RIP K.Abe 追悼 阿部克自

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K.Abe  阿部克自   写真家・グラフィックデザイナー
1929.12.10-2008.9.17

1. 略歴
2.ありがとう そして さようなら 常盤武彦
3.阿部さんとミルト・ヒントン・アワード受賞 五野洋
4.阿部さんの思い出 稲岡邦彌
5.阿部阿部さんとデューク・エリントンの切手 稲岡邦彌
6.阿部克自を悼む 悠雅彦
7.今年度のミルト・ヒントン・アワードについて ビル・ウィシュナー
8.在りし日の阿部さん 編集部


1.略歴 阿部克自 写真家・ラフィック・デザイナー

1929年、東京生まれ。
早大在学中からジャズ・ギタリストとして活躍。卒業後、米軍キャンプなどで演奏。
後にジャズ写真家に転向。自ら撮影したジャズ・ミュージシャンのアルバム・デザインもこなす。70年代にはFM東京でジャズ番組のパーソナリティを務める。同じく70年代、悠雅彦氏の主宰するレーベル「WHYNOT」のアートワークを担当したほか、VDiscを編集したアルバムをプロデュース。90年代から「Jazz Life」誌にフォト・エッセイを連載。2005年、日本人として初の「ミルト・ヒントン・アワード」を受賞。写真集に「50 JAZZ Greats from Heaven」(1995 シンコーミュージック)、CD-BOOKに「アメリカン・スタンダード」(1992 立東社),著書「パーカーの子守歌」(シンコーミュージック)他。

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2.ありがとう そして さようなら 常盤武彦

K.Abe / Ron Carter

ニューヨークのジャズの現場で、70歳以上のヴェテラン・ミュージシャンの撮影をして、私が日本人であることが分かると、必ずと言っていいほど聞かれる。「キミ、K. Abeを知っているかい?Abeは元気にしているのか?」ソニー・ロリンズ(ts)、フィル・ウッズ(as)、ジム・ホール(g)、ロン・カーター(b)、錚々たるジャズ・ジャイアンツ達だ。「Abeは、私のメンター(師匠)です。こうやって私がニューヨークでジャズの写真を撮影できるのも、彼が切り拓いてくれた道があるおかげです。」しかし、「元気になさってます。今度東京でお会いしたら、よろしくお伝えします。」と言うことは、もう出来なくなってしまった。
昨年の4月、ブルーノート・ニューヨークで、ジム・ホール(g)とロン・カーター(b)のデュオがあった。楽屋に挨拶に訪れると、月末にはブルーノート東京に出演するという。2人は、是非この機会に久々にK. Abeに会いたいと言う。私も、翌週から東京滞在だったので、「阿部さんのコンディションがよかったら、必ずブルーノート東京にご案内します。」と約束した。東京に戻り、いつも通り阿部邸を訪問し、私の新作写真をご覧いただいた。ジムとロンのメッセージを伝えるまでもなく、阿部さんはブルーノート東京に行かれるつもりになっている。私も同行させていただくようにお願いした。当日開演前に、楽屋に招かれた。2人と熱いハグを交わす。エキサイティングな時代を共有した戦友同志には、長い言葉はいらない。空白はすぐに埋まり、お互いの健康を喜んでいた。繊細なサウンドのつづれ織りのようなライヴが佳境に達したところで、ジム・ホールがマイクをとり「今日は、古い友人のカツオ・アベが来てくれて、とても嬉しいです。彼のためにブルースを一曲演奏します。」とアナウンスする。客席の中からも、この伝説のフォトグラファーを知る人たちから拍手が湧いた。「全く30年以上の付き合いなのに、また名前を間違えやがった。」と阿部さんは笑っていた。
今度帰国しても、もう健啖な阿部節をお聞きすることが出来ないと言う現実が、まだ受け入れられない。今はただ、ご冥福をお祈りしたい。(フォト・ジャーナリスト/在NY)

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3.阿部さんとミルト・ヒントン・アワード受賞 五野洋

阿部さんと初めて仕事をしたのは内田浩誠(p)の初リーダー・アルバム『Three from Boston』をリリースした80年代初めだと思う。当時ポリドール邦楽部で国内制作ジャズをスタートさせた頃で、オールアートの石塚社長から頂いた音を聴き、内田の骨太なスイング感が一発で気に入った。そのジャケットを阿部さんがデザイン(もちろん写真も)したのだ。それからお付き合いが始まり、87年に洋楽ジャズに移ってからはジャズ・カレンダーの写真選びなどで大泉学園のお宅によく通うようになった。ジャズメンのエピソードをいろいろ聞かせてもらい、その度にバカ笑いしながらも大先輩のジャズという音楽とジャズメンに対する大きな愛情に憧れを感じ、それが自分のジャズメンとのつきあい方の基本スタンスになっていったような気がする。特に印象的なのはサド=メルがオーケストラを率いて初来日した時に自腹を切って金銭的サポートをしたというエピソード。その時は学生だったが紀伊国屋ホールで聴いたサド=メルのカッコ良さは今でもハッキリ憶えているし、「そうかそれを水面下で支えたのは阿部さんだったのか」、とあらためて感動もした。

Bud Shank / K.Abe

病と闘い始めてからもそのシャイかつ頑固な性格は変わらず、だんだん写真の第一線から距離を置くようになって来た。晩年、おもいきって「もう写真は撮らないんですか?」と聞いたことがある。阿部さんは小さい声で「もう撮りたいミュージシャンがいないもん」と照れ笑いを浮かべながら、自分に言い聞かせるように答えた。
最後の思い出は2005年のミルト・ヒントン・アワード受賞式。日本人初の受賞だというのに最初は「五野ちゃん、代わりに行って来てヨ」と嫌がっていたのを説得して重い腰を上げたのはいいが結局付き合わされる羽目になり、奥方と3人でロス珍道中。ロングビーチで行なわれた授賞式ではウィリアム・クラクストンをはじめ友人ジャズカメラマン、バディ・コレット、バド・シャンク、ジェフ・ハミルトンなどの旧友ミュージシャンがK.Abeを祝福、再会を心から喜んでいるのを見て、無理にでもお連れして良かったんだ、と実感した。帰りの飛行機でジュリー・アンドリュースと30年ぶりに再会するというボーナス・トラックまで付いて無事帰国。その後も毎月1回はお宅にお邪魔して例のバカ話に花を咲かせていたが、少しずつ、バカ話が静かになっていった。そして今年7月にお会いしたのが最後になった。今年になってジム・ホール、ソニー・ロリンズという闘病中も手紙で励まし続けてくれた二人の大親友のコンサートに顔を出して楽屋で旧交を温めたのも阿部さんなりのお別れだったのではないか・・・・と思う。
前の晩、病室でテレビを見ていた阿部さんは9月17日(水)朝7:30眠るように息を引き取ったそうだ。(55レコード代表)

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4.阿部さんの思い出 稲岡邦彌

阿部さんとの出会いはディー・ディー・ブリッジウォーター(vo) のアルバム・カバーだった。
74年のサド・メル(サド・ジョーンズ=メル・ルイス・オーケストラ)で初来日したディー・ディーのデビュー・アルバム『アフロ・ブルー』が滞日中に日本で制作され、仕掛け人のプロモーター、オールアートの石塚貴夫社長の肝入りで阿部さんがジャケット写真を撮影した。阿部さんは、当時スキンヘッドだったディー・ディーを真正面から捉え、そのポートレートを大きく活かしたアートワークが強い印象を残すアルバム・カバーとなった。後年、CD化されたアルバムを携えてNYのブルーノートに彼女を訪ねると、歓喜の声を上げながら、共演のレイ・ブラウンらに自慢していたのを思い出す。
この『アフロ・ブルー』がSJ誌の「制作企画賞」を受賞し、トリオ=ケンウッド・レコードのロング・ベストセラーとして売上に大いに貢献したこともあり、その後、石塚氏が招聘するアーティストがシリーズ的に制作されていったが、アルバム・カバーの撮影はそのほとんどを阿部さんが担当した。アニタ・オデイ、アン・バートン、キャロル・スローン、アイリーン・クラール、ジョニー・ハートマン、ハンク・ジョーンズ、サディク・ハキム、バーニー・ケッセル、日本人では峰純子など。
阿部さんはとてもダンディでいわゆるジェントルマンだったが、キース・ジャレットがヨーロピアン・カルテット(1979年、ビロンギング)で来日した際、ステージ写真の撮影をお願いしたところ、初対面だった阿部さんはキースの眼鏡を外してもらう要求に Would you mind~(していただけますか?)と声をかけているのを耳にし、ジャズ・ジャイアンツとの長い交友の秘訣を知る思いがした。本物のプロが職業の異なる本物のプロに接する礼儀が見事に身に付いているのだ。一方ではシャイなところもあり、一回り以上も年下の私を「稲岡くん」と一度も呼んだことがなく、呼びかけはいつも「稲岡旦那」だった。大学の後輩でもあったのに。
義理堅さは性格によるものだったのだろうか。トランペットの近藤等則と共催した「東京ミーティング」。昭和記念公園の他に、東映撮影所にも会場を設けたのだが、大泉学園の自宅から数分の距離とはいえ、“大人のジャズ”を愛する阿部さんがわざわざ足を運んでくれた。いつものようにきっちり身だしなみを整えて。近所だからとはいえ決してルースな格好では人前には出ない。近藤やサムルノリの耳をつんざくようなけたたましい音に、いつのまにか姿を消してしまったのではあるが。
唯一の心残りは闘病中いちども見舞いに顔を出せなかったこと。同じ舌癌で壮絶な闘いに敗れた畏友・小野好恵の記憶が未だに鮮明に残っているからだ。阿部さん、ご免なさい。(Jazz Tokyo編集長)

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5.阿部阿部さんとデューク・エリントンの切手 稲岡邦彌

1年振りのカンザス・シティ訪問から帰国した竹村洋子さんからお土産にいただいたブックマーク(いわゆる、しおり)を見て驚いた。何とデューク・エリントンの本物の切手が封入されているではないか!これこそ阿部さんが撮影したデュークのポートレイトをもとにイラストが起こされたアメリカ郵政省発行の切手ではないか。念のため、ご子息が構築中の阿部さんの作品のアーカイヴで確認してみる(http://abesun.com/)。間違いはない。アングルもなにもかも寸分の狂いはない。
じつは、この切手が発行されたとき、僕はデューク・エリントンとセロニアス・モンクの2種類をシートで購入した。阿部さんの追悼特集を組むにあたって必死で探したのだがどこに紛れ込んだのかとうとう見つけることができなかった。
何とか画像だけでも入手できないものかとgoogle/webとgoogle/imageに何通りかのキーワードを入れて検索してみたのだが、1枚もひっかかってこなかった。竹村さんにその話をすると、すぐにeメールが返ってきて「e-Bayにありますよ」とURLが付記されている。e-Bayとはアメリカの人気オークション・サイトである。竹村さんのお陰で、実物の切手と画像データを一挙に手に入れることができた次第。竹村さんは同時に発売されたジョン・コルトレーンやルイ・アームストロングなどのブックマークも含めて、カンザス・シティのアメリカン・ジャズ・ミュージアムで購入したという(竹村さんの今回の訪問で得られたさまざまな興味ある情報は1年間にわたってレポートしていただくことになっている)。
ちなみに、家捜しの結果出て来たのは、別の機会に求めたジェームス・ディーンの切手シートだった。もうひとつ、阿部さんがECMのプロデューサー、マンフレート・アイヒャーと都内の割烹で談笑する貴重なスナップも探し出せないでいる。

追)執念で阿部さんの写真を探し出した。しかし、「都内の割烹でECMのマンフレート・アイヒャーと談笑している」というのはまったくの記憶違いで、「六本木のモンシェルトントン(瀬里奈)でキースと石焼ステーキをつついている」阿部さんが正解だった。撮影は78年12月13日、ジャズ・ピアニストがソロで武道館をフルハウス(12,000人)にした記念すべきコンサートの翌日のことである。

筆者 / Keith Jarrett / K.Abe

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6.阿部克自を悼む 悠雅彦

Sir Roland Hanna / Walt Dickerson (WHYNOT)

阿部克自さんの訃報に触れて、過ぐる日々の思い出が脳裏を駆け巡った。阿部さんとはどんなご縁で親しくなったのか。色んな思い出があるのに、最初の出会いだけはなぜか思いだせない。68、9年ごろだったと思うが、故マル・ウォルドロンが来日中にレコーディングした録音スタジオで、ジャケット写真を撮っていた阿部さんに話しかけたのが最初だった気もする。だが、これも確かめたわけではない。
1975年に私がトリオ・レコードの稲岡邦弥氏のバックアップを得て「WhyNot」レーベルを設立し、プロデュース活動を展開する大きなきっかけとなったのが、その前年の2月、サド・ジョーンズ=メル・ルイス・オーケストラが来日公演を終えた直後に敢行した故ローランド・ハナとジョージ・ムラッツのレコーディングだった。ハナからレコードを作りたいので力を貸して欲しいと阿部さんのもとに打診があり、阿部さんから共同で録音制作をしないかと相談されたことが一つの端緒となったからだ。もしこのプロジェクトを断念していたら、ホワイノットの誕生はなかったかもしれない。阿部さんと話し合いながら、まさに2人の手づくりで仕上げた1作が『1×1(ワン・バイ・ワン)』で、現 ” What’s New ” のオーナー佐藤弘氏が録音で協力してくれた1作でもあった。仲間内に今はない東宝レコードで仕事をしていた小川浩氏が発売に尽力してくれ、彼のもとでレコード化された。当時かなりの評判を得たと記憶する。阿部さんと相談をしてこの1作の権利を東宝側に移譲したときの思い出といえば、阿部さんが金銭的に恬淡としていたこと。子供のように無邪気な人で、ハナと戯れあうように冗談を言い合っていた姿と、レコード化されなかったムラッツの単独ベース・ソロに惚れ込んでいた姿とが瞼に焼きついている。少なくともハナとムラッツにとっては、これは実りある記念すべき1作だったろう。本作品が好評を得たことでデュオの名もあがり、その後のハナ&ムラッツ後続作品の先駆けとなったからだ。
翌年、ホワイノット制作が本決まりとなり、ジャケットのデザイナーには阿部さんが座った。誰からも異論はでなかったはずだ。アフリカン・アメリカンの民族カラーである黒、赤、緑を基調にしたデザインをお願いした以外は、すべて阿部さんにお任せした。私がプロデュースするジャズを彼が歓迎してくれたかどうか確かめたことはないが、この時分の私たちは互いの仕事を認めあい、ジャズ祭を中心にした夏のニューヨーク滞在中でも私は古くからの無二の親友のごとくホテルの1室に彼を訪ねてはひとしきり談笑したものだった。
彼は秋吉敏子さんとほぼ同じ歳で、私にはかなりの先輩だったが、不思議なくらい彼との年齢の違いを意識したことはなかった。それだけ彼がざっくばらんな人柄で、気の置けない人間だったということだろう。彼は旧海軍兵学校の出であり、父がまだ元気だったころ、海軍の軍人だった父に兵学校の名簿を見せてもらい阿部さんの名前を探したことがあった。名簿の終わり近くに阿部さんの名前を見つけたときは不思議な気がしたものだ。阿部さんからは旧海軍軍人のイメージや面影をひとかけらも見いだせなかったからだ。また彼はジャズのギタリストでもあった。だが私には、日本のジャズ写真家のパイオニアである阿部さんと、戦後早稲田大学に学び直して以来の彼の来歴、特に海軍兵学校の出で、ジャズ・ギタリストとしてもチャーリー・クリスチャンに私淑するほどの腕を持っていた阿部さんとが、本当に同じ人物なのかといつも不思議でならなかった。ジョジョ(故・高柳昌行)の演奏に接したときギタリストの夢は諦めた、と彼は私に語ったことがあった。そのせいかジム・ホール、ケニー・バレルや故バーニー・ケッセルなど数え切れないほどの有名ギタリストと親交があり、またデューク・エリントンやディジー・ガレスピーをはじめ多くの歴史的巨人たちから信頼されていた阿部さんのように、レンズではなく肌を接して対等にミュージシャンと語らい、ときには冗談を言い合うような人に私は以後会ったことがない。そういう彼が私は羨ましくてならなかった。
ホワイノットの縁でしばしば会っていた当時は、ほとんど毎日のように電話で話を交わしあい、私はまるで同輩と接しているときのように駄洒落や冗談を言い合ったりしたことが、まるで夢の中の出来事だったような思いだ。晩年は病をえて不遇だったような気もしないでもないが、今はただ、彼との生前の交際に感謝し、冥福を祈りたい。おっつけ私も参る。ただ、訃報を聞いたら、ロリンズが悲しむだろうな。(本誌主幹)

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7.今年度のミルト・ヒントン・アワードについて ビル・ウィシュナー

Jazz Greats by K.Abe

第6回「ジャズ写真の功績を称えるミルト・ヒントン・アワード」は、50年以上にわたってジャズ写真を撮り続けてきたK. Abe(日本、東京)に贈られることになった。授賞式は、2005年1月にカリフォルニア州ロングビーチで開催される毎年恒例のInternational Association of Jazz Education (IAJE)のミーティング会場にて行なわれる。
K. Abe(阿部克自)は1929年生まれ。第2次大戦後、アメリカの占領下にあった日本で、ギタリストとしてジャズ・シーンに入った。だがベニー・グッドマン・バンドのギタリスト、チャーリー・クリスチャンを聴いたのがきっかけで、Abeは自らの目標を楽器の演奏から、敬愛するミュージシャンの写真撮影に切り替えた。1951年から、写真の撮影に加えて、カメラ技術、レコード・ジャケットのデザインにも卓越した才能を発揮しはじめた。Abeはハッセルブラッドとニコンを手にして世界中を飛び廻り、50年代以降の音楽シーンを彩った偉大なジャズメンを撮りまくり、数多くのミュージシャンやプロデューサーのためにジャケットをデザインしてきた。長年にわたって現像や焼付けの研究を重ねた彼は、「ジャズクローム」と名付けられた焼付け処理法を開発したが、これは彼の写真技術の頂点をなすものである。
K. Abeは、『50 Jazz Greats』『Parker’s Lullaby』『New York - A Jazz Fan’s Guide』など、6冊の本を出版している。また彼が編集し、デザインした『Jazz Giants – Vision of Great American Legend』は、画期的なジャズ写真集のひとつとして評価が高い。Abeの作品はこれまで世界各国で何度も展示されているが、同時に彼のジャズにまつわる様々な事物や資料のコレクションも公開され、アメリカ、日本でジャズの豊かな歴史を人々に知らしめるのに寄与してきた。1986年、アメリカ郵政公社はデューク・エリントンの記念切手を作るにあたり、Abeが撮ったエリントンの写真を切手の原画に採用している。
Abeが音楽とミュージシャンへ注いできた情熱、彼の芸術形態としてのジャズの普及への貢献は顕著であり、「ジャズ写真の功績を称えるミルト・ヒントン・アワード」の“生涯にわたるジャズとジャズ写真の普及と発展への貢献”という受賞基準を充分に満たすものである。
ミルト・ヒントン・アワードは、今回からJazz Photographer’s Association(JPA)とIAJEの共同主催によって運営されることになった。この賞は、1992年、JPAによって創設され、1993年にミュージシャンのミルト・“ザ・ジャッジ”・ヒントンが最初の受賞者に選ばれた。賞の名称はそれに由来している。ミルトは傑出したジャズ・ミュージシャンであると同時に、40年にわたってツアーで世界中を廻りながら写真を撮り続け、写真家としても高い評価を受けていた。彼のジャズ写真作品はニューヨークのデイヴィッド・バーガーによって編纂され、『Bass Lines』と『Overtime』という2冊の写真集にまとめられている。また彼の世界的に有名なジャズ写真は、各国で何度となく展示されている。
ミルト・ヒントン・アワードはジャズ写真への生涯にわたる功労を称えて贈られる唯一の国際的な賞であり、ジャズの写真、ジャズの歴史の普及・発展に功績のあった個人や団体を顕彰するものである。これまでの受賞者は、ミルト・ヒントン(1993年)、ウィリアム・クラクストン(1995年)、レイ・エイヴリー(1997年)、ハーマン・レナード(1999年)、ビル・ゴットリーブ(2001年)の5人。2003年には賞の贈呈がなかった。
1980年代初め、レイ・エイヴリーによってロサンジェルスで設立されたJazz Photographer’s Associationは、創設20周年を迎えたばかりである。この20年間、当代の著名なジャズ写真家が多数加入して会員になっている。JPAとミルト・ヒントン・アワードを共催することに関し、IAJEの事務局長ビル・マクファーリンは「今回新たにIAJEがJPAと提携し、過去、現在、未来のジャズにかかわるヴィジュアルな遺産の保存に我々が一層の貢献をすることができるようになったのは、喜ばしいかぎりだ」と述べている。
昨年、IAJEとJPAの双方の会員で構成されるミルト・ヒントン・アワード委員会が新たに設置された。この委員会は、受賞者を選出するとともに、今後、賞の普及とヴィジュアルなジャズの歴史の発展に寄与することになる。(翻訳:川嶋文丸)

*Originally published on November 09, 2008 (Jazz Tokyo #105)
*初出:Jazz Tokyo #105, 2008年11月9日

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8.在りし日の阿部さん 編集部

写真家が自ら写真に収まる機会は限られている。ここに数葉在りし日の阿部克自さんをとらえた写真がある。


『Hank Jones Solo / Satin Doll~Dedicated to Duke Ellington』(TRIO PA-7131 / 1976)
LtoR
K.Abe/原田和男/荒井邦夫/稲岡邦彌/石塚貴夫/Hank Jones

下の写真はセッション名不明。1970年代前半?清水俊彦さんの出版記念会の流れ?

前列LtoR:山崎/末村善行/悠雅彦/故・鍵谷幸信/故・内田修
後列LtoR:稲岡邦彌/不明/原田和男/故・中野宏昭/故・K.Abe/故・清水俊彦/下田哲也

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*updated December 30, 2017

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