#1565 『蓮根魂 /月食の夜』
『RenKonKon / The night of lunar eclipse』

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text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野吉晃

地底レコード B83F  ¥2000+税

蓮根魂;
横山和也(voice, 石笛)
西田紀子(fl)
西村直樹(b)
大由鬼山(尺八)
のなか悟空(dr, per)

1.月食の夜 The night of lunar eclipse (Improvisation)
2.畦道ロック The Samurai’s rock (のなか悟空)
3.オバケのワルツ The waltz of goas (のなか悟空)
4.雷神 Thunder God (大由鬼山)
5.あと2泊3日 Hanoi final night (のなか悟空)

Recorded at 横浜エアジン
Mixed by 西村直樹
Mastered by 近藤祥昭 at GOK Sound


『月からの石笛』

1979年の暮れも押し迫った頃だった。移転前の、まだ荻窪にあった「グッドマン」でのフリーセッション。そこには今も活躍する伊豆下田の怪人、庄田次郎がいたし(原尞率いる「ニュージャズシンジケート」に参加しており、まだモヒカンでも半裸でもなかった)、生活向上委員会の吉田哲治がいたし、亡くなった大木公一もいた(余談だが、フランスのギタリスト、ジョセフ・ドジャンを教えてくれたのは彼だ)。

まだフリージャズの西も東も分からない私は、ろくに吹けもしないテナーを持って、フリーセッションがあると聴けば都内をあちこちうろついた武者修行の身だった。
そして「グッドマン」では実に快活なドラマーに出会った。のなか悟空その人である。一聴、そのバイタリティと手数の多さに驚いた。これは悟空ではなく千手観音。まあそれはよい。彼はもう周辺では其の実力を知らしめていた。

その後、彼の演奏には何度か接したが、思い出すのは盛岡市の「パモジャ」で、高木元輝とダニー・デイヴィスと共演したときだった。この頃の彼は少し内省的な演奏になっていたのを思い出す。しかしその後世界中を行脚、とんでもない環境で演奏してきた彼は、まさに人間国宝級の音楽家になっていた。そんなことはこのCDを聴く人は誰でも知っている。

初めて聴いてから40年、パワーは衰えず、テクニックもまして彼の円熟味が見える、と思いきや相変わらずの破天荒な有様もあり、三つ児の魂百までと、にやついてしまうのだ。しかも今回は名うての邦楽奏者やマルチなフルート奏者が相手で、悟空の如意棒がいかに振り回される事か。

一曲目「月食の夜」が圧巻だ。タイトルチューンにしたのも納得する。ベースの紡ぐ網目に管楽器各自の伸びやかな音(と声)が絡まり合い、風通しが良い景色が見える(蓮根だから穴があいている?)。

邦楽器によって、西欧音楽由来の楽器群と共演、特に即興演奏をする際の問題点は、以前から幾つか感じていた。
例えば音量自体の圧倒的な差。西欧音楽の楽器の歴史は、音律の標準化、音色の整理(倍音成分の削減)、そして音量の増大(鍵盤楽器の完成形「ピアノ・フォルテ」に顕著)にある(鍵盤楽器の発達と記譜・譜面の優位化は、楽器ではなく西欧音楽自体の特徴だ)。
しかし邦楽器は、時代による変遷はあるにせよ、それほどの大きな変更、改良をしてきた訳ではない。だからこそ伝承音楽に用いられている訳で、これは社会のドラスティックな変化の中で奇跡的とも言える安定性ではないか。
また、邦楽器のなかには、音色の時間的な変化を精妙に扱う、あるいはそれを楽しむものがあり、西欧音楽の瞬間的な変化を可能にする楽音の分節化を敢えて拒否しているように思える。
勿論、邦楽器には音律も平均律など望むべくも無い。

これらの特徴をわきまえて共演するなら、それは演奏者の卓越した技量に依るしかない(音量だけなら増幅も考えられようが)。其の意味では邦楽器の演奏技術には「神秘な防壁」ともいうべきものがあったのだが、近年、若い世代がどんどん邦楽に関心を強めているのは心強いし、またその技術も上がっているのは周知の事実。

このアルバムでの共演者達はいずれ劣らぬ達人ぞろい、人間国宝もたじたじという瞬間が多々ある。

しかし、トラック4「雷神」は結末の見えたドラマのようにも思える。あるモチーフをリフレインしてそれを練り上げる形式は、即興的なテクニックに依存するよりも慎重な作曲概念を期待したい。例えば誰でも知っているラヴェルの「ボレロ」や、ホルストの「火星」にしても、始まった瞬間にそのパターンを聴くものの知覚に埋め込んでくるのだが、同時に決してこのままでは済まないだろうという期待や不安を齎(もたら)す。この曲においてもソロの後に回帰してくるテーマが把握されれば、聴衆は拍手するタイミングを図るだけだ。

モチーフを繰り返すのは即興演奏において、頻繁に用いられる方法だが、安易に使えばどうしようもなく退屈になる。それは「終われない演奏」というだらしなさか、「落ち着く所に落ち着くだろう」という安易さだ。これは共同体の舞踏を伴うような集団祭礼には普遍的ともいえる形式だが、ここでは祭司と会衆のコール&レスポンスで盛り上げる事が多い。北米黒人音楽の草創期にもよく見られた形だ。現在でさえ、この手の形式は演奏者同士の自己満足になってしまう事が多い。

いずれにせよ、即興演奏の現場ではテクニック争い、音量争いになってしまう傾向がある。例えば技量の不揃いな集団、非音楽家、素人を含むワークショップ的な現場ではよくある。
それを「作品」にまとめあげるのはバンドリーダーになるが、そういうヒエラルヒーや、演奏技術を否定して、大衆的集団即興の方法を考えたのは、コーネリアス・カーデューやジョン・スティーヴンスという優れた組織者達だ。彼らがどうやってそれをなし得たかは別の機会に譲るが、下記に一部紹介した。

https://www.chapchap-music.com/金野吉晃-onnyk-s-essay-novel/

テクニシャン、ヴァーチュオーソ同士の即興であれば、互いの技量と特徴を判断して活かし合うのは困難ではない(敢えてそれを避けるという裏技もあるが)。その意味では即興で演奏されたタイトルトラックが素晴しいし、悟空の作曲と記されているトラック5は面目躍如である。特に大由が素晴しいサウンドを聴かせる。

このライブに少し不満があるとすれば、まさにそこで、百戦錬磨の手だれが集まって「お手並み拝見」とばかりに楽しんでいるという感が些(いささ)かあることだろうか。

しかしまた、私は横澤の石笛(いわぶえ)にも驚いた。ここまで表現力の幅があるのかと。まさか月の石で出来ているとは思えないが。
なぜなら、月には石に穴を開ける貝は住んでいないし、貝の住む川も無い。いやかつてあったのかもしれないが、もしそうだとして、横澤が如何にしてそれを得たかという話を想像して私はにやついてしまうのだ。

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金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。第五列の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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