セシル・テイラー追悼

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text by Shuhei Hosokawa  細川周平

セシル・テイラー89歳にて逝く。この文字をインターネットの画面で読んで「ついに」の感にまず襲われた。巨匠の訃報はいつものことだが、彼の存在はぼくには特別だった。1973年5月の初来日公演は文字通り「一生もの」だった。何を見たのか、何であったのか文章にするのは難しいが、自分のなかで何かが起きたと今でも確信している。それに行くか行かないかで、音楽人生は違っていたかもしれないとさえ思う。第二部ではあまりピアノに向かわず声を上げ踊っていた。ピアノを聴きたいのにとその晩にはやや残念がったが、今でも「何か」が喚起されるのはその「バレエ・インプロヴィゼーション」と彼が呼ぶ場面の記憶だ。ジャズはただの音楽ではなく、ダンスも声も詩も交差する綜合表現だというような彼の発言を、ずっと後になって知った。

久しぶりにそのときのライブ・アルバム『アキサキラ』をかけてみる。解剖具で水銀のタンクを開いているような佐藤弘のカバー写真は、彼を歓迎した日本側のアート志向をよく伝えている。今では短いユニットの瞬時の建築と破壊的変奏というような批評家の知恵を授かっているが、その晩は共演のジミー・ライオンズとアンドリュー・シリルと3人の間で何が起きているのか、次の瞬間に何を期待してよいのか思い描けず、ただ眩暈を感じた。それでも不快にはならず音の渦に呑み込まれるのを快とした。第二部では音よりも大きなその場その瞬間の変幻に唖然とした。

アルバム解説として書かれた悠雅彦のツアー同行記が伝えるトリオ、とりわけセシル自身の信じがたい姿は何十年後に知る姿と変わりない。自分たちのパフォーマンスに完全な信頼を置き、即興性とアフリカ性の抽象的なレベルの融合を美学とし、からだと表現と思想(詩想)の間に食い違いがない。悠さんは周囲との実用的な話をしたかと思うと、急に3人の間で芸術論に没頭する場面に遭遇し凍りついたそうだが、1992年、白州アート・フェスティバルに田中泯と共演のために来日した際、ホテルでみっちり話したときの印象も似ている。気楽な語り口でスワヒリの芸術や科学について、黒人女性作家トニ・モリスンについて、彼はまるで自分のこととして誇りを持って滔々と語った。単に物知りとか愛読ではなく、語ることのなかに自己が生きているのだ。どんな質問にも答えてくれたが、自分の思索の領域に引きつけ、独自の世界観に行き着くまで話を止めることはむずかしかった。ある面では偏屈とも頑固ともいえるだろうし、純真とも孤高ともいえる。ぼくの英語力の限界もあって話は難解だったが、神経を集中させて理解できるだけのことは理解しようとした。今にして思えば、ファンとのインタビューも舞台のパフォーマンスも原理は共通していたのかもしれない。ありがちな一方通行の質問の代わりに、同じ表現力を持つダンサーの身体に反応したのが、数日前に白州で見たパフォーマンスだったのかもしれない。ちなみにこの時彼は野菜サラダと野菜ジュースを注文し、これは悠さんが伝える1973年の食事と変わらない。

『アキサキラ』の内トビラにある赤坂らしい歩道橋にたたずむピアニストの写真から、別の思い出に耽るのを許してもらいたい。初めてセシルを聴いたのはアキサキラ公演の数週間前、愛聴していたFM東京の深夜番組、油井正一の「アスペクト・イン・ジャズ」の特集だった。1957年ニューポートや1962年コペンハーゲンでのライブ、ブルーノートのリーダー・アルバムなどを順に聴かせたあげく、最後ジャズ・コンポーザース・オーケストラ (JCO) との共演を一面通しでかけた。これこそセシル音楽の頂点であり真髄であるという油井正一の主張だ。深夜ラジオの小さな音量ではあったが、何が起きているか分からない15分だった。御茶ノ水の予備校に通っていた浪人生はアキサキラ体験の後、近くのジャズ喫茶でリクエストし、オーケストラ化したセシル・サウンドに改めて震えた。数店がその銀ジャケ輸入盤を所蔵していることが分かり、数ヵ月間はリクエストの定番だった。その頃までのアルバムは熱心に集めたが、70年代後半からはあまり追わず、CDは一枚も知らない。LPも大部分は処分してしまった。セシル・テイラーは家で聴く存在ではないからだ。それよりも数度のライブ体験が「一生もの」と祀られている。

ジャズ喫茶で腕組み瞑想のポーズでJCOを聴いていたころには気づかなかったが、暴走しているような音の嵐からスティーヴ・マーカスのソプラノ・サックスやガトー・バルビエリのテナー・サックスが固有名詞をつけて浮かび上がってくるさまは、エリントンのスウィングする音の塊から、バーニー・ビガードやジョニー・ホッジズがソロの場面でないのに浮かび上がってくるのと案外相似しているかもしれない。ヘンダーソンやベイシーの楽団では感じるが、ヨーロッパのジャズ・オーケストラからは感じられない音の質だ。セシルが語るエリントンへの尊敬をかつてはジャズ史の公式見解としか受け取れなかった。よく言われていたモンクとの近しさが本当に耳を説得したのは80年代にリヴァーサイドのボックスを聴き通してからで、それからはセシル・テイラーにたどり着くピアニストを求めるようになった。当時は彼以降のフリージャズ・ピアニストに親近性を見出すのに夢中だったが、今ならばセシルの1966年ブルーノート録音とアール・ハインズの1965年ニューポート・フェスティバル・ソロがピアノの奏で方、撫で方、叩き方、強烈なタッチと踏み外すリズムと重厚な和音という点に関しては案外近しかったと聴くことができる。

最後の出会いは2013年11月で、京都賞思想・芸術部門受賞記念の晩餐会、祝賀記念会、東京と京都で持たれた田中泯とデュオの記念ワークショップだった。晩餐会では向かいに座って盛装して社交する機会に緊張した。80代の見かけに間違いないが、ぴんと張った存在感は20年前と変わりなく、ブルックリンの自宅で今も弾いているというような話を聞かせてくれた。質素な住まいについて京都賞の担当者から聞いていたので、想像をたくましくした。隣の中年男性は身の回りの世話をしているらしいが、後に賞金をくすねるスキャンダルが伝わってきた。騙されたというより、大金の利用には無関心でほったらかしにしておいたのを持っていかれたのではないか。セシルには日本で演奏したところで受賞の意義は完結したのだろう。受賞式では音、身体、言葉、万物すべてに自然の霊が宿り、それぞれのリズムで生命を宿しているというようなアフリカ由来の哲学を朗読した。日本でいう気配や気合や気象の「気」に近いかもしれないと空想した。

いったんピアノに向かうと20年前と変わらず掌、拳、肘で随時叩いて強烈な和音を瞬時に作り、速弾きの部分と一転して緩慢な余韻を聴かせるような部分とが思わぬ流れでつながった。音色の濃淡がダンサーを動かしているようにも見えた。ピアニストに身を任せながらそっと祝福する泯さんのパフォーマンスに、二人の間の心の底からの信頼を見た。機械的な、また弛緩した瞬間は一瞬もなく、前日に語っていた霊物のいのちを道具(ピアノ)とからだと声を使って誘い出した。緊張には違いないが、ある時間帯を深く生きることを伝え、深呼吸の限界を突破して世界を吸い込んでいるかのような気にさせられた。田中泯は自分はダンスを踊っているのでなく自分がオドリだと語っているが、セシルもまたジャズを弾いているのでなく自分がジャズであると信じ、仮にジャズと名づけられた音楽よりももっと大きな宇宙だと信じていた。初来日からちょうど40年たっていた。

『アキサキラ』の姉妹盤の東京録音『ソロ』を何十年ぶりにかけて追悼の儀式としよう。サインの入ったジャケットを墓碑に見立てて。

Photo: Kazue Yokoi

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細川周平

細川周平 Shuhei Hosokawa 国際日本文化研究センター教授。専門は音楽、日系ブラジル文化。主著に『遠きにありてつくるもの』(みすず書房、2009年度読売文学賞受賞)。編著に『ニュー・ジャズ・スタディーズ-ジャズ研究の新たな領域へ』(アルテスパブリッシング)、『民謡からみた世界音楽 -うたの地脈を探る』( ミネルヴァ書房)など。

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