Reflection of Muisc vol.44 ウラジーミル・タラーソフ

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Vladimir Tarasov

ウラジーミル・タラーソフ@メールス・ジャズ祭1989
Vladimir Tarasov @Moers Festival 1989
Photo & text by Kazue Yokoi 横井一江

 

ロシア屈指のドラマー、ウラジーミル・タラーソフの自伝『トリオ』(鈴木正美訳、法政大学出版局)が出た。タイトルが示すようにヴャチェスラフ・ガネリン(p)、ウラジーミル・チェカーシン(sax)と出会い、ガネーリン・トリオ(GTChトリオ)の結成から解散に至るまでを回顧している。随分と音楽家の自伝や伝記を読んだが、この本はそれまで読んだものとは全く違う。音楽家や彼らを取り巻く人々だけではなく、KGBや国外に行ったときに同行する「外套」と呼ばれる監視要員も登場、まるでロシアを舞台としたサスペンス小説のような世界だった。

今や伝説的に語られるガネーリン・トリオの存在を知ったのはたぶん80年代初め頃だと思う。最初に聴いたのは、イギリスのLeo Recordsからリリースされた『Live in Germany』だった。それまではソ連のジャズ状況、いわんや進歩的なジャズ状況を知る由もなかったが、ロンドンのBBCで働く亡命ロシア人レオ・フェイギンが自身のレコード会社からガネーリン・トリオやセルゲイ・クリョーヒンのアルバムをリリースし始めたのだ。ジャケットに印刷された「この録音のリリースについてミュージシャンたちはなにも責任を負っていない」という文字からその時代性が甦る。その後Leo Recordsから『Con Fuocco』が発売になったので買ったが、もっとこのトリオの音を聞きたいと思ってもなすすべはなかった。そんな時、あるコレクターが興味があるのならと、ポーランドで録音された2枚『TRIO WIACZESLAWA GANIELINA』(Pronit)と『JAZZ JAMBOREE – 76』(Muza)、ソ連のMelodiaからリリースされた2枚『Con Anima』と『Concerto Grosso』をカセットテープにダビングしてくれた。ポーランドのジャズ・レコードはわずかだったが出回っていたもののクラシック音楽以外のソ連盤は見かけたことさえなかったので、嬉しかった。彼に限らずコレクターは、盤そのものを貸し出すことは嫌うので、レコード本体は見ていない。それでも音を聴くことが出来れば満足だったのである。

しかし、『トリオ』を読了した今、音楽家として生きること、国外で演奏すること、レコードを出すことに、想像を超えたドラマ、闘いがあったことを知らされた。80年代、私はただただトリオの音を聴いていた。フリージャズともよくあるヨーロッパ・フリーとも一線を画したトリオの演奏は、あきらかに構成があり、その中で自由な演奏、そこから聞こえる彼らのヴォイスは、さらなるジャズの地平を拓いているように聞こえ、新鮮さをもって耳の中を通り抜けていったことを思い出す。

トリオを始めた翌年の1972年、どこで聞きつけたのかヨアヒム・ベーレント音楽監督のベルリン・ジャズ祭は招待状を送る。しかし、文化省が送った電報に書かれていたのは「そんなトリオはソ連邦には存在しない」だった。トリオが実際にベルリン・ジャズ祭で演奏するのは8年後の1980年、それが西側での最初の演奏になる。「公式」なミュージシャンになってからもさまざまな苦闘があり、やっと1976年にポーランドでの演奏が認められるのである。Muza盤はその時の演奏だったのかと思うと妙に感慨が深まり、ごそごそと古めかしいカセットテープを引っ張りだしていたのだった。好んで聞いていたMelodia盤の2枚にもストーリーがあった。ソ連でのレコード制作は、メロディアという会社との関係だけではなく、芸術評議会が関わってくる。「芸術評議会がたんにうっかり見逃し」たため運良く『Con Anima』は世に出たものの、次作『Concert Grosso』リリースには彼らとの厳しい闘いがあった。おそらく国内のコンサート活動で成功していたこともあったのだろう。その後は問題なくレコードを出せるようになったのだが。そんなこんなを読み、音源を聴き直すとズシンとくるものがあった。

やがて、困難はあるもののトリオは国外のツアーも行えるようになり、『Live in Germany』がリリースされたことで、ガネーリン・トリオの西側での知名度も上がった。Leo Recordsのレオ・フェイギンとのコンタクトもまたスリリングである。国外の演奏活動には常に同行する「外套」の監視下にあったため、ベルリン・ジャズ祭の会場、フィルハーモニーで「外套」がいない機会をとらえての自己紹介、レコード・リリースについて話をするにも、ホテルの一室で「外套」に聞かれないように筆談したという。これは東西冷戦下の時代を舞台にしたスパイ小説顔負けのシーンだった。レオ・フェイギンはメールス・ジャズ祭で見かけたことがあるが、上品で温厚に見える彼の行動力には驚かされたが、イスラエルに移住し、亡命したことを考えると納得するものがある。

1985年にゴルバチョフが書記長になり、ペレストロイカに着手し、グラスノスチを進める。それによって、西側の視線はソ連に向かう。ソ連のジャズ・ミュージシャンの西側での演奏も増えた。日本にも1987年の東京の夏音楽祭でレオニード・チジック(p)が来日し、レジー・ワークマン(b)、エド・ブラックウェル(ds)、梅津和時(reed)と共演する。1989年には高橋悠治が「開かれた地平」と題した日米ソ連のミュージシャンが出演するイベントを行い、ソ連からセルゲイ・クリョーヒン、ウラジーミル・チェカーシン、ウラジーミル・タラーソフ、ワレンチーナ・ポノマリョーヴァを招いた。1989年6月には、チューリッヒでソ連のミュージシャンを集めたフェスティヴァルも開催された。そのプログラムにはタラーソフの名前はあったものの、ガネーリン・トリオの名前はなかった。ソ連が大きく変わろうとしているその時期、不思議なことにガネーリンは消えてしまったのである。

私がガネーリンの行方を知ったのはローマだった。マリオ・スキアーノから「ガネーリンはイスラエルに移住した」と聞かされたのである。陽気で誰にも愛されるマリオ、彼がソ連に行き、ガネーリン・トリオと共演し、レコードを制作していたと聞き、驚いたことを思い出す。そして、それがトリオの最後のコンサートだったとは。国境を越えたトリオのドラマはこうして幕を閉じたのである。

『トリオ』は旧ソ連時代に創造的な音楽活動をしようとしたジャズ・ミュージシャンが語った歴史的に貴重な証言である。ロシアのジャズについて書かれた書籍はあるが、ミュージシャンの言葉はリアルで、真に迫ってくるものがあり、ドキュメントとしても秀逸だ。

タラーソフは最後にこう締めくくっている。
「ソ連だけではなく、実質的には世界中で、60~70年代のうねりの中で生まれたほとんどすべての芸術が、大なり小なり反抗的なものだったと言うべきだろう。そして閉鎖的で全体主義的な体制の中に私たちが生きていたので、多くの人達の目に私たちトリオは待望の自由の一滴となったのである」
80年代初頭の私もその「自由の一滴」を受け取ったひとりだったのだ。

トリオ解散後もタラーソフは様々なプロジェクトで活躍し、1998年にはウラジーミル・トリオ(ウラジーミル・タラーソフ(ds)、ウラジーミル・レジツキー(as,fl)、ウラジーミル・ミラー(p))で来日し、Baj Recordsにウラジーミル・トリオ、また佐藤允彦(p)とローレン・ニュートン(voice)との共演盤を残した。近年は音楽家の範疇にとどまらず、サウンド・アーティストとしている。それはタラーソフのドラミングが音響的に空間を構築する卓越した技量とセンスの持ち主であることを考えると、サウンド・インスタレーションなどで活躍しているのも頷ける。一度、見てみたいと思うのだが、果たしてこれは叶うのだろうか…。

写真は1989年、セルゲイ・クリョーヒンのポップ・メハニカでメールス・ジャズ祭に出演した時のもの。タラーソフは90年代半ばにはモスクワ・コンポーザース・オーケストラなど、ロシアの先進的なプロジェクトに参加してきた。『トリオ』の続編ともいえる『タムタム』も出版されているそうなので、是非訳出してほしいものだ。

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横井一江

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。The Jazz Journalist Association会員。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。海外レポート、ヨーロッパの重鎮達の多くをはじめ、若手までインタビューを数多く手がける。 フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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