ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第6回 タイショーン・ソーリー~類型化からの脱却~

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Text and photo by 蓮見令麻 Rema Hasumi

はじめに

私達の思考というものは、時としてしっかりと手綱を握っていなければ好き勝手に暴走してしまう荒馬の様だ。たとえなんとかしてうまく手なずけたとしても、その足の向かう先にしっかりと気を配っていなければ気づかないうちにふらふらと向かうべきでない場所へ走っていってしまう。それくらいに思考は脆さを兼ね備えたものだということをあらためて自覚することで、はじめて私達は心から目指した遠く素晴らしい場所へと辿り着けるのかもしれない。

例えば我々が「ジャズ」という名前を口にする時、人は何を思い浮かべるだろう?

スウィングのフィール、ニューオーリンズ、ニューヨーク、アメリカ、黒人、白人、公民権運動、鈍く光るサックス、サングラスにしたたる汗、男、女、ドラッグ、酒、くちなしの花。

言葉に付随する歴史と物語、それはとてもロマンティックで、時には映画の一場面の様に私たちの脳裏に焼き付いていく。だからこそ、一度与えられた言葉の定義は、その言葉の示唆するものが美しくクリエイティブであればあるほどに、額縁に入れられた押し花の様な扱いを受けるのだ。

同時に、創造的産物につけられたあらゆる言葉達は、私達の思考にほとんど機械的な分別反応を与えた。

本来、言葉というものは社会文化の変遷に伴ってある程度は定義の上書きを求められるものだと思うのだが、人々のロマンティシズムはそれを安易に許さない場合がある。それはまったくもって仕方のないことだ。まさにそのロマンティシズムそのものを通して我々は芸術を感知してきたのだから。

芸術における言葉の定義の難しさを念頭に置いて話をするが、これは音楽においてジャンルと呼ばれるもの(このジャンルというものはこれまで、ごく微妙にしかし確実に人種やジェンダーに対するステレオティピカルで保守的な視野を築いてきた)に値する。例えばフュージョンやクロスオーヴァーというジャンルを作ることで、ある程度はジャンルも細分化されてきたわけだが、それでもジャンルの枠組みからはみ出してしまうものが無数に存在する今、そのマージナルな作品群をどのようにして我々は掬い取っていけるだろうか?

この疑問は、そのまま音楽という領域を通り抜けて、「社会における人間のあり方」への提言となり、我々の思考の枠組みをやわらかく押し広げる。ポスト・ジャンルとも呼ばれるこの考え方は、ある観点からすれば、ステレオタイプや偏見に意図せずして甘んじてしまう、文化に対する受動的な構えに対する反抗であるとも言えるかもしれない。

音楽や芸術は、社会が創り出すものではなくて、社会的背景を持った個人が創り出すものだと思う。

社会とその人々が「これはこういうものである」と軽々と認識することのできるものをアーティストが作る時、その作品はある種の人々には大変に喜ばれるかもしれない。それはすなわち、群集の思考する期待に応えるということであり、そこに「やさしさ」はあれども、挑戦<創造と想像への挑戦>はないように思う。だから私は、あえて「期待に応える」ことをしないアーティストに対して底知れない尊敬の念を抱くのだ。そんなアーティストのひとりが、タイショーン・ソーリーだ。

ストーンでのソロコンサート

ソロコンサートをするのは5年ぶりのことだったらしい。そう言われてみれば、最後にタイショーン・ソーリーがソロで演奏をするのを見たのは何年も前のことだった。ブルックリンの割と奥の方にある、昼は花屋で夜はバーという不思議なお店の奥まったドアを開けるとそこから地下に階段が伸びていて、簡単な長椅子が数個ある小さな地下室にこじんまりとしたステージが取り付けられていた。その時は確か、彼はドラムセットとトロンボーンだけを演奏した様に思う。

5年後の今回のコンサートの場所はストーン。ジョン・ゾーン主催のこのクラブを長年足場にしてきた彼のレジデンシーを見るために、店の前にはファンの長い列ができていた。

開場後すぐにクラブは満員になり、グランドピアノのすぐ後ろ側にも客が隙間なく座った。

照明が落とされ、店員がラップトップの再生ボタンを押した。流れ出したのは、ラジオと思われる話し声やクレズマーやジャズ、クラシックなどあらゆる音楽の切れ端がカオティックにかき集められたサウンドのコラージュだ。しばらくすると階下からタイショーンがあらわれて、ピアノの前に座った。サウンド・コラージュが流れ続ける中、彼は静かにピアノを弾き始めた。やがてコラージュの音は止まり、タイショーンの弾くピアノの即興演奏の音だけが響き渡る。モートン・フェルドマンを思わせるミニマルで静謐な演奏。観客達は静寂を持ってその洗練された美しさを迎え、誰もが息を呑んで彼の一挙一動を見守っていた。次第に音数は増えていき、彼の大きな腕が縦横無尽にピアノの上を走り出した。その様子を見ながら、私はマイルス・デイヴィスがボクシングを愛したことを思い出していた。マイルスの求めたスリルや瞬発力は、ボクシングによって培われた部分もあったのだろうか?タイショーンがドラムを演奏する時、そんな圧倒的な身体コントロールを垣間見ることはこれまでにもあったけれど、彼のピアノの演奏があんなにもアスレチックだとは全く知らなかった。ピアノ演奏における彼の尋常でない瞬発力を目の当たりにして、私はセシル・テイラーの幻影さえ見たのだった。20分ほどの間、間断なくピアノでの即興演奏を続けていただろうか。彼が最後の鍵盤を弾き終え、観客席からは感嘆のため息がもれた。おもむろに立ち上がったタイショーンは、トロンボーンを手にとって吹きはじめた。随分とアヴァンギャルドな演奏だ。彼のホーンの演奏はアンソニー・ブラクストンやジョージ・ルイスなどAACM関連のアーティストの潮流を確かに受け継いでいる。そしてようやくドラムセットに座ったタイショーンは、垂直にたらされたいくつかのシンバルをマレットで叩き始めた。それぞれのシンバルから鳴る音が美しく共鳴し、やわらかく響き渡る金属の音はまるでガムランの様だった。圧倒的なリズムとその洗練された音色を聞けば、彼が普通のドラマーではないことが容易にわかるだろう。自分自身そしてオーディエンスに対して挑戦こそするものの、決してひけらかすことをしない。そして静寂を恐れない奏者だ。飄々と、しかしものすごい集中力を持って瞬間的な決断をしていく様子は、身体と感覚と思考のおよそ超越的なバランスを持った武芸の達人の様にさえ見える。

この日、タイショーンは黒の上下にサングラスというとても粋な恰好をしていた。かけていたサングラスは写真家ジョン・ロジャーズによるプレゼントで、生前ポール・モチアンの所有していたものであったと話していた。こうしてコンサートは大盛況のうちに幕を閉じた。

多様な作品群

タイショーン・ソーリーという人は、確実に現在のニューヨークの音楽シーンにおける最重要人物のひとりだと言える。ジョン・ゾーン、ヴィジェイ・アイヤー、スティーブ・コールマン、アンソニー・ブラクストンなどのミュージシャン達とこれまで共演を重ねてきた。

自身のリーダー作としてはこれまでに五つのアルバムを発表している。デビュー作『That/Not』(Firehouse 12 Records, 2007)では、およそ43分間にも及び、モートン・フェルドマンからの影響を明確に表した「ソロ・ピアノのための順列」などの曲でセンセーショナルな注目を浴びた。2つめの作品『Koan』(482 Music, 2009)は、ギタートリオの編成ということもあり、前作よりもジャズ的な文脈が増えている様に思えるのだが、フェルドマン的な音楽の静謐さは継続され、その独特なサウンドは異彩を放っている。この作品に参加しているのは、後年の菊地雅章氏とTPTというトリオを組んでいたトーマス・モーガンとトッド・ニューフェルドのふたりだ。コンサート企画として、ソーリー、モーガン、ニューフェルド、菊地という組み合わせは二度程実現した。数年前にこのグループでレコーディングをする話も出ていたのだが、残念ながらそれは実現することはなかった。このアルバム『Koan』 は来年にもアナログ盤で再リリースされるそうだ。そしてこの後に発表されたのが、『Oblique-I』(Pi Recordings, 2011)で、このアルバムはニューヨーク・タイムスの年間アルバムランキングでも上位にランクされ高評価を受けている。前作とは驚くほどに内容が変わっているのだが、この作品では、複雑で数学的なコンポジションが勢いよく演奏されており、スティーブ・コールマンの作品を思い起こさせる。『Alloy』(Pi Recordings, 2014)はコーリー・スマイスとクリス・トルディーニとのピアノトリオ編成で非常にユニークなものに仕上がっている。最後に、今年リリースされたばかりの『The Inner Spectrum of Variables』(Pi Recordings, 2016)だが、この作品の「クラシカル」な性格は、おそらく多くのリスナーの期待を良い意味で裏切っただろうと思う。素晴らしい作品だ。

次世代の音楽を牽引する

タイショーン・ソーリーの凄さというのは、そのプロデュース力にもあると私は思っている。それぞれのアルバムのコンセプトが非常に明確で、そのコンセプトに沿った音楽を創るのに抜群に適した音楽家を彼は選び抜いてきた。それぞれのアルバムのサウンドが全く異なっていて、すべての作品が非常に高い完成度を持っている。そのカリスマ性もさることながら、常に新しいことに挑戦し続け、同胞を引っ張っていくという意味で、彼はかつてのマイルス・デイヴィスに匹敵するくらいのリーダーシップをとれる音楽家だと私は思っている。彼が次々に発表する作品と、その生き生きとした作風の移り変わりを目の当たりにして、時にリスナーは困惑さえするかもしれない。見慣れない新しいものにはある種の心地悪さを覚えるのが人間というものだ。だが、その困惑との対峙を通してこそ、思考の中にがっちりと作り上げた枠組みに私達は一石を投じることができる。音楽リスナー、そして社会全体に作品を通して挑戦し続ける音楽家が現代に存在していることを、是非多くの人に知ってほしいと切に願う。

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蓮見令麻

蓮見令麻(はすみれま) 福岡県久留米市出身、ニューヨーク在住のピアニスト、ボーカリスト、即興演奏家。http://www.remahasumi.com/japanese/

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