ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第14回 ランディ・ピーターソン〜微分音のリズム〜

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ドラマー、ランディ・ピーターソンとの出会いは2014年の秋。マシュー・ギャリソンの運営するブルックリンのクラブ、ShapeShifter Labで3日間に亘って行われたジェン・シューのコンサートの前座としてジェンに招待されソロ演奏をした事がきっかけだった。ジェンのその日のコンサートのメンバーはベン・モンダー、マイケル・フォーマネク、ランディ・ピーターソンのカルテットだったと思う。そこで初めて目にしたランディ・ピーターソンのドラミングは聴覚的にも視覚的にも強く印象に残った。それはおそらく、その独特のスイングのフィール、そしてまるで舞踏を見ているかのような錯覚に陥るほどの身体的な演奏の仕方に理由があった様に思う。それから数年の間、コンサートやレコーディングで私はランディとの共演を重ねてきた。リハーサルの途中でも、コンサートの後でも、とにかく常にランディは音楽について話すことを躊躇することはなかった。その話の内容は理論や音楽史ではなく、「音楽そのものをどのように演奏するか」というテーマが大半だった。彼が音楽について熱心に話をする時には、「これはどういうことなんだろうか?」というひとつの音楽に関する疑問を嬉々として私達に投げかけ、そのテーマについて延々と話し続けるといった具合だった。そういう彼の音楽に対する姿勢は、私にはとても新鮮に思えた。ランディと出会うまでは、ミュージシャン同士で音楽の「演奏内容」に関してそこまで深いレベルで話をする場面はほとんど見たことがなかったからだ。ランディの話を幾度にも亘って聞いているうちに、彼の話す内容を書き留めたいという思いに駆られ始めた。特に、マイクロトーンを使った即興演奏の世界を切り開いたジョー・マネリという特異なミュージシャンと長年に亘って共演してきた彼の経験は、音楽を聞く者、演奏する者両方にとってとても貴重なものだと私は思っている。

以下は今年3月に行ったランディ・ピーターソンへの3時間にも及ぶインタビューをまとめた内容になっている。インタビューの最中にランディがかけていた音楽は、エリオット・カーターの弦楽四重奏曲だった。

蓮見令麻(以下H): 長年に亘る、マット・マネリ、ジョー・マネリとの共演について、その経験がどのようなものだったか教えてもらえますか?

ランディ・ピーターソン(以下P): 初めに彼らと音楽の内容を模索し始めたのは1988年か1989年頃だった。それから90年代半ばにかけて年を経るごとに様々な変化が起きて、音楽の内容も徐々に確実なものになっていった。だけど、2人と演奏をし始めた当初は、結果がどうなろうと、それぞれがミュージシャンとして本当に弾きたいものを弾くというコンセプトを持ってやり始めたんだ。別の言い方をすれば、目の前に観客がいない状態で「自分達のために」演奏する、そういうやり方だった。そうやって創り出した音楽をボストンの観客にまず見てもらった。自分達が弾きたい様に弾く、それを良いと思うかまたは思わないかは観客次第、そういうスタンスだった。こういう方向性に音楽が向かっていったことについて話をするのは簡単じゃない。あまりにも沢山の要因がそこにあったからね。だけどまず述べておきたいのはマイクロトーン(微分音)についてだ。マットやジョーと共演する前にも私は色んなミュージシャンのプロジェクトでドラムを叩いてきたけれど、マイクロトーンを使う演奏家は彼らが初めてだった。だけど、彼らにとってのマイクロトーンは、単なるアカデミックなコンセプトではなかったんだ。マットとジョーは、伝統的な調性に基づいた演奏をするのと同じように自然な形でマイクロトーンを演奏に取り入れていた。どちらも「音楽」であることに変わりはなかった。

ジョーは、言語に対しても同じような感覚を持っていた。彼は英語とイタリア語を流暢に話したのに加えて、自分自身の創作言語を書き留めてその創作言語を喋ったりもした。マイクロトーナルな音楽と非マイクロトーナルな音楽の間に境界線を引かなかったのと同じように、彼にとっては英語を話すことと創作言語を話すことの間にも境界線は存在しなかった。その創作言語が書き留められたノートは何十ページもあって、何度も消しては書き直していたよ。面白い響き方のする言葉を常にジョーは探していた。それらの言葉に意味なんてものはなかった。それは音楽に関しても同じだったんだよ。

1991年から92年にかけて、カルテットはすごく良い調子だった。ボストンでは徐々に観客が集まる様になっていったし、国外のレコード・レーベルが私達のサウンドに興味を持ち始めていた。すごく良いサウンドになりつつあった。それでもジョーは、こちらが首を傾げてしまうような事をする時があった。例えば、演奏の途中で言ってしまえば「不適切な」、または「間違った」音を出したりする。それでマットが腹を立てそうになると、ジョーはこう言うんだ。「ああ、僕は間違った音を出したかったんだ。」ってね。またある時は、テナーを吹きながら、「サックスで伴奏をしている。」と言うんだ。サックスを使って伴奏するなんて誰もしないのに。そこで私やマットが「ちょっとそれは変じゃないか?伴奏してるってどういう意味なんだ?ソロをとっているのか、それとも背景で弾いてるっていう意味なのか?」と質問すると、「ソロでも背景でもない。すべては連続体として存在していて、それはピッチだけの話じゃなく、演奏スタイルの癖に関してもそうだ。」という様な答えが返ってきた。ジョーはどの楽器を手にした時もそこに物理的な限界を感じていないようだった。素晴らしいリード奏者だったよ。彼はレスター・ヤングに強く影響を受けていたけれど、ビバップはある時点で通り越したんだ。シェーンベルクに感化されて四重奏の曲を書いたりもしていた。それに加えて色んな民族音楽も演奏したよ。アルメニア音楽、ギリシャ音楽、トルコ音楽、アイルランド音楽、ユダヤ音楽なんかがあった。その当時のニューヨークでは、結婚式での演奏の仕事をするために様々な文化背景の音楽をマスターする必要があったんだ。ジョーはこれらの音楽を信じられないくらい上手く演奏したよ。

マットはティーンエイジャーの時からすでに音楽的に洗練されていた。私は彼よりも12歳年上だから、よく驚かされたものだったよ。その当時、3年間ほどの間は、私はほとんどジョーとマットの家に住んでいるようなものだった。週に少なくとも3回はそこに行って、コーヒーで休憩する以外の時間は一日中練習とリハーサルに明け暮れたんだ。私達は家族のように一緒に暮らして、音楽を演奏し続けた。

演奏中に、ジョーは時々こういうことをした。とても微妙な長さの空白の中に、ひとつの音を乗せるんだ。その音を私達は「love note(愛の音)」と呼んだんだ。ジョーはそれをとんでもなく上手くやってのけたよ。とにかく、空間の中の絶妙な場所に音を上手く乗せることが彼にはできた。ドラマーとして、初めは戸惑ったよ。そこにはパターンというものがなかったし、それに加えて彼はマイクロトーナルな弾き方をしていた。だけど次第に、ピッチが連続体であるのと同じように、リズムも連続体なんだということに気づき始めたんだ。ただ浮遊するような演奏ではなくて、拍子の外側を演奏しつつ音にメリハリを与える、そういう様なものだった。私達はそれまでに誰も演奏したことのないような音楽を演奏していたにも関わらず、その内容において何が正しくて何が正しくないのかということは不思議とすぐに理解できた。誰に言われなくても、道を外せば自然とそれに気づいた。どうしてだろう?その音楽は、ビバップでもなければ、モード音楽でもなかった。

ジョーが私達に教えてくれたことのひとつは、音楽において急がないということだった。例えばとても長い曲、20分間も続くような曲を演奏する中で、音楽はこぼれ落ちてはまた再び現れ、蒸発したかと思えばまた明確な形で戻り、再び消える…まるで霧の様なものであると同時に、触れそうなくらいに確かなものでもあるということだ。リズムの話をすれば、例えばここ最近は変拍子が人気なように、「拍子」そのものには流行りがある。

1980年代に流行っていたものから、1990年代、そして現在に至るまで、音楽における拍子の流行は常に変化し続けてきた。現代的であろうとするためのひとつの方法論なんだろうと思う。だけど私達の演奏の場合は、「キュー(合図)」のようなものはなく、オーケストレーションも二の次だった。すべての側面を大事にしてはいたものの、カルテットで私達がやっていたことは、四人がそれぞれに異なったテンポで同時に演奏するやり方だった。その異なったテンポは、明確な繋がりを持たなかったし、拍節に基づいたものでもなかった。特定のビートにアクセントをおくわけでもないし、メトリック・モジュレーションでもない、譜面に書かれたものでもなかった。ただ私達は収縮性のあるテンポをそれぞれに演奏して、そこに拍子が現れた次の瞬間にはその拍子は消える、そういうようなものだった。

90年代初頭から半ばにかけて、ジョーは沢山の人から徐々に知られるようになっていった。その頃にジョーはサンラやテオ・マセロの様な人物とも知り合いになったんだ。そういう様な人達がジョーの周りに現れだしたことは、ある意味で私達がやっていたことが認められつつあることを意味していた。

この頃のジョーとの演奏体験を通して、私はまるで自分が生まれたばかりの赤ん坊になったような感覚を覚えていた。当時私は20代後半で、もちろんすでにドラマーとしてファンクからビバップまで色んなスタイルを演奏出来るようになっていたけど、ジョーの音楽はあまりにも独特のものだったから、それまでに学んできたもの全てを一旦忘れてしまう必要があった。だからある時点でこう決めたんだ。観客の前で演奏する時には、自分がドラムを叩けることを証明なんかしないと。ひとつのビート、あるいは音を出して、その長さを決める、それから強弱をつけて、音色をつける。そうやって元々の音をコントロールして、あとはただ耳をすますだけ、そうすることに決めた。そうやって出した音がもし「ジャズ」のように聞こえるのなら、それはそれでいいし、もし「ジャズ」に聞こえなくてもそれはそれでよかった。ある意味ではとてもロマンチックなやり方だよ。年を取るにつれてそういう姿勢でい続けることは難しくなる。若い時はそういうロマンチックな考え方も演奏に出てくる。当時私は若かったから、「ドラム・フィールとは何だろう?」「拍子の外側で演奏することは可能だろうか?」「大事なことは良い音を出すかダメな音を出すか、それだけかもしれない」「では良い音とは何だろう?」そういったシンプルな疑問を常に頭の中に持っていた。その結果として自分が演奏した内容を誰かがスタイルやジャンルに当てはめて名前をつけようとしたとしても、それは私達にとって問題じゃなかった。私達はただ単に自分達が出来る最高の音楽を演奏したかっただけだったんだ。

私達自身の予想に反して、カルテットは有名になっていった。ボストンのジャズクラブの客は大抵の場合大人しいはずなのに、私達のコンサートでは叫び声をあげる観客も居た。演奏していると、彼らは叫び声をあげて喜んだんだ。とても情熱的な観客だったよ。そしてジョーがギリシャ音楽風のソウルフルな即興演奏を吹くんだ。ジョーは最高のクラリネット奏者だったよ。言葉にはとても出来ないくらい素晴らしかった。マイクロトーンを弾くからじゃない。もちろん彼はマイクロトーンを愛していたけれど、その技法を使わなくてもジョーの演奏は確かにジョーの演奏だった。彼はとてもオールド・スクールな人だったから、ライブの最中に観客の座るテーブルまで行って、楽器を観客の耳のそばまで近づけて吹いたりもした。そうされて泣く人も居たよ。ジョーには人を感動させる力があった。

私は、ドラムで叩くひとつひとつの音に余韻を持たせるようになっていった。その余韻は躊躇や不安から生まれるものじゃない。音を叩くその瞬間に不自由なく叩き方を変化させる能力を身につけたんだ。瞬時に判断を下すための繊細さというものがジャズの演奏には必要とされるけれど、ジョーとの演奏をしばらく続けた後にいわゆるジャズの演奏をしてみると、前よりもずっと簡単に思えたんだ。ジョーの音楽を演奏することで私が培った能力は、一秒を瞬時に分割していって、その微分の中で演奏するということだった。ビートまたは音を正しい場所に置くことができれば、それは数秒間の間音楽を良い状態に導くことができる。もし正しいとは言えない場所にそのビートが置かれたとしても、その場合は「不正確さ」に合わせていくことで音楽が少し方向性を変えることがある。そういう状況を上手くコントロールすれば、それはそれで興味深い音の探求にもなり得るんだ。

H: そういったやり方というのはつまり、マイクロトーンの理論をピッチではなくリズムに当てはめたということですか?

P: そうだね。ビートが分割されているということだよ。ドラマーというのは大抵の場合グリッドやパターンに基づいて音楽を分析し、練習する。基本的にはすべてが2ビートか3ビートに分割されていくけれど、一定の間隔の中に5ビートを入れることも7ビートを入れることもできる。2ビートを入れた場合、それは4ビートと同じことだ。だけどマイクロトーナルな観点から言うと、2ビートか3ビートかという話で終わりではなくて、そのビートを入れる空間が大事なんだ。それは大自然そのものとも言えるかもしれない。それは一体何なんだろうか?誰もがミュージシャンであり得るか?答えはノーだ。我々は何を演奏すればいいんだろう?音楽が求めているものは、個人の音楽性そのものだ。なぜならさっき言った空間に関して言えば、そこにパターンは存在していないからだ。もしパターンが派生したとすれば、それは自分がその空間にパターンを生み出したからであって、つまり自分がそのパターンを求め、意図したということになる。それを演奏したいと思考したか、またはそれまでにも演奏したことのある内容だったかに関わらず、その演奏をしたという事実にはそのエレメントの中に自分が存在したという紛れもない真実があるんだ。

ほとんどの音楽においては、速度を上げると収縮が起こり、速度を下げると緩和が起きる。それは明確なことではあるけれども、必ずしも普遍的な真実とは言えない。そういう傾向の中で奏者が出来る事というのは無数にあるはずなんだ。だったらリズムを必ずしも拍子に基づいて理解する必要があるだろうか?

ジョーの音楽を演奏することは、非常に両極端な経験だった。自分が赤ん坊になった様な気持ちにさせられた一方で、客観的にその音楽を聞けばそれがいかに独特なものかが分かった。とてもオリジナリティに溢れた創造的な音楽だった。ドラマーとしては、その音楽を演奏するのは決して簡単ではなかったけれど、それは特に問題ではなかった。重要なのは私が上手く弾けるかということではなく、音楽そのものだったからだ。次第に演奏はやりやすくなっていったけれど、それも重要ではなかった。そういうことは全て二の次なんだ。いつでも初めにくるのは音楽で、その音と波動がどういう風に聞き手の耳に入り、その人の神経に染み渡るのか、それが大事だった。

H: あなた自身の音楽史について聞かせてもらえますか?

P: 子供の時はラジオで流れる色んな音楽を聞いて育ったよ。それから父がかけていたハンク・ウィリアムスもね。父は高級な真空管アンプと、ヨーロッパから取り寄せた上質なスピーカーを持っていた。とても良いサウンドシステムだったよ。5歳の時だったかな、家族でジャムセッションを始めたんだ。ハワイアン・ギター、アコーディオン、バンジョー、セミ・アコースティックギターがあったけど、私が選んだのはドラムだった。それぞれが楽器を手にとって、「赤い河の谷間」なんかを弾いたんだ。真剣にドラムをやり始めたのは、11歳か12歳、それくらいだったかな。人生の最も輝かしい時に思えたよ。どんな音楽も好きだった。近所の音楽講師からドラムのレッスンを受け始めたんだ。その先生が私にジャズを聞かせてくれたんだ。15歳くらいの時からジャズをやり始めたんだけど、先生は驚いたように私を見て言ったものだった。「どこでそのやり方を覚えたんだ?」って。ただ聞こえた様に弾いていたんだけどね。当時、70年代初頭には、ポップ・カルチャーの中にもまだスイングが聴こえていた。フランク・シナトラだとかそういう音楽には、軽めのスイングがあって、それを子供ながらに聴いていたんだと思う。少しずつジャズの演奏を齧っているうちに、この音楽はドラマーにとっておそらく一番難しくてやりがいのある音楽だから、それをきちんと学ぶ必要があるという心境になっていったんだ。

20代の頃にボストンに引っ越してからは、エルヴィン・ジョーンズが演奏するのをよく見に行ったよ。エルヴィンの演奏を見て、自分が本当に惹かれる音はこれだ、と思った。それにもちろん、トニー・ウィリアムスも。エルヴィンに関して言えば、彼のしなやかでダイナミックな三連符の叩き方に強く影響を受けたんだ。そこにはリズムにおけるマイクロトーナリティという考え方にかなり近いものがあった。エルヴィンは、三連符をとても微妙なやり方でずらして演奏したんだ。エルヴィンが三連符を叩くと、まるで音符がこぼれ落ちるような感じがするんだよ。

私がアヴァンギャルドな演奏をするドラマーだと思っている人も中には居る様だけど、そうじゃないんだ。ジョーと演奏したことはもちろん大きな意味合いを持っていたけれど。色んなミュージシャンと共演する中で、いつも私は相手にチャレンジを持ちかけることにしている。ニューヨークに引っ越してきた当時、ミュージシャン達は音楽についてあまり話をしないし、時間も限られていてミュージシャン同士で集まることはなかなか難しかった。演奏の仕事やリハーサルの時間を共にしても、音楽についての話をしないんだ。聴けばわかるはずだから、わざわざ話す必要はない、という雰囲気だった。ニューヨークのサウンドはシカゴやヨーロッパのものと違っていて、まるでボクシングの試合の様だと思ったよ。ほとんどのミュージシャン達ができるだけ大きな音で演奏しようとしていて、音の強弱に深みがなく、大体の場合50年代、60年代のスタイルに基づいた演奏ばかりをしていた。だけどジョーの音楽は違ったんだ。クラシック音楽とも、ジャズとも呼べない代物だったんだ。ニューヨークのやり方は、あまりロマンチックでないように思えた。「俺達がやる曲はこれで、やり方はこう、君は誰々と知り合いになるべきだ、これで完璧だ。」そんな具合で、演奏した後に家に帰ると、あれは一体なんだったんだろうと思い悩むんだ。そこにはあまり多くのものが求められていない様な気がした。ニューヨークでは、「誰々は有名だ、有名なのには理由があるはずだ、演奏が良いからだろう、ああいう演奏が良いのであれば自分もああいう風に演奏しよう」という短絡的な物の見方をどうしてもしてしまいがちだと思う。ミュージシャン達は、自分が本当に演奏したいものが何なのか十分に自問していないんじゃないだろうか。ニューヨークのミュージシャン達に対して批判的になろうとしてるわけじゃないよ。それぞれ個人のミュージシャンが本当にやりたいことをやっている演奏が聴きたい、それだけなんだ。人間は一般的に怖がりな生き物だから、何かを真似するか、完全に降伏するかしか選択肢がない場合もある。だけど第三の選択肢があったっていいと思うんだ。その第三の選択肢の何に惹かれるのか、それを模索し、育んで、見せてほしい。私が好きな対象に感心してくれる必要はないんだ。「あなた」が本当に惹かれるものは何か、そこが大事なんだから。

ニューヨークに移ってきた当時、マットと私は様々なバリエーションのグループで演奏した。当時一緒に演奏したミュージシャンにはクレイグ・テイボーンやティム・バーンなんかも居た。マットと私は、演奏におけるアクセントさえも不思議なくらい同じ瞬間に演奏できるようになっていた。だけどそれは魔法なんかじゃないんだ。何年も一緒に演奏していると、体の動きで物理的に次に何が起こるか分かるようになるんだ。マットとだったら、お互いのことを見ていなくても、同じ瞬間にスタッカートで演奏を終えることができるよ。怖いくらいに。どうやったらそういうインタープレイが出来るのか聞かれることもあるけど、それに関しては明確な答えはないんだ。

H: ニュースクールで教鞭をとっていたこともあると聞いていますが、今話した様な内容を音楽教育に取り入れることは可能だと思いますか?

P: それは難しいかもしれない。それくらい深いレベルで生徒が音楽に対する興味を持っていなければいけないからね。音楽を志す人の多くが、自分では気づいていないかもしれないが、そこまで深い興味を音楽に対して持っていないんだ。まずは耳を鍛えて、瞬時に相手がどんな音を出しているかを聴けるようになることだ。それが出来るようになれば、応用力もついてくる。

ボストン郊外での演奏から帰ってくる時には、車で30分くらいの距離を移動する間、必ずその日の自分達の演奏について話したものだった。ジョーは60歳を過ぎていたけれど、まるで子供みたいな精神で話をする人だった。「新しいスタイルを試してみたんだ。ランディ、どう思った?」ってね。彼はいつも真剣にスタイルを探求していたよ。バンドの中では一番年上なのに、ジョーはエネルギーに満ち溢れていた。徹夜で練習をしたり、朝の4時に僕達を起こしてリハーサルをしようとしたり、ほとんど眠らないんだよ。

加えて、ジョーは色んな意味でとても正直な人だった。時には残酷なくらい正直だったよ。もちろん音楽に関しても。いつかジョーのマイクロトーナルな演奏にマットと私が繊細な雰囲気の伴奏をつけた時、ジョーはすごく怒って部屋を出て行ってしまったことがあった。だけどしばらくすると戻ってきて、僕達がやったことの意味が理解できた、良いと思うと言ってくれた。それから時には音楽をほとんどサボタージュ(破壊)しようとすることさえあった。「音楽が力を失った時が最良の時だ。」なんてことを言ってたこともあったよ。例えば、30分程演奏し続けてる間、ある時点ではとても説得力のあった内容が徐々にアイディアと力を失っていくとする。そうすると、ジョーがやって来て言うんだ。「良い音が出せない時だからこそ、自分が好きなものを演奏すればいい。本当に好きなものをやってみせてくれ。」って。マットと私はあまり自分の弱さをステージで出さないけれど、ジョーは敢えて自分の弱さを見せるような人だった。

私は音楽があまり良くないことに対して批判的な態度は取らない。なぜかというと、私が興味を持っているのは「可能性」だからだ。他のミュージシャン達と集まってセッションをしても、なかなか良い音が出ない場合があるけど、そういう状況には最も大きな可能性が潜んでいる。逆に初めてのセッションで良い音が出た場合には、そこから前に進んでいくことが難しくなる。ジョーやマットや私は常にチャレンジを求めていた。音楽的なチャレンジを。そのチャレンジを乗り越えることが出来なかったとしても、それはそれで良かった。こういうやり方はあまりニューヨークで目にすることはない。大抵の場合は、すでに明確なアイディアを持った人が集まって、洗練された音を弾く、それだけなんだ。

ある意味では、誰か他のミュージシャンと似たような音を出そうとすることは楽しくもある。そういう衝動に駆られることは自然なことで、もしかするとその試みを通して何らかの恩恵を受けることもあるかもしれない。だけど、私の場合は、どこかに埋もれてしまうような何億ものありきたりなレコーディングに参加したくはないんだ。私は、正直な音楽に貢献したい。そういう正直な音楽というのは、時にはリスナーにとってはチャレンジにもなるかもしれない。ある種の音楽は、画期的であり、沢山の事を内包し得る。ウォルト・ホイットマン(注1)の言った言葉にこういうものがあった。「僕は矛盾しているか?それでもいい、僕はこれからも矛盾する。僕は大きく、数多くのもので出来ている。」音楽に関しても同じことが言えると思う。

「拍子の外側」(注2)で演奏するなんていうことは不可能だと思う、すべてはリズムなんだから。すべては「うねり」で、すべてがドラムなんだ。この部屋だってドラムだと言える。すべては残響なんだ。音にしても物質にしても、惑星間の空間あるいは太陽系の外側、銀河の外側そしてまた別の銀河が存在する。だったら、「内側」と「外側」の違いなんてあるんだろうか?全部同じことじゃないのか?音楽も、リズムもそういう風に捉えることができる。

私にはリズムの話は上手く出来ない。あまりにもミステリアスなものだからだ。だけど、リズムとその連続性が人を惹きつけるということは明らかだ。秩序やパターンが現れると、そこに人間の体を動かす期待のようなものが生まれる。それは理解できるのだけど、それでもやっぱりミステリアスであることに変わりはない。それは素敵なことだと思うよ。ビッグバンか何かの様に、たったひとつだけビートが存在したとしても、それが全体として最高点に達して何かが起きる。それでいいんだ。自分達の前に差し出された物事にはオープンで居られる方がいい。私達はここに、自分達の世界に存在しているんだから。もしそういう風にリズムが聞こえないのであれば、他にも方法があるはずだ。特に春のような季節には、窓を開ければそこら中を駆けまわる鳥達やなんかの音を聞くことが出来る。そこにある美しさというのは、ある種の「期待」が満たされるという事象の美しさなのだと思う。だから私は何かが「内側」にありまた別の何かが「外側」にあるという表現をしないんだ。とにかく、私は私を取り囲む全てのことに対して最も極端な形でオープンでありたいと思っている。

(注1):アメリカの詩人。引用は詩集『草の葉』より

(注2):英語では「Out of time」と表現している。インタビューの中で、敢えて「拍子の外側」という訳し方をしたのは、一般的な「拍子」の概念自体を絶対的なものとせず、それが柔軟性を持ったある種の連続体であるとするランディの独特な観点に基づいた理解のもと。演奏家によっても異なるであろうこの表現の解釈について読者に考えてもらう良い機会になればと思う

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蓮見令麻

蓮見令麻(はすみれま) 福岡県久留米市出身、ニューヨーク在住のピアニスト、ボーカリスト、即興演奏家。http://www.remahasumi.com/japanese/

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