哀悼 セシル・テイラーとの思い出

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text by Masahiko Yuh 悠雅彦

 

セシル・テイラーがついに亡くなった。「ついに」というのは、寝たきり状態だとの噂が耳に入っていたからだ。もっとも真偽のほどは分からないが、2013年に京都賞を受賞して来日した晴れの授賞式(11月10日)直前の舞台裏で、身体の具合が思わしくないと弱々しい声音で呟くように口を開いた彼の寂しげな表情が、私の頭の片隅で滞っていたからである。

訃報を聞いて、真先に脳裏によみがえったのは彼と初めて会った1973年5月19日、セシルがジミー・ライオンズ、アンドリュー・シリルと連れ立って空港(羽田)のロビーに姿を現したときの光景だ。あのセシル・テイラーが本当に日本へやってきたことをこの目で確かめた瞬間の強烈な衝撃と深い感慨は、そう簡単に瞼の奥から消えるわけがない。

とはいえ、1973年といえば、半世紀に手が届きそうな、ちょうど45年も前のこと。すべてのことは遠い記憶の底に沈んでしまった。すべてのことが、当時あれほど新鮮な出来事だったセシル・テイラーにまつわるすべてが記憶の底に沈んだまま浮かんでこない。実際、不思議なくらい思い出せない。しかも私はこのトリオの全公演(名古屋、京都、東京2回、大阪、新潟)の司会をしてまわったというのに、だ。そのうえ列車に乗れば、セシルの隣りは必ず私で、ライオンズとシリルが隣り合って座った。しかし、セシルは滅多に話しかけては来ないばかりか、車中では決まってアフリカに関する書物、たとえば『African Oligins of the Major Western Religions』(ヨセフ・バン・ヨハナン著)などを熱心に読みふけっていた。そんなセシルが現地について楽屋入りすると決まってタイツに着替え、控え室でいわばバレー体操とでもいうべきバレーの練習を欠かさなかったのには感心させられた。

セシル・テイラーを日本に招聘する英断を下したのは当時の ”あいミュージック” の総帥、鯉沼利成氏だった。彼がいなかったらセシル・テイラーを日本に呼ぶ決断を下すような男がほかにいたかどうか。私は大学(早稲田)の先輩で、当時東京パンチョスというラテン系ビッグバンドを率いていたチャーリー石黒のもとで歌の実体験をさせてもらっていたが、ほとんど同じころ原信夫とシャープス&フラッツのもとでバンドボーイをしていた彼のことはよく知っていた。その後彼は独立して音楽業界を闊歩するようになり、やがてあいミュ=ジックを設立してプロモーターとしての地保を確立するにいたる。その鯉沼氏を説得してセシルのレコーディングを支持し、そのレコードの本邦発売の権利を買い取ったのが当時のトリオ・レコード社で、その洋楽トップとして指揮を執っていた現JAZZTOKYO編集長の稲岡邦彌氏だった。『アキサキラ』は今や伝説的なアヴァンギャルド・ジャズ・トリオ、セシル・テイラー・ユニットの貴重な記録(今はない東京厚生年金ホールでのライヴ演奏)だ。セシルは滞日中ソロの吹込もおこなったが、その録音プロデューサーが名手・菅野沖彦氏だった。鯉沼利成氏はすでに世を去ってこの世にいない。菅野沖彦氏も第一線を退いて表立った活動はしていない。当時のセシルを知る人々がいなくなるのは実に悲しくも寂しい。

その鯉沼氏が、一行が来日する直前までセシル・テイラーとの連絡が困難を極め、彼は本当に日本へ来る気があるのか、もしかしたらドタキャン(土壇場でキャンセル)するのではないかとの懸念を抱きつつ、それでも最悪のケースも想定しながらもニュー・ジャズ屈指のヒーローを日本のファンに提供する使命を自覚していた。鯉沼氏の代理を担った人がなかなか当のセシルに会えないとか、やっと会えたと思ったらセシルから色よい返事が得られないとか、耳に入ってくる知らせは思わしくないものばかりだった。それが突然、一行がユーゴスラビアの名高いザグレブ音楽祭に出演した直後に、ヨーロッパから日本へ飛んでくると判ったときの関係者、とりわけ来る日も来る日も毎日何十回となく先方との電話連絡に明け暮れていた鯉沼氏の、いっさいの煩悶と緊張から解放された瞬間の笑顔が半世紀近い歳月を経た今でも私には忘れられない。そんなセシルが帰国する直前、出来たらもう一度日本へ来たいし、住んでもみたいと語ったのは、決して外交辞令的な発言ではなく、半ば本心だったのではないかと私は思っている。

それから34年経った2007年2月、セシルは山下洋輔の招きで来日し、新宿のオペラシティで山下にとっては念願のデュオ・コンサートを開いた。確かに、2000年代に入ってフリー・ジャズはセシルやオーネット・コールマンらが先頭に立って切り開いた自由で強力な表現手法から集中力を失いつつある。しかし、そんな中にあってもセシルやオーネットらの創造的営為を通して表現の革新性がもたらしたフリー・ジャズ思想の実りは依然、現代の音楽文化のホットコーナーとしての光を保ち続けており、その歴史的重要性が失われることはない。それゆえ、5年前(2013年)に京都賞の思想・芸術部門の選考委員会で音楽文化としてのジャズの発展と進化に尽くしたアーティストを選ぶことが決まったとき、私は最初オーネット・コールマンを推したいと思っていた。ところが色々調べてみると、コールマンはすでにわが国で高松宮殿下記念世界文化賞(2001年)を受賞していることが分かった。そのうえ、ピューリッツァ賞やグラミー賞(特別功労賞)まで贈られていることを知って、コールマンを推すことを断念した。セシル・テイラーはコールマンとともにフリー・ジャズの発展を切り開いた偉大なミュージシャンであり、オーネット・コールマンを諦めた時点でセシル・テイラーを推挙することについて私には何らの迷いもなかった。かくしてセシル・テイラーの京都賞(賞金5000万円/2018年度からは1億円に増額された)の受賞が決定したのであった。

ところが、テイラーはこの頃から身体の不調に見舞われつつあった。これについては冒頭でも少し触れた。テイラーはこの身体の不調にまんまとつけ込まれたらしい。授賞式と晩餐会は贈答式から約5ヶ月後の11月10日の午後1時に京都市内の国際会館と京都プリンス・ホテルのホールでおこなわれた。報道によると、足腰の弱ったセシルの手助けをするために付き添って来日したノエル・ミュアーという隣家の54歳の男が、京都賞の財団を騙して自分の銀行口座に賞金全額を振り込ませたという。セシルが住むニューヨーク州の検察局はこの男を重窃盗罪で起訴したというが、その後の経過が気になっている最中でセシル・テイラーの死が伝えられてしまった。身体の自由が利かなくなってしまったセシルの悲嘆が目に見えるような気がして、この知らせを伝え聞いたとき、73年以来ニューヨークでも何度か会って話を交わした私は思わず涙した。

去る4月14日、毎週聴いているピーター・バラカンのディスクジョッキー番組(NHK・FM毎週土曜日、7・30~9・00)を聴くともなしに聴いていたら、番組の最後で、長い演奏なのでとの断りを入れて、彼が何とセシル・テイラーがベースのブエル・ナイドリンガーと共演したライヴ演奏を番組終了までかけたのだ。そのときピーターはこう言ったのである。「こんな風ににたまにはフリー・ジャズもかけます。でも、レコードも悪くないんですが、フリー・ジャズはライヴを聴くのに限ります」、と。彼の名誉のために言うが、全演奏をかけられない言い訳としていったのではない。フリー・ジャズはまさしくライヴで聴くに限るのだ。そんなわけで、私の一生の不覚はアルバート・アイラーのナマを聴けなかったことだ。コルトレーンが日本で演奏した66年のライヴのフリー演奏といい、セシルやコールマンのフリーな演奏をナマで聴けたことといい、ドン・プーレンにいたってはプロデュースし、録音(ホワイノット)まですることができた幸運に感謝しながらも、アイラー兄弟のフリー・ライヴを聴く機会をついに失った不運を嘆きつづけるだろう。
セシルよ、ありがとう。せめて来世では幸せに包まれるように、と祈る。
最後に、長々と書き綴ってしまったことをお詫びしたい(4月15日、19:00)

 

 

  
L:Cecil & Yuh 1992/Courtesy of Music Bird
R:『Cecil Taylor Unit-Live in Japan/Akisakila』 (TRIO)/『Cecil Taylor/Solo』(TRIO)

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悠雅彦

悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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