#30 佐藤允彦 ~富樫雅彦作品を語る~

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日時:2005年11月2日
インタビュー&写真:横井一江

稀代の音楽家、富樫雅彦が健康上の理由からその演奏活動を辞めて早二年。打楽器奏者として傑出したその才能や音楽活動については、多く語られてきた。だが、彼の作曲家としての側面にスポットが当たることは、2003年から佐藤允彦が『Masahiko Plays Masahiko』のシリーズを出すまでなかったように思う。奇しくも今年2005年のメールスジャズ祭に出演したのは、佐藤允彦&SAIFAによる富樫作品を演奏するプロジェクトだった。これは、今年で音楽監督を降りたブーカルト・ヘネンのたっての要望によるもので、演奏家富樫雅彦を招待することは叶わなかったが、作曲家としての彼はいるということで、富樫の60年代からの友人であり、度々メールスジャズ祭にも出演している佐藤允彦にテンテットでの出演依頼となったのだ。富樫の作品について、本人以外に作曲の意図を酌んで語ることが出来るのは佐藤允彦しかいない。もうじき(2005年12月10日)に、『ライブ・アット・メールス~トリビュート・トゥ・富樫雅彦』(Baj Records BJCD0026)がリリースされる。この機会に、あえて富樫作品について、佐藤允彦に話を聞くことにした。

註:富樫雅彦は2007年8月22日に亡くなった。


横井一江 (KY) : 富樫雅彦さんの作品、特にメロディ・ラインを聞いていると個人的な感想ですが、天才肌の音楽家が持っているような直感的なものを感じます。彼の作品を特徴づけるものについてまずお伺いしたいのですが。

佐藤允彦 (MS) : 確かにメロディ・ラインは割とそうなんだけど、決めになっているようなコードとかには意外とこだわっているんだよね。例えば、1974年作の≪Spiritual Nature≫、ここにある譜面を見ればわかりやすいかな。これは完全にペンタトニックのメロディなんだけど、間間に入ってくるコードは、ジャズのサウンドにこだわっている。どこかで、そういうものにこだわろうという意識がある。これは1971年作の≪Haze≫。冒頭部で“たららら~~~、ガーン”となっている。これはセブンスなんだ。この時期は、そういうことにこだわっていたというか、きっとそうじゃなきゃいけないというのがあったみたいだね。

≪Action≫(1996年作)のように、コードじゃなくって、ガーン、ガーンというぶつかった音がほしいという場合もある。それから、ここに≪Deformation≫の譜面があるけど、“たらら~~~~”とあるよね。これは4度と2度、ソ・ド・レの積み重ねがパラレル、平行に動いている。不協和な響きがほしいときは短2度や増4度の和音を配置してある。たとえば≪The Arch≫の音の並びも半音ぶつかったものが4度ずれている。フリーっぽい曲で、インプロに入る時にこのほうが既製のコードより入りやすいというのがあるのかな。

二面性があるんだよね。これ≪Little eyes≫なんかも、中はフリーなんだけど、ゆったりしたいわけ。メロディはトーナル、A♭のコード。インプロになった時に落差が大きくないといけないの。≪Waltz Step≫もそうだね。なんかをきっかけにフリーに入った時、その落差がないといけない。彼は「ここから“どしゃめしゃのフリー”」って言い方をする。でも、それまではキレイにキチンと演奏している。だから、ものすごくキレイな部分とキツイ状態が並列的に置かれている。ある種、音楽的なコラージュともいえるかな。全然関係ない状態が同時にある。同じ絵の中で、写実的なものがここにあるとして、横にはそれと無関係なものが張り合わせてあるみたいな。

ドン・チェリーもそうだった。日本に来た頃は、よくインド音階を使っていたんだよね。彼はそれを唄って、そのとおりやれと言ったんだ。そのような経験が、富樫さんの中にどういう影を残しているのかはわからないけど。「マックス・ローチを追いかけてもマックス・ローチには追いつけない。だから、オレはそうじゃない道を行くんだ」と、彼は60年代から言っていた。それがずーっと何十年かに渡って繋がっているともいえる。

彼の描く絵もそういうところがあるかな。ものすごくアブストラクトな絵も描くし、写実的なのも描く。最近は風景しか描かないけどね。だから、そういうところに彼の二面性を解く鍵があるのかもしれない。

KY : 以前、佐藤さんに富樫作品のアレンジについて質問させていただいた時に、シンプルなメロディを同種の管楽器3本のユニゾンの微妙なズレで表現することを、“にじみ”という言葉でおっしゃっていましたよね。

MS : “にじみ”ってのはボクが言い出したんだ。いいでしょ、結構当たっていると思う。≪Spiritual Nature≫の頃から、富樫さんは「全部合わせて吹くな、自分のタイミングで吹けよ」ということを言うようになった。あの時はそういうのが流行っていたというか。オーネット・コールマンとドン・チェリーが一緒に吹いても“にじむ”よね。

KY : “にじみ”という手法に、和楽器の奏法、たとえば尺八のむら息がもたらすサウンド効果に近いものを感じるのですが。

MS : うん。尺八の古曲とか、そういうのあるよね。2本の尺八で演奏するのとか。尺八の美しさは、それでものすごい空間が生まれるということ。富樫さんは、多分ああいうのを目指していたとかなとも思う。彼の楽器、つまりパーカッションの音のイメージににも、ざらっていうのがあるじゃない。
反面、彼は和声学とか勉強している。富樫さんは、ブーレーズの打楽器の曲≪ル・マルトー・サン・メートル(Le marteau sans maitre)≫もやってるの。そういうこともやりたがっていたんだ。60年代、65年頃は、そういうセリーとか図形楽譜的なものにも興味があったんだよね。だけど、彼の作品では図形譜はひとつもない。≪Little Eyes≫にように小節線のないもの、自由に吹きましょうみたいなものはあるけど。

KY : その一方、富樫さんの書くメロディはとてもロマンチックというか美しいですよね。

MS : 富樫さんのところに行くと、いつもムード・ミュージックがかかっている。といってもミッシェル・ルグランがジャズ演っているようなの。≪テンダリー≫だったかな。テンポが4倍ぐらいになっちゃうやつ。でも、おしゃれというか。そういう質の高さみたいものが好きなんだよね。

彼はね、ものすごいロマンチスト。僕がなぜ『Masahiko Plays Masahiko』シリーズを始めたかというと、富樫さんのそういうメロディを残しておきたかったんだ。富樫さんのグループでは、そういう曲はあんまりやらない。J.J.スピリッツはストレート・アヘッドのビバップのジャズ。トライアルなんかは、どフリーだったし。

こういうふつうの唄モノみたいな曲書く時に、彼はすごくフォームにこだわる。どうしてもAABAにしたいとか、8小節で一区切りにしたいとか。サビがなくても16小節を繰り返して、ABAB’ 、ABA’というものあるって言っても、「オレはサビがなくちゃあいやだ」とか「これが一番括弧だろ、これから2番括弧にこういうふうにいって大丈夫?」なんて言うんだ。ブルースって、12小節だよね。ところが、ある時ブルースを書いたら11小節の半端なのが出来ちゃった。「いいかな、これで」というから、「面白いんじゃないの」って言った。それは、≪Fake Blues≫というタイトルの曲になったんだけど、J.J.スピリッツで演奏する時、峰厚介とか井野信義に、「ちょっと勘弁してよー。これ12小節でやらせてもらえない」と言われて、メロディは11小節だけど蓋開けたら普通になっちゃたんだ。でも、ソロで演奏した時は11小節でやった。ずーっと聞いていて、アレッというのが面白いでしょ。だけど、そういうことを彼はすごく気にしている。ブルースは12小節というようなことをね。最近も、「どうしてもサビが書けないんだけどー」とか言ったりする。「サビなんてなくていいんだよ」と言っても、「でもさー」ってこだわるんだよね。昔ビバップやっていた、そういうノスタルジーがあるがあるのかもしれない。説得してもダメなんだ。フォームに対して、すごくこだわりがあるね。

KY : 富樫さんの曲では、先程おっしゃったようにメロディからフリーに突入する。それとアレンジの兼ね合いはどうなのでしょう。

MS : 僕が困ったのは、例えば≪May Breeze≫のようなすごいキレイな曲から、“どしゃめしゃなフリー”って言われても、僕は“どしゃめしゃなフリー”になれないんだな。それこそ彼にとってのフォームじゃないけど、僕がコンサバなのかなとも思うんだけど、発想の源みたいなものにこだわるところがある。≪May Breeze≫は調性があるトーナルな曲だから、そこから出発したいと思うのかな。どっかにその断片を全然違うキーで入れたい。コンポーザーズ・マインドというか、自分のインプロに理屈をつけたくなっちゃう。“どしゃめしゃフリー”と言うけれど、何をもって“どしゃめしゃフリー”というか。元の発想を切る、つまり連続性を断ち切るというということなのか。となると、その“どしゃめしゃフリー”はどこからきているのかと考えるわけ。そこがダメなんだな。富樫さんが演奏していて、“どしゃめしゃフリー”になる。それの“どしゃめしゃフリー”は富樫さんの存在そのものから出てくるものだよね。だとすると、キレイなメロディを置く意味はどこにあるのかって。あるフレーズがあって、次に全然違うフレーズを弾く、その関係性とか乖離性を理屈づけたいというのがアレンジャーの本性なのだろうね。だから、≪May Breeze≫はGで入るんだけど、ソロの時、一回全然違うキーで演奏して、次はまた違うキーで、さらにキーを変えたのが次々重なって、フリーへいく。そんなアレンジになった。でも、富樫さんはもしかするとそれは嫌なんじゃないかなとも思うんだ。

“どしゃめしゃフリー”を際だたせるのは、“どしゃめしゃフリー”じゃないんだよね。フリーに対して、一見混沌としているように見えるけど、実は組織化されている、とような要素をさりげなくポッと併置すると元のフリーが浮かび上がって聞こえる。合理的ないいかたをすればだけど。例えば、新宿駅の人の流れ、ぐちゃぐちゃで、ひとりひとり違う方向へ動いている。それをある瞬間断ち切り、軍隊の行進みたいなものになる、そして、また急にぐちゃぐちゃな状態に戻す。混乱している無政府状態が、ある瞬間、あるきっかけで変えるということを自由自在にやる。これはコンポーザーにとっては簡単、そんな難しいことじゃない。一番難しいのは、コンダクトしないで、その状態に持っていくことなんだ。誰も指揮していないのに、ひとりひとりの演奏者の判断でそういう状態が現出する。それができるためにはインプロの本質をかなり深く理解している人が集まるかどうかにかかっている。変な人が一人でもいるとそれだけでぐじゃぐじゃ。

KY : メールスでは10人編成でしたが、特にアレンジに気を配ったということはありましたか。

MS : 東京フォーラムで以前に行った富樫さんの還暦コンサート「ネクスト・サイクル」のためのアレンジがあったので、その延長線上。あの時は、「これはどうする、これはどうしたい」とかなり綿密に打ち合わせしたから。“にじみ”とかもアレンジで反映させたよね。練習した時に、もっとずれて吹いてくれとか。それを厳密にクラシックの譜面のように同じキーで16分音符をずらして書いちゃうと大変なことになってしまうじゃない。ニュアンスもなくなくなってしまう。だから、やさしい音型でかいて、お互いにズレてねって指示を与える。富樫さんをよく知っている人達が集まったから、上手くいった。

メールスに出演したメンバーで、富樫さんと共演経験なかったのは、岡部洋一、安藤正則、山口真文かな。でも、心配はなかったね。何年も一緒に演っている峰厚介とかいるわけだし。もし、メンバーが全員アメリカ人とかヨーロッパ人だったらかなり神経使ったと思う。安藤正則も岡部洋一もボクは一緒に演っているし。安藤君は、行くまでに時間があったので、富樫さんの音をものすごく聴いて、勉強してきたんだ。岡部君はすごくいいねぇ。才能ある。もっと世界に出ていっていい人だと思う。とにかく、今回はそういうのに凄く助けられたよ。

KY : 富樫さんにはサウンドに対するスゴイこだわりがあるように思うのですが。

MS : そう。ひとつひとつの楽器のチューニングで音楽が変わってしまう。タムタムが何個かあるじゃない。それをどういうチューニングにするか、毎回違うんだ。それを叩いたことで発想が変わる。タムタムの音程をいつも一定にチューニングすることは寧ろ簡単だよね。しかし富樫さんは、たとえばスネアをどういう音にするかによって、タムタムの音程を変える。そうすると他のシンバルとかベルとか、すべての楽器の配置まで変わってくる。今日はこういう感じ、みたいに。自分の中で常に一定のパーフェクトなピッチがあるというのではない。毎回変わる。それ自体がインプロなんだよね。

彼の場合、チューニングを1時間から1時間半かけてやるんだけど、それでその日の音楽に対する精神状態が決まってくる。発想の原点というか、それが決まるんだ。彼は信じられない耳の持ち主でね、我々の聴ける周波数の上まで聞けちゃうの。例えば、ここでスネアと叩くとする。ここと1メートル離れたところで聞くスネアとは全然違う音だよね。でも、確かにそうなんだけど、ぼくらにはわからない。でも、それが彼にとっては、コンサート・ピアノとアップライト・ピアノの違いくらいに聞こえるんだよ。

自分の中にある音の色合いがあって、それと合致しないと嫌だ、というのがあるね。ドラマーだった頃からそうだったな。昔、六本木のナイトクラブで仕事をしていた時に、最後に≪グッド・ナイト・スイート・ハート≫をやるのがしきたりだった。ところが、ベース・ドラムの音が気にいらないって、彼だけ演奏を中断してベース・ドラムのところで締めなおしたりしてるわけ。その日はそれで終わりなのに。とにかく、自分の思っている音じゃないと嫌なんだ。

KY : ヨーロッパのミュージシャンがある特定の作曲家が書いた作品と対峙する時、クラシックの伝統なのか、作曲家そして作品に対して敬意を払いつつも、作品をアナライズして、その上でいかに自己表現するかということを追求しているように感じます。佐藤さんが富樫さんの作品と向き合う場合は、どうなのでしょうか。

MS : 富樫さんはこう考えているのかなといういことをぼくなりに表すということ。(ヨーロッパのミュージシャンのような)そこまでの自立した意見はない。ボクはコンポーザーとプレイヤーの間を取り持つ人。富樫さんの音楽を通して、峰さんを盛り上げてバーンとして出すにはどうしたらいいかとか。結構大変なんだよ。富樫さんの考えていることをデフォルメしちゃいけないし、プレイヤーのキャラクターも出さないといけない。自分のオリジナルやるほうがどれだけ楽か・・・

富樫さんの音楽に関して、ボクはオープン。知りたいという人には何でも教えますよ。もちろん、彼の許可がいる場合もあるけどね。以前、韓国の打楽器奏者朴在千が≪2.5サイクル≫という曲を録音して、「韓国の5拍子の半分」だって勝手に解釈して、そうライナーに書いたの。本当は4拍子の曲なんだけどね。こういう自由な解釈もいいんじゃないかと思うんだ。

『Masahiko Plays Masahiko』の第1集と第2集は、第一次資料みたいなものとして録音したんだ。僕の感性からするともっと違うものになるけど、第一次資料としては自分のエゴを入れてはいけないと思った。少しでも主観が入ると第一次資料にならない。だって、資料なんだもの。正倉院御物みたいなものでしょ。でも、このあいだ(2005年7月28日)の新宿ピットインのライブでは、僕が入っているんですよ。僕が勝手に解釈している。この場合、僕の目を通した富樫さんになっちゃうわけ。それはそれで価値があるけど、それ以前にさまざまな事例があってこそなんだよ。

富樫さんの音楽は、書いたものとして確定している部分はすごく少ないんですよ。しかもそれだけじゃわからない。だから、こうなんだよみたいな原型を残したかった。これから先はどうぞご自由に、ということで。これは富樫さんに信頼されていないと出来ない。その意味では、ひとつの仕事ができたと思っている。今度は僕の解釈で演奏したいね。≪Song for Domingo≫という曲があるでしょ。富樫さんのイメージはインテンポなんだけど、メールスでは酔っぱらったみたいにやっている。でも、富樫さんは「えへへ・・・」とそれを聞いてすごく喜んでいたんだ。

演奏家として、作編曲家として多彩な活動をしている佐藤允彦に、今回はあえて富樫作品に絞ったインタビューをするというワガママを許して下さったことに深く感謝する。佐藤は、戦後のジャズ史の変遷に関わってきた日本を代表する音楽家であり、様々な局面を知るウィットネスでもある。彼自身の音楽活動や音楽観について、また何かの機会に話を伺えたら大変に嬉しい。

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横井一江

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。The Jazz Journalist Association会員。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。海外レポート、ヨーロッパの重鎮達の多くをはじめ、若手までインタビューを数多く手がける。 フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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