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悠々自適 悠雅彦Monthly EditorialNo. 252

悠々自適 #86 Obituaries(訃報)をめぐって~名士達の死を悼む

text by Masahiko Yuh 悠 雅彦

児山紀芳氏が去る2月4日、胃癌のため入院先で亡くなった。82歳だった。
私にとって氏はかけがえのない恩人であると同時に、特別な存在とでもいうべき人だった。実は、私がジャズをはじめとする音楽の世界で執筆するきっかけとなったスイング・ジャーナル(SJ)誌(当時)の懸賞論文で映えある特別賞を受賞したときの編集長が氏であり、この年(1969年)以後同誌に頻繁に寄稿する便宜をはかってくれた最高の理解者でもあった。そのうえ、私と児山さんとは年齢でいえば一つしか違わないのに、私が家内(病没)と結婚式をあげたときに仲人役を買ってくれた恩人でもあった。いま思い返せば冷や汗が吹き出しかねないほど、SJ誌には毎月のように大小の原稿を書いた。それほど氏が私を買ってくれたことへの感謝を何ひとつ伝えられないうちに氏が遠い世界へ旅立ってしまったことを、いまはただ愕然とした思いで噛みしめている。過日、当誌編集長の稲岡邦彌氏と喫茶店で一休みしたとき、彼がかつてトリオ・レコード(当時)にいたころの話しを聞いてなるほどと思ったことがある。当時トリオが関係を結んでいたブラック・ライオンやフリーダム(英国)からはスタンリー・カウエルやチャールス・トリヴァーら新進気鋭の演奏家たちのフレッシュな吹込作が次々と発売されており、それらの作品のライナーノーツ(演奏解説)の依頼が私のところにしばしば来た。児山さんという人は執筆者がどのような音楽的素養を持ち、いかなる理解を持っているかを把握していて、そのアルバムの演奏解説には誰がふさわしいかをレコード会社の担当者に推薦したとは耳にしていたが、編集長によればスタンリー・カウエルとチャールス・トリヴァーの解説には私の名前を出して強く推したという話を聞いて噂が本当だったのだと私は納得したのであった。氏のそうした独断性をひとりよがりと批判する向きも少なくなかったが、かといって氏のそうした考え方を表立って論破する能力を持つ人も多分いなかったといってもいいのではないか。それだけ氏は各執筆者の特性や能力を見抜き、それを雑誌の紙面作りに反映させていたのだと私は理解した。その児山さんがかつて大腸癌の大手術を経験した私より先に死出の旅に発つとは。人の運命とはまったく分からないものだ。

児山さんがいかにジャズという音楽を愛し、みずから認める”ジャズばか”となって我が国のジャズ界に生きた血を注ぎ込む情熱を発露させてきたかは、彼が昨夏に出版した『”ジャズ” のこと ”ばか” り ”考” えてきた=ジャズばか考』(白水社)に余すところなく語り尽くされている。機会を得てぜひご一読していただきたい。

ところで昨年は、セシル・テイラー(2018年4月5日)をはじめ、佐山雅弘(2018年11月14日)、前田憲男(2018年11月27日)らジャズをはじめとする音楽分野で大きな足跡を残した卓越せるピアニストが世を去った。私自身にも忘れられない傑れたピアニストが何人かいたが、とりわけ自身のWHYNOT というレーベルに初リーダー作を吹き込んでくれた辛島文雄(2017年2月24日)の死(膵臓癌)には人知れずそっと合掌した。彼が亡くなったことを私はしばらく知らずにいたのだ。私自身の最後のプロデュース作品となった『Plays Monk』を置き土産に世を去った(1995年4月22日)異色のピアニスト、ドン・プーレンの場合も、同様に数日経ってから知って愕然としたこと。彼とはセッション後に親しく話す時間がなく、再会を楽しみにしていた矢先の訃報だったのだ。彼の突然の死は私個人にとっては2000年を迎えようとする矢先に37歳の若さで亡くなったミシェル・ペトルチアーニ(1999年1月6日)や、あるいはかつてのクリフォード・ブラウンらの死とともに、ジャズを覚醒させる永遠の道標となる忘れられない貴重な一コマかもしれない。余談だが、1980年代の後半だったかペトルチアーニが来日演奏を行ったとき、たまたま司会をしていた私が彼をピアノの椅子まで運んだことがあった。両腕の中のぺトルチアー二のあまりの軽さに拍子抜けする一方で、彼の演奏の雄弁さに強く印象づけられたことがあたかも昨日のことのようだ。

ピアニストといえば、ついこの間の3月5日、『プレイ・バッハ』で人々の喝采を博したジャック・ルーシェが亡くなった。その少し前(1月26日)には『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』などのいかにもお洒落なフランス映画でファンを魅了したミシェル・ルグランも帰らぬ人となった。一方、ジャズ界の方では私と同い歳のジョセフ・ジャーマン(1937.9.14~2019.1.15)とマラカイ・フェイヴァース(1927.8.22~2004.1.30)が相次いで亡くなった。ジャーマンについては懇意にしていた本誌のフォト・ジャーナリスト望月由美さんが連載エッセイで弔意を表している。

ところで、大学のオーケストラ活動で精力的に活動したあとプロに身を投じ、変わらぬ活躍を続けているミュージシャンが少なくない。過ぐる2月22日に恒例のコンサートを催して好評を博した守屋純子オーケストラの守屋純子はその1人。彼女は早稲田大学のハイソサエティ・オーケストラ(ハイソ)の出身だが、彼女の先輩で日本を代表するラテン・パーカッションの第一人者に納見義徳がいる。その納見義徳が同じ2月22日に亡くなった。詳しいことは不明だが、日本のラテン・パーカッションを代表する名手として彼の右に出る者なしと言われるほどの腕前を誇った人だったことは皆さんすでにご存知だろう。生年は1940年生まれとしか分からないが、実を言うと彼と私とは不思議な因縁で結ばれていたと、私はかねがね思っていた。そのエピソードをご紹介しよう。私は早稲田へ入るとハイソに入部した。楽器は何かと問われたが、思わずヴォイスと答えて大笑いされたことを今も思い出しては苦笑いする。だが当時、すでにハイソには八色賢典なる男性ヴォーカリストがいた。キング・コールばりの味のある声とフレージングですでにハイソの看板シンガーの地位を占めていた彼の前には、私がいくらヴォーカリストで活動したいと願っても叶わぬ望みであることは間違いなかった。歌手としての部活動が叶わないなら、ハイソに入部することは断念するしかないと肚を決め、ハイソの大先輩で東京パンチョスというラテン・ビッグバンドを率いて華やかな活躍を展開していたリーダーのチャーリー石黒の仕事場のダンスホール、飯田橋松竹へ日参するようになった。チャーリーは面倒見のいい人で、彼のもとから森進一や布施明たちが巣立ってスターとなった。余談となるが、彼は1984年12月14日に50代半ばで病死(生年は1928年1月20日)してしまった。

さて、それから間もないある日、思わぬ知らせが耳に入った。八色が映画界からスカウトされ、鶴田浩二主演の映画で俳優としてデビューすることになったというのだ。映画は石原慎太郎原作の『夜を探がせ』のタイトルで1959年に公開され、以後彼がハイソへ戻ってくることはなかった。八色が映画界へ進出したことで、ハイソの専属シンガーは私をおいていなくなったのだが、実を言うと同じようなことが納見義徳がハイソに入部してきたときに起こったのだ。ハイソに入部してきたとき、納見は同僚から希望するポジションを問われてヴォーカリストだと答えた。ずっと後になって彼の返答に同僚は何と言い含めて納得させたかを聞いて、そのときは笑って誤魔化したものの気持は複雑だった。彼はこういったらしいのだ。まあ、チャンスが巡ってくるまで打楽器でも叩いていろよ、と。納見が本当に彼の助言に従ったかどうかは分からない。だが、だいぶ歳月が過ぎて、気がつくとその納見義徳が本邦のラテン音楽におけるトップ・オーケストラ、見砂直照(1909~1990)と東京キューバン・ボーイズの打楽器奏者として活躍しているではないか。彼は間違いなく、ハイソのOB、チャーリー石黒と東京パンチョスを皮切りに、東京キューバン・ボーイズを経て遠藤律子のFunky・Ritsuko・Versionなどで活躍し、後に日本のラテン・パーカッション協会の会長を務めるなど日本が誇るラテン・パーカッションの第一人者として盛名をはせた、日本の誇るべき打楽器奏者であった。私がWHYNOTというレーベルを作ってテッド・カーソンやウォルト・ディッカーソンらの吹込をプロデュースした1975、6年、納見もまたキューバやメキシコで研鑽を積んでいた話を聞くと、私と彼とは不思議な糸で結ばれていたような気がしてならない。ちなみに彼は、先に触れた守屋純子オーケストラの演奏会の当日の2月22日に世を去ったが、何かの因縁だろうか。80歳であった。

ジャズ界の傑出したアレンジャーとして、特に宮間利之とニューハード時代の「仁王と鳩」や「土の音」をはじめとする数々の傑出したオリジナル作品を世に送り出した山木幸三郎さんが昨年暮れ、12月26日に亡くなった。87歳だった。あんなに飄々として元気そうだった山木幸三郎さんが、と思うと妙な気がしないでもない。69年の『パースペクティブ』を皮切りに<日本ジャズ賞>や<芸術祭優秀賞>など数々の栄誉に輝いたニューハードの重鎮として宮間さんの片腕となってニューハードをまとめ、一方でジャズを熟知したアレンジャーとして数々の編曲作品をニューハードに提供してニューハードの黄金時代に大きな貢献を果たした功績は永遠に語り伝えられることだろう。我が国のビッグバンド史上を飾った宮間利之ニューハードで黙々と宮間さんを支え続けたヒューマンな男、それが山木幸三郎だった。私は全盛期の江利チエミがコンサートやリサイタルでは判で押したように宮間利之とニューハードを指名し、仲が良かった美空ひばりが原信夫とシャープス&フラッツをバックにジャズやポピュラー曲を熱唱するそれぞれのステージを目の当たりにしたが、宮間さんも山木さんもどんなステージといえども決しておろそかにしない舞台人であり音楽家だった。ちょうどこのころ縁があって江利さんのプロダクションに入った私は彼女の前座で歌ったことがある。バックは無論ニューハードだった。そんなことが突然宮間さんの脳裏に蘇ったのだろうか。後年、ニューハードが銀座のヤマハホールで定期的に演奏するようになったある夜、何を思ったか宮間さんが司会役の私にそっと耳打ちした。「悠ちゃん、どう?久し振りに歌ってみない?」。いやァ、驚いた。ヤマハホールといってもダンスホールの会と銘打った催しだから気楽に歌えると、宮間さんの遊び心がフッと湧いたのかもしれない。編曲を山木さんにお願いしたら快く引き受けてくれた。2曲歌ったが、1曲は忘れもしない。それはトニー・ベネットが歌った映画主題歌で、「サ・セ・ラムール」。作曲者はコール・ポーターで、私は個人的にポーター曲の中では一番と言いたいくらいに大好きな曲だった。私が忘れられないのは山木さんが何の注文もつけずに、私から提供されたベネットのシングル盤だけを参考にして、わずか数日後の演奏のためにオーケストレーション化し、譜面まで用意してきてくれたことだ。山木さんが冥界へ旅立つ日が分かっていたら、感謝のメッセージを捧げたいと思っていたのだが、もちろん叶わなかった。生前にいソノてルヲ氏が「山木幸三郎は僕がディジー・ガレスピーのビッグバンドのレコードを聴かせてからその魅力にとりつかれて勉強し、アレンジャーになってディジーを神様だと思っている男です」と語っていたのを思い出す。いソノさんの話は話として聞き流しても結構だが、その話を知っていた私には山木さんというと忘れられないシーンがすぐ瞼に浮かぶ。それは1974年の米モンタレー・ジャズ祭でのことだった。ニューハードが晴れて同祭に招かれて出演し、デューク・エリントン楽団が演奏した同じ舞台で演奏した時のことだ。ディジー・ガレスピーも自己のグループで出演していたが、ニューハードの演奏中に姿を現したディジーが何と最後尾の日本人ラッパの席に巨体を並べて観客を笑わせ、アンコール演奏ではステージの中央に降りて、やにわにギター席の山木さんを引っ張り出してユーモラスなダンスを披露したのだ。観客が大爆笑したことは言うまでもない。私が一番感心したのは引っ張り出された山木さんがニコニコ笑ってディジーのお相手をし、彼とユーモラスなダンスをしたことだ。嫌な顔一つしない山木さんの笑顔を見て、山木さんはいま世界一尊敬している男と手を組んでダンスを楽しんでいるんだと私は実感した。この瞬間、私はあのいソノさんの言葉が真実だったということを確信した。ニューハードのコンダクター役でモンタレーに同行した私にとっても忘れられない思い出となった。このときの演奏をレコード化したのが当時のトリオ・レコードで、ゴーサインを出した男が現JazzTokyoの編集長、稲岡邦彌氏だったのも不思議な因縁だ。

すでに予定の枚数に達しているのだが、最後に、去る2月28日に89歳の生涯を閉じたアンドレ・プレヴィン(1929年4月6日生)に触れて締めくくることにしたい。現代屈指の人気指揮者として名を馳せたプレヴィンだが、私にとってのプレヴィンは小粋で躍動するピアニズムの持ち主、コンテンポラリーやキャピトルなどに、とりわけ美人歌手との吹込に忘れがたい作品を残した傑出したピアニストだった。60 年代半ば以降はヒューストン響を皮切りに世界の有名オーケストラの指揮者として大活躍(NHK交響楽団の首席客演指揮者だったことも)したプレヴィンだが、それまではジャズ・ピアニストとして華々しい活躍をした。とくに57年から60年にかけてのコンテンポラリー・レコードには人気盤『マイ・フェア・レディー』や『ウェストサイド・ストーリー』など、ベースのレッド・ミッチェル、ドラムスのシェリー・マンやフランク・キャップらと共演しあった粋で楽しい作品のほか、ラス・フリーマンとピアニストとして共演しあった作品もあり、大学に入ったころ嬉々として聴いたものだった。指揮者としての活動が本格化してからはジャズ・ピアノを披露することはほとんどなくなったため、現代のファンの中にはジャズ・ピアニストとしてのプレヴィンをまったく知らない人がいてもおかしくない。彼の優れた指揮によるレコードを聴いて感じたのだが、もしジャズ・ピアニストの彼と共通する特徴を挙げるとすれば、洒脱さ、あるいはお洒落な身振り、格好よさだろうか。ベルリン生まれながらフランスで教育を受け、その後(1938年)ナチスの迫害を逃れて米国へ渡り、ハリウッドのある西海岸で活躍し、ニューヨークの自宅で生涯を閉じたアンドレ・プレヴィンの音楽には、世界のさまざまな顔、優れたセンスが脈打っていると感じるのは私だけだろうか。

悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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