Misha Mengelberg 追悼 ~コーヒーとパフェと味噌汁と

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text & photo by Takeo Suetomi 末冨健夫

3月3日(現地時間)ミシャさんが亡くなった。翌日知って体の力が抜けてしまった。脳みそが働かないが、追悼文を書かなきゃいけない。リキを入れるためにCD『逍遥遊』を3回繰り返してかけたら、益々落ち込んでしまった。すると、サブさんから電話が入った。普段と変わらない様子。どうやら知らないようなので、亡くなったことを伝えると、「えー!」だった。「ミシャさんが、デュオの相手になってくれて、おまけにCDを作らせてくれたなんて、これおいらの勲章だよ!」と言われた。サブさんは、このCD『逍遥遊』のことになると「これは、おいらの勲章だ。」を繰り返し口にされる。それは、私とて同じで、ちゃぷちゃぷレコードみたいな極く少数の人にしか知られていないような日本の小さな個人レーベルでのCDのリリースを許可していただけたのは光栄でしかない。ミシャ・メンゲルベルク論みたいなものは、他の人にまかせる。私以上の適材はたくさんおられるから。私は、防府でのミシャさんの様子やCD『逍遥遊』について書くことにします。

1994年10月5日、ライヴの前日にミシャさんとサブさんは防府に入られた。いつ頃どうやって防府に来られたのかさっぱり思い出せない。その日の記憶は、夜の寿司屋での食事から始まっていて、その前の記憶が飛んでしまっている。寿司を食べながら「こないだブロッツマンとデュオをやった。」とか、「NYの若いベースとドラムと録音してきた。」とか。(これは『Who’s Bridge』の事。w/Brad Jones, Joey Baron)「ICPは500枚プレスだ。売り切れたら再プレスしてる。」リリース枚数のケタは違うが、500枚プレスはちゃぷちゃぷレコードと同じではないか!ふむふむと話を聞いていたが、冷静に考えると、私、サブさんとミシャさんに挟まれた形で、寿司屋のカウンターに座って、寿司をぱくついているではないか!私にとって、ミシャ・メンゲルベルクと言えば、スタープレイヤーが数多くいるヨーロッパ・フリーの中でも5指に入るFavorite Musicianの一人。それが隣に座ってる。でも、その頃は、毎月色んなミュージシャンが色んな国から防府に訪れていたので、特別驚くとか緊張するとかはなかった。が、翌日のライヴとなると話は違う。「わあ、俺の店で、俺の目の前でミシャ・メンゲルベルクがピアノを弾いてる!」と、聴いていてなんだか気持ちが高ぶっている自分がいた。ミシャさんと言えばヘヴィー・スモーカー、チェーン・スモーカーのイメージがあるが、これはリハ中だろうが、演奏中だろうが一緒。ライヴ本番までのピアノの上には、すでに灰皿、コーヒー・カップ、DATレコーダー、なぜかペーパーバック?(演奏中に読むのか?まさかこれが楽譜になる?結局ただ置いてあるだけでしたが。)がセット完了。演奏中もタバコは咥えっぱなし。吸ってばかりもいないから、灰が伸びて行く。「わ、落ちる!」と思ったら、すっと灰皿に灰を落とされた。これが、公共のホールなら、館長あたりがブチ切れるところだが、これは自分の店のピアノだ。実は、灰が落ちるのを期待しているところもあったのでした。灰で焦げ目がついた鍵盤を指して「これ、ミシャさんの仕業。」と言おうと思っていたのだが、ピアノはきれいなままでした。演奏途中コーヒーを飲みたいものだから?サブさんに向って「おい、ソロだ。」なんて指図している様は笑えたなあ。ちょっと休憩して、まさにここというタイミングでまた入って行く様がカッコ良かった。演奏自体について、解説を加えるつもりはない。CD『逍遥遊』を聴かれれば分かることだ。(まだお持ちでない方はお早めに。)このCDを高橋悠治さんに送ったところ、「音楽が、まさにそこで生まれて来る様が感じられる素晴らしい演奏。」とメールが届いた。もう、これだけで売れようが売れまいが「これでいいのだ!」って気持ちになってしまった。よくないことだが...。

実は、このCD、ライヴ後あまり経っていない時期に「CD化したい。」と、サブさんとミシャさんに許可を願い出たのだった。サブさんはともかくミシャさんのOKがあっさり出たので驚くやら嬉しいやらだった。すぐに、サブさんは曲名を考えて送って来られた。だが、常に金欠病に悩む我が家のこと、言ってはみたものの、ズルズルと時が経ち、なんとそれから19年も後になってCDをリリースすることが出来たのだから、我ながら呆れてしまう。ミシャさん、サブさんにすれば、「忘れた頃になって出た。」って感じなんだろうが、ミシャさんの方は、すでに体調が思わしくなかった頃で、ミシャさんの御夫人とは連絡を取り合っていたが、ミシャさん本人とは無理な感じだった。果たして、このCDの出来上がった姿を見てもらえたのか、聴いてもらえたのかが不明のまま、あの世に旅立たれてしまった。コーヒー・カップを片手に持ち、コーヒーを飲みながら、指先一本で、ポンポンと子供が弾いているような感じでピアノの鍵盤を叩いて、それが様になる音楽家なんて、後にも先にもミシャさんだけだろう。背筋が寒くなるようなと言う表現が似合わない雰囲気の人なんだが、実際の演奏は、そんな瞬間があちこちに現れたのだった。そんなミシャさんと、丁々発止やりあうサブさんにも大きな拍手を差し上げたい。ミシャと言えばハンと言う条件反射のようなコンビがヨーロッパに君臨していたが、そんなミシャさんのデュオの相手をサブさんは、日本ツアーという形で何度も務め上げ、我々のような地方の聴衆に、こんな素晴らしい演奏を届けて下さったことは感謝以外他に言葉はない。おまけに、ちゃぷちゃぷレコードのような弱小レーベルからのリリース許可をいただき本当に感謝しています。

ライヴが終わり、打ち上げが終わり、さあホテルにとなった時、サブさんが「白いマジックない?ミシャさんにピアノにサインをしてもらいなさい。」と機転を利かされ、ミシャさんは大きくMishaとサインを入れられた。その後、アレキサンダー・フォン・シュリッペンバッハさんと高瀬アキさんも同じようにサインを書かれている。今ではそのピアノは、家の向かいの島(向島・むこうしま)の保育園に引き取られて行きました。誰も、このサインの価値も分からずに弾かれていることと思います。

さて、最後に、とっておきの話(かも?)を。ライヴの翌日の午前中、ミシャさん、サブさんと3人でファミレスに入って、お茶でもということになった。私とサブさんは、コーヒーを注文。するとミシャさんは、コーヒー、パフェ、そしてなんと味噌汁を同時に注文されたのだ。注文を取りに来ていたウェイトレスさんの一瞬「え!?」といった表情を未だに忘れていない。そして、それらを同時に頂いているミシャさんの姿を見て、サブさんと私は、「これこそフリーなんだよ!これぞDADAなんだよ!」とかワケの分からぬことを話していたのでした。さぞかし、あの世でも周りを驚かし、笑わせていることでしょう。私の人生の中でも最も貴重な時間を一緒に過ごさせて頂いたことに深く感謝いたします。合掌。


末冨健夫
1959年生まれ。山口県防府市在住。1989年、市内で喫茶店「カフェ・アモレス」をオープン。翌年から店内及び市内外のホール等で、内外のインプロヴァイザーを中心にライヴを企画。94年ちゃぷちゃぷレコードを立ち上げ、現在までに第1弾CD『姜泰煥』を含む7作を制作。95年に閉店し、以前の仕事(貨物船の船長)に戻る。2013年に廃業。現在「ちゃぷちゃぷミュージック」でライヴの企画、子供の合唱団の運営等を、「ちゃぷちゃぷレコード」でCD/LP等の制作をしている。『Free Music 1960~80』(On Demand)、『Free Music 1960~80 (ディスクガイド編)』(On Demand)を編著・出版。

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