#1522 『Satoko Fujii Orchestra New York / Fukushima』

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text by Yoshiaki onnyk Kinno 金野吉晃

Libra Records

藤井郷子オーケスト ラニューヨーク:
Oscar Noriega (as)
Ellery Eskelin (ts)
Tony Malaby (ts)
Andy Laster (brs)
Dave Ballou, Herb Robertson, 田村夏樹 (tp)
Joey Sellers, Joe Fiedler, Curtis Hasselbring (tb)
Nels Cline (g)
Stomu Takeishi (b)
Ches Smith (ds)

1. Fukushima 1
2. Fukushima 2
3. Fukushima 3
4. Fukushima 4
5. Fukushima 5
composed by Satoko Fujii

Recorded by Joe Marciano at Systems Two, NYC, May 18, 2016
Mixed by Mike Marciano at Systems Two, NYC, August 18, 2017
Mastered by Max Ross at Systems Two, NYC, September 8, 2017

このアルバムを含めて4枚程の作品のレビューを打診された。そして3枚を聴いた。逡巡した挙げ句、私が書くべきなのはこれしか無いと思った。しかし同時に、それは一番辛い道になると思った。
何故辛いか。それは決して表題が重いからではない。むしろこのテーマに関しては言葉が、現実が、思いが、言説が、溢れかえっており、自分には整理がつけられないだろうと直観したからだ。
だから全く表題を無視して、音楽の印象だけを語る、そんな逃避のレビューを書いてしまおうかとも思った。
例えば印象だけで言えば1971年のThe Trio (John Surman, Stu Martin, Barre Phillips) に、チック・コリアと英国気鋭のジャズメンが11名が加わった『Confagration』に似通ったものを感じる。そのアブストラクトなモチーフの構築性や緊張感の途切れない煉獄のような演奏は。
そうやって未聴の人々へ期待または怪訝さを与えて素知らぬ顔もできただろう。

作曲家、高橋悠治は、2011年11月に出版された雑誌「アルテス」創刊号のインタビューに答えているが非常に含蓄がある内容だと私は感じている。
この震災の年に差往還された雑誌の特集は「3.11と音楽」であった。内容は非常に濃密である。高橋以外にも、片山杜秀、佐々木敦、三輪眞弘、坂本龍一、大友良英、ピーター・バラカン等々、アーティスト、論客が寄稿、対談、インタビューで持論を展開している。
その中で高橋の発言は、極めて冷静に芸術一般と大災害の無縁さについて語っており、おそらくナイーブな考えの持ち主や、もはや使命感に燃えたアーティストには反感を買いさえするような内容である。
彼の指摘は重要だ。便乗、善意がないまぜになっての現地での表現、音楽の必要の「無さ」、震災のみならず災害は何も変えない、スタイルは商品である、権力から脱力へ、有用さは啓蒙主義、必要は資本主義の源、と書き連ねるとまるで、何かをやることが罪悪のようにさえ思える。
佐々木敦もほとんどそこまでは同じ説を唱える。また演出家、海上宏美はいち早く廃業宣言を唱え、何事か表現を為すのは全て資本主義に寄与するだけとと主張した。アーティストたるもの、商品とならずには糊口をしのげまい。
しかし高橋は市民運動へ関わり、体制への抵抗を続けて来た音楽家でもある。そして彼は言う、全部「ほころびてないといけない」、と。まとめてしまうことこそ体制なのだと。明日をも知れない世界の中でできることは、思想を断片化し、リーダーやイデオロギーで連帯するのではなく、ヒトビトの「流れ」を生むことだと。一昔前なら「リゾーム」とでも言っただろうか。
先月に引き続き、アドルノを引くのは卑怯なのだが「3.11以降、音楽をやることは◯◯である」として、この「公式」の完成のために、私はどのような言葉を選ぶべきなのか。

震災から7年余が経過し、状況は変化した。収束ではない、変化し続けている。いやフクシマに関しては後何十年かかるのかさえ見えないような状況だ。そこで平和に暮らしていた人々は戻れるのか?
タルコフスキーの映画「ストーカー」(79年)には「ゾーン」と呼ばれる地域が描かれる。そこは不可思議な理由で生じた領域であり、立ち入った者は帰って来ない。しかし、その中心部に到達すれば、あらゆる希望が叶うという伝説がある。だからそこに行こうとする者は後を絶たない。
私はこのゾーンを、どうしても放射能汚染区域に重ねてしまう。最後の希望、しかしそこに到達できるのか。

藤井郷子が2016年に、組曲「Fukushima」の構想をいかにして得たかは知る由もない。しかし、この「オーケストラ・ニューヨーク」の面々に、3.11の向こうに9.11が、そして、チェルノブイリ(86年)やスリーマイル島(79年)もイメージされていたとしてもおかしくはない。
世界は何度でも傷つけられた。その傷跡/治癒こそが歴史である。そして人は歴史から何も学ばない。

「Fukushima」の冒頭から最後迄時折り、得体の知れない、風のような、動物の威嚇のような、あるいは虫の羽音や鳴き声のような「オト」が、現れては消える。モチーフが明確になっても、強烈なソロが聞こえても、いつそれが戻ってくるのか不安は隠せない。地響きを立ててくるものより、眼前にないものが恐ろしい。
第5楽章ではようやく平穏なアンサンブルが聞こえて来る。我々は、夢にでもゾーンの中心部に到達したのか?
しかしそこにはメルトダウンしたデブリしかないのか?

日本の原子力政策と世界の動向については、今一度、ではなく常に全ての人が見直すべきだろう。そのうえでそれに同意するならすればいい。
電力供給の問題だけではなく、輸出産業としての原発、さらには核兵器転用の可能性としての核燃料再処理も、そしてまた稼動していない原発の維持費の問題も含めて。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20111125/224335/

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金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。第五列の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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