#1507 『バール・フィリップス=吉沢元治/Oh My, Those Boys!』

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text by 金野Onnyk吉晃

『Barre Phillips=Motoharu Yoshizawa /Oh My, Those Boys!』
NoBusiness Records NBCD103

Barre Phillips – bass
Motoharu Yoshizawa 吉沢元治 – homemade electric vertical five-string bass

CD:
1. Oh My! 54:59
2. Those Boys! 20:19

Recorded live on the 5th April 1994 at Café Amores, Hofu, Yamaguchi, Japan by Takeo Suetomi / Concert produced by Takeo Suetomi
Compositions by Barre Phillips and Motoharu Yoshizawa
Mastered by Arūnas Zujus at MAMAstudios
Photos by Akihiro Matsumoto
Design by Oskaras Anosovas
Produced by Danas Mikailionis and Takeo Suetomi (Chap Chap Records)
Release coordinator – Kenny Inaoka (Jazz Tokyo)
Co-producer – Valerij Anosov


「Music from Two Giants’ Steps」

90年代初頭、吉沢元治はよく盛岡に来ていた。
その理由は市内でモダンダンス教室を開いていたある女性からのオファーで、毎年一度は彼女のパフォーマンスに音楽家として参加していたからである。
また彼女の引き合わせで、市内の画廊のオーナーと意気投合し、テレビ局のロビーでの演奏も行われた。あるときは吉沢はブッチ・モリスを連れてきて、その画廊でデュオ演奏もした。画廊主が声かけをすると数十人が集まった。

私はできるだけ彼の参加する公演を見に行ったし、画廊主に依頼され、ライブの録音や撮影も手伝っていた。しかし、何かしらいつも不満を持っていた。
それは例えば、ダンサーが彼との関係を如何に考えているのかということ。ダンスとベース演奏となれば、一般的にはどうしても音楽は伴奏にみられがちだったり、そうでないとして、吉沢の自由な演奏にダンサーが動きを合わせるだけという、限界の見えるパフォーマンスに陥る。ならば、ダンサーの動きに音楽が寄り添うのか?同じ事だ。
もしこれが楽器同士の共演であれば、互いの演奏に不即不離という関係は普遍的だし、予測不能の展開にこそ即興の面白さはある。
残念な事にダンサーは、そこまでの意識はなかっただろう。疲れが出れば勝手に休んでしまうし、動き自体がクリシェの連続だったように思う。
吉沢が何故彼女を助けていたかは知る由もない。

中野のPlan Bで、吉沢が田中泯と共演した後だったが、聴衆とパフォーマーの談義になった。そのとき誰かが「踊りと音の関係は相互に反応するんですか」というようなことを尋ねた。それに対しどちらかが即座に言った。「音が来てから反応したり、動きを見てから音を出すなんてのはダメ。予測しているし、それよりもずっと先にあるよ」と。完全に二人は同意していた。

しかしある時、吉沢は盛岡のダンサーのサポート役を千野秀一に譲ってしまった。
私と千野は既に知己であったので、その交替に際し、さて今度はいかなる関係になるかを大いに期待して共演を見に行った。その顛末はこのレビューには関係ないので措く。

そして1996年、吉沢から私にオファーがあった。スティーヴ・ベレスフォードを英国から招聘するので、盛岡でライブを企画してほしいと。
実は私とスティーヴは長いことペンパルの間柄であった。これも死語である。今ならメル友ということになるだろう。80年代初頭から、私は彼と多くのカセットをやりとりし、また私の仲間が作るコンピレーションに一度ならず参加してもらった。また彼の参加したフランクチキンズの演奏に私の送ったゴジラの声が使われている。
そんな訳で、ベレスフォードが来るなら大歓迎という気持ちだった。勿論、吉沢も同行する。そこで私は彼と親しかった筈のダンサーや、画廊主、その関係者、つまり地方文化人たちに応援をお願いした。ところが全く反応が良く無い。要するに彼らは音楽家としての吉沢を評価していたのではなく、彼らの文化圏にやってくるマレビトとしてもてなしていた、と言えばいいだろうか。
同じようなことは何度か経験した。リー・コニッツのライブの話が来た時、シュトックハウゼンの息子がやって来る時、市内のジャズファン達は殆ど関心を示さなかった。彼らは自分の依拠するジャズ喫茶のオーナー達が企画するライブにしか興味が無いのだ。
私のような全くどこにも依存しない者が、ライブを企画するなら自力で聴衆を集めるしか無い。それが正しいだろうし。
集客の不安をもらすと、吉沢は其の当時サブカル系で人気が出て来た大友良英を連れて行くと言ってくれた。
この話を友人達にすると、ベレスフォードも吉沢も知らないが、大友なら人を集められると言い出した。そして地元のDJなどを巻き込んでライブを実行したのだが、まあこの顛末も思い出すと辛いので措く。

このCDの演奏が録音されたのは1994年だから、私がよく吉沢を聴きに行っていた時期である。通称「棺桶」と言っていたあの自作ベースだろう。多様なエフェクターを自在に操り、音の変容だけでなく、残響の定位も様々に変化させ、私は大いに驚いたのを覚えている。まあ、そんな技術的なことはいくらでも書かれているし、今ならもっと様々な可能性はある。しかし当時はコンピュータの支援などもなく、吉沢ほど多様にベースを異化してみせるヴァーチュオーソは居なかったのである。いや、今も居ないかもしれない。

ヴァーチュオーソというなら、どうしてもこのライブの共演者を思わざるをえない。
バール・フィリップス!この名前を聞いただけで、あの、初の無伴奏ソロアルバムの音色が蘇る。そしてまたジョン・サーマン、ステュー・マーティンとの「ザ・トリオ」。ジャズ界に同じ名前のトリオは数あるが、私にとっては唯一の「ザ・トリオ」だ。
フィリップスもまた盛岡には来ている。これはあるジャズ喫茶の何周年かを祝う大きな企画のライブで、福島から5人編成のバンドが来て、フィリップスと共演した。
初めて見るフィリップスのソロには大きな期待があった。しかし、途中で違和感を感じ始めた。何故、いろいろと余計なパフォーマンスを加えるのか、演奏に徹してほしいのだが。
この感覚はソ連(当時)の、アンサンブル・アルハンゲリスクが来たときに似ている。彼らは意図的にロシアの大道芸人=スコモローヒの真似をしていたのであるが、私の見たかったのはロシアのジャズの演奏であったのだ。
しかし、聴衆はパフォーマーに如何なる文句を付けられるであろうか。「お前の演奏は面白く無い、もっと楽しませてくれ」。これはダンスの伴奏だけをさせられた禁酒法時代のジャズメンへの言葉と同じではないか!。
ミュージシャンは、置かれた環境で、あるいは自分で選んだ状況で、最善の努力をしている。だから偶々出会ったフィリップスのクラウン的な有様を非難はできない。

このアルバムには、まさに最良の、格好の共演者を得て楽器の可能性とソノリティを追求して止まないベースの巨人達がいる。
2トラック目、<Those Boys!>はとくに凝縮された時間だ。例えばフィリップスとデイヴ・ホランドのデュオである『Music from Two Basses』(1971, ECM)でもそうなのだが、単に二人のベーシスとが丁々発止とやり合うのではなく、まるで交響曲が自然に生まれでて来るかのようなサウンドスケープではないか。
二度とこの演奏には出会えない。この録音以外では。つまりこのライブが企画され、録音されていたことが、そしてこのように届けられたことが僥倖である。
時を経て、眠っていた音たちが目覚める。巨人達の跫が。

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。第五列の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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