#09 『安田芙充央 / SORA』 齊藤 聡
どうも聴く者は安田芙充央という魔術師に幻惑されているようで、またなにが起きたのかをたしかめようとして最初からアルバムを聴くことになる。
続きを読むJazz and Far Beyond
どうも聴く者は安田芙充央という魔術師に幻惑されているようで、またなにが起きたのかをたしかめようとして最初からアルバムを聴くことになる。
続きを読むなぜこれほどに奇跡的な邂逅のドキュメントが眠っていたのだろう。
続きを読むコロナ期を経て5年ぶりに白石民夫が新宿西口カリヨン橋でアルトを吹いた。
続きを読む8年ぶりのトン・クラミ来日公演。
続きを読む仲野麻紀は著書のタイトルにあるように、旅する音楽家である。それは異国に住み世界各地を移動するというだけの意味ではない。
続きを読む他のだれかやなにかと「似ていない」のは橋本さんだけでも.esだけでもなかった。
続きを読む山口コーイチの演奏はどのような形態であれ普通ではない。本盤において、かれの視線の先には大きな船ではなくメンバーとの交感自体がありそうに思える。
続きを読むこのコンサートは、ピアニストの矢部優子がYouTubeでたまたま聴いたアイヌの子守歌<60のゆりかご>に心を動かされ、アポイントひとつ取らず北海道まで旅をしたことに端を発する。演奏が終わるころ、ホールは多幸感に満ちていた。
続きを読む今西紅雪のことを即興にも活動を拡げた筝奏者と捉えるのは妥当ではない。サウンドアートや電子音楽などとの関わりの中で自然に即興演奏を行ってきた人である。彼女にとって即興とは「ありのままの自分」だ。
続きを読む庄子勝治、植川縁というふたりの対照的なサックス奏者が古いブッシャーのサックスを吹き、即興音楽のソロイストとは異なる独自性をもつ照内央晴がピアノを弾く。録音が山猫軒独特の気配をとらえていることも特筆すべき点である。
続きを読む音が人である以上、本盤に収められた演奏だけが最上のものだと言うことはできない。だが、この音も聴くべきである。
続きを読むクラリネットとバスクラリネットのみで即興演奏も行うプレイヤーは極めて希少だ。その独創性は、何かに依拠することなく自分自身の価値観に合う音を見つけてきたことによるものではないか。
続きを読む神田綾子、マット・ホレンバーグ、パトリック・ゴールデン。さまざまな可能性が秘められたトリオであり、今後別の姿への変貌もあるだろう。
続きを読む異能のサックス奏者クリス・ピッツィオコスが7年ぶりの来日を果たした。ここでは、東京における3箇所のギグを報告する。
続きを読む加藤崇之は大ヴェテランでありながらまったく同じ場所にとどまろうとしない。音に対して自分を開き、つねに衝動やひらめきを大事にする人である。
続きを読むまずはサウンド全体から受ける清冽な感覚に強く印象付けられる。ナチュラルであるから不自然な力みがなく、その一方で音の向こう側までの距離が長い。
続きを読む日本フリージャズから佐藤允彦・森山威男のふたりのレジェンド、ロンドン新世代からアイドリス・ラーマンとレオン・ブリチャード。融合も摩擦もある異文化遭遇。
続きを読む池田謙は俯瞰の音楽家である。自身の音には確固たる方法論がありながら、自我を表出させることを極端に回避する。現代美術や小説も手掛けるかれの展開するマンダラはどのようなものか。
続きを読む琵琶の硬軟さまざまな音やパーカッションの濃淡(韓国伝統音楽ふうにいえば長短が成り立っている)による複層的な音空間。そこには安寧の強さも対話の愉しさもある。
続きを読むNYレジェンドのイーヴォ・ペレルマンとウィリアム・パーカー、そしてかれらに伍するジム・クラウズとパトリック・ゴールデン。限りないエネルギーが聴き手に至福をもたらす録音だ。
続きを読むザイ・クーニンはマレー系のシンガポール人であり、タブローや立体作品を創造するアーティストであり、音楽家であり、身体表現者でもある。今般再来日し、傑出したインプロヴァイザーたちとの共演を行った。
続きを読む徳永将豪はロングトーンを追求するアルトサックス奏者であり、日本の即興音楽シーンでも特異な存在である。それは模索の結果たどり着いた「音の基礎研究」だった。
続きを読む角川春樹『キャバレー』、五木寛之『青年は荒野をめざす』、エラ・フィッツジェラルド『Mack the Knife – Ella in Berlin』
続きを読む本盤はヴァイナルでのみリリースされる。ふたりの個性をなまなましく感じるという目的だけのために、このような制約があってもよいのではないか。
続きを読むシカゴのフリージャズ・シーンにおいてタツ青木の存在は欠かせないものであっただろう。今般の再来日で組まれたギグはふたつ。年齢的にはかなり年下のミュージシャンたちとの自由即興、そして大御所・山下洋輔との邂逅である。
続きを読む台湾のサックス奏者・謝明諺(シェ・ミンイェン、通称テリー)が再来日した。15日間(2024/6/11-25)で17回ものギグを行う濃密さ、しかもオフ日にもセッションに出かけるという凄まじさ。本稿では筆者が企画した3回の演奏について振り返る。
続きを読むMIYAはフルート奏者であり、モジュラーという電子楽器をフルートと組み合わせる世界唯一の人であり、また日本の伝統音楽を演る人でもある。それぞれの活動が、彼女の原点であるフルート演奏にフィードバックされるのがおもしろいところだ。
続きを読むフリー・インプロヴィゼーションを音だけの缶詰にすることには困難が伴う。ライヴと録音媒体とは本質的に異なるものであり、そのためリスナーの受容もライヴと同様ではない。だが、本盤に収録された36分間ぶっ続けの音には粗雑な要素が皆無であり、聴き手を惹きつけるものがある。
続きを読む静寂と静寂とのあわいにいるような蒼波花音の演奏は、多くのリスナーを驚かせ続けている。彼女は自分自身について「つねづね遅れを取るけれど、その先に良いことがある」人生だなと感じているという。
続きを読むソプラノサックスとコントラバスのデュオはさほど多くないが、本盤は他のミュージシャンたちも触発しうるほどの作品にちがいない。日本のシーンでも広く共有され聴かれてほしい。
続きを読む坂田明とイヌイジュンという「オレとオレ」ゆえの音。それはふたりの「オレ」が突破者でなければ成立しないものだった。
続きを読む吉田隆一のことをバリトンサックス奏者と呼ぶだけでは不十分だ。SFへの深い造詣をもとにした文筆(日本SF作家クラブの理事も務めているのだ!)、サックス奏者たちの演奏法の分析、ラージアンサンブルのプロジェクト、無伴奏ソロなど、八面六臂の活躍ぶりである。
続きを読むコントラバスという楽器は単数でも複数でもある。幅広い周波数の葉叢を発生させるだけに、その音にはひとりの演者の意思を超える匿名性がある。また、矛盾するようだが、同時に演者の個性がもろにあらわれる。田辺和弘、瀬尾高志、田嶋真佐雄はそれぞれに自身の音を追い求めてきた者たちであり、なおさらのことだ。
続きを読むKARMはプラハのミハル・ヴルブレフスキ(アルトサックス、クラリネット)とベルリンのトルステン・パペンハイム(ギター)による即興のデュオユニットである。かれらの特徴はまったく電気を使わないことだ。
続きを読む石田幹雄のピアノについて、「こんな感じ」だと説明することはむずかしい。その愉快なもどかしさの鍵は、石田のいう「中庸」「立体」「色味」かもしれない。
続きを読む台湾出身のピアニスト、ルォー・ユー・チェン(陳若玗)が5枚目のリーダー作を出した。デビューから一貫して起用しているクリストファー・トルディーニ(ベース)、トミー・クレイン(ドラムス)と組んでのピアノトリオである。彼女は独自のジャズ表現を追求してきたが、驚いたことに、ここにきてシューベルトとモーツァルトの曲を取り上げた。だが、その表現姿勢はぶれていないことは、聴き込むとわかる。
続きを読む森田潤、グンジョーガクレヨン、Cannonball Explosion Ensemble。それぞれがスタイリッシュですばらしく野蛮な演奏をみせた。
続きを読む武田理沙が『Pandora』でシーンに衝撃を与えてから5年以上。いまだスタイルを定めず分裂気味に突き進むこと自体が、彼女の独創性である。
続きを読む4年ぶりの来日。強さ、速度、相互の意思疎通、すべてにおいて驚くほど高度な演奏をみせてくれた。
続きを読む北京在住の朱文博(ツゥ・ウェンボウ)と趙叢(チャオ・ツォン)が久しぶりに来日した。また西安出身・ロンドン在住の李松(リ・ソン)は1年ぶりの日本である。3人とも方法論自体から作り上げる者であり、やはり、蓋を開けてみると予想外の展開となった。
続きを読むいまでは、即興演奏を手掛けて伝統的な邦楽から越境する箏奏者は少なくない。マクイーン時田深山もまた伝統から出発した人だが、彼女の音楽性は誰にも似ていない。
続きを読むこの世には、聴くと脳のどこかの回路に電気が流れはじめ身動きが取れなくなるアルバムというものがある。
続きを読む空間への働きかけも、構造物からの反響も、個人の演奏という範疇を超えている。そのために録音媒体としての本盤は、ライヴの再現や再構築というものではなく、別のなにものかになりえている。
続きを読む3人はそれぞれ自分の作業に没頭し好きなルートを走り、ときどき横目で並走者のルートに入ったり、なにやら投げつけ合ったりもする。音がどこから聴こえるのか、そこからなにを感じ取るのか。場の力と演者の力が手を組んだライヴだった。
続きを読む注意深く耳をそばだてれば、コミュニケーションが現象となるありよう自体を音楽として受け止めることができる。トリオとしての可能性がさまざまに模索されている作品である。
続きを読む2023年11月25日、プロデューサーとして、また文筆家として、大きな功績を残した悠雅彦の追悼コンサートが行われた。亡くなった翌月の開催であり、この場に集まった演奏者、関係者、観客の多さが、悠の影響力の大きさをものがたっていた。そして、展開された音楽の世界は、伝統と革新の両方を同等に重んじる悠の姿勢と重なるものだった。
続きを読む池田陽子はクラシックからロックを経て即興に入ってきた人である。2021年の終わりころに意に沿わぬ難聴を抱えてしまったが、それを機に、自分の音楽のあり方を見つめなおしている。それは音楽活動というものを考えるにあたり本質的なことにちがいない。
続きを読むマタナ・ロバーツのライフワークともいうべき『Coin Coin』の最新作が発表された。キーワードは「名前」だ。
続きを読む長沢哲は傑出した打楽器奏者でありながら打楽器奏者らしからぬところがある。そのギャップこそが長沢の本質だ。
続きを読むマシュー・シップは広く知られたピアニストでありながら、日本では過小評価されているように感じられる。スタイルが単純に極端なものでないことがその理由かもしれない。だが、かれの多くの作品に向き合ってみれば、繰り出される音が極めて知的に制御されており、誰にも似ていないことが実感できるだろう。
続きを読むもはやジェームス・ブランドン・ルイス(JBL)のことを現代のテナー・タイタンと呼んでもよいだろう。意外というべきか、そのJBLが自身の音楽的ルーツのひとつとしてゴスペルを取り上げ、それによって偉大な歌手マヘリア・ジャクソンへの恋文のようなアルバムを作った。
続きを読むピアノ周りの奇妙な仕掛け、不思議なデバイス、演奏に向かうふるまい。すべてが独特極まりないアーティストである。
続きを読む著者のシスコ・ブラッドリーは、無数のインタビューや資料収集、さらにはライヴ会場に足を運び、この労作をものした。本書は歴史としてだけではなく、現在につながるものとして読まれるべきだ。振り返りはつねに現在進行形である。
続きを読む東南アジア島嶼部のザイ・クーニンとサックスの川島誠による初共演。
続きを読む本藤美咲は自分の話をしながら「わたし馬鹿なんですよ」と笑う。彼女の底知れないおもしろさは、つねに眼前にある音楽に没頭し、文字通り身を投じ続けてきたところから形成されてきたように思われる。
続きを読むアムステルダム。チェロを置いてステージの中心に歩み出てきたホンジンガーは、しゃがみ込み、飛び跳ね、オーケストラを指揮した。メンバーたちも真剣に応じ、みごとなカーニヴァルの空間を出現せしめた。トリックスターの面目躍如である。
続きを読む中村としまるはノー・インプット・ミキシング・ボードから強烈な音を出す人でありながら、自分の音という我を通すわけではなく常に飄々としているようにみえる。このギャップは、状況の変化とそれへの対処を愉しむというスタンスのゆえだ。
続きを読む「Hot House」は、平岡正明が「地下鉄東西線の南行徳と行徳のちょうど中間、埋立地の道路横に一軒だけ、ルート66沿いのモーテルでもはめこんだようなネオンが出ているところが、郷間和緒・松井節子のホームグラウンドだ」と評した、千葉県のジャズ磁場だ。松井節子は、開店以来ここでピアノを弾き続けてきた。
続きを読む「a little new one」の独創性と謝明諺の懐の深さは奇妙にマッチしている。このバンドも刺激剤のひとつとなって、アジア内での表現者たちの交流がふたたび活発化してゆくにちがいない。
続きを読む田中悠美子は、日本の伝統芸能界以外のコンサートにおいて伝統楽器を使うことについて「異なる文脈の中で日本音楽の独自性が際立つことに意義がある」と書いている。トロンボーンという西洋の金管楽器との即興演奏はまさにその実証でもあった。またアレンがどこか特定のルーツ音楽に拘るのではなく、アジアなどを旅しては演奏し、映像を撮る複眼的な者であることも、このトリオを特別なものとした。
続きを読む永武幹子(ピアノ)が日本のジャズシーンで目立つ存在となって長い。今年(2023年)に台湾のサックス奏者・謝明諺との共演の際、自然に「インプロで」と指示して演奏する姿を観て、筆者は驚いた。どのような変化があったのか。
続きを読むペーター・ブロッツマンが残した大傑作のひとつに『Nipples』(FMP、1969年)がある。2021年、アメリカのテレビ番組「The Tonight Show」の「Do Not Play」コーナーにおいて司会のジミー・ファロンが笑い飛ばしたことにより、この作品はフリージャズ愛好家以外にも知られることになった。なにしろ乳首であり轟音であり騒音なのだ。
続きを読む台湾随一のサックス奏者・謝明諺(シェ・ミンイェン)は、ことばによる音楽的な響きの違いを追求している。久しぶりの来日公演で、沼尾翔子、遠藤ふみとともに作り上げる日本語のうたの世界。そしてポップ歌手の林理恵(マーズ・リンことリン・リーフイ)による台湾語・中国語のうたと朗読。なにか豊穣な音世界の起点となるか。
続きを読むタツ青木は、シカゴ在住のベーシストであり三味線奏者でもある。フリーマン・ファミリー、フレッド・アンダーソン、AACMのミュージシャンたちとの出会いと共演、NYや東京とは異なるシカゴ・シーンの特徴、さらには新世代ミュージシャンたちについて語った。
続きを読む阿部真武はさまざまなタイプのプレイヤーとしなやかに共演するベーシストである。演奏を行う場、演奏を介した関係の構築、それらは演奏家として自分自身に意識的にフィードバックされているようだ。
続きを読むブルックリンを主な拠点として活動するトリオ・Entropic Hopが来日した。
続きを読む異能のサックス奏者パトリック・シロイシが日本公演を行った。ロサンゼルス在住のシロイシは日系のルーツを持つ(かれの祖父母は第二次世界大戦時の日系アメリカ市民を対象とした強制収容所で知り合って結婚した)。それだけに個人的な旅行を兼ねた今回の公演はずいぶん嬉しいものでもあったようだ。
続きを読む竹下勇馬(楽器製作家、演奏家)はいくつものセンサーモジュールを取り付けた「エレクトロベース」、回転・揺動スピーカー、半自動楽器などを自作し、自ら演奏する。また近年は野鳥の撮影にも本腰を入れており、あまりのオリジナリティに誰もが戸惑っているようにみえる。その不可解さは少なくないインプロヴァイザーたちも惹き付けている。
続きを読む追悼 松風鉱一
続きを読むソロにより自身の記憶への旅を音として提示し、デュオにより会話し触れ合う展開が、成熟した大人のありようである。
続きを読む遠藤ふみは、この数年間の即興シーンにおいて大きな注目を集めるピアニストとなった。静寂を引き寄せて音を発するスタイルは、気の合う人との関係をゆるやかに深め、次の関係へとつなげてゆく中で得られたものだ。
続きを読む『Standards Live』(1985年録音)高揚感と歌心がたいへんな強度で放たれた作品だ。ブートレグを含め同年の録音をいくつも聴いたが、このアルバムに勝るものはない。
続きを読む2003年3月、崔善培(チェ・ソンベ)が再来日した。韓国フリージャズの創始者のひとりである。
続きを読むエレクトロニクス奏者の岡川怜央は突然シーンに出現した。それが突然にみえるのは、かれが内なる声に耳を傾けて個人としての急激な進化を遂げたからである。
続きを読む英国の極めてユニークな打楽器奏者ロジャー・ターナーがパートナーのマリ・カマダとともに書き上げた本であり、ターナーが演奏に使う道具がひとつひとつ紹介されている。だからといって本書が「謎解きロジャー・ターナー」になるわけではない。なぜならば、ターナーは「パーカッショニスト」だからだ。
続きを読むギタリスト・秋山徹次は独特極まりないスタイルを持っているようでいて、その一方でスタイルなるものとは対極にいるようにも思える。かれの演奏を予めイメージすることは困難であり、まさにそのことが秋山徹次という個性を特徴づけているようだ。
続きを読む本盤には馴れ合いに堕することのないぴりぴりとした空気が張りつめている。たしかにこのサウンドはライヴそのものだ。
続きを読むはじめての手合わせに近い面々、そしてこの人数での集団即興は噛み合わない結果となるか空中分解するかという不安がなくもなかったが、実のところ、それが杞憂に終わるだろうことははじめからわかっている。
続きを読む何年もの間、東京のシーンにおいてギタリスト・細井徳太郎の名前をみない日はほとんどない。かれの活動は多岐にわたっており、バンドも、デュオも、ソロでの弾き語りもある。そしてかれをジャズギタリストと呼ぶことは難しいかもしれない。それは活動領域ではなく指向性のゆえである。
続きを読む驚かされるのは、録音媒体を繰り返し聴くと、その都度異なる印象が「やってくる」ことだ。長沢哲の研ぎ澄まされた打音、齋藤徹の広く豊穣な弦の震え。音の力ということだろう。
続きを読むすぐれたフリー・インプロヴィゼーションの演奏は、演奏技術だけでなく、他者の感知能力、それを他者に伝達する能力、自身のふるまいに反映する能力を伴っている。
続きを読む「りら」はコントラバス奏者の故・齋藤徹によるワークショップなど齋藤との縁から実施されてきた表現の場であり、異なる領域のメンバーが模索を続けてきた。この日ゲストを加え、齋藤へのオマージュとして3回目のステージが実現した。
続きを読むフリー・インプロヴィゼーションとひとことで括ることは土台無理な話であり、なにがその場で行われているかについては演者自身にしか解らないことも、演者の自覚を超えて開かれた結果こそがものがたることもあるだろう。前者が後者の条件であるとは限らないが、少なくとも三者には明らかにそれがあった。
続きを読むドラマー・パーカッショニストの外山明は形式にまったくとらわれないプレイを行い、ポップスやジャズだけでなくフリー・インプロヴィゼーションのライヴも行っている。だが、外山自身の演奏に対する考えに照らすならば、この説明は本質的なものではない。仮に外部からフリー・インプロヴィゼーションを演っているように見えたとしても、外山にはそのつもりがないからだ。
続きを読むまずはタイショーン・ソーリーのサウンドの驚くべき大きさに魅了される。そして剛に柔に演奏を駆動するウィリアム・パーカー、かれらと対等に渡り合うスティーヴン・ガウチの個性と戦略。
続きを読むジャズを出発点としながら一触即発のフリー・インプロヴィゼーションや遊び心満載の演奏まで実に幅広いサウンドを展開するピアニスト・高橋佑成。ジャンルがなんであれ、自身の根底は変わることがないと話す。
続きを読むジェイミー・ブランチの『Fly or Die』連作を聴いていれば耳に残るいくつものメロディが、ノエル・アクショテの歪んだ時空間の中で立ち現れ、そうだ、この生命力の奔流がジェイミーの音楽だったのだと、あらためて気付かされる。もう彼女の新しい音を聴くことはできないが、再発見を続けることはできる。
続きを読むピーター・エヴァンスは、フルートとピアノとの組み合わせがおもしろいと思ったんだと平然と言ってのける。この途方もないポテンシャルは次にどのような形をとってあらわれるのか、想像などできようはずがない。
続きを読む日本どころか宇宙を代表するサックス奏者・林栄一。「以前は、曲を演るときとインプロやフリーを演るときとで、スイッチを切り替える感じだった。今は一緒にしようと思っている」と林は言う。
続きを読むフィンランドのレーベル・We Jazz Recordsのリリースしたアルバム10枚を音源として自由に使ってよいというルールに基づいた作品であり、レーベル内の宝さがしの試みだと言うことができる。その意味でカール・ストーンにとっても新たな刺激発見の過程だったのではないか。掘り出された個々の要素がストーンの音楽の中で新たに手足を伸ばしてゆく可能性だってないとは言えないのだ。
続きを読むサックス・クラリネットのリューダス・モツクーナス(リトアニア)、ピアノのアルナス・ミカルケナス(リトアニア)、ドラムスのホーコン・ベレ(ノルウェーからデンマークへ移住)の3人から成るMMBトリオ、日本ツアー。初日は神田綾子・ルイス稲毛と、2日目は林栄一をゲストに迎えた。
続きを読む音楽だけでなく映画や書物も作ること、旅を愛することが、ブライアン・アレンという不思議なトロンボニストの思想を形成しているように思えてならない。このアルバムも、旅の途中のスイスでゲオルグ・ホフマンと会い、持ち歩いていたプラスチックの軽いトロンボーンで初めて手合わせし、なにかのプロセスの音として作ったものだ。
続きを読む協和と不協和の間の緊張に身を晒し続けるカール・ベルガーの音。この巨匠の音に、ひとまわり下のビリー・ミンツが繊細さを与え、若いマックス・ジョンソンは柔らかくも太くもあるコントラバスでふたりのヴェテランの紐帯となっている。
続きを読むインプロヴァイザーの演じる領域を用意したコンポジションであり、あるいは逆にコンポジションにインプロヴァイザーが自身の表現のために介入したものでもある。結果としての折衷ではなく、両者せめぎ合いの過程が音の緊張感となって刻み込まれている。
続きを読む時間の流れに沿った相互作用だけでなく時間軸を伸縮させる縦波を前提としたふるまい、三者ではなく自分自身の影をメンバーに呼び込んだ共演。それによる予期せぬ現象は三者の力量によって平衡を獲得するが、さらにそこから次の相と新たな現象・平衡へと移行する。驚くべきダイナミクスだ。
続きを読むこのトリオはテザード・ムーンよりも意志の力で抑制されており、それでいてテザード・ムーンに匹敵する音の強靭さを保っている。
続きを読むコロナ禍を経て久しぶりの酒井俊の帰国ツアー。すべてが一期一会だ。
続きを読むマルチリード奏者・松風鉱一(1948年、静岡市生まれ)。現在は自身のカルテット、渋谷毅オーケストラ、エッセンシャル・エリントン、サックス・ワークショップ、今村祐司グループなどで活動している。あまりにも独創的なサウンドの魅力は昔もいまもまったく色あせていない。
続きを読む中国語圏で中国語によるジャズを歌う試みはさほど多くはなかった。本盤はその新世界に向けた一里塚となるにちがいない。
続きを読むゾウ・アンバ(Zoh Amba)は2000年4月27日、アメリカ・テネシー州の生まれ。昨年(2021年)の9月にニューヨークに越してきて活動を開始し、大きな話題になっている。
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