#149 ルディ・ヴァン・ゲルダー 〜インパルス・イヤー、クリード・テイラーを語る〜

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2011年9月20日 RVGスタジオにて(レコード・コレクターズ誌2011年11月号より転載)
Photo & Text by Takehiko Tokiwa  常盤武彦

インパルスを始め数々の名門ジャズ・レーベルを手がけた伝説のレコーディング・エンジニアの“神殿”を訪ねる。

 ルディ・ヴァン・ゲルダーは、1924年生まれで現在86歳。今も現役で、マンハッタンから車で30分ほどの、ニュージャージー州イングルウッド・クリフスの自宅スタジオで、録音、多くのリマスター作業を手がけている、モダン・ジャズ史を影から支える伝説のレコーディング・エンジニアである。1952年頃に現在地から、北西に数マイル離れたハッケンサックにある、両親の自宅のリヴィング・ルームで、検眼技師の仕事の傍らで、プレステッジ、サヴォイらインディペンデント・レーベルの録音を始める。もともとメカ・マニアで凝り性のヴァン・ゲルダーは、録音機材を独自にカスタマイズし、オリジナルのサウンド・デザインを構築する。1954年のアルフレッド・ライオンとの出逢いから、ブルーノート・レコードの録音を手がけ、その名声が確立された。モダン・ジャズの隆盛と軌を同じくして、ヴァン・ゲルダーは、マイルス・デイヴィス (tp)、セロニアス・モンク (p)、ソニー・ロリンズ (ts) らの傑作群に、レコーディング・エンジニアとして名を連ねることとなる。現在も聴かれている、モダン・ジャズのレコーディング・サウンドのレファレンスは、ヴァン・ゲルダーが築いたと言っても過言ではない。1959年、ヴァン・ゲルダーは、レコーディング・エンジニアに専念することを決意。そしてビッグ・バンドやオーケストラのレコーディングも可能な、大規模なスタジオを建設する。新たなルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオが、1959年末に完成した。現在に至るまで、一人のエンジニアが、設計に関与し、大規模なスタジオを個人で所有し、同業者を一切受け入れないという、パーソナル・スタジオとしては希有なケースである。

 1950年代から、ヴァン・ゲルダーと仕事をともにし、ヴァン・ゲルダーの創りだすジャズ・サウンドに惚れ込んでいたプロデューサーに、クリード・テイラーがいる。クリード・テイラーは1960年にメジャーのABCパラマウントが新たに設立したジャズ・レーベル、インパルスのプロデューサーに就任した。テイラーのレコーディング・エンジニアのファースト・チョイスは、もちろんルディ・ヴァン・ゲルダー。1961年から1967年までヴァン・ゲルダー・スタジオでは、多くのインパルスのレコーディングが行われた。ジョン・コルトレーン (ts,ss) がジャズを変革し、茨の道を突き進んだ道程も、このスタジオを舞台に記録されている。評論家のアシュリー・カーンが、2006年インパルス・レコード創立45周年を記念してものした著書、”The House that Trane Built~The Story of Impulse Records”でも、ルディ・ヴァン・ゲルダーが果たした重要な役割が、克明に記されている。


Q: あなたがインパルス・レコードの録音を手がけることになったのは、クリード・テイラーが、あなたを起用したからですよね。あなたとクリード・テイラーは、1955年のベツレヘム・レコードでのクリス・コナー (vo) の『バードランドの子守唄』で初めて一緒に仕事をなさったとありますが。

RVG: 彼とは、そのアルバム以前に会ったことがあると思う。クリードが、インパルス!とレーベルを命名し、コンセプトも築き上げたんだ。そしていよいよレコーディングが始まるとき、クリードと私は、このスタジオで、インパルスの仕事を始めたのだよ。

Q: あなたとクリード・テイラーは、テイラーがインパルスを去ったあとも、長いパートナー関係を誇っています。クリード・テイラーのプロデューサーシップの素晴らしさ、彼がどのようにミュージシャンと制作を進めていたかをお話し下さい。

RVG: 本当に長い間、一緒に仕事をしている。彼は実際のところ、音楽がどんな形であれ、形をなしていくままに任せ、コメントをする。そしてミュージシャン達と共に、どのような方向性にまとめ、どうサウンドを構築するかを、決定していた。彼は細かいことを言うことはなかったけれど、妥協することなく最高のサウンドを追求していた。一日がかりのセッションで録音したものを、満足がいかず、すべて没にして、最初からやり直すこともあった。それが、クリードのスタイルだ。彼とはとても仕事が進めやすかった。そしていつしか、少ない言葉を交わすだけで、クリードが何をしたいか、何を求めているかがわかるようになっんだ。

Q:あなたと、クリード・テイラーは、音楽に対する同じヴィジョンを共有していたと言うことですね。

RVG: その通り。音楽サイドだけでなく、レコーディングのテクニカル・サイドにもクリードは精通していて、彼は自分に必要なものを熟知していたのだよ。

Q: インパルス・レコードは、それぞれの時期にクリード・テイラー、ボブ・シール、エド・ミッシェルと言った3人のプロデューサーがいたにもかかわらず、強固なレーベル・カラーを持っています。その秘密とは。

RVG: クリードが離れたあと、ボブ・シールが担当した。ABCパラマウントの人事異動だね。私はエド・ミッシェルについては、よく知らない。ボブが、インパルスを離れたときに、私とインパルス・レコードの共同作業も終わった。インパルス・レコードのレーベル・カラー、それはすべてクリードが確立したものだ。サウンド面しかり、豪華なアルバム・カヴァーやデザイン。ボブも、エドもクリードのスタイルを最後まで踏襲した。(注:実際には、エド・ミッシェルと仕事を共にしている。)

Q: 1950年代から1960年代にかけて、コロンビア・レコードのようなメジャー・レーベルは、自社スタジオと社員のエンジニアを擁し独自のサウンドを創っていました。インディペンデント・レーベルは、自社スタジオを持つ余裕がなく、あなたに録音を依頼していました。ABCパラマウントの傘下のインパルスは、メジャーでありながらあなたに録音を依頼しました。1959年末にあなたはこのスタジオをオープンしましたね。あなたがラージ・アンサンブルも録音できる大きなスタジオを建てたことも、インパルスが、あなたに依頼した大きな理由の一つでしょうか。

RVG: そうだと思う。私はビッグバンドなどの大編成を録音したくて、このスタジオを建て、彼らもラージ・アンサンブルを録音したかった。そしてクリード。クリードの求める音楽のスタイル、創りたいもの、彼のヴィジョンにとって、私と、このスタジオが必要だったと思う。私にとっても、クリードは重要な存在だった。

Q: 1960年代初頭は、モノラル録音から、ステレオ録音の変遷期でした。たとえば、オリバー・ネルソン (as) の『ブルースの真実』は、ジャズ史上に残る録音の最高傑作と高い評価を受けてますが、このオリジナルLPはモノラルですが、録音は、モノラルだったのですか、ステレオだったのですか。

RVG: これは長い話になる。ステレオ録音を始めたのは、ハッケンサックのスタジオ時代の終わり頃だ。ステレオ録音が始まった頃、私は2トラックのレコーダーに移行しなければならなかった。そう、変遷期だ。しかし一晩にして、すべてが変わったわけではない。その頃のレコード会社は、モノラル盤と、ステレオ盤の2種類をリリースしていた。そして私も1トラックのモノ・テープから、2トラックのステレオ・テープに移行し、ステレオ・レコーダーを導入した。モノラル盤は、2つのトラックを1つにしただけだった。ステレオ盤は、2つのトラックでリリースされた。でも当時、モニター・スピーカーは一つだったし、ミュージシャンは誰もステレオ・サウンドを聴いたことがなかった。私自身も、2トラックで録音しながら、ステレオ・サウンドでは聴いたことがなかった。楽器間のバランスを如何にうまくとるかに専念していた。1959年末にこのスタジオに移ってからも、そのスタイルで録音していた。

Q: 当時のインパルスの諸作品のステレオLPのマスタリングも、あなたがなさっていますよね。たとえば1962年録音のジョン・コルトレーンの『バラッド』は、サックスが左、ドラムスが右、ピアノとベースがセンターという定位をしてますが、誰がこの音場感を創ったのでしょうか。

RVG: 私がやったと言う事になるだろうね。これはステレオ再生と言う事を意識しないで、私が2トラックで録音した結果だ。その当時も、モニター・スピーカーは一つで、単に2トラックのテープを2トラックとして録音した。ステレオの音場感で再生するという概念がなかったんだ。だから極端な、楽器配置になっている。当時のレコード業界は、スモール・グループの録音コンセプトをよく理解していなかった。彼らは、私やミュージシャンが意図的に、このように録音したと誤解し、それがスタンダードのようになり、ステレオと言われてしまった。それは私が意図したことではない。

Q: では、現在のスタイルのステレオ録音が完成したのは、いつ頃ですか。

RVG: おそらく70年代前半だ。クリードが、現在のスタイルのステレオ録音に興味を持っていたので、私も移行した。アルフレッド・ライオンや、前の世代のプロデューサーはステレオ録音に関心を持っていなかった。

Q: いくつかのアルバムについて、うかがいたいと思います。レイ・チャールス (vo,p,kb) の『Genius + Soul = Jazz』について、アシュリー・カーンの著書によると、レイ・チャールスは、あなたの録音による、ハモンドB-3オルガンのアタック音を、とても気に入っていたとあります。何か特殊な方法で録音したのですか。

RVG: 当時、私は多くのオルガンの録音を手がけていた。レイ・チャールスは、今ここにあるオルガンを、自分自身でセッティングし弾いてみると、彼のサウンドがした。私は何もしてないよ。私がしたのは、彼にオルガンを提供しただけ。まあこのスタジオのサウンドを、気に入ってもらえたのかな。それは嬉しいことだ。

Q: ジミー・スミス (org) ら、ほかのオルガン・プレイヤーの録音と、同じ方法だったのですか。

RVG: 当時の多くのオルガンプレイヤー達は、それぞれ独自のセッティングでサウンドを創り、それを秘密にしていた。セッションが終わると、すべてのセッティングを戻していたんだ。

Q: インパルスを代表するアーティスト、ジョン・コルトレーン (ts,ss) について伺わせてください。あなたは、コルトレーンが最も信頼を置くレコーディング・エンジニアだったと、カーンの著書でも書かれています。有名な、1961年録音のヴィレッジ・ヴァンガードのライヴ・セッションについてお聞かせください。

RVG: あれは悪夢としか言いようのない、レコーディングだった。ヴァンガードのステージの右手にあるバルコニー席の2つのテーブルに、レコーダーとコンソールをセッティングした。ヴァンガードのオーナーは、客席が減るので快く思っていなかったようだ。クラブは、タバコの煙が充満していたし、録音も一晩だけではなかったので、本当に大変な仕事だった。演奏中、動くトレーンをマイクを持って追いかけて録音した。チャーリー・パーカー (as) の「チェイシング・バード」という曲もあったから、「チェイシング・トレーン」というタイトルはどうかと提案して、採用されたのだよ。メジャー・カンパニーがやるような、録音トラックをチャーターして、クラブの外でレコーディングするやり方ではなく、私もクラブの中で、グループと一体となって録音したから大変だった。

Q: あなたはコルトレーンの音楽の変遷を10年以上に渡って、録音してきたわけですが、そのアヴァンギャルドに傾倒していく姿を、どのようにご覧になっていましたか。

RVG: その答えは、とてもシンプルだよ。彼のように演奏出来たアーティストは誰もいなかった。多くのアーティストが挑戦したが、誰もコルトレーンのようなサウンドを出せなかった。彼は、素晴らしかった。

Q: 最後の質問です。インパルス・レコードとは、あなたのキャリアの中で、どのような位置づけになるかを、お聞かせください。

RVG:インパルス・イヤーは、とても重要だ。それは、コルトレーンのレコーディングが出来たことに尽きる。コルトレーンと共にモダン・ジャズ史に輝く作品を創りあげることが出来たのは、大きな自信となり、とても感謝している。コルトレーンが私を選んでくれ、共に過ごした時間は何にも代えがたい。私のキャリアにおいて、比類のない経験だった。

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常盤武彦

常盤武彦

常盤武彦 Takehiko Tokiwa 1965年横浜市出身。慶應義塾大学を経て、1988年渡米。ニューヨーク大学ティッシュ・スクール・オブ・ジ・アート(芸術学部)フォトグラフィ専攻に留学。同校卒業後、ニューヨークを拠点に、音楽を中心とした、撮影、執筆活動を展開し、現在に至る。著書に、『ジャズでめぐるニューヨーク』(角川oneテーマ21、2006)、『ニューヨーク アウトドアコンサートの楽しみ』(産業編集センター、2010)がある。

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