ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第24回
ランディ・ウェストン~ブルースとアフロセントリズムの先に~

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公民権活動家、俳優や歌手としても活躍したポール・ロブスンの言葉をランディ・ウェストンはこう引用している。“Artists are responsible to fight for freedom. Artists are responsible to change society.” 「アーティストには、自由のために闘う責任が、社会に変革を起こす責任がある。」

6人のピアニスト

ランディ・ウェストンが私達のもとを去った。92歳だった。その日からしばらくの間、様々なミュージシャン達が書き綴るランディ・ウェストンへのメッセージの数々をインターネットで目にした。その感謝と愛の言葉を通して、私は彼の奏でた音楽の「寛容」を少しずつ、じっくりと味わっていた。中でもジェイソン・モランの綴ったエピソードに心を惹かれた。1999年、「Pianos for Ellington」と題されたコンサートがハーレムステージで開かれた。このコンサートでステージを共にしたのはランディ・ウェストン、アンドリュー・ヒル、ジェリ・アレン、ジョン・ヒックス、ムハル・リチャード・エイブラムス、ジェイソン・モランという6人のピアニスト達だった。その舞台でのことをジェイソン・モランはこう語っている。「ランディが演奏を始めた途端に、ピアノの鍵盤の低音域が『開いた』のを鮮明に覚えている。彼の低音域のオクターブの音は、まるで祖先を呼び起こすようなサウンドだった…ランディの楽器に対する寛容さが溢れ出して、それは周りのミュージシャンをも包み込んでいったんだ。」

グナワ、アフリカ、ブルース

幸運なことに、私も一度だけランディ・ウェストンの演奏を見ることが出来た。5年程前にニュースクールで彼がグナワの演奏家達と共演したコンサートが、その一度きりの機会となった。それはとても印象に残る素晴らしいコンサートだった。ただ、荒々しいと言ってもよいくらい無遠慮に響き渡る伝統楽器カルカバのメタリックな音やトランスに誘い込むようなシャーマニックな踊りを、美しく整備された大学のホールで行儀よく座って見ているのが私にはなんだか場違いな行いの様に思えたのも事実だ。だが、アフリカの民族衣装を着こなして、グナワミュージシャン達の演奏と舞いを眺めながら時折鍵盤を叩くランディ・ウェストンのおおらかな笑み、そして彼の大きな手から繰り出される説得力と厚みのあるブルースを五感で存分に感じているうちに、そんなアンバランスさもいつのまにかすべて払拭されていた。私には、あの圧倒的で洗練された佇まいが、もはや楽器と一体化した音楽の権化の様にさえ思えたのだ。

インタビュー

これから書く内容は、Democracy Now! というニューヨークの独立放送局のディレクター兼キャスターであるエイミー・グッドマンの行ったランディ・ウェストンのインタビューをもとにしたものだ。綺麗な銀髪のおかっぱ頭からのぞく誠実な眼差しでニュースを黙々と伝えるエイミー・グッドマンという人は、特にニューヨークのジャーナリズム界では一目置かれる存在だ。ジャーナリストとして素晴らしい功績を持つ彼女だが、番組に時折招待するミュージシャン達のライブもまた見逃せない。民主主義の真の意義を問い続けるジャーナリストが音楽を積極的に番組に取り入れる姿勢は、おのずと冒頭で書いたポール・ロブスンの言葉に重なる。エイミー・グッドマンがランディ・ウェストンにインタビューをするという設定を聞いただけで、私なんかは血が沸き立つ思いがした。「一曲弾いてもらえるかしら?」と時折思い出したかのように柔和にうながすエイミーに、「じゃあブルースでも」と満面の笑みで指を鍵盤に重ねるランディ・ウェストンのソロ演奏をはさみながら、そのインタビューは行われた。

1960年録音のランディ・ウェストンのアルバム、『Ufuru Afrika』は、アフリカの独立運動の活発化、そしてアフリカの民族音楽がジャズへ及ぼした影響を祝福する重要な作品だ。ラングストン・ヒューズが書いた自由の詩で始まるこのアルバムは、後にマックス・ローチやリナ・ホーンらのアルバムと共に南アフリカ共和国のアパルトヘイト体制により禁止された。それほどに影響力のあるものだったということだろう。1961年、ニーナ・シモンらも参加したアメリカからの派遣団の一員として、アフリカへ渡ったランディ・ウェストンは、その時の体験に深く感化されて67年にアフリカへ移住した。

父親はパナマ生まれ、キューバで7年暮らした後にブルックリンに根を下ろしたカリブ移民。母親はバージニアの小さな街で生まれ育ち、ニューヨークへやって来た人だった。ランディ・ウェストンは、生まれ育ったブルックリンのベッドスタイ地区のことを「パワーに溢れ、スピリチュアルで文化的な場所」だと述べている。「日曜日にはブラック・チャーチ(黒人教会)に通うのが当たり前だった。誰もがピアノ、トランペット、バイオリン、ダンスなんかのレッスンを地元で受けていた。地元のコミュニティは貧しかったけれど、文化的には非常に豊かだった。ブルースやカリプソ、ビッグバンドの楽団が演奏するのを近所で目にするのも珍しくなかった。」

父親は若き日のランディに二つの事柄を教えた。「お前はアメリカで生まれたアフリカ人なんだから、アフリカの歴史を勉強しなければならない。植民地や奴隷制度が生まれる前、アフリカには素晴らしい文明が存在した。」そう何度も繰り返す父の言葉に感化され、博物館を訪れては、エジプト文明に関する資料を片っ端から読み漁った。自宅の壁にはアフリカの地図が飾られ、アフリカに関する書籍が本棚にいくつも並んでいた。父親から受け取ったもうひとつのギフト、それはピアノレッスンだった。12歳ですでに身長が180センチを超えていたランディ自身はバスケットボールやフットボールをやりたいと願ったが、父は息子に頑なにピアノのレッスンを受けさせたがった。父親から受け取ったギフトは「アフリカ」、そして「音楽」。母親から受け取ったギフトは「ブラック・チャーチ」だった。バージニア州で育ったアフリカ系アメリカ人の母親と、パナマとジャマイカで育ったアフリカ系カリブ人の父親は、幼少時のウェストンの精神性に大きな影響を与えた。

「最初に弾き始めたクラシック音楽はあまり好きではなかった?」こうエイミーに聞かれると、ウエストンは「あまり好きじゃなかったよ・・・だってスイングしないからね。」と答えて当時のピアノレッスンについて語った。大きな体と長い足を持て余したウェストンはピアノの練習にはほとんど興味がなく、いざ弾き始めても間違えてばかりだったと言う。当時のピアノ教師にウェストンは深い敬意を抱き、威厳とプライド、気品に溢れた女性だったと回想しているが、3年ほど経つとそのピアノ教師は匙を投げてしまったらしい。それでもウェストンの父親はあきらめず、今度は別のピアノ教師を連れて来た。この教師からポピュラー・ミュージックの弾き方を教えてもらったことで、ランディは少しずつピアノの演奏に興味を持ち始めた。丁度その頃、第二次世界大戦が勃発。大戦中は徴兵されて3年間を軍隊で過ごした。戦前からブルックリンで活動していたバンドにはレイ・コープランドやセシル・ペイン、マックス・ローチなどの才能あるミュージシャンが揃っていた。当時ブルックリンにはブラックミュージシャンズ・クラブという黒人音楽家の組合があり、地元の子供達が自由に出入りしていたそうだ。その組合集会所では、壁に大きな黒板が掲げられ、大人達はカードゲームをしていた。年上のミュージシャン達が、若い世代の者達に「あの場所で弾く時は、1ドルじゃなくて2ドルしっかりもらうんだぞ。」とアドバイスをくれた。

「当時、どんな音楽を聞いていましたか?」そう聞かれると、ウェストンは満面の笑みを浮かべて答える。「デューク・エリントン、カウント・ベイシー、コールマン・ホーキンス・・・ルイ・アームストロング、アート・テイタム・・・」「ルイ・アームストロングと実際に会ったことは?」「あるよ。リズム&ブルースのバンドで初めてツアーしてオクラホマに行った時、同じホテルに宿泊していた彼と握手したんだ。それだけで充分だった。あの握手はずっと忘れないよ。」「カウント・ベイシーは?」「ベイシーは大好きだった。彼のピアノのタッチは気品に溢れていて、ブルースを纏っていた。若い時にはベイシーみたいに弾こうと彼の真似をしていたこともあったよ。」「セロニアス・モンク?」「セロニアス・モンクは魔術師みたいな男だった。私がモンクのことを知ったのは、コールマン・ホーキンスがきっかけだった。当時52丁目にはたくさんのクラブが連なっていて、あらゆる音楽をその界隈で聞くことができたんだ。ある日、コールマン・ホーキンスを聞きに行った時にピアノを弾いていたのがモンクだった。随分変わったピアノの弾き方をするなぁと思ってその演奏を聞きながら、『俺の方がずっと上手に弾ける』と思っていた。だけどそれから何度も彼の演奏を聞くうちに、モンクは天才だってことに気づいたんだ。それから3年ほどの間はモンクと多くの時間を過ごした。彼をマンハッタンまで迎えに行って、ブルックリンの自宅にも招待した。当時、ウェストンの父親はレストランを経営していた。週7日、24時間営業のレストランには、『世界一ヒップなジュークボックス』があって、そのジュークボックスからはルイ・ジョーダン、ナット・キング・コール、デューク・エリントン、サラ・ヴォーンなんかの音楽を聞くことができた。レストランには夜な夜なミュージシャンが集まって、コールマン・ホーキンスとレスター・ヤングのどっちが音楽家として優れているかについて討論したりしていた。

戦後、コミュニティに蔓延するヘロインの影響から逃れてマサチューセッツ州バークシャーに移り住むと、ランディはMusic Innという店で朝食を調理するシェフとして働きながら店でピアノを弾くようになった。Music Innは特にコミュニティにとって重要な意味を持つ場所だった。民族音楽学者のマーシャル・スターン博士が、アフリカ系アメリカ人の音楽に関する講義シリーズを開始したばかりだった。スターン博士のおかげで、マヘリア・ジャクソン、デューク・エリントン、バタフライ・マックイーン、ビリー・テイラーやジョン・リー・フッカーの様なアーティスト達がその場所に集まった。博士はアフリカ文化に対してグローバルなコンセプトを持っている人だった。その講義から、世界にアフリカ文明が及ぼした影響について学ぶことができた。ラングストン・ヒューズをMusic Innに連れて来たのもスターン博士だった。ランディ・ウェストンとラングストン・ヒューズはMusic Innで出会ったのだ。

メルバ・リストンと共に制作した『Ufuru Afrika』のために、ラングストンに自由の詩を書いてほしいとウェストンは依頼していた。丁度1960年は、17カ国のアフリカの国々が独立宣言を果たした記念すべき年で、アフリカの自由を象徴するような作品を作りたいとウェストンは常々考えていたのだ。

1961年、アフリカ系アメリカ人総勢29名のグループがアフリカ回帰運動の流れを受けて初めてナイジェリアへ渡った。このアフリカ回帰運動を扇動したのがマーカス・ガーヴェイという思想家だったことは有名な話だが、マーカス・ガーヴェイはジャマイカのラスタファリズムにも多大な影響を与えている。1961年という年は、ボブ・マーリーが初めて曲をレコーディングした年でもある。その年、アフリカへ渡ったグループのメンバーの1人がラングストン・ヒューズだった。十日間をナイジェリアで過ごしたグループのメンバー達は、アフリカ系アメリカ人の文化とナイジェリアのアフリカ文化にどのような関連性があるのかを探った。

メルバ・リストンのことを、ウェストンは「音楽史に名を残す素晴らしい編曲者の1人だ。」と断言している。彼女がディジー・ガレスピーのオーケストラでトロンボーンを吹いているのをバードランドで聞いたウェストンは「驚くほど厚みのある音を出していた。」と回想する。50年代初期のことだった。その夜、ステージから降りてきたメルバにウェストンは自己紹介をし、2人は固い握手を交わした。メルバ・リストンはカンザスシティの出身だったので、同郷のメアリー・ルー・ウィリアムスとは知り合いだった。

メルバ・リストンとメアリー・ルー・ウィリアムスのことを “Two Queens in Music”とウェストンは表現している。
『African Cookbook』は、アフリカに移住する前にすでに「アフリカをテーマにした楽曲を書きたい」と熱望していたウェストンの試みだった。老若男女、誰もが踊れるアフリカの6/8拍子のリズムがアフリカ南部を象徴し、エキゾチックなスケールを使ったメロディはアフリカ北部を象徴した。63年には、サックスを吹き始める前にまだトランペットを吹いていた頃のフェラ・クティとも共演した。週末になると、フェラ・クティが先住民族のグループを連れて来た。そこでウェストンは初めて、アフリカの伝統音楽に触れることになる。彼らの音楽には、自分たちアメリカ人には表現できない何かがある、そう感じた。その音楽は、アフリカ大陸のスピリットそのものを体現したものだった。「大陸そのものが、人類が現れる以前からすでにスイングしていた。」こうウェストンは語る。彼ら(アフリカの人々)はずっと、「母なるアフリカ」の自然の音を体感してきた者なのであり、それこそが音楽世界の基盤を形づくるものなのだ、そう彼は理解したのだった。夜の11時頃に現地に到着すると、そこで待っていたのは総勢50名ほどのアフリカ人のパーカッショニスト達だった。アフリカ大陸の空気を吸い込んだ瞬間に、ウェストンはこう思った。奴隷としてこの大陸から鎖に繋がれて連れ去られた人々の子孫である自分が、飛行機でアフリカ大陸に渡り、この素晴らしいドラムの音を耳にしている。なんと素晴らしいことだろうか。到着したばかりのアフリカ系アメリカ人のメンバーの中には、地面にキスをした者達もいた。そこが「還るべき場所」だと、彼らはそう感じていたのだ。

アフリカから帰国したウェストンは、アフリカ系アメリカ人のミュージシャンに対する差別に立ち向かう組織を立ち上げることになる。レイ・ブライアントなどを含む数人のミュージシャンがハーレムの教会に集まり3日間にわたる会議を開いた。A・フィリップ・ランドルフ(63年にワシントンで25万人が参加した公民権運動の行進を組織した人物)を会議に招待した。60年のことだった。ランドルフは、その会議において、ミュージシャンの労働環境と権利について話した。二日目には、アフリカ研究家で歴史家のジョン・ヘンリク・クラークを招いた。クラークは、アフリカの歴史を知ることについての重要さについて語った。当時のアメリカの教育システムからも、ハリウッド映画からも、真のアフリカについての知識を得ることはできない、そう彼は語った。メンバー自身も食べていくのに必死な音楽家が大半だったため、組織自体の活動は1年間ほどしか続かなかったが、その間にセロニアス・モンクやデクスター・ゴードンなどの素晴らしい音楽家達の労働環境の改善に貢献した。

67年の5月、ラングストン・ヒューズがこの世を去った。ラングストン・ヒューズはブルースを愛した男だった。ブルースとスピリチュアルズは「革命的な」音楽であり、その音楽なしには黒人が精神的に「生き残る」ことは不可能だったことを、ヒューズは理解していた。ビリー・ホリデイ、デューク、ベイシー、ルイ・ジョーダン・・・彼らの音楽が、スピリットを鼓舞してくれた。ヒューズが亡くなった年の終わりに、ウェストンは当時15歳だった息子を連れて再度アフリカへ渡り3ヶ月間を過ごした。その時の演奏体験は試練のようなものだったとウェストンは言う。ニューヨークでアフリカをテーマにした音楽を好きなだけ制作することはできるが、その音楽を実際にアフリカという土地で演奏することはまた別物だった。それらの楽曲をアフリカで演奏する時、ウェストンは現地の観客にこう語りかけた。「これはあなた達の音楽です。表面的にはそうは聞こえないかもしれない。だけどこれは、アフリカの音楽が、ヨーロッパの言語や楽器と交わって出来た、まぎれもないアフリカの音楽なのです。」素晴らしい成功を収めたそのツアーは、ブラジル、キューバ、ミシシッピ、ブルックリン・・・世界中の音楽にアフリカのリズムが与えた影響について人々に伝える、一つのメッセージ性を持った巡礼のようなものだった。アフリカのビート無しには、各地の素晴らしい音楽の数々は生まれなかったはずだ。

アフロセントリック・インクルージョン

グナワ民族の音楽について、ランディ・ウェストンはこう述べている。「彼らの音楽を聞いていると、そこからはブルース、ジャズ、黒人教会音楽の起源がすべて同時に聞こえてくる。」・・・Mother Africaから奴隷としてアフリカから連れ去られ、楽器も言葉も使うことのできない状況で、彼らがかろうじて維持したもの。それを知ることは、ディアスポラの子孫、そして音楽家としての自身のアイデンティティを定義することだっただろうと想像する。アーサー・テイラーの有名なインタビュー本、『Notes and Tones』を読んだ時にも、現代のアメリカにおける音楽シーンを見ていても感じることだが、アフリカ系アメリカ人が、「ジャズ」を始めとするアメリカ音楽に対して感じてきた所有意識はこのディアスポラとしてのアイデンティティに繋がる。そういったコンテクスト(音楽的背景)において、アフリカ系アメリカ人のミュージシャン達が他人種に対して排他的なスタンスを取る場合が多々あることを、私は実感として理解している。ただし、その所有意識や排他主義は、アメリカの哀しく複雑な歴史および現在の社会状況に帰依するものであり、それを公に否定する権利は非黒人にはないと感じる一方で、あまりにもアフロセントリズムを押し出してくる種類の音楽には個人的に食指が動かないのも事実である。ランディ・ウェストンは、アフリカをテーマに音楽を作り続けた代表的なアフリカ系アメリカ人の音楽家であるにも関わらず、そういった排他的なアフロセントリズムの匂いがまったくしない。冒頭の引用からもうかがえることだが、彼は政治や思想を躊躇なく音楽と交わらせた人だ。だが、そのやり方は排他主義的でも運命主義的でもなく、率直で純粋なアフリカへの憧れを音楽に昇華したものだったように思える。ランディ・ウェストンの音楽家としての姿勢には、どちらかといえば「アフロセントリック・インクルージョン(アフリカ中心主義的一体性)」という言葉がふさわしいかもしれない。これこそがランディの「寛容」そのものなのだ。この「寛容」に集約されるものがこれからの現代社会において一人一人に求められるであろう姿勢であり、ランディ・ウェストンが若い世代のアーティスト達から圧倒的な支持を得ているわけはそこにあるのだと、私は思う。

The dialogue included in this article originally appeared in Democracy Now!, the independent news program based in New York, and was transcribed in translation by Rema Hasumi.

この記事に含まれるインタビュー内容は、 ニューヨークに拠点を置く独立放送局「デモクラシー・ナウ!」で放送された内容をもとに、著者により翻訳作業及び書き起こしが成されたものである。

(全文訳:蓮見令麻)

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蓮見令麻

蓮見令麻(はすみれま) 福岡県久留米市出身、ニューヨーク在住のピアニスト、ボーカリスト、即興演奏家。http://www.remahasumi.com/japanese/

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