追悼「小杉武久逝く。『和而不同』の行為観」(前編)

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text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野Onnyk吉晃

 

小杉武久の訃報を聞いた時、遅かったかという悔悟の念が襲ってきた。
というのも先頃開催された小杉の『音楽のピクニック』展に行く事ができず、友人にもらったカタログを眺めては、何かと嘆息していたのだった。そして彼と一緒に「いつか小杉武久を招聘して、盛岡でソロをやってもらおう」とよく話していたのであった。

其のカタログの27ページ、1962年4月の「東洋音楽会第100回定例研究会」で小杉が口頭での研究発表をしている写真が気になった。そこには東洋音楽研究の泰斗、田辺尚雄が写っている。
「音楽における即興性—比較音楽学的考察—」というのが、小杉の卒業論文のタイトルで、指導教官は小泉文夫だった。今でこそこのような研究は稀ではないだろうが、1961年にはまだ新奇の観があっただろう。小杉の音楽への態度は「即興」という点において一貫していた。民族音楽、民俗音楽と称される領域においては、記譜よりも、口承、そして各演奏者の技量にまかされる即興性が優位になる事例は多い。即興、それは規範とクリシェの集積であり、またそれから逃れようとする意思の表明でもあるのだが。
其の意味では民族音楽を、その現場において演奏しながら研究してきた小泉教授はまさに指導者として格好であったと思う。
また別な観点からすれば、即興と作曲は対立するのではなく、即興を記録する方法としての記譜が作曲を発展させてきたとも言えよう。なにしろ単一の楽器の即興は記譜できても、多数の楽器の同時即興演奏を後付けで記録するのは「録音」なしではほぼ不能だからだ。小杉もその著書で、チャーリー・パーカーのアドリブを採譜していた時期があると告白している。

私の居住している盛岡との関わりでは、おそらく小杉はたった一度だけ来訪して、演奏とワークショップをしている。私の夢が実現していれば1975年に続いて40年以上経っての再来という事になるはずだったのだ(同年、盛岡市の画廊で開催された「国際視覚詩展」にも、小杉は出品しているが来訪は確認していない。視覚詩の日本での嚆矢は北園克衛であり、清水俊彦や盛岡の高橋昭八郎が親しくしていた)。
1975年10月4日、最初の来訪は、非常にユニークな企画の一環だった。
岩手県主催の芸術祭に新風を吹き込もうとした一群の、ジャンルを超えたアーティスト達がそれまでの美術表現のみならず映像、ダンス、詩、そして従来の音楽枠にはまらないサウンド表現を展開しようという「環境芸術祭」を立ち上げた。そのゲストとして招聘されたのが、清水俊彦、間章、そして小杉武久だった。
清水は既に盛岡の詩人達との交流があり、ジャズのレコードコンサート講師として何度も訪れていた。盛岡にフリージャズを、その背景とともに紹介したのは清水であると言えるだろう。
小杉はご存知の通り、65年ニューヨークでFLUXUSの運動に加わったが、そこには小野洋子、一柳慧、塩見允枝子、刀根康尚といった日本の前衛、実験音楽の代表が揃っていた。また、70年タージ・マハル旅行団を結成して、日本の非ジャズ的な集団即興演奏グループとして、世界的に認知されることになる。その他諸々。しかしそんなことはどうでもいいのだ。
小杉が盛岡でやったことは、残念ながら映像は残っていない。しかし、そのパフォーマンス「音、光と波のように」(*)の全体を録音したものがある。
そこでは小杉のそれまでに行ってきたいくつかの「作品/イベント」が同時に上演されている。
人が入れる大きさで、多数のジッパーをもった袋。それは「部屋」となって、中にいる人間が、「窓=ジッパー」から手足を出したりしながら、その者も観客も「内部/外部」を認識する。”South”という言葉を引き延ばして発声しながら、音の響きを確かめる。携帯型のカセットレコーダに、3分間だけ川の流れる音を採取してくる(会場は川のすぐ近くにあった)。彼自身が声を発し、またディレィをかけたバイオリンを演奏するなど。それらを間章がサポートしている様子が聞き取れる。このイベントは約40分続いた。
ひとつひとつのイベントはシンプルだが、それに集中するのはある種の瞑想に近い。またそれらが同時発生している様は、ケージらが、52年ブラック・マウンテン・カレッジで行った複合的パフォーマンスのようでもあった。
後にアラン・カプローは同様の上演を行い「ハプニング」と呼んだが、彼が画家であったこと、そして後には詩人達がこうした前衛芸術、実験的芸術の動きに賛同したことは大きい。
これらの複合イベントで重要な事は、そしてまた小杉が「美術手帖」(96年12月号)所収のインタビューでも強調している事は、「複数のアーティストが同時に行為する場合、その行為が互いに寄添ったり意識し合うことを避ける」ということだ(勿論、避けようというのは意識する事のひとつに他ならないのだが)。
こうした視点は、伝統的なジャズの枠組みや、アドリブ概念には相反するものがあるだろう。より不確定性を重視したフリーインプロヴィゼーションでもそうかもしれない。
この、従来の「共演」というよりは「並演」または「並置、併存」という概念は、ある意味では弁証法的な止揚を可能にするものであり、ある一派はそれを「パラタクシス」と言った。小杉の言葉で言えば「マルティプリシティ=多様性」になるが、「互いのポジションを守りながら、他人に強く影響されない世界」となろう(同インタビューから)。さらに踏み込んで言えば「共生=symbiosis」あるいは「棲み分け」なのかもしれない。

次回は、小杉の著書から彼の思想の一端を解きほぐし、見当はずれな解釈と誹られる事を知りつつ、追悼の念を表明したい。

(*)「音楽のピクニック」展カタログには”Live a Sound Light and Wave」とあるが、Likeの誤りだろう。文法的にもおかしい。同企画のポスターにも、私の記述の通り記されている。

附記
11月2日、午後6時半から盛岡市桜山の、珈琲と酒の店「米山(よねやま)」にて、魔窟「オメガポイント」からのマレビト、酒井助六を迎えて、希少な資料を公開しつつ『ひたすら小杉武久をきく、みる』と題したオールナイトイベントを企画している。残念ながらこの記事が読まれる頃には終わっているのだが。

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金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。第五列の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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