇のあたりには、死人の場合には実に恐ろしい、あの疑り深くたゆとうような微笑をとどめている。蓋を戻し、釘を打ち、鉄の扉をしっかりと閉じてから、われわれはこの館の地下室に劣らず陰鬱な上の階へとようやくたどりついた。…というところまでよ。最後までいく?」
「ああ、頼むよ」
すると、ポーは髪をかきあげ、自分に注いだ赤ワインを軽く飲んでから、片手をキリの膝におき、少し体をもたせかけて、ゆっくり語りだした。
「…そして辛い嘆きの数日が経つと、友人の心の病状にははっきり見て取れる変化が現れた。平素の態度が消えてしまったのである……」
彼女の声は沈鬱ではあったが、なにか柔らかな織物に触れるように、聴くものの心を捉えて離さないものがあり、その前段を知らぬ私でさえも、次第に引き込まれていった。そしてこの語りがいつまでも続くように、話が終わってしまわぬようにと願うほどであった。
「…百千もの海の響きのような轟然たるとどろきが長く鳴りつづけ、わたしの足もとの黒い深い沼は、アッシャー家の破片をゆっくりとひそやかに呑みこんでしまった
彼女は、ここで大きく息をつき、ワイングラスを手にとった。
「『アッシャー家の崩壊』、これで終わりよ。また読み直したいところある?」
ずっと目を閉じて彼女の語りを聞いていたハリは、夢から覚めたような顔つきでポーに向き直った。
「ありがとう。素晴らしい。引き込まれるよ。その情景が見えてくるんだ。どうだ、そう思わないか、ハリ!」
「そうか、なるほど。そういうことか。彼女はすべて覚えているのか?」
「ああ、ポーなら他の作品もすべてだ」
私はようやく、このバーがどういう場所なのか理解した。ここはホンのない図書室なのだ。
ポーは私に振り向いた。
「ハリさん、何かお読みになりたいものはあるの?」
「いや、僕は全くホンについては無知というか断片的にしか知らないんだ。もし、できるものならいろいろ教えて欲しいね」
「じゃあ、カウンターでマスターにお尋ねになって。キリと私はここで待ってる」
私がカウンターに戻ると、バーテンはグラスを磨く手を休め、タブレットを持ってきた。
「簡単ですよ。これに話し掛けてください。貴方のお読みになりたいものがどういうのかを。そうですね、例えば最初なら星新一なんてどうでしょう。とてもコトバは簡潔だし、話は短いし、そして面白い。アイデアがね。まあ貴方が面白いと思うかどうかまだわかりませんが」
「ならそれでいってみるよ。ホシ・シンイチを出してくれ」
タブレットには瞬時にイメージが現れた。彼の生きた時代や文化やテクノロジーの様子が見える。そしてタブレットは語りだした。
「星新一はサイエンスフィクションの一分野でショートショートと呼ばれる非常に短い物語を数多く書きました。彼の作品はウィットとユーモアに富み、多くの読者を得ました。作品数は多いので短編集としてまとまったものをお薦めします。それは…」
と、その作家の短編集の名が読み上げられた。私は最初の一冊のタイトルが気になり、それをバーテンに頼んだ。彼はにっこり微笑んで奥に消えた。
しばしあって扉から現れたのは、金色に染めたショートカットの快活そうな若い女の子だった。銀色のパンツスーツが人工的だ。メイクもどこか不自然に派手にしている。彼女は隣に座ると予想にたがわず明るい声で自己紹介をした。
「初めまして!私『ボッコちゃん』です!」

私は図書室通いを始めた。私の読書欲は留まるところを知らなかった。紙の魚が貼り出されている晩には、結局、空が白み始めるころまで「読書」を続けた。手持ちのクレジット額はどんどん減っていったが気にしなかった。稼げばいいだけの話だ。もはやキリともあまり会うこともがなくなった。
ある晩、客は私以外誰もいなくなった。私のホンも既に奥に消えていた。カウンターにもたれて最後の一杯と思いながらグラスを手にしていたが、興奮と酔いが私の口を滑らした。
「マスター、話がある」
「なんでしょう」
「俺は、ホンを持ってるんだ。本物のな、血の通ってない奴を」
「…」
「闇で入手したんじゃない。俺のじいさんからもらったんだ。死ぬ直前にな」
「そうでしたか」
「俺のじいさんは革命前に反動勢力としていろいろやり、最後には施設に入れられたのさ」
「そういう方が沢山いたのは存じています」
「そこでずっとひた隠しにしていた、検閲を逃れた革命前のホンを持っていたんだ」
「それを貴方が?」
「ああ、そうだ。じいさんが死ぬ直前、ホンの隠し場所を示す地図をくれた。俺は発見できたのさ。たった一つだったがな」
「それでそんな話を私に、何故。お売りになりたいとかならお力にはなれません。そういう連中は恐いですから」
「いや、俺は、俺の望みは、それを読みたいんだよ。自分の力で。だから、それをするにはどうしたらいいかを教えて欲しい。多分、あんたなら知ってるんじゃないか」
「…わかりました。ええ、知っていますとも。そのためにはまず、モジを習わなければなりません。そして次にブンを。私たちがこうして語っているコトバが、モジやブンとひとつひとつ対応し、そしてページというシートにインサツされ、それが沢山綴じられてホンになっているのです。ですからまずはモジを学び、そしてブンを読めなければならない。そして実は、それ以上のことがある。それは、ブンで出来ていること以上のものを知らなければならないのです。それがヨムという行為です」
「ちょっと待ってくれ。頭が混乱する。とにかく第一歩はモジを習え、そうだね。でもそれは誰に習うんだ」
「次に魚が貼り出される日に来てください。今はそれだけです」

私は待った。
そしてその日が来た。カウンターに座ると、マスターは何も言わず奥に消えた。
いかに馴染みの客でさえ入った事の無い奥の部屋の扉から出てきたのは目鼻立ちのくっきりした、漆黒の髪をショートカットにした、どちらかといえばマニッシュな印象の女性だった。彼女は目立たないダークグレーのジャケットを羽織り、革のパンツをはいていた。彼女は黙って私の隣に座った。何も言わず、黒目がちの眼で私の顔を見つめている。マスターが戻ってきた。
「ご紹介しましょう。彼女をディーと呼んでください。ディクショナリーの頭文字です。それは『辞書』という意味です。辞書は、本の本、字の字、文の文を教えてくれるのです。貴方の要求に従ってね。だから最初のページから読む必要は無い。そうではなく、貴方が読みたいモジを問えば彼女がその音と意味を教えてくれるのです」
「でも、どうやってそれを彼女につたえるんだ。まさかホンを持ってくるわけにはいかない」
「貴方のために用意したものがあります」
といって彼はカウンターの下から薄っぺらいホンのようなものと、木の棒を取り出した。
「これは何も書かれていないホンです。ノートといってください。そしてこれはエンピツといいます。この尖った先を、このようにページに押し付けて引っ掻くと、ほら、あとが残る。絵を描くようにね。これで貴方は自分のホンから、読みたい箇所のモジを真似て写してくるのです」
そこでディーが初めて口を開いた。
「そして、私がそれを見て、貴方に教えるのよ」
感情の篭らない、冷ややかな声だった。
「気が遠くなるような作業だね」
「私たちがどうやってホンになるか、お分かりになる?それに比べたら大したことじゃないわ」
彼女の口ぶりには私を軽蔑したような響きがあった。
「ふふふ、ハリさん、貴方の前にいるのは本当に貴重なホンですよ。ディーのような存在は何人もいない。私が貴方のためにできるのはここまでです。あとは自分でやっていくしかない」
「ありがとう。嬉しいが、とても怯えているよ。だって祖父のホンが一体どういうものか全く分からないんだからね」
その晩は私は彼女に酒をおごるだけにして、次の来店までに必ず書き写してくることを約束した。

私は久しぶりに祖父のホンを取り出した。
マスターがくれたノートより二回りほど、縦横の比は小さい。しかし厚みはノートの数倍ある。ページという、その薄い紙のシートの一辺が全て接着されている。それがトジルという状態で、だからこそホンなのだという。だから全体としては紙の束で出来た薄い直方体だ。綴じられた面には何もないが、何かが着いていた跡がある。どちらの面が上なのかも分からない。最初から最後迄、整然とモジが列を作って並んでいる。
(モジの列をギョウというのだったな。そしてそれに沿ってヨムのだと)
モジ一個はかなり小さい。そしてよく見ると実に細かな凹凸、カーブや線の太さに差があり、複雑な形をしている。しかし、種類には限りがあるようだ。小さな丸い点や、涙型の形、その他いろいろな記号もある。
そして以前から知っていたが、ページの下端には数字が着いている。数字は大革命以前も以後も変わりない。だから数字の向きや大小で、このホンがどういう方向でヨムべきなのかは判断できた。
私は、一番最初のページの一番上のモジ列から書き写し始めた。何文字か進むと区切りがある。繰り返されるモジのパターンもある。
(これは特定のコトバに対応しているのだな。ワタシとかキミとか)
そういう規則性が見えて来ると最初は難儀だった書写も早くなって来た。
しかしエンピツの尖端がすり減って、モジの細かい部分を描けなくなってきた。そこで周囲の木製部分を刃物で削り、中心部の黒い柔らかな部分を、円錐形に尖らせる作業を時折繰り返すのだった。
木を削ると、独特の匂いがした。それがまた芳香に感じられた。
こうして集中していると、ホンをヨムというより書いているという気持になり、何か充実感が生まれて来た。
ほとんど休まずに十ページの裏表を書き写す頃には夜が明けていた。もう限界だ。しかし夜が待てない。
ホンと、ノートもまた入念に隠すと出勤したがとても仕事に身が入らない。

バーの扉には魚がなかった。次の日も、其の次の日も。
一週間経ってようやく魚が現れた。
部屋に入ると、マスターは何も言わずディーを連れてきた。私は彼女と隅のテーブルに移った。
「見てくれ」
「まあ、凄いわ。まるでインサツしたみたい。今迄何人か、こういう事に挑んだ人は居たけど、ここまで丁寧にやった人はいないわ」
「...僕が初めてじゃないんだね」
「そう、でも一冊を読み終えた人は居ない」
「何故?」
「それは...いろいろな理由があるの」
「聴かない方がいいかな」
「そうね」
「じゃあ、早速読み方を教えてくれる?」
「待って。これが本当にヨムベキホンなのか、ヨンデ良いのか、それを判断しなければならないの。それに...」
「それに?」
「あのね、モジには沢山の種類があるの。私は全てのモジについての辞書じゃないのよ。それにモジでできたブンも、ヨンデそのまま理解できるとは限らないのよ。ブンは書いた人によってかなりの違いがあるし、書かれた時代によっても違うの。それはホンを沢山聴いた貴方なら分かるでしょ」
「ああ、もしかしたら、これはもう僕が聴いたホンかもしれないよね」
「...そうねえ、でもホンは無数にあったのよ。貴方が聴いたホンは、本当にわずかでしかない。作家と呼ばれる人達も人類の歴史のなかでは無数に居たのだし」
「でも君たちがいるじゃないか。君たちは作家の数だけいるんじゃないのか?」
「私たちが記憶している作家はごくわずかしかいないのよ。誰が其の作家を記憶するか、それは私たちが決めるんじゃないの」
「誰がそれを」
「この話は終わりにして。言えない事もあるの。あのね、このノート、お借りするわ。いいかしら?私だけでは決められないから」
「じゃあ、今日は何も」
「そうね、でも折角だからひとつだけ教えるわ。昔の人がよく使った言葉」
「どんな」
「このノートのここにも出てる。...カミ」
「カミって、このページみたいなものだろ。それに他のホンにも時々聞こえる」
「いいこと、カミっていう言葉にもすごく沢山意味があるの。同じモジで書かれていてもよ」
「どういうこと」
「このページもカミ、櫛を入れるこれもカミ、上のほうのこともカミ、何か加えることもカミ、齧り付くこともカミ、まだあるけど、一番大事にされたのは、この世を作った、そしてこの世を支配する、いやこの世を忘れてしまったかもしれないカミ」
「わからないなあ。そんなに違う意味があって、どうやって同じモジを使い分けたり、ヨミわけたりするんだ?」
「だから言ったでしょ。モジにはいろんな種類があるの。それに私たちがヨムときでも、音を使い分けるのよ」
「う~ん、わからなくなってきた。モジにいろんな種類があったなんて」
「言葉だって沢山の種類があったのよ」
「ますますわからない。それじゃ違う言葉を使っていたら通じないじゃないか」
「それが大革命前の世界なの、ハリ...」

彼女は辞書という存在の特殊さを説明した。つまりこのホンは「最初から順番に読むものではない」とか、「言葉の説明の為に他の言葉を必要とするなら、それもまた問い尋ねなければならない」ことなど。つまり本来の言葉やモジは無限に入れ子構造になっていたり、同義反復になっているということ。
私の理解力はそろそろ限界に達していたので話題を変えることにした。

「ひとつ訊きたいんだが、この店の、あの紙の魚、あれはなんだろう」
「マスターに訊けばいいのよ」
「訊いたさ。そしたら前にやっていた人から引き継いだだけというんだ」
「...あれは洒落なのよ」
「シャレ?」
「そう、違う意味でも同じ音の言葉で遊ぶのよ。カミの話をしたでしょう」
「うん、それで」
「紙魚というモジの組み合わせがあるの。それをカミとウオではなく『しみ』と読んだのよ」
「え。全く分からない。なんでカミとウオでシミ?」
「約束事だったの、古い時代の。そしてシミにもいろんな意味があったのよ。例えば汚れとかね。そしてある昆虫の名前でもあったの」
「ますますわからない」
「その昆虫は、古い本のページの間に棲んでいたの」
「まさか」
「いえ、本当よ。其の虫達は紙を作っていた繊維や糊を食べていたの」
「一生、本のページの間に?」
「そう。だから彼らには目もないわ」
「信じられない」
「こういうことも辞書には書いているわ。つまり私が知っているということだけど」
「でも、待ってよ。本は人間が作ったんだろ。じゃあそのムシ共は本ができるまでどこに棲んでいたんだ?」
「さあ、どこかしら。そこまでは知らないわ。でもね、ついでに言っておくけど、貴方もシミになるところなのよ、ハリ」
「どういうこと」
「本の間に棲んでいる虫みたいな、本しか頭に無い人のことを『本の虫』っていったの。昔はね」
「ははは、なるほどね。君は凄いな、いや、本当に凄い」

私は、その他にもいろいろな話を聴いたが、次第に疲れて来た。頭を使いすぎたせいか酔いは全く回らなかった。しかしもう閉店の時間はとっくに過ぎていた。私がもっと時間が欲しいというと彼女は言った。
「今日は、私の使い方が色々分かったと思うわ。だから次には、きっと」
「うん、また会ってくれ。お願いだ。君の知っていること全てを知りたい」
「馬鹿ね。ハリは、ホンになるつもり?」
「バカ、ってどういうモジを書くの?どういう意味?」

しばらく、また多忙な日々が続いた。
私はノートもないので、時折、祖父のホンを取り出し、眺めてはため息をつくばかりだった。
深夜、キリから電話が来た。
「ハリ、お前のクレジットの残高、俺に少し移動してくれないか」
そして今から会いに来るという。ただならぬ雰囲気があった。
悪天候の中、車でやってきたキリはドアを開けるなり言った。
「俺は姿を隠す。これで、いや...しばらくお別れだ。借りはいつか必ず返す。元気でな」
「おい、一体」
車に乗り込んだ彼の隣には見た事の無い女がいた。ラテン系の血が入っているのがすぐわかる。彼女と私の眼があった
キリが言う。
「これがその理由。ボルヘスだ」
「お前、ホンを盗んだのか!」
「結果的にはそうだ。しかし、俺が読んでいる途中で奪われたんだ。しかもいつ戻って来るかわからないという。俺は探したのさ、他のバーもな。そして色々分かったんだ。ホンのコレクターがいるってことをな。そいつは好みのホンを金でかきあつめている。もうかなり前からな。だから読みたいと思ってもなかなか読めなかったのはそのせいさ。読むのを途中にさせられたからだけじゃない。俺は、ボルヘスに惚れたんだ。これからもずっと手元に置いておきたいんだ」
「どこにいく?」
「知らない方がいいだろう。お前にも危険が及ぶ。じゃあ」
ドアを閉め、キリは去った。

久しぶりにバーに行った。
マスターは浮かぬ顔をしている。理由はわかっている。
「キリが、俺に、別れを言いに来たよ」
「...そうですか。最近、困ってるんですよね。ホンを『貸し出し』ちゃうバーもあるし。それをやったらまずいんですよ。それを口実に取り締まりもあって」
「まだ合法だろ。その場でヨムだけのバーは」
「いえ、もうすぐ違法になるでしょう。そうなれば営業はできません」
「それは困る。俺はじいさんのホンを読まなければならないし、ノートもディーも必要だ!」
「声が大きいですよ。私だって貴方のような人を探していた。例えばこういう店を継いでくれるような人をね。でもそれも難しいかもしれないな」
「もし続けられるものならそうするよ。本当に。でも今はまずディーを呼んでくれないか」
マスターの顔が曇った。
「それが...」
「まさか、そうなのか?!コレクターが持ち去ったというのか?」
「残念です」
私は足元が崩れるような衝撃を覚えた。そしてすぐバーを出た。

ほどなく一斉検挙があった。マスターの懸念通り、『貸し出し』をしていたバーが摘発され、そこに居た多くのホン達が捕まった。
ニュース映像は其の様を放映した。私が読んだホンも見かけた。ポーも、ホシ・シンイチも居た。髪を引きずられ、服を引き裂かれ、あるいは殴られ、蹴られ、ファイヤーマン達は乱暴にホン達を大型の護送車に詰め込み、連れ去った。
私は、ディーが既にコレクターの手に渡っているならその中には居ないだろうと思いつつも、ホン達の今後の運命を思いやるしか無いのだった。
摘発、検挙は一ヶ月に及んだ。

ビジョンにはスタジアムが映し出されていた。
アナウンサーの声は興奮している。
「いよいよ焚書が始まります。スタジアムの中央には本日焚書されるホン達が火刑台に固定されています。目隠しをされ、また鎮静剤をうたれ、余計な抵抗はしないように配慮されています。
両手両足を木製の直交した形の杭に固定され、腕は肩の高さで横に伸ばされています。これは大革命前に世界を支配していたある宗教のシンボルに用いられた処刑の様式で、『ジユウジカ』と呼ばれていました。『自由時間』という意味でしょうか。彼らはこの形を聖なるものと見なし、宗教施設には必ずそれを置くほか、ミニチュアを肌身離さず持ち歩いていたということで、それらは遺蹟から多く発掘されています。
しかし残酷な刑罰の道具を聖なる象徴として崇めたというのは、古代人の思考についてまだ不明な点が多いと言わざるを得ません。
ホン達の十字架の基部には、近年摘発押収された「書物」「文書」「書籍」などモジのつまった資料が山積みにされています。これにより、火力を維持する訳です。
十字架の数は、第一回の公開焚刑として二千が用意されました。まだまだこれから何度も実施され、それだけのホン達が刑を待っています。
あ、ただいま、ファイヤーマン達が八方のゲートから一斉に入場してきました。大変な歓声です。ファイヤーマンの一糸乱れぬ動き、八つの列は次第に一つの円となり、トラックを囲む形になりました。さあ、いよいよ始まります」
そしてスタジアムに号令が響いた。
「全員、散開し、所定の位置に着け!」
銀色の甲虫達は十字架の基部に陣取ると、火炎放射器の準備を完了した。
「放火!」
彼らはまず基部の書籍の山に火を放った。既に可燃性液体が散布されていたせいか一気に炎が燃え上がり、黒煙が立ち上る。
ホン達の掛けられた高さは足元まででも数メートルあるが、炎は一気に上昇した。
会場からは一斉のどよめき。
ファイヤーマンは一旦放射をとめ、炎上を観察している。
するとホン達は足下の熱と黒煙での呼吸困難から、何人かが覚醒し、もがき始めた。
カメラは彼女らの顔をアップにした。彼女らは何かを訴えているように口を動かしている。いや、違う。彼女らの記憶している限りの書物の内容を再び声にしているのだ。
しかし処刑者は既に彼女らの声帯が機能しないようにしていた。彼女らが今際の際で、何を口にするかは予想されていたのだ。だからどんなに叫んでも声は聞こえない。
だが、カメラが捉えた彼女らの唇を読んだものがいた。彼らはそれを見て、彼女らの記憶しているものを聴いたのだ。
これに気付いた処刑責任者はすぐさま視覚報道を禁じた。と同時にファイヤーマンのチーフは全員に命じた。
「根元を切り倒して十字架を倒せ!」
命令はすぐに実行された。
スタジアムの焚書は3時間続き、黒煙が立ち上った。太陽は沈み、黒煙は夜空にまぎれた。するとスタジアム周囲から一斉に光の柱が立ち上がった。
「皆さん、いま、スタジアムにまばゆい柱列が出現しました。黒煙を、闇を貫いて真実の光が正義の勝利宣言をしたかのようです。観衆は総立ちで拍手を送っています。あ、今、雨が降ってきました。遠くで雷も聞こえます。稲光りも見えました。予報では降雨はなかったのですが、上昇気流が作られたので急にこういうことになったのでしょうか。強くなってきました」
雨は驟雨かと思われたが、次第に本格的な豪雨となり明け方まで降り続いた。
焼死体は無惨にも不完全な形で処理されることになった。

ヴィジョンの中継を見てしばらくは何も手に着かなかった。
ようやくバーに行ってみる気になった。それしか考えられなかった。
着いてみると扉には魚が無かった。諦めて帰ろうとしたとき、湿った地面にその魚が落ちているのに気付いた。
(閉めたのか...!)
私は、その「紙の魚」を拾い上げるとハンカチで湿気を吸い取り、そのまま挟んで持ち帰った。

私は決意した。そしてホン世界の裏情報を聞き込み始めた。容易にコレクターの所在は掴めた。彼は大物だったのだ。だからそれが知れても誰も手が出せない。
私は秘かに偵察をしてみた。その邸宅の警備体制や侵入経路を検討した。キリができたなら私も出来ない筈が無い。
そこは深い森の中で、というよりその森自体が彼の土地であり、中央に広大な屋敷があるのだった。
さぞかし厳重な警戒体制があるだろうと思った。しかし、驚くべき事に、そこには通常なら確実にある筈の電子的な警報装置や護衛、犬などが全くないのだった。彼に近づこうとする事はそれだけで存在の危険を招くと誰もが知っているのだ。
誰でもが入れる、だからこそ却って入れない、そういう門があるという話を私は読んだ事がある。たしかカフカとかいう作家の話だった。
(カフカ、あのホンも焼かれたのだろうか。不思議な面立ちの娘だった。枯れ葉が落ちるようなかすれたような笑い声が記憶に残る)

結局、そこに入るかどうかは、私の意志次第なのだ。
晩秋の深夜、私はその森の近く迄車でいき、降りてしばらく森の中を歩いていった。静かな夜だった。落ち葉を踏む音さえもがはっきり聞こえる。
巨大な鉄製の門扉があった。それを押すと、重さ自体の抵抗はあったが車輪が着いているせいでゆっくり滑らかに動く。
門は開かれたのだ。
半月の光に照らされた自分の影と落ち葉を踏みしめながら白い息を吐いて、ゆっくりと歩を進めた。下手に忍び足でいくより、あたかも招待されたようなつもりで、しかし静かに石畳を歩んだ。
正面に、古い作りの屋敷があった。二階建てで、屋根に瓦を載せ、革命前の知識を総動員すれば「一部分は洋式にした和式の豪邸」というべきなのかもしれない。
さすがに真夜中に玄関から入るほどの胆力はない。キリはどうしたのだろう。
私はゆっくりと脇にまわり、中庭に通じる小径を見つけた。どこにディーがいるかなど全く知らない。しかし私には会えるという直観があった。
庭の真ん中には池があり、中天の半月を映している。池の向こうには洋館造りの低いバルコニーがある。
私は躊躇無くそこに向かった。そしてカーテンのひかれたガラス窓の嵌った扉を引いた。それは軋りながら開き、中の様子が月の光でぼんやりと見えてきた。
私はぎょっとして後ずさった。その部屋の両側の壁際には、一定間隔で椅子があり、女性達が座っていたのだ。
髪型も服装もみな、何処か似通った彼女らは夢見るような、虚空を眺める眼差しでいる。そして壁は金属の支柱が立っていて、天井はトラス構造の空間になっている。奥の壁は騙し絵になっていて、壁の向こうの空間が、消失点までずっと伸びた森の夜景になっている。こちらに向かって線路が引かれ、少し手前で停車した蒸気機関車が、スチームを出している様子なのだ。
私は、女性達も全て、この手の込んだ装飾の一部と気づき、安心した。
其の途端、彼女らは一斉に立ち上がると一斉に私を向き、その真っ黒な瞳が全て私を釘付けにした。
心臓が止まるかと思ったそのとき、背後から声がした。
「ほっほっほっほ、面白い趣向だとは思わないかね、君」
ふりむくと逆光で顔は見えないが、堂々たる体躯の老人が杖を突き、一人の女性にかしずかれて立っていた。
私は声も出ず呆然と立ち尽くしていた。
「若い頃からデルヴォーが好きでね。昔の画家だよ。いつか彼の絵のような活人画を作ってみたいと思っていたのだよ。そしてホン達が語ってくれるときのあの目つきが、デルヴォーの女達の目そのものだと感じてね。まあ社会的に、経済的に成功したからには、ホンを集めてそういう場所を作りたいと努力したんだよ。さて、『神曲』よ、彼の顔つき風体を教えてくれないか」
「はい、見た目はエゴン・シーレに似ています。今は怯えているようですが、どこか意志の強さが感じられます」
傍らの女性が答える。彼女を制して男は話し出した。
「ふふふ、ここまで恐れずに入って来ただけでもそれは十分にわかる。ようこそ、ハリ君。待っていた」
男は杖をつきながら近づいて来た。そして一息つくと切り出した。
「暗いからではなく、もう殆ど見えないのだよ。せっかく完成した活人画も自分では瞼の裏でしか楽しめない。なんという皮肉だろうな。しかしまあよい。私にはホンがあるからな」
私は、落ち着くと怒りと焦りが込み上げて来た。
「貴方はそうやってホンを独り占めしている。それを罪悪だとは感じないのですか」
「世間はホン自体が罪悪だというのだがねえ。そして君だって一冊のホンを独占したいのではないかね、ある一冊の」
「...」
「それに君は既に、もう一冊の本を持っているのだろう、本物の」
「それは...」
「君のおじいさんから受継いだものだというね。目がこんなでなければ私も見せていただきたいものだ」
「僕は、どうしても祖父の本を読みたいのです。其の為には彼女が、いや、ディーが必要なんです」
「ほほお、君が必要なのは辞書なのか、生身の人間なのか。いやいや、これは意地悪な質問だったな。それは引き剥がすわけにはいかない一体の存在だ。君の友人、キリ君は強引にボルヘスを奪っていった。私の意志に関わり無くな。いや、取り戻そうと思えばいつでもできるのさ。でも彼にしばらく預けておこう。いつかまたボルヘスを受継ぐ者が必要になる。そのときは、彼女、ボルヘス自身が決めるだろう。そして私の所に帰って来る」
「え、じゃあホンを伝えているのは...」
「大革命前から生き残った僅かな者だけがそれをできる。どこかで正しく伝えるための家が必要だろう」
「買いあさったというのは」
「それが必要なときもある。なにしろホンを勝手に『貸し出し』などとやって騒ぎを大きくし、そして無惨にも多くのホンが焼かれた。あのような事が二度と起こらないようにしなければならない!多くの貴重な記憶が失われたのだ!」
老人の語気は次第に荒くなり、興奮で体も震え出した。
「もう、お休みならないと」
神曲と呼ばれた女性が促す。
「じゃあコレクターのようにふるまったのは、検挙への防御?」
「そう思ってもらっても構わない。ファイヤーマンも私には手が出せない。もうひとつだけ言っておこう。ディーは君の所に行くこともできる。自分で運命を決めるだろう。彼女は二人と居ない存在だからな」
「教えてください。どうやったら彼女に私はホンの読み方を学べるのですか!ここに通えと言われればそうしてもいい!」
「それはできない。ここは君が通う場所ではない...今日は帰りたまえ。きっとチャンスはある。ただし、家に帰り着くまで、絶対に後ろを見てはいけない。つまりこの家のことは忘れるのだ。いいね」
「彼女が僕の所に来てくれる可能性も?」
「それは彼女が決めるだろう」
それだけ言うと、老人は咳き込みながら、しかし何か古いメロディを口ずさみつつ、神曲に支えられて部屋の奥に向かった。壁の中央に見えにくいドアがあり、その中に吸い込まれるように二人は入っていった。気付けば周囲のホン達も居なかった。
私はしばし唖然として立ち尽くしていたが、どうにもならないことを悟ると、また中庭を通り、石畳を門扉に向かい、森を抜けて、車に乗った。
(今はあの男の言う事を信じるしか無いのか。待つだけなのか)
妙に汗ばんでいたので、ハンカチを取り出すと、あの紙の魚がはらりと落ちた。
私はそれを唾で濡らすとバックミラーに貼付けた。
(どうにでもなれ、いや、そうではない、今は言われた通りにするしかない)
何も考えずに車を飛ばした。ひたすら前だけを見つめた。
家のある通りに入った頃には曙光がさしてきた。車内の温度もあがり、バックミラーの魚がはらりと落ちてしまった。
はっと思ったその瞬間、ミラーの中にディーの顔があった。
私は思わず急ブレーキをかけ、後部座席を振り返った。
「おめでとうって言いましょうか、キリ。それとも、ありがとうって言うべきかしら」
ディーは微笑んでいた。あの深淵のような瞳で。
「エウリディケもイザナミもあの世から帰れなかったのよ。貴方は呪縛を破ったわ」
私は力が抜け、しばらくは言葉も無かった。そしてディーがつぶやいた。
「貴方は、私がきたことを様々の出来事の結果として受け取るかしら、それとも全ては決まっていたと考えるかしら」
「世界の歴史は偶然の積み重ねなのか、目的があってこうなったのか....」
「貴方はその問いを解かなければならないわ」

私は、人里離れた一軒家でディーの力を借りて祖父の本を読み始めた。
ノートに、私が苦労して真似た線の太さやモジの大きさ、その細部は、本来全てに意味があったのだが、モジとして完成された後にはほぼ不要になったと知った。モジの一画それぞれが、モジのなかで相対的であるように、コトバにおいてモジは相対的であり、ブンにおいてコトバは相対的である。それを統一するのは文脈という意識である事が分かった。
私は遂に、祖父の本の一頁目を解読した。そこにはこうあった。

ハジメ ニ コトバ ガ アッタ

コトバ ハ カミ ト トモニ アッタ

コトバ ハ カミ デ アッタ

私がそれを言葉として口にしたとき、背中を向けて紅茶を入れていたディーが、ページがめくれるように捩じれてこちらに振り向いた。
いつも栞代わりに手元に置いていた紙の魚が、びくんとはねると水の中に飛び込み、深みへと泳ぎ去った。

それからしばらくして、私、ハリは、祖父のホンを、すべての人の眼に晒した。私は完璧にそれをそらんじ、声の限り皆に伝えた。
私は時の体制に追われる身となり、遂に刑死することになるが、それはまだ起こっていない出来事なのだ。(完)

(文中「アッシャー家の崩壊」は、中公文庫版「ポー名作集」所収、丸谷才一訳の「アシャー館の崩壊」を参考に改変しました)

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金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。第五列の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

One thought on “スピリチュアル SF 「紙魚の夢」
金野onnyk吉晃

  • 稲岡編集長
    2018年8月5日 at 3:20 PM
    Permalink

    紙魚と書いて「シミ」と読むのはご存知の通り?
    人家に生息する極小の銀色の虫で、本を食害すると思われていたため「紙魚」と書かれる。
    英語では「silverfish」という。
    体長:8.0mm~10.0mm
    好物は、本の装丁、掛け軸、障子などの糊(のり)、砂糖、ホコリ、髪の毛、フケ、虫の死骸。
    古い蔵書などを開くと折り目のところから現れ、早足で逃げ去る...。

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