#152 川崎 燎 Ryo Kawasaki (Part 1)

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川崎 燎
RYO KAWASAKI (guitarist, composer, audio engineer, computer programmer, owner & producer of Satellites records)

Interviewed by Atzko Kohashi in Amsterdam ~ Tallinn, Estonia via Skype video on January 29, 2017
Photos by: Cover: Vladimir Krasnoshtshjokov
Tallinn: Rene Jacobson
Recording: Polina Kalantar
Ronnie Scott’s: Carl Hyde
Other Photos: Courtesy of Ryo Kawasaki

1947 年東京生まれ。外交官の父と、英語、ドイツ語、ロシア語など多言語に堪能な母の家庭の一人息子として 育つ。幼少時より声楽、ヴァイオリン、ウクレレに親しみ、中学 2 年生の時にギターを手にする。 小学校時代は望遠鏡、中学時代はオーディオ機器を自作するなど、音楽のみならず科学、天文学、電気工学に興 味を示す。日本大学理工学部在籍中の 1967 年よりギタリストとしてプロ活動を開始。佐藤允彦、三保敬太郎、 日野皓正、松本英彦、鈴木良雄、山下洋輔らとの共演や稲垣次郎、猪俣猛、海老原啓一郎、中村誠一、酒井潮の グループに参加する一方でスタジオミュージシャンとしても活動。

1973 年に渡米しギル・エヴァンスの『Plays the Music of Jimi Hendrix』(1974)のレコーディングに参加。以後ギ ル・エヴァンスのオーケストラをはじめエルヴィン・ジョーンズ、テッド・カーソン、チコ・ハミルトン、シダ ー・ウォルトン、ジョアン・ブラッキーン、デイヴ・リーブマンらとレコーディング及びツアーを共にしながら ニューヨークのジャズシーンで活動を続ける。ジャズにルーツを置きながらもジャンルにとらわれない自由な音 楽性は、さらにフュージョンやスムース・ジャズの分野でも開花し、米国 RCA との専属契約のもとに『Juice』 (1976)を発表、さらに『Mirror of My Mind 』(1979 年)などが特に英国を始めとして全世界で人気を集める。一 方でギター・シンセサイザーの発明、音楽ソフトの開発などコンピュータープログラミングの分野でも世界的注 目を浴びる。2001 年よりエストニア、タリン在住。

これまでのリーダー作は 30、その他参加作は 50 以上。ギター奏者でありながら、科学的な視点とオーディオエ ンジニアの耳を併せ持った独自の音づくりに定評がある。自作曲は 300 曲以上あり、映画、バレエ、ゲーム音楽、 またヒップホップ系ミュージシャンらのカヴァーにも使われている。

http://ryokawasaki.com/
http://www.satellitesrecords.com

30 年間ミュージシャンとして暮らした街ニューヨークを去り、川崎燎は 2001 年 9 月にエストニアのタリンへ向 かった。それから 16 年後、エストニアの若手ミュージシャンらと Ryo Kawasaki & Level 8 を結成、満 70 才と音楽 活動 50 周年を記念してこの 3 月に最新作『Level 8』及び過去のアルバム 7 作がまとめてリリースされる。現在 のエストニアでの活動、ニューヨーク時代の逸話、自身の音楽観などを語ってもらった。

Atzko Kohashi (AK): 30 年間住み慣れた街ニューヨークからヨーロッパの小国エストニアのタリン へ移住したというのはどういう理由からですか?

Ryo Kawasaki (Ryo): 僕は東京と NY という大都市に 50 年以上住んだ。NY は 30 年住んでもう飽き てきていたし、だんだん年をとってもう少しリラックスしたところに住みたいと思うようにな っていた。ヨーロッパに一度は住んでみたいとも思っていたし、当初はパリを考えたが物価は 高いしフランス語が話せるわけではないし、それならどこかもうちょっと新しいところに行っ てみようと思った。 エストニアに住むことになったのにはきっかけがある。ここのジャズフェスティバルの主催者 から招待を受けていたし、NY でタリン出身の若い女性と知り合って彼女からもエストニアはい いところだからと誘われたことも理由の一つだった。1999 年の暮れにパリでたまたま仕事があ ってその時にエストニアまで足を延ばしたところ、その彼女とフェスティバルの主催者が僕の ためにコンサートを企画してくれていた。その時は 5 日間ほどの滞在だったが、毎日コンサー トで演奏した。新しい場所ですぐに仕事がないと困るわけだが、ここで住めるような気がして きた。その時はすぐに NY に戻ったが、その後また再訪の機会を得た。エストニアの国立オペラ ハウスで新世紀のミレニアムイヴにジャズバレエをやる企画があって、僕にその作曲を依頼し てきた。NY で作曲をしてエストニアでリハーサルをする、当時 2 年間で僕は NY-タリンを 21 往 復もした。そして 2001 年の 9 月にバレエ公演のために NY からエストニアに向かうことになっ た。 9 月 10 日に NY を発ってタリンに着いたのが翌 11 日。疲れてうたた寝していたら友人が TV を 見ろと言う。そこにはあの NY の大惨事の映像が映し出されていて、その瞬間あまりにも超現実 的に感じたのを今でも覚えている。僕にとってワールドトレードセンターは NY の鼻のような存 在だった。鼻がないと顔にならない―これはもう NY じゃないなと思った。バレエ公演が終わっ たら NY に戻る予定だったが、飛行機をキャンセル。その後 4,5 ヶ月タリンに留まっている間 にエストニアに住もうと心に決めた。

AK: NY の自宅のスタジオにあった機材はタリンに持って来たんですか?あのアナログ用録音機 材とか…

RYO: 全部捨てちゃった。ギター・シンセサイザーも捨てた。僕はコレクターじゃないから使わ ないものは捨てることにしている。ギター・シンセサイザーにしたギターはローランドの特別 製だったが、面白いことに僕が捨てたのを誰かが拾ってきれいに磨いて使っていたらしい。そ れを写真に撮って Facebook にアップして見せてくれた人がいた。ギターは今までに 30 本くらい 使ったが、売るか弟子にあげるかそんな感じだった。レコードも CD もいらないものは全部捨て た。最終的にエストニアに移るときに持ってきたのはギター2 本とノートパソコン 1 台だけ。ち ょっと大切に思っていた機材は NY にいる友人の庭小屋に置いてもらっているが、別にどうしよ うというつもりもない。過去のものはもう結果として僕の作品として出来上がったんだから、 それで十分だと思う。

 
Ryo’s guitar synthesizer in his loft in Manhattan 1982

AK: エストニアの魅力は何ですか?

Ryo: 飛行機から降りた瞬間にまず空気がきれいだと感じる。そして街並みが可愛らしく、まる でお伽の国のようだ。空の色と建物が調和したタリンの街の美しさは他に類を見ない。それに 比べると NY は表向きの高層建築には圧倒されるが、裏はゴミ留場のようだ。人間が多すぎるし、 税金をきちんと払わない人が殆どだから街をきれいにする予算がない。エストニアは人口 130 万人、面積はベルギーとほぼ同じだが、人口はベルギーの 10 分の 1。だからここでは一人一人 のスペースがゆったりあるし、インフラ整備がすごい速さで進んでいく。東京や NY のような大 都市は古いものを新しく変えるのに時間がかかるが、エストニアは発展の速度が早くてエネル ギッシュだ。ミュージシャンにも同じことが言える。若いミュージシャンの成長がものすごく 速い。NY では銀行や役所、空港ではいつも長蛇の列ができていて何をするにも時間がかかるが、 ここはどこも空いている。それにこの街では市民は公共の乗り物が無料(*5 年前から)ときて いる。僕は車を運転しないから、どこにでもでも歩いて行けることが大事だ。その上、ここは 英語が通じるので生活しやすい。2005 年から EU になったし、地理的にも便利でここからはどこ に行くのにも近い。いろんな意味で日々の暮らしに自由の度合が増えたと思う。

AK: エストニアのジャズ環境はどうでしょうか?

RYO: 演奏するところはとても少ない。ミュージシャンも少ないし、各々の楽器でちゃんとジャ ズの演奏ができるのは 100 人いるかいないか、たぶん 50 人くらいじゃないだろうか。それでも 僕の場合、NY からやって来て誰かと一緒に演奏するということをすぐ始められるような環境が エストニアにあったのはよかった。

AK: 今回の新しいバンド名 Ryo Kawasaki & LEVEL 8 の Level 8 の意味は?

RYO: 僕の 過去 50 年間のプロのアーチストとしての経歴を振り返ってみると8段階の明確な区切 りがあって、そこにはギタリスト、作曲家、発明家、プログラマー、プロデューサー、そして オーディオエンジニアとしての活動分野の組み合わせになっている。ちょうど今がそのレベル 8 に当たる時期で、「エストニア/タリン 2014‐現在 フュージョン・サウンドへの回帰」の段 階だということ。

AK: 一緒に演奏するメンバーはすぐ見つかったんですか?

RYO: いや、去年まで自分のバンドは一切やっていなかった。他のバンドのサイドメンでしかや らなかった。僕の音楽をやるためには、まずそれができるミュージシャンを見つけないとなら ない。そうでないと僕の音楽にならないわけだから。今の僕のバンド LEVEL 8 のミュージシャン は全員 30 代。僕がエストニアに来た 17 年前には彼らはティーンエイジャーでまだまだミュー ジシャンとしては存在していなかったことになる。僕はこれまでにジャズやフュージョン界で トップミュージシャンと演奏してきているから、才能があるかどうかは一緒にやってみればす ぐわかる。上手い下手とはまた別の意味で、何かつくり出していくことができる人とできない 人がいるということ。ただ楽器が巧いっていう人はたくさんいるが、自由さがないミュージシ ャンの方が多い。そういう自由さを持っているミュージシャンというのは一晩一緒に演奏すれ ばわかる。そうこうするうちにまずドラマーが見つかった。これまでエストニアでやってきた ドラマーと全然違うなと思った。ピアニストとベーシストは他のギグで一緒に演奏する機会が あって知ったが、この二人はがっちり一体化している。この三人と組めば僕のやりたい音楽が できるだろうと思った。

AK: RYO さんはピアノやキーボードも弾くことができ、打ち込み時代の音楽では自分でハーモニ ー全体をつくり上げていたわけですからコード楽器奏者であるピアニストを選ぶのはかなり難 しかっただろうと思いますがどうでしょう?

RYO: 僕の追求している真のインプロヴィゼーションは基本的に無調でないと面白くないの で、和声楽器の奏者を入れるとすると絶対音感を持ち合わせた奏者の方がやり易い。なぜな ら僕の作品の多くではコードは指定されているものの、そのコードで指定されたスケールと いうのはなく各々の解釈で弾いてくれれば良いとしてある。メージャー、マイナー、ドミナ ント7、クロマティックの何れも問わず全て OK。例えば G と言うコードがあるとするとそ の上で僕がインプロヴァイズしたい音は無限であるのでその瞬間僕の発信したノートなりフ レーズを即脚色してくれる和声楽器の奏者が必要となる(和声楽器をベースとドラム以外に バンドに入れるとした場合)。そのためには絶対音感を持ち合わせながら即遅れなしに反応 出来る技量を持ち合わせた和声楽器奏者が必要ということ。絶対音感を持ち備えたピアニス トとは数回遭遇したが、その最初は菊地雅章さんの弟のマーちゃんこと故菊地雅洋、彼とは 1970 年代初頭の数々の東京での小さなギグでその天才的才能に本当に驚かされた!その後 50 年近く経ってエストニアの Raun Juurikas と言う絶対音感を持ち合わせたピアニストと巡 り合い、彼は今回の Level 8 バンドに参加している。Raun Juurikas は新アルバムと僕たちの ライヴでその力量を発揮していると思う。

AK: シンセサイザーを使って一人でベースやドラムの打ち込みもする RYO さんは、自分のバンド のドラマーやベーシストに対しても独自の見解を持っているのでは?

RYO: 初めて演奏してすぐにドラマーの Eno Kollom は抜群のタイム感覚を持っていると気づいた。 スティーヴ・ガッドやハーヴィー・メイソン、ましてやトニー・ウイリアムスまで思い出させ るほどだ。多くのドラマーが曲の途中で速くなったり遅くなったりする中で、彼らは驚くほど 一定のテンポを保ち続けることができる。僕の曲にテンポの揺らぎは不要。Eno は、僕がエスト ニアに来て演奏したドラマーの中でその資質があると感じた初めてのドラマーだ。ベーシスト の Kaarel Liiv だが、フュージョンをやる僕のバンドにはエレキベースが必須。生ベースだとダイ ナミックスの上でも音域にも限界があるし、僕は特定のベースラインを想定して曲を書いてい るから生ベースには難しい。6 弦のエレキベースだと低い方の C 弦が加わるのでより表現の幅が 広がる。それに僕は通常の E 弦より低いベースの音が聞きたいからね。Kaarel Liiv のソロやベー スラインからはエレキベースのメロディアスな弦のタッチが聞こえてくる。

AK: 今回のアルバムの収録曲のほとんどが RYO さんのオリジナルで、70 年代にレコーディング したものの中からも何曲か入っていますね。

RYO: 僕は 300~400 くらい自分の曲があって、残りの人生、曲には困らない。新しいものも書き たいが、新しければいいってわけじゃない。古いものでももう一回ちょっと見直してみると面 白いサウンドになるんじゃないかという曲もある。16 年間エストニアにいて、そういうことの できる実験台のバンドが初めてできたように思う。

AK: その実験として、今回のレコーディングでは何か特別な試みを?

RYO: 今回に限ったことではないけれど、僕はハウスミュージックをつくっていた時期に曲のテ ンポがいかに重要かを悟った。レゲイなら 80BPM 以下、激しく踊るには 130BPM といったよう に、このダンスを踊らせるにはこのテンポというのがはっきりしている。だから今の僕のバン ドでは曲のテンポは全部決まっている。メトロノームを使うということではなくて、曲の出だ しのテンポはきちんと決めてある。テンポによって曲がグンと引き立つし、曲のイメージも変 わる。新作の LEVEL 8 を聞いてもらえばわかるでしょうが、それぞれのテンポの組み合わせでア ルバムができている。もちろんキー(調性)とかグルーブ感も関係するが、いろいろなテンポ の組み合わせでできる限り全体が一曲に聞こえるようにつくってある。ライヴ・コンサートの プログラミングも同じだね。

AK: ところで、日本人で過去に NY で活動したミュージシャンは大勢いますが、RYO さんはその 中では異色のタイプ、何かちょっと日本人離れしていて近づきがたいようなイメージがあると 感じる人もいるようですが…

RYO: 周りでは僕を日本人だと見ているだろうけれど、僕自身は自分を日本人というよりも一人 の RYO KAWASAKI-川崎燎という人物だとしか感じていないから、特に日本人としてこだわる部 分は全くなかった。もちろん日本人同士でも気が合えば付き合うし、そうでなければ付き合わ ない、単純な理由です。

AK: 70 年代、同じ頃 NY に住んでいた菊地雅章さんや増尾好秋さんとの交流はありましたか?

RYO: 初めに住んだアパートは増尾好秋と同じところだったんで、時々ジャムセッションなんか をやったことはあった。チンさん(鈴木良雄)なんかも来ていた。でもそれ以外は、彼らは彼 らのやることをやり、僕は僕のやることをやる、そういう感じだった。それも最初の数か月の 話で、その後僕は新しいアパートに移ったりして、ああそんなこともあったな…という感じだ。 Pooさん(菊地雅章)はなかなか難しいタイプで…僕は戦後世代なので彼とはものの見方も考え方もち ょっと違う気がした。70 年代の終わりの頃、ちょっと物事の観点が違う人だなと感じる事件が あって…、Pooさんは亡くなる前に僕に長いメールをくれて『RYO にはすまなかったな』…と言 ってくれた。でも音楽家としてはお互いに尊敬しあっていましたよ。

AK: 一人で異国の地で活動するというのは簡単ではありません。RYO さんが渡米後間もなく自然 に現地のミュージシャンと打ち解け、多くのチャンスに恵まれたというのは、音楽以外の何か 特別な力があったからでしょうか? 国際的なご両親の家庭に育ったという環境も大きいので は?

RYO: 僕は子供のころから自分を日本人だと意識したことがなかった。父の友人はほとんどアメ リカ人だし、母の友人はロシア人。家の中では英語とロシア語が飛び交っていた。父がいつも 聴いている放送局は FEN で、僕にも早くからアメリカの音楽が耳に入って来た。母はロシア・ バレーが大好きな人でよく僕も連れられて見に行っていたから、チャイコフスキーとかには小 さい頃からすごく馴染んでいた。そういう環境の中でいろんな音楽に触れていた。小学校の頃 は『こいつ、ちょっと変わってるな』と周りからは思われていたみたいだけど。

AK: RYO さんとギル・エヴァンスとの交流は深かったと聞いていますが、彼について聞かせてく ださい。

RYO: ギルは本当に親切で純粋な人だった。74 年にギルのバンドに入るということでアメリカ永 住権を申請した時、「米国に優秀なギタリストが沢山いるのに何故日本人ギタリストを雇う必 要があるのか!」と米国ミュージシャン・ユニオンから強い反発があった。その時にギルは 「音楽を一緒にやる仲間や相棒を選ぶのは結婚と同様な過程であって、国境を越えた人選であ り、誰が適切かは私の判断で決まる事柄である」と反論してくれて、それで僕は無事に永住権 を取れた。僕の RCA との専属契約が実現したのも、当時ギルのプロデューサーだったマイク・ リプスキンが僕の演奏を気に入ってくれたからだ。ギルは音楽の面を越えて、本当に信頼出来 る友人でもあった。僕が新しい曲を書いたりデモ・テープを作ったりした時にコメントが欲し くて電話すると“Hi Ryo, I was just thinking about you! Common over now!” と言っていつも温か く迎えてくれた。その代わりギルはオーディオ機材にはチンプンカンプンだったので、どこか 調子が悪いと僕に声がかかって 「RYO、ちょっと見てくれ」と、そんな交流が続いた。ギルが 亡くなる最期の頃、僕がアドヴァイスを求めたのが『Images』というアルバム、彼はセントラル パークを歩きながらそれを何度も聞いてくれていたそうだ。

AK: 他に RYO さんが米国での音楽家としてのキャリアを築くうえでの運命的な出会いは?

RYO: ギル・エヴァンスとの出会いが後に米国のメジャーレーベル RCA との契約に発展したよう に、エルヴィン・ジョーンズとの出会いも大きかった。もちろん彼と一緒に演奏するというこ と自体が素晴らしいことだけれど、それを通してオランダの Timeless やドイツの MPS のプロデ ューサー、ブッキングエイジェントのガブリエル・クラインシュミットらが僕の演奏を聴く機 会に繋がったのは大きい。彼らから僕にアルバム制作やツアーのオファーが直接来るようにな った。それまでオファーが来るのは日本や米国からだけだったのが、ヨーロッパからも来ると いうように広がっていった。次には、そのプロジェクトを通してまた新しいミュージシャンと 出会うというようにミュージシャン同士の交流も広がり深まっていった。

AK: オランダの Timeless records からは RYO さんとジョアン・ブラッキーンのアルバムが出てい ますね。

RYO:ジョアン・ブラッキーンと僕のデュオとトリオのアルバムは二枚あるけれど、ああいうのは これまで他にはなくて面白いと思っている。彼女は僕が NY に移った頃から僕のうちの近くのレ ストランでソロやベースとのデュオでよく演奏していた。当時の彼女はスタン・ゲッツやジョ ー・ヘンダーソンと一緒にやっていたけど、ツアーがない時は必ずそこで弾いていた。僕は彼 女のピアノが好きで、ギターを持ち込んで一緒にやらせてもらった。僕にとっては仕事という わけではなかったけれど、彼女とは毎日のように一緒に演奏した。僕は彼女の独特のリズムや ハーモニーが好きだ。ジョアンがアルバムをリリースしていた Timeless から、今度は僕とジョ アンのデュオでどうかという話が来た。アルバム『Trinkets And Things』を録音する前、僕らは 2 ヶ月間ヨーロッパ中をあちこちデュオで演奏して回っていたから、ああいう演奏ができたんだ と思う。

 

AK: 他に一緒に演奏していて特に触発されたミュージシャンは?

RYO: エルヴィンのドラムもそうだ。有名なトランペットやサックス奏者が客演したいとやって 来る。ところが単純なブルースでさえエルヴィンとやるとみんなわからなくなって、何小節も ずれることがある。つまりエルヴィンは絶対に頭にドカーンと叩かない、彼の場合、ブルース の最後の 10 小節目から次の頭の 4 小節目までずっと切れ目がないという感じだ。かなり偉そうなプレイヤーの中にもドラムに頼って演奏している人は結構多い。だからドラムがドカーンと くるとそれが頭だと思ってしまう。その結果、何小節もずれていることがあるというわけだ。 僕がエルヴィンとの共演で学んだのは、僕は僕のパルスでやって、彼は彼のパルスでやる。フ レージングはお互いに聞き合って盛り上げていくけれど、テンポや小節の頭だとかは自分でし っかりやっていくしかない。ソロギターのようなものだ。エルヴィンは僕のソロを盛り上げる ことはしても、ここが「1」だ、なんてことはやらない人だ。そういうドラマーとやり慣れて いる人は迷ってしまう。自分のパルスがポンと切れたらそこで分からなくなる。その横でベー シストと僕は「またズレてるな」とクスクス笑っていたものだ。だから自分のリズムというの を完成させるためにとても勉強になった。ドラマーというのは僕のソロギターを脚色してくれ る人、ということだ。でもこれは 4 ビートの場合で、ラテン系のリズムはちょっと違うけれど。

AK: トニー・ウイリアムスのバンドにも一時加入したそうですね。

RYO: トニー・ウイリアムスのバンドには最初ジョン・マクラフリンがいて、その後テッド・ダ ンバーだったが、そのテッドが抜けることになってギルが僕をトニーに紹介してくれた。ダ グ・ローチという当時サンタナのベーシストと一緒に三人でリハーサルをしていたんだが、あ る日突然トニーがいなくなった。3 カ月程一緒にやってそろそろブッキングが始まるという頃だ ったのに、トニーがヨーロッパに失踪してしまったんだ。彼はそんなところがある人だったか らまあ仕方ないが、そのトリオの演奏が録音として残っていないのがとても残念だ。 その他にもトニーとは妙な繋がりがあって、当時彼のガールフレンドが僕のアパートの上の階 に住んでいて、トニーが来るたびにいつも大喧嘩がはじまった。叫んだり物を投げたりするの が聞こえてくるから、「あ、今日はトニーが来ているな」とすぐにわかった。ウエストヴィレ ッジの便利なところにあった僕のアパートにはスティーブ・グロスマンや当時のビレッジ・ゲ ートに出入りしていた仲間がよく集まって来ていたよ。 (Part 1、終わり)

次回は、フュージョンからギターシンセとプログラミングの時代、打ち込みでのクラブ・ミュージック、スムー ス・ジャズ、そしてコンピュータープログラミングの話、またオーディオエンジニアの立場から現在の音の動向 について語ってもらいます。

【お知らせ】川崎燎 & Level 8 の来日公演は東京丸の内コットンクラブにて6月30日、7月1日、2日に決定しました。

予約・詳細はこちらから:http://www.cottonclubjapan.co.jp/jp/sp/artists/ryo-kawasaki/

【Video Clips】

Ryo Kawasaki & Level 8:

Ryo Kawasaki on youtube:

https://www.youtube.com/results?search_query=ryo+kawasaki

【New Release on March 24, 2017】

New album – Ryo Kawasaki & Level 8

【7 Reissues on March 24, 2017】

*Distributed by vivid sound/Japan

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特別寄稿 「良い音、忠実な音、心地よい音、太い音、細い音、歪と飽和の識別原理」 by 川崎燎
http://jazztokyo.org/category/column/special/

CD Review #1385『川崎燎 Ryo Kawasaki/Level 8』
http://jazztokyo.org/reviews/cd-dvd-review/post-13323/

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小橋敦子

小橋敦子

小橋敦子 Atsuko Kohashi 慶大卒。ジャズ・ピアニスト。翻訳家。エッセイスト。在アムステルダム。 最新作は『ルージョン』(Cloud)。 http://www.atzkokohashi.com/

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