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Concerts/Live ShowsNo. 225

#932 喜多直毅クアルテット 無言歌〜沈黙と咆哮の音楽ドラマ〜

2016年12月20日(火) 東京・永福町ソノリウム

Reported by 伏谷佳代 Kayo Fushiya

喜多直毅クアルテット;
喜多直毅 (音楽とヴァイオリン)
北村聡 (バンドネオン)
三枝伸太郎 (ピアノ)
田辺和弘 (コントラバス)

〈プログラム〉
1. 月と星のシンフォニー
2. 燃える村
3. 影絵遊び
4. 焦土(新曲)
5. 峻嶺


全曲通しのメドレー形式1時間、MC、アンコールなし。音の立ち昇り豊かな白亜の空間、弾き進む度に床に振り落とされるスコアの数々によって、あたかも過ぎ去った時間がパズルのように視覚化される。タンゴ界屈指のプレイヤーたちを迎えた喜多直毅クアルテットは、その「一幕」としての圧倒的な完成度、放出の限りをつくすエネルギーとテンションの持続、その振れ幅の激しさで、聴き手の意識を根こそぎ強奪するにも等しいインパクトを刻んだ。自然発生的な音で時空を満たしてゆくというインプロの事例には事欠かない昨今、ミクロレヴェルまで徹底して考察され、弾き尽くされ、かつ一音単位でも濃密に息吹く喜多直毅クアルテットの音楽づくりは、正統派のラディカルとして群を抜く。絶えず逃げ場のない正念場であり、そもそも音楽の原動力であるはずの緊迫性がうごめく場だ。このクアルテットの強力な磁力ともいえるひりつくような刹那感は、何もベースとなっているタンゴやアラブ音楽の属性だけに起因するものではない。ヴァイオリンとコントラバスの一部にプリペアドが入ったほかは、完全生楽器勝負。とりわけ三枝伸太郎のピアノは音が速い。雷鳴のような地響きを最速で実現してしまう。身体の隅々までが楽器と化している喜多直毅の拡張奏法はもとより、各プレイヤーの俊敏な身体能力は、分厚いサウンドの塊のなかにも繊細な住み分けを施す。これは先天的な勘に左右される領域であろう。当然のことながら、「無言歌」が一般に喚起する、標題つきで中庸なムードの小品、という刷り込みは早々に玉砕する。緩急・柔硬鮮やかに、時に偽悪的に、退いては寄せるエネルギーの一大スペクタクル。なるほど各曲に詩的なタイトルは付いている。しかしその世界は、言葉が消えた先に、制御できない怒涛のカオスとして、或いは静謐のなかの真空状態として初めて実感される類のものだ。身魂一致の、徹底して聴かせるパフォーマンス。近頃常套となった、表現者と客席との間の寛いだ親近感にももちろんメリットはある。だが、筆者がアーティストに求めたいのはもっと非日常的な琴線である。その線引きをどこで行うかがますます難しくなっているなか、久方ぶりの粛然たる公演だった。
(*文中敬称略。12月21日記 伏谷佳代)

© 齋藤真妃 Mai Saitoh

〈関連リンク〉
http://www.naoki-kita.com/
http://kitamura.a.la9.jp/index.html
https://synthax.jp/RPR/mieda/esperanza.html

伏谷佳代

伏谷佳代 (Kayo Fushiya) 1975年仙台市出身。早稲田大学教育学部卒業。欧州に長期居住し(ポルトガル・ドイツ・イタリア)各地の音楽シーンに親しむ。欧州ジャズとクラシックを中心にジャンルを超えて新譜・コンサート/ライヴ評(月刊誌/Web媒体)、演奏会プログラムやライナーノーツの執筆・翻訳など多数。ギャラリスト。拠点は東京都。

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