#06 セシル・テイラーとベルリン、FMP

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text by Kazue Yokoi 横井一江

 

私が初めて西ベルリンを訪れたのは1989年5月だった。当時、西ドイツではハンガリーがオーストリアとの国境にある鉄条網を撤去したことが大きな話題となっていた。「何かが起こる」、そのような予感を多くの人は漠然と感じているようだった。この動きは8月の汎ヨーロッパ・ピクニックに繋がっていく。まさに東西冷戦が終わろうとしていた。そして、11月にはベルリンの壁が崩れるのである。

政治的な話題はさておき、メールスで出会ったベルリーナーの友人達が皆私に言ったことは、たぶん日本から来たということもあったのだろう、前年(1988年)にセシル・テイラーが一ヶ月に亘るコンサート・シリーズを行い、それを11枚組のCDセットとして発売したということだった。日本にも1988年にセシル・テイラーは来日しており、私は五反田の簡易保険ホールで行われたトーキョー・ミュージック・ジョイでのソロ・ピアノと調布のグリーンホールでの「Trans Media Ⅲ Butoh」(にっかつ撮影所主催)での田中泯+舞塾とのパフォーマンス「Drive-on 月が侵入する縁側の板敷きで」を観ていた。セシル・テイラーのソロは素晴らしく、田中泯+舞塾との公演も印象的だっただけに、友人とはセシル・テイラーの話題でひとしきり盛り上がったように記憶している。

友人が話していたベルリンでのコンサートは、1988年6月17日から7月17日にかけて行われた「Improvised Music Ⅱ」である。これは、1988年の欧州文化首都に西ベルリンが選ばれ、その企画としてフリー・ミュージック・プロダクション(FMP)とWerkstatt Berlinが共催で行った企画である。セシル・テイラーは、5名のドラマー、ギュンター・ゾマー、パウル・ローフェンス、ルイ・モホロ、ハン・ベニンク、トニー・オクスレー、そしてデレク・ベイリーとのデュオ、ペーター・ブロッツマンやエヴァン・パーカー他が参加したヨーロピアン・オーケストラ、ワークショップなどで演奏した。これだけの企画が実現できるベルリンの文化的な環境をどれほど羨ましいと思ったことか。

FMPがセシル・テイラーを呼び、これほどの企画を行えたのは、それ以前に信頼関係が出来ていたからだろう。1986年4月、FMPが1969年から1998年にかけて開催していた「ワークショップ・フライエ・ムジーク(WFM)」にテイラーを招いた。彼はソロ、ユニット、ブロッツマンやヨハネス・バウアーなども参加したユーロ・アメリカ・グループで演奏している。この時のユニットのメンバーには長年の盟友ジミー・ライオンズの名前はなかった。病気のため出演が叶わず、同年5月に亡くなっている。テイラーが落胆したであろうことは想像に難くない。

60歳を間近にしたテイラーにとって、1988年はひとつの契機となった年だったのではないだろうか。ひとつは「Improvised Music Ⅱ」での経験、そしてもうひとつは田中泯との出会いである。1989年からウイリアム・パーカーとトニー・オクスレーとの「フィール・トリオ」での活動を始めているが、オクスレーとの出会いもまた「Improvised Music Ⅱ」なしにはあり得なかったといえる。とりわけオクスレーと田中はテイラーのよき共演者となり、それは晩年まで続いた。

テイラーは、1989年にもFMP主催のフェスティバル、トータル・ミュージック・ミーティング(TMM)に出演。1990年にはDAADのゲストとして、ベルリンに長期間滞在し、その間にFMPは「TOTALTAYLORTOTAL」というコンサートを行う。今でこそアーティスト・イン・レジデンスは知られるようになり、メールスのようにアーティスト・イン・インプロヴァイザーという制度を作った市もあるが、当時はこの制度がある都市も少なく、音楽ではクラシック以外のミュージシャンが招かれることはまずなかった。その後もテイラーはTMM、WFMなどに毎年ではないものの頻繁に出演するようになる。1996年のTMMでは「トゥー・ポートレイツ スティーヴ・レイシー&セシル・テイラー」という企画が行われいる。長年FMPの制作面を支えてきたヨスト・ゲバースが引退し、2000年にTMMをヘルマ・シュライフが引き継いだ後もテイラーはよく出演していた。テイラーがFMPを信頼したのは、それがミュージシャン組織としてスタートしたこと、またゲバースそしてシュライフの音楽や芸術家への真摯な態度があったからではないかと思う。(*)

度々ベルリンには行くものの、微妙に日程が合わなかったり、ソールドアウトだったり、セシル・テイラーをそこで観る機会を逸していた。それがやっと叶ったのは2003年である。その時はトニー・オクスレーとのデュオだった。ベルリンジャズ祭の会場からタクシーを飛ばして、TMMの会場であるポーデヴィルに入る。ギリギリセーフかと思いきや、なかなかコンサートは始まらない。夜11時頃だったように記憶しているが、会場を埋めた観客もテイラーが時計で動く人間ではないことを了解済みなのだろう。大人しく待っている。これは日本では考えられないことだ。待っていたかいがあって、やっと演奏が始まった。その時のテイラーのパフォーマンスはスピリチュアルな面がより浄化されていて、1992年に新宿ピットインで観た時とは異なる閃きと輝きを感じたのである。それは、晩年のテイラーの共演者としては最適者のオクスレーとのデュオだったからだろう。

そのコンサートの日の昼間、当時のTMMのボス、ヘルマ・シュライフにインタビューをしに出かけた。その時、彼女が突然「セシルにインタビューしなさいよ」と言い出したことから、トニー・オクスレー夫妻が労をとってくれることになった。そこで知遇を得たオクスレーとはいろいろと言葉を交わした。「ふつうオスカー・ピーターソンが好きな人はセシルを聴かないし、セシルを好きな人はオスカー・ピーターソンを聴かない。どちらもグレイトなんだけどね」という話になった。「セシルの音楽はモダン・ミュージックのように決してシリアスに捉えることはない。とっても自由でエナジーに満ちていて、演奏していてとても楽しい」という。この言葉は示唆に富んでいる。肝腎のインタビューはどうなったのかというと、パリス・バーにセシルといるからコンサートが終わったら来るようにと言われて行ったものの、すっかり良い気分になっていたテイラーはインタビューは面倒なのか、終始気の趣くまま、ああだこうだと話をするばかり。特にダンスの話になると夢中になった。バレエから前衛的なものまで、本当にダンスが好きなんだなあと思った。明け方4時、店を追い出されるまで会話は続いたのである。インタビューは失敗だったのだが、オクスレー曰く「インタビューより面白かったね」と。自分の力不足を苦笑するのみだったが、面白かったし、よい体験だったことは確かである。

ベルリンで接したテイラーはリラックスして自然体だった。周囲に彼の音楽を理解し、崇拝する人が多くいるベルリンの空気に馴染んでいたのかもしれない。定宿にしていたホテル・ペンションのオーナーのマダムは音楽ファンで、セシルにはあれこれ気配りをしていたと聞いている。コンサート後もミュージシャン、友人、知人に囲まれ、帰りたくなるまで会場のカフェの片隅を占領していた。気になったのは、テイラーと話をしている時に自分は過小評価されていると思っていることが言葉の端々に感じられたこと。それはアメリカでの境遇に対するもののようだったが、はっきりとはわからなかった。

4月6日「セシル・テイラーが亡くなった」という報が流れ、世界中の新聞が追悼記事を載せた。やはりドイツの新聞では、ベルリンでの長期滞在とFMPがリリースしたCD11枚組について触れていた。日本の新聞はこのような追悼記事を書く習慣がないのか、目にしたのは2018年4月18日の京都新聞に掲載された「フリージャズ、孤高の輝き放つ セシル・テイラーさん死去」(→リンク)という記事だけである。それを読んでかなしい気持ちになると同時に2013年に彼が京都賞を受賞出来たのは本当によかったと思った。記事を読む限り、京都賞が内定した時、テイラーの芸術家としての生は風前の灯火だったのである。実際ドタキャンが幾つか続いていた。稲盛財団の担当者の労が偲ばれる。受賞記念講演(実際は講演ではなく公演)の時に、財団の人が「テイラーさんはどんどん元気になっていますよ」と言った理由がわかったのである。想像するに、受賞記念講演とワークショップでパフォーマンスを行うということが、芸術家としての彼を甦らせたのだろう。共演者にトニー・オクスレーを望んでいたが健康上の理由で駄目だったのは残念だったが、田中泯とのコラボレーションという選択は当を得ていた。とりわけ、京都コンサートホールでの公演は忘れがたいものだった。(これについては既に記事を書いているので、そちらをお読みいただきたい。→リンク) 2016年、ホイットニー美術館で開催された「オープン・プラン」でのパフォーマンス、おそらくテイラー最後のそれが京都賞受賞記念行事では実現しなかったトニー・オクスレーと田中泯という組み合わせだったことは感慨深い。

京都賞授賞式のために来日するに当たって手助けし、身の回りの世話をしていた男性に賞金を盗られるというニュースがあったことは残念だ。金銭的なことや事務的なことに疎い芸術家だったことが災いしたのだろう。加えて年齢的なこともあったに違いない。

セシル・テイラーの音楽、そして自身によるミクスト・メディア的なパフォーマンス、その芸術家としてのトータルな評価はこれからである。それはアメリカのジャズという視座からだけではなく、ヨーロッパのフリー・ミュージック・シーンなども含めて、総合的にこれから検証されるべきだと考える。

偉大なるモダニストの死に、心から哀悼の誠を捧げたい。

 

【追記】

ベルリンで開催された展示会「Underground and Improvisation. Alternative Music and Art after 1968」のブックレットにペーター・ブロッツマンが寄せていた文章に、「セシルがボックス(11枚組CD boxのこと)を渡された時、目に涙を浮かべていた。彼の国でこのようなことが起こることは決してない」とあった。ブロッツマンの言うとおり、ヨスト・ゲバースのクレイジーなまでの熱意はテイラーの心を動かしたのだろう。

【註】

* TMMは2009年にベルリン市からの援助が大幅に削減されたために実施困難となり、中止に追い込まれた。また、FMPのディストリビューションにおいて、契約内容の解釈にゲバースとシュライフで齟齬があり、裁判沙汰になった。結果的にシュライフは裁判に敗れ、FMPのディストリビューションから離れた。

【2013年京都賞受賞時に書いた記事】

Reflection of Music Vol. 30 セシル・テイラー

Reflection of Music (Extra) Vol. 31 セシル・テイラー

Gallery #25 『Cecil Taylor Unit/Nicaragua: No Pasaran – Willisau 83 Live』

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横井一江

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。The Jazz Journalist Association会員。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。海外レポート、ヨーロッパの重鎮達の多くをはじめ、若手までインタビューを数多く手がける。 フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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