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Jazz Right Nowニューヨーク:変容するジャズのいま 蓮見令麻No. 235

ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第18回 マタナ・ロバーツ:現代アメリカにおける音楽と政治

Text by Rema Hasumi 蓮見令麻
Photos by Akira Saito 齊藤聡

民族音楽、ブルース

マタナ・ロバーツをライヴで見るのは今回が2度目だ。前に彼女の演奏を見たのは3年前、The Stoneでのスージー・イバラとのデュオだった。その時自分で書いた感想を再度読み返してみると、ノートにはこう書いてあった。

「民族音楽には、地に足のついた一種の明るさがある。民族が一体となり、共に歌い踊り、神を祭祀する。先祖代々生まれ育った土地で、血の繋がった者、食料を分かち合う者同士で同じ神にすべてを委ねるという絶対的な安心感がそこにはある。」

「ブルース:生来の地から切り離された人間は、神の存在に対して具体性を持たない。土着の神社や祭りというものを通して神を経験することがもはやないのだ。だからこそ、ブルースを歌う個人にとっての神の存在とは、あたかも何処か遠くに存在する『もうひとりの個人』の様に感じられるのかもしれない。」

このライヴでは、スージー・イバラの叩くドラムの民族音楽的な音とマタナ・ロバーツのサックスから溢れ出るブルースが不思議な融和性を持っているように聞こえた。精神的にはまったく違う場所から出されている音(少なくとも私にはそう聞こえた)であるにもかかわらず、その2つの音は互いに打ち解けて魅力的な世界観を作り出していた。

ストーリーのある即興、ドローン、コンダクション

今回ブルックリンのRouletteで行われたマタナ・ロバーツのコンサート、『…breathe…』を何の予備知識もなく見に行った私は、そのコンセプチュアルな内容にかなり驚かされた。

マタナ・ロバーツはステージの脇に据えたブースに並べたエレクトロニクスをプレイしながら、サックス、ボイスを場面ごとに使い分け、さらにバンドに指示を出して音楽を進むべき方向へと導いた。ステージには、2人のトランペット奏者が肩を並べる。1人はNYの即興シーンで精力的に活動しているピーター・エヴァンス、もう1人は数年前にシカゴからNYに移ってきたジェイミー・ブランチだ。マタナ・ロバーツもシカゴ出身だから、おそらくシカゴ時代から知り合いなのだろう。ドラムにマイク・プライド、ピアノはガブリエル・ゲレーロが加わり、ベースはなんとヘンリー・グライムスだった。

このコンサートで際立っていたのはやはりマタナのプレイするエレクトロニクスと全体の音の中の基盤となっているドローンの音だ。ドローンをベースにした楽曲は彼女のソロアルバム『COIN COIN Chapter Three: River Run Thee』(Constellation, 2015)でも耳にしていたが、この様にエレクトロニクスを活用しながらコンダクション(指揮)でバンドの即興演奏を上手くコントロールし、生きたオーケストレーションを構築していく過程をライブで見ることが出来たのにはとても感銘を受けた。私の印象では、バンドが演奏していた内容のほぼ全体が即興演奏、前もって決められた細かい音楽的構成などはおそらくほとんど無く、マタナの頭の中にある楽曲の展開に沿って彼女が振る指揮により楽曲全体のダイナミクスが構築されていた様だった。1時間以上の長い即興演奏は聞く側にとっても演奏する側にとっても容易ではなく、過度に抽象的になり過ぎたり中盤ダレてしまうこともよくある。だが、マタナ・ロバーツのコンダクションはシンプルかつ明確で、変化し続ける即興のテクスチュアにはまったく飽きることがなかった。これはアルバムを聞いても思ったことだけれど、彼女の作り出す楽曲には淡々と語られる「ストーリー」の存在が感じられる。

即興主体の演奏を聞きやすくしているもうひとつの要因は、やはりマタナ・ロバーツのサックスの持つブルース、そして彼女の表現に漂うフォークのクオリティだと私は思う。フォークやブルースはいわば民謡の様なもので、生活に根ざした表現をルーツに持つ。シカゴやNYといった都市で生まれる洗練された前衛的な音楽に真剣な眼差しで耳を傾ける者達も(この日Rouletteにこのライブを見に来た観客はそういうリスナーが多かったと思う)、刺激的なものを求める一方で、もしかするとどこかそういった「土地を介して受け継がれるもの」の匂いのする暖かさを求めているのかもしれない。少なくとも私はそうなのだと、このライヴを見て気づかされた。マタナ・ロバーツの表現には確実にブルースが宿っている。素朴で、精神をともなったブルースだ。彼女の素晴らしいところはそういった意味でのブルースを失うことなく、かつただの古い表現のままに留めてしまわないところだ。エレクトロニクスやヴォイスを取り入れることで、音楽は確実に新しい響きのある興味深いものになっていた。

アメリカ社会、その闇

このコンサートにつけられた『…breathe…』という題について少し話をしておきたい。パンフレットにはこう書かれている。

「『…breathe…』はアメリカ文化における警察の軍事化の始まりを覗くコンセプチュアル・サウンド・サイクルのひとつである。」

この文章を読めば、ニューヨーカーなら誰もが『…breathe…』という言葉の真意をすぐに理解するはずだ。「息をする」というこの言葉は、2014年に起きたある事件以降、ブラック・ライブズ・マター・ムーヴメントにおけるシンボリックな言葉になった。スタテン島でNY警察により窒息死させられたエリック・ガーナーという黒人男性が、死の淵で11回にわたり呟いた言葉、「I can’t breathe(息が出来ない)」は、その後様々な反対運動で標語として使われた。この言葉はそのプロセスの中でその包括する意味を拡大していき、じきに「このような酷い蛮行が許される社会で我々は息が出来ない思いをしている」という意味合いでも使われるようになった。

このテーマはかなり明確な形でコンサートの様々な部分に散りばめられていた。舞台の背景に移された映像は、芸術的な編集がされたものではあったが、警察による数々の蛮行の一場面(具体的・暴力的な場面ではない)に間違いなかった。また、演奏の中で、しばらくの間メンバー全員が様々な名前を呟き続けるという部分があったが、これもまた、警察により殺害された人々の名前だった。マイケル・ブラウン、タミア・ライス、フレディ・グレイ・・・これらの名前が何を意味するか、現代のアメリカに住んでいる者なら大体すぐに察しがつくはずだ。それくらいに、この問題はアメリカの民衆の心に深い影を落としている。

アーティストとしての責任とは

このコンサートでは、このように明確に政治的テーマが扱われていたにもかかわらず、その表現方法は高い芸術性を維持していた。音楽を犠牲にすることなく、括弧とした姿勢で政治的メッセージを表現する、それは誰もが出来ることではない。政治を明示的な形で音楽に持ち込むことは、ものすごく勇気のいることだと思う。マタナ・ロバーツはあるインタビューの中でこう述べている。

「私の作品は、盲目的な現代社会を生き延びるための杖のようなものです。…中略… すぐにこの国に変化は訪れないでしょう。だからこそアメリカのアーティスト達は自分達が『前進する』責任があることを思い出させるような作品を作ることが大事なのです。」

2017年にトランプ政権が発足してからというもの、さらにアメリカを脅かすこの問題は加速化を極め、ついにはこの8月、バージニア州シャーロッツビルで白人至上主義者達が大規模な集会を開き死傷者が出る事態にまでなってしまった。こういった状況の最中で、ミュージシャン達をはじめアーティストの多くが「今」芸術や音楽を通して表現することの意味はなんだろうかとそれぞれに考えあぐねているのではないかと思う。政治を音楽に取り込む一方で、決してそのコンセプチュアルな側面に音楽を侵食させない。マタナ・ロバーツのその才能と勇気は多いに賞賛に値するものだと私は思う。

終わりに

ジャズの歴史において音楽を通して発信された政治的メッセージについて考えてみると、ビリー・ホリデイの『奇妙な果実』、ジョン・コルトレーンの『アラバマ』、ローランド・カークの『志願奴隷(Volunteered Slavery)』、ニーナ・シモンの『ミシシッピ・ガッデム』などが私の頭には浮かぶ。2017年のアメリカ。公民権運動が発足してから半世紀以上もの時が流れて、確かに多くの人々の意識の中で一定のポリティカル・コレクトネスが共有されるようにはなった。その一方で、「人種差別なんて時代遅れだ」という人々の思いは冷笑主義を生み、「それでも未だにひどい人種差別問題に悩まされている」現実への幻滅と束になって変な脱力感が漂っているようにも感じる。半世紀経った今でも、公民権運動はブラック・ライヴズ・マター運動に名前を変えて続いているのだ。マタナ・ロバーツの叫ぶような歌声、その残響は私の耳の奥でしばらくの間鳴りつづけるだろう。

蓮見令麻

蓮見令麻(はすみれま) 福岡県久留米市出身、ニューヨーク在住のピアニスト、ボーカリスト、即興演奏家。http://www.remahasumi.com/japanese/

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