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InterviewsNo. 230

#156 灰野敬二:デビュー・アルバム『わたしだけ?』を語る

Interview by 剛田武 Takashi Goda
Photos by 佐藤ジン Gin Satoh

 

PROFILE

灰野敬二(はいの・けいじ)
1952年5月3日千葉県生まれ。アントナン・アルトーに触発され演劇を志すが、ザ・ドアーズに遭遇し音楽に転向。ブラインド・レモン・ジェファーソンをはじめとする初期ブルースのほか、ヨーロッパ中世音楽から内外の歌謡曲まで幅広い音楽を検証し吸収。1970年、エドガー・アラン・ポーの詩から名を取ったグループ「ロスト・アラーフ」にヴォーカリストとして加入。また、ソロで自宅録音による音源制作を開始、ギター、パーカッションを独習する。1978年にロックバンド「不失者」を結成。1983年から87年にかけて療養のため活動休止。1988年に復帰して以来、ソロのほか不失者、滲有無、哀秘謡、Vajra、サンヘドリン、静寂、なぞらない、The Hardy Rocksなどのグループ、experimental mixture名義でのDJ、他ジャンルとのコラボレーションなど多様な形態で国際的に活動を展開。ギター、パーカッション、ハーディ・ガーディ、各種管弦楽器、各地の民間楽器、DJ機器などの性能を独自の演奏技術で極限まで引き出しパフォーマンスを行なう。170点を超える音源を発表し、確認されただけでも1500回以上のライヴ・パフォーマンスを行なっている。

灰野敬二公式ウェブサイト

 

INTRODUCTION

自主レーベル「ピナコテカレコード」からリリースされた灰野敬二の伝説的デビュー・アルバム『わたしだけ?』が、当時本人が意図したゴールド&シルヴァーのスペシャル・エディションで、1981年のリリース以来初めてアナログ・レコード盤で、アメリカのレーベルBlack Editionsからリイシューされる。オリジナルLPは黒地に黒い文字で印刷された歌詞カード以外、アーティスト名もアルバム・タイトルも曲名も制作クレジットも一切記載がなく、黒で統一されたジャケットのイメージは、余りに個性的な音楽と共に、日本のみならず世界中で地下音楽の象徴的作品として知られている。しかし具体的な制作の背景や過程については語られることが殆どなく、謎に包まれた作品でもあった。1993年にP.S.F.レコードからリリースされた再発CDも入手困難な現在、再び世に送りだされる処女作について、灰野敬二本人に話を聞く機会に恵まれた。対話スタイルで行われたインタビューを敢えて編集することなく掲載する。過去の記憶を思い出しながら言葉を選んで語る灰野の口調に、現在まで繋がる思想と実践の重みが感じられるだろう。

Black Editions Website

 

INTERVIEW

2017年1月29日(日)川越にて

■吉祥寺マイナー〜不失者結成

剛田武(以下TG):最初に吉祥寺マイナーに行った経緯を教えてください。

灰野敬二:当時福生の知り合いのミュージシャンの家に居候していて、そこにマイナーの佐藤隆史氏から突然電話がかかってきたと記憶している。電話が来るまで、マイナーという店のことは知らなかった。その電話ですぐに出演を依頼されたかどうかは覚えていないけど、それで繋がりが出来て、出演するようになった。最初はソロで、阿部薫の追悼ライヴだった気がするな。最初にマイナーに出演して、やがて羅宇屋(らおや)にも出るようになった。

TG:不失者を結成した経緯は?

灰野:福生にはいろんなミュージシャンが住んでいて交流が出来た。その中に高島(宗平)がいた。ある日俺がマイナーでライヴをやっているところに高島さんが来て、ドラムを叩かせろと突然言い出したんだよ。「俺しかいない」という感じで、じゃあそこまで言うならやって、という感じになって加入した。

TG:その時点で灰野さんはバンドをやろうという気持ちはあったのですか?

灰野:いや、作りたい(という気持ち)。で、白石(民夫、アルトサックス奏者)さんとはデュオをもうやっていたと思うよ。

TG:不失者を名乗ったのは白石さんとのデュオが最初ですね?

灰野:そうそう。白石さんがシンセサイザーでね。

TG:「不失者」という名前は?

灰野:後から付けたか、もう次のバンドは「不失者」と決めていて「始動」したのか、その前後も何とも覚えていない。

TG:佐藤さんがつくったマイナーの機関紙『アマルガム』に「不失者始動」と書かれています。そこで灰野さんが宣言文(下記参考)を書いています。

不失者デビュー!」(AMALGAM Vol.2 発行日1978/12/01より)
「煮えたぎった私ョの血ヘドがテメエラの心をべとつかせる。罠にかかった私ョの息の意志の行方が全ての悪夢のすき間に忍び込み,犯罪の種をまき散,宇宙の素粒子どもを震えおののかせてやるぜ。我が物顔した善意を私ョの気合いでバラバラにしてキリストの脳髄の中にでも封じ込めてやる それとも奴の顔を銀糸で切りさいて痙攣しているケツの穴の底に埋め込んでやろうか。閉じ込められた奇跡の排出物にそっと触わり,テメエラの動脈に私ョのサインをなぞってやる。そしたらテメエラにも さらす 事が宇宙のうぶ声だと気がつくはずだ。 私ョのえぐりとった浄化作用に情念の化身が逆立つ。」

灰野:うん、覚えている。

TG:これがまさに「始動」宣言だったのですね。

灰野:うん。ただし、そのときメンバーが居たかどうかは微妙。

■「わたし」への意識

TG:発表されたのは時期的には白石さんとやられていた頃ですね。この時は自分のことを「私ョ」と表記されてました。「私ョ」から『わたしだけ?』というアルバムタイトルへは..「私」に「ョ」をつけたのは、灰野さんとしては単なる「私」という一人称ではないという意味だと思いますが、それが『わたしだけ?』というタイトルと繋がっているのでしょうか?

灰野:似てるけど、「私ョ」というのを言ったのは、『天乃川』(1973年に録音されたライヴ・アルバム)の頃から。あの頃から自分のペンネームみたいなものとして使っていた。実はすごく長くて「GODS ORCHESTRA WHITE 私ョ」かな。「私」という主語、こだわるけど、それに「ョ」はみんなつけないよな、ということで、「は・が・も・に」(助詞)に対しての「ョ」にした。その頃は、「“私ョ”が何々をする」という言い方をしていると思う。それがまさにその文章(宣言文)。

TG:「私ョ」から「ョ」が取れたのは意識的な何かがあったのですか?

灰野:というか伝わらない。みんなに「はあ?」って言われるから。「私が」って言わないで「私ョが」っていうと不審な顔をされるから。

TG: 邪推かもしれませんが、ずっと一人で活動されてて、ある時期はライヴをやらないで呼吸やリズムやジャズの研究をしていて、そんな頃は「私ョ」と名乗っていて、(マイナーなどのライヴで)人前に出るようになって「ョ」が必要なくなっていったと考えられませんか?

灰野:マイナー時代も最初は付けていた。

TG:ただ不失者が出来て活動する中で、伝わらないと言うこともあるかもしれないけど、「ョ」をとっても「私は私」という意識が芽生えた。

灰野:うんそうだね。

TG:『わたしだけ?』というタイトルは、「ョ」をつけていた灰野さんが、「ョ」を取った。ただし「私だけ」に「?」が付いていることがすごく示唆的だなと思います。
さてその頃、不失者も活動が始まり、ソロでもやられていた。

灰野:不失者は77年くらいでしょう。自分の中での不失者はその前から始まっているから。ただメンバーがいない。ソロ名義でやったときも不失者というマークは入れていないけど、俺の中では「不失者」だったんじゃないかな、ひとりであっても。だからそれをはじめにやっていたから、後にソロで「不失者」をやってたんだよ。だって「不失者たち」じゃないでしょ、「不失者S」でもなく。

TG:単数形ですね。

灰野:それも勘違いされるかもしれないけど。「THE不失者」なんて言われたくないから。

■活動の場

TG:マイナーが閉店することになって、それで佐藤さんがピナコテカレコードを始めることになりました。マイナーが無くなった後、そこで活動していたミュージシャンたちは、そのあとどこで活動するか試行錯誤したと思いますが、灰野さんとしてはどういうことを想っていましたか。

灰野:「今の人たち」って敢えて言うね、剛田君も含めて、そして現代ね。現代の人って、何かをすることに於いて、ある種の計画性を立てるじゃない。「こうしたい」「ああしたい」って。でも、今この場で言えるのは、「こうしたい」「ああしたい」っていうのは、本当はやりたいことなんか無いんだよ。やりたいことがある、というのは、受け入れる場所の有る無しにかかわらず、止まらない力だから。オレはまさにそういうものだったと思うし、今もそう。だから、ひょっとして、マイナーが終わってオファーがどこからもかからなければ、人前では音楽をやってなかったかもしれない。自分の音楽好きは変わりようがないから、レコードは聴いたし集めたりしてたかもしれないけど。なんか「ライヴ をしなきゃ」というような切迫感というのが一切ないな。「ああライヴのオファーが来ない」なんて。オファーが来ないって、たぶんロストアラーフの頃から無かったから。
今の子たちって定期的にオファーが来ないと不安になると思う。「あれ?、演奏誰も聴こうとしてくれないんだ」って。その周期が物凄く短いと思うけど、まあ、どんと構えてたなんて恰好いいものじゃないけど、俺は無くって普通ぐらいに思ってたから。今言われてみるとそういう気がするよ。

TG:意識の持ちかたに、場所のあるなしは影響しない?

灰野:ある意味では「普遍」だよね、言いようによっては。それでやっぱり「ぎゃてい」(1981年6月にオープンした吉祥寺のライヴハウス)から声がかかった。声がかかったことに対して昔は「やりません」なんてことはまず無かった。行ってみてオーナーと喧嘩したら出来ないけど。だから「やってください」、「わかりました」。マイナー(吉祥寺)に住んでいたし、マイナーからぎゃていってそんなに遠くなかったでしょ。それでやった。

TG:その頃にはすでに吉祥寺に引っ越して住んでいたんですね。

灰野:マイナーの後半にはもう吉祥寺に来てるんだよ。マイナーっていつまであったの?

TG:78年~80年10月までの3年間です。

灰野:白石さんとデュオをやってた時は吉祥寺にはまだいない。不失者の途中から吉祥寺。

TG:マイナーがあるから吉祥寺に転居したのですか?

灰野:そうじゃなく、たまたま引っ越したら吉祥寺だった。

TG:結果的にマイナーもあるしぎゃていも出来たし。

灰野:パルコはなかったしね(笑)

TG:レコード屋もありましたよね。ジョージアや音楽舎や芽瑠璃堂(めるりどう)と。ジョージアはPASSレコードの後藤さんがいた店です。

灰野:芽瑠璃堂は最初のうち行きにくかったんだよな。アメリカン・ロック専門店。78,9年は俺はブルースやブラック・ミュージックをあまり聴いていない頃だったから、芽瑠璃堂は家から近くて毎日行ける場所にあったけど、はじめのうちは店員も俺のことを「なんだてめえ」みたいな態度で、「外出ろ」に近い雰囲気があった。でも、そのうち60年代のサイケ系の再発を入れるようになって、あそこは個人輸入だからマージンが取られないので値段が安かった。芽瑠璃堂と南口にあったDisk Innの2階。その2店に行き来していた。

TG:Disk Innは2階のワンフロア全部使って輸入盤だけ置いていましたね。

灰野:そう、あそこは凄くいっぱいあった。で新しいバンドはあそこで買った。俺も80年代、ニューウェイヴだけどピコピコじゃない方ね、まあ、サイケデリック・ルネッサンスという感じの、オンリー・ワンズとかを聴いていて、ふとブラック・ミュージックが聴きたいと思って芽瑠璃堂に行って、やっと店員と仲良くなった。

■レコード・リリース

TG:場の有る無しにかかわらず活動を続けていたわけですけど、レコードを出すという話はどういう風に?

灰野:もちろん佐藤さんから言ってきた。オレはたぶん一生レコードを出そうとは思ってなかったから。それは別のインタビューでも答えているけれど、音楽はほんとに一瞬にして消えてほしい、砂のようになって、と考えていた。それで今は、営業目的という言葉をあえて使うけど、未だにライヴをやれているってことは、それ(ライヴ)が重要、最重要だから。

TG:話はちょっと変わりますが、2000年前半に早稲田大学で行われた塚原史教授(ダダイスム・シュルレアリスム研究者)主催の講演会で、僕が質問で、「灰野さんは81年に『わたしだけ?』を出してから、80年代は殆どレコードを出さなかったのが、90年代以降凄いペースで出されているのはなぜですか?」と尋ねたんです。

灰野:ああ、すごくわかりやすく答えなかった?

TG:はい。「僕も霞を食べて生きていけないから」という答えで。

灰野:それは今でもその通りでしょう。

TG:はい。その答えはもう納得せざるを得ないというか。

灰野:ねえ、だって猫3匹増えてるから。

TG:灰野さんは商売と関係なく音楽続けると言うイメージがありますが、そういう訳には...

灰野:19世紀のヨーロッパのパトロン制度がある時代ならそんな生意気なことを言えるけど。それに関してすごく被るような言葉だけど、ウリ・トリプテ(ドイツの前衛ロックバンド、グル・グルのベーシスト)に最初に会ったとき、『わたしだけ?』を作った後だから、82年かな、アメリカに初めて行ったとき、運良くウリ・トリプテに会えたから。その時彼が言った言葉を未だに僕は覚えていて、「今はオファーを待っていてはオファーは来ない。60年代の頃の奴らは、かっこつけて電話が来るのを待ってると電話が来て、 “来た来た、今からライヴだぜ” って感じだったけど、今は自分からやらせてくれって言わないと、もう仕事は来ないよ」って。それがすごく頭に入って。
自分から依頼したことって今考えると少ないけど、いつからしたかな。ロストアラーフが裸のラリーズたちと一緒に企画をしだした時、俺たちは初めからその苦汁を舐めさせられているから。だってライヴのオファーなんてなかったもん、学園祭以外。あとドラムの、今、制服向上委員会(女性アイドル・グループ)のプロデューサーをやっている高橋(廣行、通称おしめ)は、すごく良い意味で策略家で政治的な所があるから、仕事を見つけていたから。そういうところは凄いと思う。頭が下がる。そういう広報担当がいるんだよ。俺だけだったらやっていないと思う。BYGにそれこそ若造が高木元輝さんをゲストで呼んじゃうんだから。高木さんをどこかに観に行って、高橋が「おい高木さんと一緒にやりたくないか?」「やりたいやりたい」と言ったらすぐに話し かけて。で、じゃあBYGでって。高木さんは「ああいいよ。君たちカッコいいからやるわ」みたいな、まあそれは誇張だけどそんな感じで。堂々とやれちゃうんだから。

TG:レコードを出すなんて思ってなかったところに佐藤さんから出さないかって話があったんですね。そこでどう思いましたか。

灰野:あそれはもう(別のインタビューで)答えてるよ。サード・イヤー・バンドを聴いたのは、俺はレコードで聴いたんだし、たった1000人の人でもそれが伝わるってことでそっちを選んだ。だってレコードを作らなかったら、海外で演奏できなかったんだから。今生活が出来ているのはそのお陰でしょう。はじまりとして。

TG:その前に『愛欲人民十時劇場』(ピナコテカのオムニバス・アルバム)の話があったんですか?

灰野:あっちが先だっけ?いや後でしょう。

TG:発売は『愛欲人民十時劇場』がピナコテカの1番です。

灰野:いやNORD(日本最初のノイズバンドのひとつ)だよ。NORDが1枚目だよ確か。発売順番や番号はともかく『わたしだけ?』が時間がかかって、NORDが先に出たんだよ。

TG: 順番としては最初に『愛欲人民十時劇場』が出て、次にNORD『NORD』が出て、灰野さんのアルバムについては「発売が遅れています」ってお詫びの告知がアマルガムに何回も出てて。

灰野:そう1年遅れた。

■レコーディング

TG:作ろうとなったときにタイトルとか収録曲とかの考えはあったんですか?

灰野:いや、なかった。

TG:全く何もない白紙の状態で?

灰野:うん。そう。

TG:レコーディングの経緯を教えてください。

灰野:佐藤(隆史)さんの知り合いが、確か東伏見でスタジオをやっていて、録音もできると。で、そこでやろう、ということになった。出来たばっかりの個人のスタジオ。今でも覚えている。佐藤さんとしてはちゃんとしたものにしたいからそこ(スタジオ録音)だけにしたかったんだと思う。たぶん。ただ俺が、やっぱり(スタジオは)デッドで、どうリバーヴを使おうと、自分の空気感が出せないところがある。さらに今思い出すと、夜中にやった気がするな。俺が雰囲気が出せないから、みたいな。

TG:夜中というと深夜?

灰野:深夜だった気がする。だからあのレコード、あのまんまなんだよ。

TG:夜中の黒。

灰野:「うまくできない」は真っ暗な状態で録音したような気がする。他にも何曲か、マイクの位置が分からないほどの真っ暗闇。ギターを手探りで何もないところからそれぞれ違う一音を見つけて、音楽を全く無から作ろうと思っていた。

TG:それは凄く興味深いですね。何日くらいかかったんですか?

灰野:三日か、二日くらいだったんじゃないかな。そんな長期間はやらななかったと思うよ。テープはずっと録りっぱなしで長かった。

TG:演奏レパートリーはどうやって決めたんですか?

灰野:何にも考えていない

TG:歌詞は?

灰野:なし。その場で、やりながら。なんて言うかな、時期がやっぱりあって、やっていて一個パターンが出来るじゃない?そうすると、自分がどこまで覚えられているか難しいけど、あ、なんか歌詞つけよう。やっぱり「歌う」ということを、すごく自分の中では、歌のレコードを作ろうとしてたから、ゴーーーッといつも演っているから、人が俺のレコードを買うときに、絶対A面B面1曲ずつで、ゴーーーッといってそのままのレコードだと思うのを裏切りたかったから。

TG:そこが結構あるんですね、裏切りという。

灰野:ある。物凄く意図的にある。灰野敬二に対する灰野敬二自身のアンチテーゼが。本当にそこは、俺が滅多に言わない「意図的」にあった。俺は、まだ存在しなかった1920年代のカントリー・ブルースのレコード、という意識を凄く持っていたから。だからもし比べられるのなら、ロックンロールにもいろいろあるし、他にもジャンルがあるでしょ、クラシック、ジャズ、民族音楽、エレクトリック・ミュージックとか。もしジャンルに置かれるんなら、芽瑠璃堂のカントリー・ブルースの中に入れてほしかった。俺としては。

TG:すごく具体的なイメージがあったんですね。

灰野:俺にとっては「コンテンポラリー・カントリー・ブルース」なんだよ。

TG:その当時の灰野さんについて、ライターの松山晋也さんが、中世音楽・中世のクラシックを聴いていたっていう話をしていましたが。

灰野:もちろんそれは言ってる。初めてアメリカに行ったとき、ジョン・ダンカンにインタビューだっけ?ジョンと話したか忘れたけど、アラン・カミングスと話したのかな?「灰野さんの音楽を一番簡単に一言で言うなら、どう説明・紹介したらいいですか?」と聞かれたから、「グレゴリア聖歌とカントリー・ブルースの融合」みたいなことを言った。「カントリー・ブルース」という言葉を使ったか、「ブルース」という言葉を使ったかは忘れたけど。

TG:30年代の...、

灰野:20年代ね。白と黒(カントリーとブルース)は、まさに歌詞で言っているので。

TG:”交わるな”(「終わりにさせろ」の一節)、ですね

灰野:そう。

■言葉(歌詞)

TG:歌詞についてですが、「わたしだけ?」というタイトルだけあって、「じぶん」という言葉、その「自分の真似」がうまくできない、とか、私ョの頃から「わたし」というものへのこだわりがありますね。

灰野:そうだね。

TG:それは今も変わられてないと思いますが。

灰野:そうだね。

TG:その言葉がその場でやりながら出てきたということは「わたし」へのこだわりが常に活動の中にあったということでしょうか?

灰野:なんでもそうだけど、意識していて、それが自然体で解放されたとき、自分が思っていることが言葉になるよ。それが、難しい形容詞、日常で使わない形容詞とか、無理矢理こねくり回して作った、それこそ哲学用語とか、そんなの日常じゃ出ないでしょ?「お母さん、お湯が熱い」と感じたとき、それを訳わからない言葉で言わないでしょ。

TG: 沸点が何度とか、言わないですね

灰野:そう。

TG:それが初めてのレコーディングで自然に出せた?

灰野:まあ28歳だったから、といこともあると思う、自分がティーンエイジャーとか22,3歳の頃とかじゃ無理だったかもしれない。

TG:灰野さんがお好きだと言うガレージロックの初期の頃っていうのは、まさに高校生が「こんな世界嫌だぜ」とか歌ってます。ただそこで終ってしまった、ということへの愛おしさもありますよね。

灰野:もちろん、それが彼らが何かに方向性を見つけたら、いろんなものになって行ったんじゃないかな、ていう気持ちはあるよ。

TG:つまり『わたしだけ?』をレコーディングしていた28歳の自分は、ガレージロックから進化していた、と?

灰野:それこそ、いつも言っているように、俺はロックの弁護士だって思ってた。その時が一番じゃないかな。たぶん、ロックのレコードを聴いてなくはないけど、前後するから判らないけど、中世とかジャズを聴いていたんじゃないかな。

TG:まさに松山さんが灰野さんと言えば中世音楽、と言っています。

灰野:というか中世音楽なんて聴いている奴はいなかったし。今もいないから。

TG: ちなみにその頃、本とか、もちろんアルトーとか前からお好きだったと思いますが、マイナーでは、みんな競って難しい本を読むっていう競争があったとか。

灰野:そういうのは俺は興味ないし、敢えて言えば判りたくもないから。いつも言うように、人って一緒にいて接点がいくつあるかじゃない?そこで、たばこを吸わない、酒を飲まない、ドラッグをやらない、と接点がもう3つ外れているわけだから、人と一緒にいる時間なんてないんだよ。

TG: ちなみに『わたしだけ?』を作るときには、ソロで、他には誰も入れない、というのは最初から決まっていたのですか。

灰野:そう。佐藤さんからソロ、と言われてたから。俺の方からバンドでやりたいとか誰か入れたいということは、全くリクエストしてない。

TG:ソロということで佐藤さんも灰野さんも同じ方向を見ていたということですね。

灰野:佐藤さんとしては、判らないけど、ひょっとするとA面B面ゴーーーッという轟音のレコードをイメージしたかもしれない。そうすれば(レコーディングが)1日で終るじゃない。

TG:でもそれは佐藤さんは言わなかったんですね?

灰野:何も言わないで、ほんとに好きにやらせてくれた。彼は、僕が何かやると、「あ、それ面白い、面白い」「ああ、いいなあ」みたいな感じに言ってくれたから。だからまあプロデューサーでしょ、問題は。プロデューサーって、今はどのくらいの権限があるかわからないけど、昔はスポンサーじゃない? 1枚レコード作るのにお金がかかるわけだし、今のCDみたいに制作費10万で出来る訳じゃないから、1000枚作るのにもそれなりのお金かかるじゃない?思い出したけど、あの頃は1000枚プレスして500枚以上売らないと黒字にならないと言われていた。でも俺のレコードは、結局印刷代と、写真のフィルム代・現像代、何度もやったから、その経費がどのくらいかかったか判らない。

■ジャケット撮影

G:レコーディングは3日だったけど、ジャケット撮影は。。

灰野:1年だよ(苦笑)。

TG:写真を撮ってはそれはダメ、これもダメ、と写真家の佐藤ジンさんと喧嘩しながら作ったと聞きました。それを通して刺激を受けたところはありますか?

灰野:思ったのは、撮られる側の好きなものと、撮る側が好きなものの違い。それが判った。その頃俺も27,8じゃない、自分のことばっかり押し付けることはなかった、そうなりつつあったんじゃないかな。自分としては若い時から、ただ押し付けるだけはしてなかったつもりだけど、なんかそういう心の余裕、まあ一番ハードな時だけど、それは持ち得てたと思う。だからあれだけ頑固な、ある時に「この野郎、俺が欲しくないのを何で欲しいって言うんだよ!」っていうお互いの葛藤が始まって。葛藤って自分の心の中で起こることがほとんどだと思うけど、なんかやっぱり、ぶつかり合いが始まって。ただ、話を聞くと「ふうーん」って(理解できた)ね。

TG:その撮る側の?

灰野:そう、撮る側のね。「これがカッコいいよ」「いや俺はこのポーズが嫌い」だとか。もし向こうが焦点が合う合わないというプロフェッショナルな面だけだったら、一緒にやってないと思う。「ほらこれピントがぴったり合ってカッコいい写真じゃん」ていう写真家だったら、途中で「辞めて」と言ったと思う。そうじゃなく、見る側と見られる側の視点ね、ああそれが違うんだなというのは、すごく勉強になったんじゃないかな。俺が「あっち」と「こっち」っていう言葉を使うのは、まさにそれだと思うよ。

TG:ああ、なるほど。

灰野:受動態と能動態の関係とか。いやそれは前から考えていたことだけれど、それが露骨にひとつの事実として起きたわけだから。

TG: 実際に体験した訳ですね。

灰野:送る側だけで物事は済むんじゃないって。

TG:その結果が「暗い朝」と「明るい夜」というジャケットの裏表の写真ですね。

灰野:それぞれが選んだ一枚ね。

TG:その時にやりたくて出来なかった金刷りが今回の再発で実現した。表と裏の金銀の版は当時の試し刷りを佐藤ジンさんが保管していたものが元になっているんですね?

灰野:そうだね。当時はこれ作ると2万円から3万と言われたから。ジンさんが金で試し刷りして「灰野君、これどう?」みたいな。「うおーこれ出そうよ!」って言ったら佐藤(隆史)さんが「無理です」って(笑)

TG: 作って見せたけど、最初からダメだってわかってて。

灰野:3万で売らないとどうにもならない、って言われて、もし俺が、元々コレクションとか、マニアックな、敢えて「変な」マニアックな性格だったら、それ(金刷り)じゃなきゃ嫌だって言ったかもしれない。でも作るって決めた時点で、1000枚は売るんだ、という気持ちになったから。たった10枚作って誰かが持ってればいいって言う、そういうものにする気はなかったから。

TG: 人に伝えたいという気持ちですね。

灰野:そう。だからサード・イヤー・バンドは、俺はレコードを聴いて知ったんだ、というね。ブルー・チアーはラジオ等で普通に聴けたかもしれないけど、サード・イヤー・バンドなんて、普通の日常の中で伝わってくるものじゃないじゃない。

■プロデュース

TG:アルバムの中にライヴ・トラックがあります。アルバム 1曲目「おれのありか」が荻窪グッドマンでのライヴです。ピアノの音が聴こえますが?

灰野:たまたまお尻がピアノにあたったんだよ。

TG:僕がアルバムを最初に聴いたときに、ガサガサって音が左右に飛んで、ピアノがポロンと鳴ったりするのが、もの凄く印象的でした。

灰野:狙いは何にもなし。あれこそ、例えばスタジオ録音だったら削られちゃうでしょ、余分な音って。あの緊張感は、俺も10年に一回も聴かないけど、凄いと自分でも思うよ。空気が収まっている感じだからね。

TG:曲順を決めたり、長い録音テープからの編集をしてるのは、当然灰野さんが指示を出して?

灰野:全部俺。

TG:A面最後の「終わりにさせろ」と「うまくできない」が曲間無しでピッと変わるのが衝撃的です。

灰野:あれはね、ほんとに我ながら(いいと思う)。だから誰か俺にミックスさせろって言うの(笑)。

TG:若干形は違うけど現在DJでやられていることと繋がりますね。

灰野:そうだね。みんなやってると、自分で全部やりたくなるじゃない?

TG:確かにそうですよね。

灰野:ビートルズだって、やっぱりセルフ・プロデュースになって行くし、で、よせばいいのに他のアーティストのプロデュースとかし出すわけじゃない。まあ、欲望果てしなく、というみたいなもんでしょう(笑)。業だよ業。

TG:自分で自分をプロデュースするというのが一番なのですね。まあ自己完結になりがちということもあるけど。

灰野:その通り。

TG:でもそこがピシっと決まって人に伝わるモノが出来れば理想的ですね。そういう意味では『わたしだけ?』はすべて...

灰野:すべてと言うか好き勝手にやらしてくれた。佐藤さんもあるところから、これは儲からないと(気づいた)。佐藤さんは一応、俺を金の卵と思ってたみたい。その当時のノイズっていうことで、A面B面ゴーーーッだったら、1000枚売れたのかもしれない。うん、一応名前はもうある部分で日本人の間である程度知られていたじゃない、でみんな「ゴーーーッ」を期待していたわけだから、そしたらいきなり、ああ、ポロっとかいって、「音数が少ない」とか「音圧感がない」とか、もう、そう(いう反応)でしょう?

TG:でも僕は、最初に聴いたのがこのアルバムだったので、素直というか真っ白なイメージで聴きました。いろいろ写真とか見てはいたんですけど、このジャケットであの音が出てきたら、もうこれは「どこに僕は連れて行かれるんだろう?」という感じ。しかも「歌」ですよね。歌詞が最初に有った。特に「うまくできない」で最後に「自分の真似がうまくできない」というところは強烈です。

灰野:みんな「自分の真似」まで聴かないんだよな、若い子はYouTubeで見ると。「うまくできない」だけで終るから。それちょっと、最後のところを聴いてほしいよね。(笑)

TG:最後にこれ(自分の真似)が出て納得するんですけどね。

■海外への影響

TG:そういえばアルバムが出た時モダーン・ミュージックから「50枚売るから」と生悦住(英夫)さんが注文して、佐藤さんが「いや、そんなに売れるんですか?」って半信半疑で(納品に行った)(笑)。

灰野:彼(佐藤隆史)は凄いよ。奥さんと一緒にカートにレコード乗せて、ほんとに「営業」って感じで巡業してた。

TG:レコーディングが終わって、フォトセッションも終わって(リリース前に)、フレッド・フリスが来日して共演しました。

灰野:そう。彼は物凄く昂奮してくれて、で、彼がニューヨーク来ないかと言ってくれたんじゃないかな?一緒にやった後でしょ、たしか。それで僕としては「ええーっ?」みたいな、行けるのもまったく、夢の夢の夢みたいな話だから。佐藤さんがフリスから15枚レコードを送ってくれって頼まれたんだ。これを知人に聴かせるからって。それが錚々たるメンバーだよ、今では。クリスチャン・マークレー、ジョン・ゾーン、ビル・ラズウェル、デヴィッド・モスとかその辺だよね。エリオット・シャープとか。で、みんな聴いて「おおーっ」って言ったらしい。

TG:先入観のない外国人が聴くとこれは、今まで聴いたことない音楽でしょうね。

灰野:ヘンリー・カイザーとかね。僕の世代の人たちが聴いてくれた。

TG:それがもし轟音(のアルバム)だったらどうだったかな、とか思います。

灰野:また違う方に行ったと思う。

TG:割と彼らのやっているものに近いもの、と捉えられたかもしれない。

灰野:そうだね。日本人が聴いても、1曲目のヴォーカルにはビックリするので、彼らにとってみれば。おそらく、おそらくだよ、彼らが韓国のビートとかに興味を持ったのは、これがきっかけかもしれない。だから僕に会うとき態度が全然違うでしょ。敬意を払ってくれる。その辺は今でも感じる。だって彼の家に二日か三日泊めてもらえたから。

■次のリリースまで

TG:83年くらいから身体を悪くして5年くらい活動休止されましたね。

灰野:できなかった。いつも言うように「やらなかった」のではなく「できなかった」。動けなかったから。

TG:復帰してからもライヴはやっていても、89年にPSFから『不失者』(PSF-3/4)が出るまでは、レコードはなかったわけですね。『わたしだけ?』から時間が空きましたね。

灰野:自分ではいつまで休むはめになって、いつからやれているかというのは判らない。で、言われてみると、あ、そうなんだっていう。普通アーティストって1枚作ったらどんどん作ろうとか、次のアルバムとか考えるじゃない?でも自分にとってはライヴが最優先だから、ライヴをやっててそういうものを作る時間がないのと、なんかねえ、今でもそうだけど、スタジオの中に入って録音するというのは、自分の中では二次的なことだから。もしレコーディングしたいんなら、不失者を1年追っかけまわして、スタジオに録音機材を全部持ってきて、それを録音して勝手に出せ、としか言いようがない。それはある意味では、これから言うことはすごく適切だと思うけど、誰も聴いていない、その時終った新曲が100曲ある から。それをもし、みんなが、というかレコード会社が張り付いていたなら、レコードが10枚出てるよね。自分でも「わあ、録っときたかった」という演奏もいっぱいある。うん。ただやっぱりメンバーだけのものだし、そのスタジオだけのもの。

TG:ライヴではなくスタジオのリハーサル(練習)での演奏ですね。

灰野:うん。もうあの曲作れない、みたいな。あの時なんであんな風に指が動いたんだろうとか。あるよ、いーっぱいあるよ、100曲以上あるよ。

TG:つまりスタジオでは練習とは言っても、練習したものをライヴでなぞってやることではない、ということですね。

灰野:そこがほんとに俺はみんなと違うよね。

剛田武

剛田 武 Takeshi Goda 1962年千葉県船橋市生まれ。東京大学文学部卒。サラリーマンの傍ら「地下ブロガー」として活動する。著書『地下音楽への招待』(ロフトブックス)。ブログ「A Challenge To Fate」、DJイベント「盤魔殿」主宰、即興アンビエントユニット「MOGRE MOGRU」&フリージャズバンド「Cannonball Explosion Ensemble」メンバー。

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