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No. 225R.I.P. 内田修

追悼 ”Dr.Jazz” 内田修「お茶目で本当に可愛らしいお人柄」

内田先生が亡くなったという知らせは、名古屋の友人からのメールで知った。こんなに早くにお別れの時がくるとは思ってもいなかった。もう随分長くお会いしていなかったから、来年は暖かくなってから久しぶりにお会いできればなぁと思っていた。
初めてお会いしたのは、たしか1996年。ニューヨークから帰国して、新宿の中平さんのお店での演奏の時にいらしてくださった。有名なDr. 内田のことは、もちろん以前から存じ上げていたが、その気さくで暖かいお人柄には、初対面の時からもうずっと長いことお友達みたいな気分になった。
その数ヶ月後、ニューヨークに来られた内田先生から連絡があり、夫の田村夏樹と先生の定宿のホテルに会いに行き、晩にはニューヨークの居酒屋で先生を囲んでジャズのお仲間と盛り上がった。何日か後にリンカーンセンターでオーネット・コールマンのコンサートがあり、そこでも先生にお会いした。かつて、1960年代、70年代西海岸のクラブで演奏すると、ほとんどお客さんが来なかったというオーネット・コールマンのこの日のリンカーンセンターは大ホールがソールドアウトの上、スタンディング・オベーションの大盛会で、時代の流れをつくづくと感じた。どの時代にも日本のジャズを支えて来てくださった内田先生がその場にいらしたというのは、なんとも感慨深いものがあった。
ジャズはいつの時代も商業的な音楽にはなりにくく、ジャズ・ミュージシャンは、お金で物の価値を測ることには疎く、独自の美意識と価値観で生きていて、時として社会の中で行き詰まってしまうことがある。先生はそんな時、いつもミュージシャンを助けて来てくださったのだと思う。
帰国して日本に活動の場を移してからも、名古屋での公演には駆けつけてくださり、岡崎の美術博物館での先生のジャズ・シリーズや浜松ジャズ・フェスティバルにも呼んでいただき、楽屋では先生も共演者のように盛り上がったりと、思い出は尽きない。そんな中でも、忘れられないのは、私が定期検診で病気が見つかり、近所のお医者さんでも状況を特定できずに、本当に不安で辛い時に助けていただいたことだ。その時の先生は専門家のお医者さんの冷静さと的確な助言で、私の不安を取り除いてくださり、治療への道筋もつけてくださった。
名古屋でもあまり外出されなくなった先生と、久しぶりに電話でお話しした時、「もう私も夫もすっかり年取って、夫なんか60歳すぎました!おじいちゃんですよ」と私が話したら、「そんな風に言っちゃいけないよ」と諭された。先生はいつも話している私のこと同様、夫のことも気にかけてくださり、ふたりともたくさん助けていただいた。お礼ができたらとずっと考えていたが、何もお礼らしいお礼はできずに、思いつくのは新作のCDを送らせていただくことだけだった。近いうち、先生に会いに行こうという思いは実現できずに、先生は逝かれてしまった。お茶目で本当に可愛らしいお人柄の先生は、あの世でもきっと人気者になっていることと思う。
どうもありがとうございました。
そして、またきっとお世話になりますから、待っていてくださいね。(藤井郷子)

*写真は「加藤一平のブログ」より転載


藤井郷子(ふじい・さとこ)
ピアニスト/コンポーザー/バンドリーダー
東京とベルリンを拠点に、夫のトランペッター田村夏樹と二人三脚で世界を股にかけ活動を展開している。

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