#131 カール・ベルガー

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Karl Hans Berger, Dr. (piano, vibraphone, composer, conductor)

1935年3月30日、独ハイデルベルクの生まれ。
10才の時にピアノのレッスンを始め、ヴァイブは25才の頃自己流で始めた。
1948年~1954年ハイデルベルク音楽院に学び、1955年~1963年はハイデルベルクとベルリンの大学で音楽学と哲学を修め、1963年、音楽美学で博士号を取得。1964年6月27日、ベルリンでエリック・ドルフィー最後の公演のリーダーとなる。1971年、オーネット・コールマンらと「アーティスト・ハウス」に設立した非営利団体CMF(Creative Music Foundation)をベースにCMS(Creative Music Studio)を通じて1973年からウッドストックでワークショップを展開。同時に、KBIO(Karl Berger Improvisers Orchestra)を主宰、現在に至る。
2013年ジャズ・ジャーナリスト協会(JJA)よりパートナーのイングリート・セルツォと永年にわたるジャズ教育と啓蒙に対し「Jazz Heroes」賞を授与された。
http://www.creativemusicfoundation.org

Interviewed via e-mails in November, 2014
Interviewer: Kenny Inaoka
Photos: As credited, unless otherwise from Karl Berger private collection


♪ オーネット・コールマンらと非営利団体CMFを設立


 JT: JazzTokyo202号ではあなたのカバー・ストーリーのキャッチフレーズを「NYクリエイティヴ・ミュージック・シーンのメンター(指導者)」としましたが、どうお感じになられましたか?

Karl:NYにはさまざまな音楽シーンが存在しており、僕はそのなかで一定の役割を担いたいとは思うが、あなたがたが表現したような大げさなものではないと思う。僕らの「インプロヴァイザーズ・オーケストラ」は、いろいろな意味でとてもユニークだとは思うが。

JT:それでは近年のNYのクリエイティヴな音楽シーンをどのように捉えておられますか?
Karl:とても多くのミュージシャンがインプロヴァイズド・ミュージック(即興音楽)にしっかり関わっている事実には興奮を覚えるね。しかも年代や背景を問わずね。

JT:あなた自身の近年の主要な活動としては、KBIO(カール・ベルガー・インプロヴァイザーズ・オーケストラ)の主宰とワークショップの組み立て、それからコロンビア大学との連携によるアーカイヴの管理運営、この3つが柱になりますか?
Karl:KBIOは70年代にCMS(クリエイティヴ・ミュージック・スタジオ)で立ち上げられた即興音楽のためのオーケストラでじつに40年以上にわたって継続、発展してきた。いまだに成長し続けており、私にとってとても重要な活動のひとつだ。CMSは、ロブ・サファーというとても有能な新任代表を得てワークショップを再開した。CMSアーカイヴは500本に上る演奏集のデジタル化を進めており、これも素晴らしいプロジェクトだ。僕自身はさらに、ジョン・ゾーンのツァディック(Tzadik)レーベルを中心にソロイストとの共演やスモール・アンサンブル、それにピアノ音楽の録音活動も行なっている。というわけで、とても充実した毎日を過ごしている。

JT:KBIOは70年代に始まったということですが、そもそもの目的とメンバーの選択方法について知りたいのですが。
Karl:2011年に、ジョン・ゾーンが自ら運営するスペース「ザ・ストーン」に週単位のレジデンスを任せてくれたこともあり、すでに75回以上の公演を行なっている。目的は、オーケストラが一体となってサウンドを体験すること、非常に微妙なダイナミクスの変化や間(スペース)の感覚の訓練を通して調和の取れた即興ユニットになること、そのためにはミュージシャンがそれぞれの方法で努力し、われわれが真の意味で一体であることを体験できるようにならなければならない。それぞれが自己を主張しつつ一体化する、成功すればその瞬間瞬間天上にいるような気分に浸れるんだ。 メンバーの選考は、ミュージシャン同士の推薦を基本としている。現在、広い年代にわたって60人ほどのメンバーがいる。たとえば、ドラマーのウォーレン・スミスは80才を迎えたし、ヴァイオリニストのサナ・ナガノはまだ20代だ。通常、オーケストラはバランスを考えて30人前後で編成している。

JT:オーケストラはあなたの作品を演奏するのですか、それともあなたがオーケストラをあなたの楽器として演奏するのですか?
Karl:われわれが使うのは短いメロディ・ライン、私のオリジナルもあれば、ワールド・ミュージックのテーマもある。また、ドン・チェリーもね。そして、ソロ、デュエット、室内楽的などいろいろ編成を変えながら即興のフレームを作っていく。そう、指揮は僕がやるのだけど、まったく直感的なやり方でね。イングリート・セルツォは詩作と、とてもユニークなヴォーカリゼーションで貢献している。

JT:このオーケストラはコンサートの聴衆のためだけの生のオーケストラですか?NYの聴衆以外のリスナーのためにレコーディングも計画されているのですか?
Karl:CDを制作するためにほとんどの公演をビデオ収録し、同時にマルチ・トラックで録音もしている。今、最初のCD用の編集とミックスの作業中だ。ウッドストックのスタジオでいろんな公演を聴き直しているんだが、とてもわくわくする作業だ。2013年と2014年の公演から3枚のCDを制作する予定だ。もちろん予算あってのプロジェクトで、現在、CD3枚分の予算が確保できているということだね。このプロジェクトは来年もぜひ継続させたいと思っている。 来年はマンハッタンとブルックリンで12回から15回の公演を計画している。僕はこのプロジェクトを場所やグループを変えても試行してみたいと考えており、今月11月の初めにはイングリートとミラノへ出かけてアルトキペル・オーケストラと実演した。結果は大成功で、素晴らしいミュージシャンたちで反応も最高だった。

JT:次に、ワークショップですが、年間何回開催しているのですか?
Karl:現在、CMSワークショップは年に2回集中して行っている。ウッドストック近郊の素晴らしいリゾート地でね。来年の予定は、6月5日から8日までと、10月8日から12日までだ。

JT:ワークショップは基本的なコンセプトに基づいて行われているのですか、それとも講師の自由意志で?
Karl :僕らは事前に内容や方法を話し合ったことはないね。参加者は講師に反対の意見を述べることも許されているが、しかしつねにクリエイティヴな対応を求められている。参加者独自の方法でね。

♪ コロンビア大学と連携してCMSアーカイヴをデジタル化、公開

JT:CMSのアーカイヴに移りたいと思います。CMC(クリエイティヴ・ミュージック・コミュニケーションズ)から70年代にあなた自身のダブル・アルバム『ピース・チャーチ・コンサート』や『カラパルーシャ』(註:今年11月ユニバーサル・ミュージックから初めてCD化された)をリリースされましたが、他にリリースされたアーカイヴもありますか?
Karl:アーカイヴ・コンピレーションを3枚のCDでリリースする。数ヶ月前に最初のCDが アメリカン・コンポーザーズ・フォーラムのイノヴァ・レコード (Innova Records) からリリースされたばかりだ。完全な録音はアーチスト(あるいは彼らの権利管理団体)と協力してデジタル配信される。演奏などの知財の所有権はアーチストに所属しているという考えがCMSの不変のポリシーだからね。

JT:たしか数年前にアーカイヴCDがリリースされましたよね。それは中止になったのですか? すべてのアーカイヴの保管はコロンビア大学に移管されたと聞きました。やはり、何十年間のアーカイヴを保管、管理するのは大変な作業ですよね。
Karl:アーカイヴは500本以上あるんだ。コロンビア大学の図書館がオリジナル・テープを保管し、デジタル化する費用を負担してくれることになった。その代わり、デジタル・データは教育や研究の目的には無料で供与される取り決めになっている。また、デジタル・データのオリジナルは無償でアーチストに提供され、アーチストがこのデータを商用を含めいかなる目的にも使用できることになっている。何人かのアーチストとは僕らと協力してデジタル配信する計画を立てているところだ。

JT:今後の計画について教えていただけますか?
Karl:音楽に関心のある人々に向けた著書『Music Mind』を執筆中だ。協力を申し出てくれれば喜んで受けたいね。

♪ ベルリンでエリック・ドルフィー最後の公演のリーダーとなる

JT:日米の有力ジャズ人名辞典はいずれもあなたのトリオがエリック・ドルフィーと公開の場で共演した最後のバンドであった事実に触れていません。われわれはウラジミール・シモスコとバリー・テッパーマンの共著『エリック・ドルフィー』(原題は『エリック・ドルフィー~音楽伝記とディスコグラフィー』/晶文社 1975)の冒頭「ドルフィーの死とその音楽世界」がまさにその事実の記述で始まるのを知っています。1964年6月27日、ベルリンで新しく開店したクラブ「タンジェント」で何が起きたのですか?
Karl:トリオというのは正確ではない。私のパートナーでヴォーカリストのイングリート・セルツォが加わったカルテットだった。

JT:ベーシストとドラマーの名前を覚えていますか?
Karl:もちろんだ。ベーシストはハンス・レッテンバッハーでドラマーはクラウス・ハーグルだ。ハンスはウィーン生れでチェロも弾いた。クラウスは、僕のパートナー、イングリートの兄で、僕と60年代前半はハンス・コラーのバンドで演奏していた。それからパリに来てアンリ・テキシェ(b)を経てチェット・ベイカー(tp) のグループで長らく演奏していた。

JT:ドルフィーとはどこで知り合ったのですか?
Karl:パリのクラブ「シャ・キ・ペシュ」だ。僕も彼もよく出演していた。
註:Le Chat Qui Peche:サンジェルマン・デュ・プレにあった小さなジャズ・クラブで「魚を釣る猫」の意。バド・パウエルなども出演していた。マシュマロ・レコードの上不二雄氏によると1956,57年頃開店し、1970年代にはクローズしたという。同氏のエッセイにはオーナーが語るドルフィーのエピソードも綴られている;
http://www.marshmallow-records.com/column/turezure/chapter5/column_1.html

JT:ドルフィーはあなたのカルテットと2ステージ演奏するのがやっとだったそうですが。
Karl:衰弱しきっていたんだ。新しいクラブのオープンだから呼び寄せたんだが。

JT:翌日は床についたきりで、翌々日の29日にホテルで客死するんですね。どんな思いでしたか?
Karl:本人の希望もあってアメリカに帰してあげたかったんだが、動ける状態ではなかった。大変なショックだった。エリックがこの世からいなくなるなんて誰も信じられなかった。ミュージシャンは皆、放心状態だった。

♪ ドン・チェリーに出会って僕らの人生観、音楽観が変わった

JT:翌年の1965年と66年はヨーロッパとアメリカを何度も往き来して、あなたの人生でももっとも忙しい時期になったと思います。
Karl:そうだね、ふたつの大陸を往き来するという僕らのライフ・スタイルが始まった年だね。当時から、(今でもそうだが)、アメリカとドイツに自宅があって1年に5、6度は往来している。僕はアメリカの住民であると同時にドイツの住民でもあるんだ。ドイツはフランクフルトの近くにアパートがある。イングリートの家族がイタリアのエルバ島に住んでいて毎年夏はそこで過ごすことが多いんだ。僕らは数週間前にスイスとイタリアのツアーからNYに戻ってきたばかりだ。来年は2度のヨーロッパ・ツアーがあるんだ。

 

JT:パリでドン・チェリーらと「インターナショナル 5」を結成しますね。
Karl:そう。ガトー・バルビエリ(ts)、J.F.ジェニー・クラーク(b)、アルド・ロマーノ(ds)、ドン(tp) に僕の5人だ。1965年は通年、1966年は7月まで月曜日以外は毎晩、「シャ・キ・ペシュ」で演奏していた。

JT:そして、ドンと一緒にNYに移りましたね。
Karl: 1966年の8月だ。だけど、NYに住み着いたわけではなくて、やはりドイツと行ったり来たりという生活だった。

JT:ドン・チェリーはどんな人でしたか?
Karl:ドン(1936年生まれ)と僕(1935年)は年子、それにひとまわり下のイングリートを加えて3人兄妹のような存在だった。彼は、70年代と80年代はずっとCMSのセッションに加わっていたんだ。とにかく直感力の鋭い音楽家でね。 僕とイングリートが初めてドンと出会ったのは、パリのバターカップ・クラブだった。その時、僕は突然まったく自分でも予期せぬ行動に出た。つかつかとドンに歩み寄り、「僕の名前はカール・ベルガー。ピアノとヴァイブを演奏する。ぜひ君と演奏したい」と申し出たんだ。ドンは「リハーサルは明日4:30から」とだけ答えて、スタジオの住所をメモってくれた。それから3年間、僕は月曜日以外はほとんど毎日ドンのグループで演奏していた。最初はパリで、それからヨーロッパをいろいろ巡って、NYにたどり着いたというわけだ。もちろん、イングリートもいろんな機会にドンと共演する機会を持った。

JT:NYではスティーヴ・レイシーと1年間ほど共演していますね。
Karl:スティーヴとの共演はいろんなプロジェクトの中のひとつに過ぎない。エンリコ・ラヴァ(tp)、ケント・カーター(b)、ポール・モチアン(ds) とのクインテットだった。このバンドでヨーロッパ・ツアーもあった。その他に、ラズウェル・ラッド(tb)、マリオン・ブラウン(as)、クリフォード・ジャーヴィス(ds)らとも共演した。だけど、僕のメインは自分のカルテットとクインテットで、カルロス・ワード(as)、イングリート・セルツォ(vo)、デイヴ・ホランド(b)、エド・ブラックウェル(ds) がメンバーだった。他に自分の重要なプロジェクトとして「トータル・ミュージック・カンパニー」があった。最初は、ドン・チェリー、ジャック・トロ(ds)、ケント・カーター(b) でスタートし、その後、ファラオ・サンダース(ts)、ソニー・シャーロック(g)、ジミー・ギャリソン(b)、ホレシー・アーノルド(ds) という編成に変わった。残念ながら録音は残っていないんだ。

JT:その間、ケルンに戻ってアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハの『グローブ・ユニティ』(SABA/MPS 1966) の録音に参加しましたね。
Karl:バーデン・バーデンでラジオ収録があってね。ヨアヒム・キューン(p)、J.F.ジェニー・クラーク、アルド・ロマーノのカルテットだった。ヨアヒム・ベーレント(註:ドイツのジャズ評論家/プロデューサー)が待ち構えていてドナウエッシンゲン近郊のMPSのスタジオに連れて行かれた。『グローブ・ユニティ』の録音だったんだけれど、僕のスケジュールの都合上、オーバーダビングになってしまった。

JT:それと前後してESPであなた自身のデビュー・アルバム『フロム・ナウ・オン』(ESP 1041/1966) の制作がありました。
Karl:カルロス・ワード、ヘンリー・グライムス(b)、エド・ブラックウェル(ds)のカルテットでね。ESPが矢継ぎ早にレコーディングを初めた時期だった。限られた時間内で駆け込み録音し、録音技術にも問題があったけど、とにかくレコードにはなった。

JT:同じ12月にもう1枚マーゼット・ワッツの『マーゼット・ワッツ&カンパニー』(ESP-1044/1966)にも参加しています。
Karl:マーゼットはラシッド・アリの紹介だった。マルチ・リード奏者でテナーとソプラノ、それにバスクラを吹いていた。僕はヴァイブで参加した。この録音にはバイヤード・ランカスター(as)とクリフォード・ソーントン(tb)も参加していたけど、皆、持ち替えで吹いていたね。マーゼットのことは個人的にはあまりよく知らないんだ。

JT:年が明けて1967年の1月にはSABAでロルフ(cl)とヨアヒムのキューン兄弟の録音『ロルフ+ヨアヒム・キューン・クインテット/トランスフィギュレーション ゲスト:カール・ハンス・バーガー』に参加しています。
Karl:これもヨアヒム・ベーレントがラジオ放送用に制作したものだと思う。もちろんヴァイブで参加した。ドラムスがアルド・ロマーノ。楽しい録音だったよ。

JT:同じ年の7月の録音に参加したクリフォード・ソーントンの「ニュー・アート・アンサンブル」について話してもらえますか?
Karl:ラシッド・アリ(ds) がブルックリンのウィリアムスバーグに持っていたロフトで毎週末にセッションがあったんだ。このウィークエンド・セッションにはできる限り参加するようにしていた。クリフォード・ソーントンとクリフォード・ジャーヴィスが中心になっていた。そのセッション以外では、NAEと活動を共にすることはなかったね。
註:『クリフォード・ソーントン・ニュー・アート・アンサンブル/ザ・フリーダム&ユニティ』(Third World Records/1969) クリフォード・ソーントン(tb) ジョー・マクフュー(tp) ソニー・キング(as) ジミー・ギャリソン(b) カール・バーガー(vib) 他 1967.7.22録音

JT:このアルバムはジョン・コルトレーンの死(1967.7.17)から数日後に録音されたものですが、ミュージシャンの状況はどうでしたか? カルテットのメンバーだったジミー・ギャリソンも録音に参加していましたが。
Karl:もちろん、皆、悲痛な思いをしていたけど、自分たちが生きていくことに精一杯でね。いつまでも悲嘆に暮れているわけにはいかない。ジミーも自分のバンドを立ち上げようとリハーサルを始めた。僕も参加したけど、残念ながらこのバンドはテイクオフしなかった。それが現実なんだ。

♪ ギル・エヴァンスの「ヨーロピアン・ドリーム・バンド」の思い出

JT:少し年代が飛びますが、ミラノのカメラマン、ロベルト・マゾッティ氏にあなたの写真の提供を打診したところ、1971年にギル・エヴァンスと共演したときの写真が含まれていました。このセッションについて思い出はありますか?
Karl:1971年だったと思うけど、ベルリン・ジャズ・フェスから招かれたギル・エヴァンスが「ギル・エヴァンス&ヨーロピアン・ドリーム・バンド」を企画して、スティーヴ・レイシーと僕をソロイストに立てたんだ。バンドのメンバーは、ヨーロッパの放送局が抱えるいくつかのビッグバンドからの選抜だった。
リハーサルで、あるパートをリピートすべきかどうかメンバーから質問があった。ギルの答えは、「流れに任せよう」だった。さあ、困ったのは連中だ。彼らはいつも緻密なスコアに忠実に演奏している。本番直前、ギルからスティーヴと僕にアドヴァイスがあった。「いいかい、どんなことがあっても君たちは演奏を続けてくれ」。問題の箇所が来た。リピートする者、しない者、オケは混乱した。スティーヴと僕は何食わぬ顔をしてデュオで演奏を続けた。その間にギルがオケをまとめた。終わってからビデオを観たら、カオスのオケをバックに僕らがソロイストとしてフィーチャーされているように聴こえるんだ。オケはまるで完璧なスコアを演奏しているようにね。期せずして演奏のハイライトになっていた。ギルは笑ってビデオを観ていた。
ギルはその後NYのKBIOのコンサートに何度か足を運んでくれた。僕のやり方を気に入ってくれているようだった。

♪ ヴァイブはまったくの我流で、だからこそ評価の対象になった

JT:あなたのキャリアのきっかけについて少し伺いたいと思いますが、そもそも音楽的な環境に恵まれた家庭に生まれたのですか?
Karl:そうではないと思う。祖父が合唱隊の音楽監督を務めており、母親があまりうまくないピアノを弾いてはいたけどね。

JT:音楽には何才頃に目覚めたのでしょうか?どんな音楽でしたか?
Karl:10才の時に両親にピアノのレッスンに連れて行かれたんだ。ジャズを聴きだしたのは14才の時。僕が育ったハイデルベルクには米軍の司令部があって、米軍のミュージシャンが街中で公開演奏をしていた。そのうちボーイズ・クラブができて、キッズ・バンドがいくつも結成されたんだ。僕はそこの常連だった。

JT:プロとしてのデビューは?
Karl:19才の時に「Cave 54」というハイデルベルクの学生クラブで演奏を始めた。毎日ジャズのライヴを演奏する初めてのクラブだったね。ハイデルベルクを中心に50マイル圏内(マンハイム、カイゼルスラウテルン、ダルムシュタット)に陸軍と空軍の基地があって米軍のミュージシャンが何人も出演していた。そしてそのクラブのハウス・ピアニストになったんだ。

JT:アメリカのプロもミュージシャンも出演していたのですか?
Karl:そう、駐留米軍の慰問のような形でね。そこで、初めてカルロス・ワードに出会ったんだ。それから、レックス・ハンフリーズ(ds)、シダー・ウォルトン(p)、ドン・エリス(tp) などね。毎夜、5、6人は来ていたね。つまり、「Cave 54」が僕の修行の場だったわけだ。当時はビバップばかりだったけどね。

JT:ヴィブラフォンはいつ頃初めたのですか?
Karl:そのクラブにあるミュージシャンがヴァイブを置いて行ったんだ。いつもピアノの調律に苦しんでいたんで、ヴァイブを弾いてみることにした。数ヶ月で弾けるようになった。ヴァイブは立って弾けるし、身体を自由に動かしたりダンスを踊るように弾くこともできる(その弾き方は今も続いているけど)。 つまり僕のヴァイブ奏法はまったくの我流で、だからこそいくつかの賞をもらうなどの評価があったのだと思う。基本的に僕はピアニストで、ヴァイブは余技ということになるね。

JT:プロのレギュラー・バンドとしてはどうですか?
Karl:テナーサックスのハンス・コラーのカルテットに参加した時だね。ローカルからインターナショナルなシーンにレヴェル・アップした。1960年から1963年を通じてこのバンドでヨーロッパのいろんなフェスティバルに出演し、マイルスやミンガスのグループのオープニング・アクトを務めた。そのうち、イングリートと一緒にパリで過ごすことが多くなり、さらに多くのアメリカのミュージシャンと接する機会が多くなった。

JT:たとえば、どのようなミュージシャンですか?
Karl:ウッディ・ショウ(tp)、チェット・ベイカー(tp)、ネイサン・デイヴィス(ts)、ビリー・ブルックス(tp)、アート・テイラー(ds)、ジョニー・グリフィン(ts)など。そして僕らの人生を決定的に変えたのがドン・チェリーとの出会いだった。いろんな意味でね。

♪ 新たにレーベルを立ち上げる予定がある

JT:あなたの拠点であるCMF, CMS, CMCの今後について今後の計画をもう少しおはなしいただけますか。CMS(Creative Music Foundation)はあなたとオーネット・コールマンによってオーネットのアーティスト・ハウスを拠点に1972年に設立されたのですね。
Karl:まず、ヘッドクオーターとしてクリエイティヴ・ミュージック・ファウンデーション(CMF) が僕とイングリート・セルツォ、オーネットと二人の弁護士により1971年4月にアーティスト・ハウスに設立された。但し、1973年にクリエイティヴ・ミュージック・スタジオ(CMS)の名の下にウッドストックでワークショップを開始するまで、CMFは登記上の存在に過ぎなかったんだ。非営利団体でCMSやCMSアーカイヴなどのプロジェクトを管理する目的で存在する。

JT:ウッドストックでCMSを開始する際オーネットは組織を抜けたのですね。
Karl:いや、オーネットが脱退したことは一度もないよ。

JT:CMFとCMSの他にCMC(クリエイティヴ・ミュージック・コミュニケーションズ)が存在していましたね。CMCの役割は何だったのですか?
Karl:CMCはCMF傘下の録音部門だった。存在は、1973年から1975年までで、ステュ・マーチンが管理していた。1975年にステュが去ってからは活動を停止している。近々、アーカイヴ・リリースやKBIOのリリースを予定しているので新たにレーベルを設立することも考えている。最初のアーカイヴ・リリースはとりあえず、Innova Recordsに取り扱ってもらったけど。

JT:カラパルーシャ・モーリス・マッキンタイアのアルバム『カラパルーシャ』が日本のトリオレコードにライセンスされ日本でのみリリースされました。どうして日本以外ではリリースされなかったのですか?
Karl:日本以外では興味を示すレーベルが無かったんだ。僕らも積極的に動いたわけではないし。そもそもレコーディングは僕らの主要な活動ではなかったということもある。

JT:カラパルーシャもCMSで活動してたのですね?
Karl:カラパルーシャは1974年にウッドストックに移住してきて、2年間、CMSワークショップのガイディング・アーチストを務めていた。

JT:カラパルーシャが晩年、地下鉄の構内でひとりで演奏していたのを知っていますか?
Karl:知っている。しかし、今では地下鉄が多くのミュージシャンの仕事場になっているね。

JT:最後に夢を語っていただけますか?
Karl:夢はCMSが新しいキャンパスで活動を継続できることだ。キャンパスというのは、それなりのスペースを持った施設で、季節的にワークショップで教えるだけでなく、年間を通してミュージシャンが自分を磨き、いろいろなプロジェクトを展開することを目的としている。現在のような不安定な世界では不可欠な施設だと考えている。この夢を実現させるためのパートナーを探しているところだ。

JT:あなたの夢が実現することを祈っております。

* 関連サイト
Reflection of Music Vol.36 カール・ベルガー 横井一江
http://www.jazztokyo.com/column/reflection/v36_index.html
カール・ベルガーと私 香月保乃
http://www.jazztokyo.com/column/guest/005.html

初出:Jazz Tokyo #203  2014年12月25日

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稲岡邦彌

稲岡邦彌

稲岡邦弥 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。音楽プロデューサー。著書に『改訂増補版 ECMの真実』編著に『ECM catalog』(以上、河出書房新社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。Jazz Tokyo編集長。 https://www.facebook.com/kenny.inaoka?fref=ts

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