JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 673

All About JazzNo. 339

#9 Abdullah Ibrahim:1934–2026
アブドゥーラ・イブラヒム(ダラー・ブランド)

text: コフィ・アジェポン=ボアテング
photo above: Courtesy Getty Images/All About Jazz

祖国の音楽を紡ぎ出したピアニスト――ディストリクト・シックスからコンゴ・スクエアへ。

南アフリカ出身のピアニストであり、作曲家、バンドリーダーでもあったアブドゥーラ・イブラヒムが、2026年6月15日、ドイツのバイエルン州で死去した。彼は1934年10月9日、ケープタウンに生まれ、アドルフ・ヨハネス・ブランドと名付けられた。



身体は衰えつつも、その輝きを失うことのなかったイブラヒム。彼が最後にステージに立ったのは、同年3月27日、自身を育んだ街で開催されたケープタウン国際ジャズ・フェスティバルでのことだった。

彼は、後にアパルトヘイト(人種隔離)政権によって消し去られようとした、多民族、ムスリム、そして音楽が交錯するダウンタウンの一角、ディストリクト・シックスの周辺で育った。少年時代に「ダラー・ブランド」というあだ名が定着し、これが後の芸名となる。祖母は地元のマジョリティであるアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会のピアニスト、母親はその聖歌隊の指揮者を務めていた。彼の少年時代のケープタウンには、コイサン族の歌、キリスト教の賛美歌、ケープ・マレーの旋律、そして船乗りたちのレコードがもたらしたアメリカン・ジャズが混ざり合っていた。彼はザ・ジャズ・エピスルズ(メンバーにはキッピー・モエケツィ、ヒュー・マセケラ、ジョナス・グワングワらがいた)を共同結成し、彼らが1960年に発表したアルバム『Jazz Epistle, Verse 1』は、黒人南アフリカ人ミュージシャンによって録音された初のジャズ・アルバムとなった。

1948年の国民党の勝利を受けて南アフリカに導入された「集団地域法」は、ブランドの生きる世界そのものを地図上から排除し始めた。さらに1960年のシャープビル虐殺事件、アフリカ民族会議(ANC)の合法化取り消し、そして国の文化的な息の根を止めるような弾圧が続いた。1962年、ブランドは歌手のサシマ・ビー・ベンジャミンとともにチューリッヒへと亡命した。彼女との間には2人の子供が生まれ、そのうちの1人はニューヨークのラッパー、ジーン・グレイである。

デューク・エリントンに見出されニューポート・ジャズ・フェス出演へ

1963年、デューク・エリントンがアフリカーナ・クラブでの彼の演奏を聴き、パリでのセッションを手配した。そこから生まれたのが、アルバム『Duke Ellington Presents the Dollar Brand Trio』(Reprise 1963)である。エリントンの支援を受け、ブランドはベンジャミンと結婚した年でもある1965年にニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演し、その後、約30年間にわたり大半をニューヨークで過ごすこととなる。1968年、彼はイスラム教に改宗し、アブドゥーラ・イブラヒムという名を名乗った。キリスト教の家庭で育ったにもかかわらず、彼が改宗したことは驚きではなかった。ディストリクト・シックスには、ケープ・マレーのコミュニティに根ざした深いイスラムの歴史が存在していたからである。また、1950年代から1960年代にかけては、ユセフ・ラティーフ(本名ウィリアム・ハドルストン)やアーマッド・ジャマル(本名フレデリック・ジョーンズ)をはじめ、尊厳とアフリカ人としてのアイデンティティを主張するためにイスラム教へ改宗するジャズ・ミュージシャンが多く見られた時代でもあった。

イブラヒムの最も不朽の業績は、故郷で生み出された。1974年のある冬の日、ケープタウンに戻っていた彼は、サックス奏者のバジル・クッツェーやロビー・ヤンセンとともに、わずか1回のテイクで「マンネンバーグ(Mannenberg)」を録音した。この楽曲にはイブラヒムのすべてが凝縮されていた。ジャズの土台の上に、マラビやランガーム、そしてケープ地方のグエマ・ビートを編み込んだ賛美歌のようなヴァンプ(繰り返しのコード進行)が響く。曲名は、ディストリクト・シックスから強制立ち退きを迫られた家族を収容するために建設されたケープ・フラッツの居住区、マネンバーグ(Manenberg)に由来している(イブラヒムは曲名にする際、「n」を重ねて「Mannenberg」と綴った)。ディストリクト・シックス自体は1966年に白人専用地区に指定され、ブルドーザーで破壊されており、6万人の住民がケープ・フラッツ全域へと散り散りになっていた。皮肉なことに、「白人専用」と宣言されたにもかかわらず、その土地は何年もの間、空地のまま放置された。しかし、「マンネンバーグ」という楽曲は民衆のものとなった。1980年代を通じて、ミュージシャンたちはこの曲を「統一民主戦線(UDF)」の集会の中心に据え、それはやがて国の「非公式の国歌」として広く知れ渡るようになった。

ネルソン・マンデラの釈放により帰国、大統領就任式で演奏

ニューヨークでの彼は「エカヤ(Ekaya、故郷の意)」と名付けたセプテットを率い、1980年代を通じて作曲を続けた。それは彼が亡命先から見つめていた、非常事態宣言と文化的ボイコットの数年間であった。ネルソン・マンデラがまだ投獄されている最中に「マンデラ」という名の賛美歌を書くこと自体、一つの政治的行為であった。1990年にマンデラが釈放されると、イブラヒムは帰国し、1994年には大統領就任式で演奏を披露した。

栄誉は絶え間なく彼のもとへ届けられた。2009年にはウィットウォーターズランド大学からの名誉博士号とイハマンガ勲章、2019年には米国で全米芸術基金(NEA)ジャズ・マスターズへの選出などである。しかし、彼にとってのより偉大な記念碑は、作品そのものであった。「マンネンバーグ」「ザ・ウェディング」「ソト・ブルー」「アフリカン・マーケットプレイス」「ニサ」「ソウェト」「ウォーター・フロム・アン・エンシェント・ウェル」といった楽曲は、他のどの作品よりも南アフリカ・ジャズのスタンダード・ナンバーとなっていった。また、彼は映画音楽も手がけ、クレール・ドゥニ監督のデビュー作『ショコラ』(1988年)の音楽を担当し、これはアルバム『Mindif』(Tiptoe 1988)としてリリースされた。2006年には、ケープタウンで「南アフリカ国立ジャズ・オーケストラ」を立ち上げている。

わずか1、2小節を聴いただけでイブラヒムだと分かるその特徴は、唯一無二の融合が生み出したものであった。教会ゴスペルや居住区(タウンシップ)の繰り返される循環コードから直接引き継がれた熱烈な信仰心の核。それが、エリントンやセロニアス・モンク譲りの、温かみがありつつも絶妙に歪んだハーモニーで包み込まれ、ケープ地方独自の語法が随所に貫かれている。ある批評家が「大自然の驚異」と例えた、地鳴りのような打楽器風のアタックと、静まり返った余白の多いバラードの表現。その狭間を彼は行き来した。彼の手に掛かれば、反復は儀式へと昇華した。あるアメリカの批評家は、そのさらに深い神秘性を捉え、これほど深く根ざしていながら「他の誰にも似ていない」音楽家であると評した。

『アフリカン・ピアノ』から<マンネンバーグ>へ

一連の録音を通じて、その音色自体も徐々に陰影を深めていく。亡命期のソロ作『African Piano』(1969年)や1980年代の「エカヤ」のレコードで見られた、明るく高音の際立った響きは、晩年の10年間には、後期トリオによる深く低音の効いた静寂へと沈み込んでいく。そして彼の演奏は二つの極へと分かれていった。力強く規則的なパルスを持つ、駆り立てるような「ストリート」のグルーヴ。そして、拍(ビート)がほとんど溶け去ってしまうようなルバートの楽曲。なかでも最も執拗にパルスを刻み続ける「マンネンバーグ」(1974年)や「アフリカン・ストリート・パレード」(1997年)は、彼が最も群衆やストリートに深く根ざしていたことを証明している。

その軌跡をこれほど見事に描き出している楽曲は、「ウォーター・フロム・アン・エンシェント・ウェル(古き井戸からの水)」のほかにない。イブラヒムは1985年に管楽器をふんだんに取り入れたセプテット「エカヤ」とともにこの曲を初めて録音し、1997年の『Cape Town Revisited』(Tiptoe/Enja)で再びこの曲に戻り、そして彼のラスト・アルバムで三度(みたび)この曲を取り上げた。そのタイトルが暗示するように、同じ哀愁を帯びたメロディが、回を重ねるごとに、より深いところから汲み上げられていった。

もし、そのすべての物語を1枚に収めたレコードがあるとすれば、それは1997年に故郷で録音されたトリオ・アルバム『Cape Town Revisited』であろう。この年の初め、アパルトヘイト撤廃後の南アフリカ新憲法が施行され、年間を通じて「真実和解委員会」がその活動の絶頂期を迎えていた。アルバムは、過去と未来を同時に見据えながら、この移行と清算の1年をそのまま映し出している。

幕開けを飾る組曲「ケープタウンからコンゴ・スクエアへ(Cape Town to Congo Square)」は、自身の音楽のルーツがどこにあると彼が信じていたかを、最も明確に示した表現であった。そして、その一曲である「ディストリクト・シックス・カーニバル」によって、音楽はアパルトヘイトという現実から目を背けない。この傷口の中心にカーニバルを据えることは、かつてケープ地方の奴隷たちに唯一与えられた自由の日に端を発する、グエマ(ghoema)のビートに突き動かされた「カープセ・クロプセ(ケープタウンのミンストレル・カーニバル)」のストリート・パレードを通じて、この地区が生きていた当時の姿のまま記憶されるべきだと強く主張することにほかならなかった。

しかし、このアルバムには「サムデイ・スン・スウィート・サンバ」や「イレブンス・アワー(瀬戸際)」といった楽曲も収録されている。前者は未来を見据え、後者は一つの転換期が訪れていることを暗示している。

このアルバムは、海を越えて連帯を示すという、それ自体が一種の政治的行為であった。アメリカ南部では、1739年のストーノ反乱以降、反乱を呼び集める手段として恐れられた太鼓(ドラム)の使用が法律で禁じられていた。コンゴ人(Kongo)にちなんで名付けられたコンゴ・スクエアは、1856年にニューオーリンズ市自体が禁止するまで、奴隷にされた人々が公の場で太鼓を叩き、踊ることを依然として許されていた、アメリカで唯一の場所であった。こここそが、ニューオーリンズの「セカンド・ライン」の揺籃の地である。ケープタウンのカーニバルをこの場所と並べて位置づけることで、イブラヒムはディストリクト・シックスの持たざる民を、アフリカ精神の生存をかけた世界規模の物語の中に組み入れた。そして、大海原を隔てたセカンド・ラインとケープ地方のグエマ(ghoema)が呼応し合う、アフリカ系移民(ディアスポラ)全体に広がる系譜を彼らのものとして主張したのである。

実現できなかった戯曲『良い子への褒美』

私が初めてイブラヒムと、トム・ストッパードの戯曲『良い子への褒美(Every Good Boy Deserves Favour)』を南アフリカで上演する計画について話し合ったのは、2013年のことであった。アンドレ・プレヴィンが音楽を手がけたこの作品は、俳優陣とフルオーケストラのために書かれたものであり、ソ連の精神病棟に監禁された体制異脳者を扱っている。政治的幽閉というそのテーマは、彼自身の音楽が抗い続けてきたすべてのものと響き合っており、生オーケストラを用いるという点でも、彼にとっては演劇的であると同時に音楽的な挑戦であった。翌年、私はロイヤル・フェスティバル・ホールで彼の演奏を観たが、それが私が公の場で彼のピアノを聴いた最後となった。ストッパードのプロジェクトの件で再び連絡を取り合ったのは、ようやく昨年のことである。ジャズ・アット・リンカーン・センターで開催された彼の91歳の生誕記念回顧コンサートで再会することも望んでいたのだが、別の用件のために私はニューヨークへ行くことができなかった。こうして、あの舞台が実現することはついになかった。

イブラヒムの生涯は、現代南アフリカの歩みとほぼ完全に重なっていた。彼はアパルトヘイトという災厄が始まる前に生まれ、その強制立ち退き、政治的暗殺、シャープビルやソウェトの惨劇、長きにわたる亡命生活、そしてマンデラの釈放から自身も立ち会った民主化への到達に至るまで、その全過程を耐え抜いた。さらに彼は、アフリカ民族会議(ANC)による一強時代の終焉をも見届けることとなった。彼のラストアルバム『3』(Gearbox)がリリースされた2024年は、ANCが30年間維持してきた単独過半数を失い、軋轢の絶えない10党連立政権へと移行した年である。

かつてのアパルトヘイトの境界線(地図)は、今もほとんど変わっていない。マネンバーグをはじめ、ディストリクト・シックスの住民のために建設されたケープ・フラッツの居住区は、今なお貧困にあえぎ、傷跡を残したままである。イブラヒムが音楽に昇華させた「奪われし者たち」の苦難は、いまだ解決をみていない。
しかし彼は、一つの国が今なお自らの姿を映し出すことのできる音楽を遺してくれた。そこには、国の哀しみ、不屈の反骨精神、そして未完のまま続く、遥かなる希望が響き渡っている。(監訳:編集部)

 

*Reprinted by the contract with All About Jazz the article originally ppublished  June 18, 2026


Kofi Adjepong-Boateng コフィ・アジェポン=ボアテング

I grew up to Louis Armstrong, which says it all.
Contributor since 2026, Johannesburg, South Africa

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください