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悠々自適 悠雅彦Monthly EditorialNo. 242

悠々自適 #80 「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2018」聴きある記

ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2018 モンド・ヌーヴォー〜新しい世界へ...
2018年5月3~5日 池袋エリア (東京芸術劇場・池袋西口公園・南池袋公園)
text:Masahiko Yuh 悠雅彦
photos: ©大杉隼平/LFJ

 

年々広がりを見せるクラシック音楽の一大祭典、ラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日)。フランス西部の港町ナントで1995年に始まったこのフェスティヴァルが東京に根を下ろしたのが2005年。以来、日本での同祭は、2008年の金沢をはじめ新潟、琵琶湖、鳥栖へと広がった。東京でもこれまでの丸の内エリアに加え、芸術劇場を本丸とする池袋エリアへと拡大し、さらに多彩なプログラムを展開して、単にクラシックにとどまらない広範な音楽ファンの関心を集めている。ところが今年、制作費の負担の重さから鳥栖を皮切りに琵琶湖、金沢、大津などの地方都市が撤退し、琵琶湖のように顔ぶれをすっかり変えて、琵琶湖独自の出演者と演目(プロデューサーは指揮者の沼尻竜典)で再出発するところも出てきた。日本ではルネ・マルタン(フランス本国のプロデューサー)の監修したプログラムをもとに、音楽事務所KAJIMOTOが制作し、主催するところが同社に制作費を払う仕組みだったが、地方都市が負担に音を上げたというのが実情のようだ(朝日新聞5月14日朝刊)。ただ、ひとつ指摘したいのは、後段で紹介するシェーンベルクのピアノ協奏曲とマルティヌーの2台ピアノのための協奏曲をカプリングしたコンサート(5月5日)など(ほかにも幾つかある)は日本の演奏会ではふだん経験できないもので、日本ではわが国の団体やプロデューサーが制作する限り、(多少の嫌みを込めていえば)逆立ちしたって実現できっこないプログラム。そう考えれば、高額な制作費の問題はいずれ機会を見て取り上げるとして、こうした新鮮なプログラムが聴けるラ・フォル・ジュルネが継続して開催されることを多くのファンが期待していることは間違いないと思う。

ラ・フォル・ジュルネ(LFJ)のユニークなもうひとつの点は多くのコンサートが0歳児から入れること。たしかに、突然赤児が泣き声をたてるコンサートもあったが、大抵の場合親があやしてホール外へ出ることでたいして耳障りとはならなかった。現在、ニューヨーク在住のピアニスト、三上クニが帰国しては『0歳からのジャズコンサート』を全国規模で展開し、好評を博するというユニークな試みを成功させており、去る5月16日に私が訪ねた江東区総合区民センター レクホールでのコンサートには赤ちゃんや子供つれの母親たちが200人近くも参集( 1日3~4回)した。もしこの方式が定着したら音楽界の在りようも変わるのではないかとの期待が湧くのも当然だろう。ぜひ続けて欲しい。

今年のLFJに、興味を強く惹かれるプログラムが幾つかあったこともあって、全部で7公演(池袋6、丸の内1)を聴いた。今回はプログラムを拝見して慎重に吟味したうえで入場券の手配をお願いした。残念だったのは、渋さ知らズのコンサートが他のコンサートとの時間の調整がうまくいかなかったため聴けなかったことだ。


まず最初に指摘したいのは、通常のフェスティヴァル形式のコンサートと違って、1回のコンサートが45分~50分で完結されるシステムのせいか、例えば1日に4~5回のステージ演奏を聴いても聴き疲れがまったくしないこと。海外からこれだけの数のオーケストラやソロイストを呼び集めて、いったいどのくらいの予算が必要なのかと思わず問いただしてみたくなるほどの多彩な顔ぶれゆえ、これまで名前しか知らなかったアーティストやオーケストラの、それも思いもよらぬ素敵な演奏に触れて、事前にはまさに思いもしなかった感激に浸った3日間ではあった。

1.シエナ・ウィンド・オーケストラ

挟間美帆(編曲・指揮)
佐藤浩一(p)吉峯勇二郎(b)伊吹文裕(ds)
5月4日(金曜日)  14:00   東京芸術劇場コンサート・ホール ”ブレヒト”

まずは何といってもこれ。今や才能が爆発しているといって過言ではない挟間美帆のペンの冴えに注目した。多くのファンも同意するだろう、と。ところが、日本を代表するウィンド・オーケストラ(吹奏楽団)にしては、客足が想像したほど伸びない。いったいどうしたことかと、思わず首を捻った。クラシック・ファン以外の方はLFJには関心が薄いと見える。それはさておき、演奏は申し分なかった。とりわけ、ことシエナのアンサンブル・パワーに焦点を当てれば、このウィンド・オーケストラが日本が世界に誇るバンドであることには異論はないだろう。

実は昨年5月に広島市のJMSアステールプラザ大ホールで広島ウィンド・オーケストラ(広上淳一指揮)の演奏を聴く機会があったのだが、中でもアルフレッド・リードの「アルメニアン・ダンス」の全曲演奏に完全にノックアウトされた。下野竜也のもとで鍛えられつつある広島ウィンド・オーケストラといい、佐渡裕が首席指揮者をつとめるシエナといい、私の耳では甲乙つけがたいこの両ウィンド・オーケストラのパワフルな演奏が、わが日本の現今のウィンド・オーケストラが世界的にも屈指の実力を備えつつあることの証明になるのではないか。そのシエナは今回、作編曲家として脚光を浴びている挟間美帆を指名し、彼女と組んでハービー・ハンコックの「Maiden Voyage( 処女航海)」を演奏した。

2014年に出光音楽賞を受賞し、その2年後「未来を担う25人のジャズ・アーティスト」(ダウンビート誌)に選出された挟間美帆は、先ごろ発売された『セロニアス・モンク作品集』(ヴァーヴ)で作編曲家の真価を発揮して評判になった。これはオランダのメトロポール・オーケストラ・ビッグバンドと組んだライヴ演奏で、モンクを現代に甦らせた編曲手腕が人々を唸らせたのである。この日は、彼女がヤマハ吹奏楽団に委嘱されて書いた「大航海時代」とモード・ジャズの象徴的なヒット作となったハービー・ハンコックの<処女航海>を、全体でひとつの作品となる形にしてスコア化した。彼女は「処女航海」を2015年にビッグバンド化したが、これを今回吹奏楽用に再編曲した。この吹奏楽のための「処女航海」はむろん世界初演となる。<処女航海>は<ソー・ホワット>や<インプレッションズ>で始まったモード・ジャズ時代を代表する楽曲で、ハンコックのブルーノート盤(65年)を通して紹介され、たちまち人気曲となった。狭間は自身の「大航海時代」を冒頭に置いて、聴く者に大作の序章をイメージさせながら、名曲<処女航海>をパノラマ化した壮大な交響詩とでもいうべきウィンド・オーケストラ作品に仕立て上げ、あっぱれ期待に応えてみせた。抜かりなく全体をまとめて指揮した挟間美帆と、これに応えて凄まじいアンサンブルの迫力を現出させて聴く者を圧倒したシエナ・ウィンド・オーケストラとの、60分近い壮大なコラボレーションに観客は熱烈な拍手を贈った。佐藤浩一を軸にしたジャズのトリオの健闘をも称えたい。

さて今年はセルゲイ・プロコフィエフが亡くなって65年。大好きな作曲家の1人という意識が働いていたわけでもあるまいが、今年のLFJは不思議とプロコフィエフ作品の好演に巡り会う機会となって嬉しかった。それが偶然かいずれも印象深い演奏だったうえに、そのプロコフィエフ作品目当てで聴いたピアノの演奏会で思わぬ感激的な演奏と出会う幸運を得た。プログラムにプロコフィエフの曲を置いたコンサートは3公演。

2.アレーナ・バーエワ(ヴァイオリン)
  クレール・デゼール(ピアノ)
  2018年5月3日(木曜日)10:30 東京芸術劇場シアターウエスト”ツェラン”

○ ニーグン(ブロッホ)
○ ヴァイオリン・ソナタ第2番ニ長調 op. 94 bis(プロコフィエフ)
○ 2つのサロン風小品 op. 6 から 第1曲「ロマンス」(ラフマニノフ)
○ バレェ音楽「妖精の口づけ」・ディヴェルメントから「パ・ド・ドゥ」(ストラヴィンスキー)

プロコフィエフ第1号はスイス出身のバーエワがフランスのピアニスト、クレール・デゼールと演奏したヴァイオリン・ソナタ。これは緊張感に富む繊細にして傑出した演奏であった。力まかせの豪快さとは対極の真摯な演奏に聴き手はいつしか引き込まれた。バーエワについては彼が仙台国際コンクールでの優勝者であることぐらいしか知らなかったが、配布されたプログラムにはヴィエニャフスキー国際、パガニーニ国際の両音楽祭コンクールで優勝しているとあり、なるほど卓越したテクニックを駆使した細部にも意を凝らした演奏で、プロコのこのソナタがいかに高度な奥行きを持つ傑作であるかを再認識させられた。冒頭の「ニーグン」はユダヤ教讃歌。ユダヤの血を引くバーエワならではの選曲。3曲目のラフマニノフも甘さを極力排除して、ふくよかなロマン性を詩的に歌い上げていたが、何といってもプロコフィエフが圧巻だった。

 

3.アブデル・ラーマン・エル=バシャ(ピアノ)
        クルージュ・トランシルヴァニア・フィルハーモニア管弦楽団  カスパル・ゼンダー指揮
         2018年5月3日(木曜日)14:00 東京芸術劇場コンサートホール”ブレヒト”

○ イタリア奇想曲 op. 45 (チャイコフスキー)
○ ピアノ協奏曲第3番ハ長調 op. 26(プロコフィエフ)

これもお目当てはプロコフィエフ。といっても、こちらは20世紀が生んだピアノ協奏曲の傑作であり、隠れた名ピアニストというべきエル=バシャがどんな演奏でこの名曲を料理するかが1つの焦点だった。エル=バシャの演奏はいたって端正で、ごまかしは一切ない。リズム感も簡潔さに満ち、表現のスケール性とのバランスが実に整然としていて、実に気持のいい爽快感を覚える。指揮者のカスパル・ゼンダーとエル=バシャとのスムースな呼吸がコンチェルトの歯切れの良さをさらに際立たせるとともに、エル=バシャの楽曲に対する丁寧なトレースが味わいの濃密さを生み、正確なペダル操作を含めた全体の演奏の運びがすこぶる印象的だった。クルージュ・トランシルヴァニア・フィルハーモニーをナマで聴くのは初めてだが、比較的歴史の浅いオケながら今やルーマニア屈指であることはいうに及ばず、現代屈指のオーケストラではないかと目を見開き、認識を新たにした。むろん指揮者ゼンダーの好采配がオケの隠れた実力を引き出した面が強いことを認めたうえで、なおこのオケの素晴らしさは特筆に値する。

 

4.マリー=アンジュ・グッチ(ピアノ)
2018年5月3日(木曜日)16:30 東京芸術劇場シアターウェスト”ツェラン”

○ 序奏とロンド 変ホ長調 op. 16 (ショパン)
○ 練習曲集「音の絵」op. 39から(ラフマニノフ)
第4番 ロ短調
第5番 変ホ短調
○ ピアノ・ソナタ第6番イ長調  op. 82(プロコフィエフ)
○ <アンコール曲>
左手のための協奏曲「ピアノソロ版」(ラヴェル)

この女性ピアニストのことは、本国(フランス)で話題の的となっていること以外には何も知らない。プログラムにプロコフィエフのソナタが載っていたのと、あとは話題を呼んでいる理由の一端が分かるかもしれないという遊び心で入場券を申し込んだ。今年のLFJでの演奏をじかに聴いて、私が心底驚いた演奏家はこのマリー=アンジュ・グッチというピアニストに指を屈する。最初のショパンからして例外ではなかったが、次のラフマニノフとプロコフィエフを聴いているうちに、いつしか彼女がフランス人だということさえ宙に飛んでしまい、打鍵の圧倒的強烈さ、氷の塊を思わせる音色の冷たくも堅固で激越なトーン、激情的にクレッシェンドする音の爆発的な波に圧倒され続けた。もしやこのピアニストはロシアのピアニストの間違いではないのか。とりわけ第7番、第8番とともに”戦争ソナタ”を形成するプロコフィエフの第6ソナタのグッチは、まるでピアノの鍵盤と闘う革命音楽家のようだった。ことに彼女の左手の強烈なタッチは、独特のポーズと揺れをともなっていっそう激越的だった。それを象徴的に示した凄まじい演奏が、全プログラムを終えて無言のままピアノに向かって激情をほとばしらせたラヴェルの有名な「左手のための協奏曲ニ長調」の第3楽章。まさに凄まじい左手だった。この曲は戦争で右腕を失ったパウル・ウィトゲンシュタインの委嘱で書かれた。ちなみにプロコフィエフもウィトゲンシュタインの委嘱で左手の協奏曲を書いている(ピアノ協奏曲第4番)。グッチの左手で聴きたいと思った人が少なくないのではないか。最近評判のピアニストに、チェコのマルティン・カシークとか、スペインのルイス・フェルナンド・ペレス、日本の反田恭平らがいるが、フランスで早熟の天才と評判のマリー=アンジュ・グッチもむろんその1人であることは間違いない。

 

ほかにも印象に残ったコンサートがあった。簡潔に書いておこう。

● 期待が高かったバーバラ・ヘンドリックスの『Road to Freedom/自由への道』(3日 18:30 東京芸術激情コンサートホール)は、かつて一世を風靡する活躍でファンを唸らせたバーバラもこの11月には 70歳を迎えるという年齢となり、さすがに美声の衰えは隠せなかった。ソプラノならではの高音の美声に比して中音域の衰えは致命的といえるほど艶を失ってしまった。思えば25年近く前に彼女がモントルージャズ祭に出演したときの華やかな躍動的ステージと真珠にたとえられた美声を思うと悲しくさえなる。年齢ゆえの衰えとあれば致し方あるまい。スウェーデン国籍を取得している彼女は今回スウェーデンの演奏家たち(ピアノのマティアス・アルゴットソン、ギターのマックス・シュルツとウルフ・エングランド)のバックを得て往年の闘争歌ほかを歌い、故キング牧師の演説や、ワーザン・シャイアが難民について書いた「Home」を朗読した。アンコール曲はかつてフォークのジョーン・バエズの歌で大ヒットした「We Shall Overcome 勝利を我らに」。彼女にとって闘いはまだ終わっていないのだ。

● アルメニア音楽のエキゾティックな旋律の魅力は、たとえばアラム・ハチャトリアンの「ガイーヌ」や「仮面舞踏会」などで知るところだが、さらにエキゾティックなアルメニア民謡が<アラーラ(アララト山)~4日 2:30、シアターウェストでカンティクム・ノーヴムの歌と演奏でたっぷり披露された。アララト山はトルコとアルメニアの境にそびえている。オスマン・トルコによって追放されたアルメニア人の悲嘆や祈りがエマニュエル・パルドンがリーダーのカンティクム・ノーヴムによって切々と歌われ、演奏された。12人の歌と演奏で奏でられるエキゾティックな哀愁が日本人の私たちの心の琴線をも揺らした。
このカンティクム・ノーヴムが日本の邦楽演奏家とコラボレートした「La Route de laSoie~シルクロード~5月5日、17:45、東京国際フォーラム ホールB7 ”クンデラ” 」も企画としては面白いが、出来としては生煮えの観は免れなかった。日本からは尺八の小濱明人、筝の山本亜美、津軽三味線の小山豊の3名がジョイントしたが、3者の健闘ぶりが光ったとはいえ、異国の文化がシルクロードを通って日本へたどり着き、日本独特の審美眼を通して花開いたという一端を、アルメニアと日本の音楽家が共演して真のコラボレーション を達成するためにはもっと回を重ね、付け焼き刃にならないためのジョイントの工夫をこらす必要があるだろう。

 

5.フローラン・ボファール(ピアノ)
        クレール・デゼール(ピアノ)
        エマニュエル・シュトロッセ(ピアノ)
        シンフォニア・ヴァルソヴィア 廖國敏[リオ・クォクマン](指揮)
2018年5月5日(土曜日)東京芸術劇場コンサートホール”ブレヒト”

○ ピアノ協奏曲  op. 42(シェーンベルク)
○ 2台のピアノと管弦楽のための協奏曲  H. 292(マルティヌー)

この2曲を聴く機会は滅多にない。ことにマルティヌーの方はピアノを2台用意しなければならないとなれば、さしてポピュラーでもないこの曲が公演プログラムにのる機会は恐らく滅多にないだろう。クラシック音楽のプロパーではない私の、これらの作品を聴く機会が限定されているだけだと言われたら二の句が継げないが、両曲ともプログラムに載りにくい作品であることだけは間違いないだろう。それにしても、4つの部分からなる単一楽章のシェーンベルクの協奏曲は変化も多彩で聴き飽きることがまったくない。ピアノの単独パッセージで始まるが、4つのパートのテンポとオーケストラの色彩変化もスリリング。
テンションを高めたり緩めたりする変化を叙述するシェーンベルクのオーケストレーションが素晴らしい。もっと演奏の機会があってもいい曲だ。ことに最後にかけてのピアノとオケが競い合うアンサンブルのクレッシェンドする盛り上がりにはエキサイトさせられた。フランスのフローラン・ボファールの演奏も快調。もっと聴きたいと心底思った。
マルティヌーの方もいかにも彼らしい機知に富む作品で、ことにデゼールの提示にシュトロッセが呼応する第2楽章で、クラやフルート、ファゴットのパッセージを経て2人のピアニストの対話にホルンやクラなどの木金管が絡む哀愁味、第3楽章の2ピアノとオケの一体的な讃歌や終盤の2ピアノのカデンツァなど、聴きごたえ充分だった。ふだん滅多に聴けないこういった曲が聴けるところがLFJならではのよさだろう。
指揮者のリオ・クォクマンの歯切れの良いシャープな運びが見事。故ユーディ・メニューインがポーランドで組織したオーケストラの好演も称えられてよいだろう。

 

6.エカテリンブルク・フィルハーモニー合唱団
  アンドレイ・ペトレンコ(指揮)
  2018年5月4日(金曜日)東京芸術劇場シアターイースト”ボウルズ”

○ 『晩祷』op. 37 から「わが霊や主を称えよ」(ラフマニノフ)
○ 『3つの聖なる歌』から 2「イエス、わが神」3「神なる御父」(シュニトケ)
○  アヴェ・マリア(ペルト)
○  最後の審判を待ちながら(アルハンゲルスキー)
○  ロシア正教会典礼「神はわれらとともに」op. 40–6(チェスノコフ)
○  『プーシキンの花輪』から 7「起床ラッパが鳴る」、10「ストレコトゥーニャ・ベラボーカ(かささぎ)
○  ロシア民謡「トロイカ」(コロフスキー編曲)
○  何のために泣こうか(ワルラモフ/ペトレンコ編曲)
○  ロシア民謡「放棄」(ルブツォフ編曲)
○  ロシア民謡「丘の上で」(コロフスキー編曲)
○  イタリア・ポルカ(ラフマニノフ)
○  ロシア民謡「果てもなき荒野原」(スヴェチニコフ編曲)
○  ロシア民謡「おんな男爵」(ノヴィコフ編曲)

最後はコーラス。日本の合唱団を聴き慣れた耳には外国の、とりわけロシアの合唱団の飾らないアンサンブルには戸惑いを感じる人もいるだろう。今年結成10周年を迎えたエカテリンブルクは50人近い全員の個性と技量とを活かしたプログラムで、後半に入るに従って聴く者を惹きつけて放さない個性的な唱法を堪能させた。音程は確かで、曲と表現によって多彩なヴォイスを自在に操る。ロシア民謡を中心に、まさに鍛えられたコーラス術の迫力豊かな唱法が聴く者の心に強くアピールした。四方の壁を震わせるフォルテッシモから再弱音のピアニッシモまで、ときにはユーモラスに、1人ひとりの個性と高度なヴォーカル技術を各楽曲の聴きどころを活かした合唱術の粋を披露して喝采を浴びた。堪能した。

最後に。2019年のラ・フォル・ジュルネ東京が早くも楽しみになってきた。(2018年5月13日記)

悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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